第7話
次の日の朝、王子は風の便りを受けとりました。
便りの主は、王子の友達の飼うカナリアでした。
獣以外から風の便りを貰うのは、初めての事だったので、何事かと思いました。
深い藍色の気配を背中に感じながら、王子は風の便りを読んだのです。
しばらく身体が動きませんでした。何かの間違いだと、ひどい嘘に違いないと思いました。
しかし、あの美しい声で鳴くカナリアが嘘を言うだろうか?
とてもそうは思えませんでした。
王子の友達が、昨夜死のうとしたのです。
王子は町に飛び出そうとしましたが、その手を王妃が掴みました。
「どこへ行くのです」
「友達のところだよ」
「行ってはなりません」
「どうして?」
「今日は勉強会があります」
「友達が死のうとしてるんだ」
「また得意の嘘ね。もう騙されないわ」
王子は獣の為に何度も嘘を重ねていました。上手につけた時もありますが、バレてしまった事もありました。
「嘘じゃない」
「ならどうして、そんな事を知っているの?」
「風の便りが……」
王子はハッと息を飲みました。王妃の背中の向こう側に獣がいたからです。
獣はしっかりした眼差しで、王子を見ていました。
風の便りが無くとも、王子には獣の言いたいことがわかりました。
『それを言ってはいけない』
風の便りは獣の言葉。何も知らない王妃に、話してはいけないことなのです。
「風の便り? あぁ、わかったわ」
王妃は大人たちがよくする嫌な笑みを、上から見下ろして馬鹿にするような、そんな笑みを浮かべていました。
「風の便り、ねぇ。王子、そういうのは虫の知らせと言うのよ。
まったく、だから勉強をしなさいと言っているのに。お母さんの前で間違いに気がついてよかったわね。
さ、愚かな事を言っていないで、勉強会の準備をなさい」
『愚かなのは、どっちだ』
王子は心の中で強く思うのでしたが、何も言い返しませんでした。王妃には何を言ってもダメなのです。何度も何度も繰り返しても、王妃から返ってくる言葉は同じなのです。
王子は静かに王妃と言葉を交わすことを諦めたのでした。
部屋に戻った王子は、城を抜け出す準備を始めました。
「行くのかい?」
獣は少し心配そうな顔をしていました。
「うん。放っておけないよ」
「雨が……」
「なに?」
「雨が降るから、傘を持って行った方がいいよ」
「ありがとう」
王子は獣に言われた通り傘を手に、城を飛び出しました。
その背中を獣はずっと見つめていました。
風が強く吹いていました。まるで王子の行く手を阻むように。
王子は友達の家に着くと、友達に長い話をしました。
「虹色の花を知っているかい?」
王子の言葉に友達は首を振りました。
「虹色の花は、光を当てる角度によって、美しくも醜くもなる花なんだ。
ボクは思うんだ。君の悩みも苦しみも、この花と同じなのではないかって。
光の代わりに考え方を変えれば、新しい道は開けるのではないかって」
王子の言葉は、友達の心にじんわりと染み入りました。
「ねぇ、今度一緒に森へ行こう。そして虹色の花を一緒に見よう」
友達の悩みは簡単に解決出来ないものでしたが、明日の約束は生きる希望を与える事を、王子は知っています。
自分自身も獣との、明日を願う事で辛い日を乗り越えてきたのです。
落ち着きを取り戻した友達の家を出ると、大粒の雫達が滝のように、降り注いでいました。
持ってきた傘は雨粒を盛大に鳴らし、吹き付ける突風は傘を踊らせました。
『急いで帰らないと』
王子は早足で町を駆け抜けました。
獣は一対の瞳を空に向けていました。
どこまでも果てしなく続く青は今、深い灰色に隠されています。
「小さな夢を、夢見る事は、そんなに罪深い事だろうか」
呟くような獣の声は、豪雨の中に掻き消されました。
この声を聞いたのは、やはり獣、ただ一人だけでした。
王子はお城の裏扉をくぐり抜け、雨粒を払いました。
王妃の背中が廊下の奥へ、足早に消えていくのが、視界の端に映りました。
雨音は更に激しく鳴り続けていたのでした。