第3話
お城の中庭に、一匹の獣が座っていました。太陽の光を浴びて、風をその柔らかな毛に感じていました。
獣の耳に小さな風が吹き、ぴくりと身体が動きました。
「あれ? 何をしてるの?」
王子は獣が不自然な形で座っていることに首をかしげました。
獣は前足を立てた状態で、空の先に目を向けているのです。
王子は視線の先を追いかけると、真っ白な鳥が大きな丸を書きながら飛んでいました。
「きれいな鳥だね」
王子は美しい鳥の姿を見つめました。優雅に自由に舞う姿はなんて素敵なのだろうと。
「知らせ鳥だよ」
「シラセドリ?」
「そう。あの鳥は、夜空に広がる星の道から、新しい命が降りてくると、ああやって大きな丸を作って飛ぶんだよ」
「だから、知らせ鳥って言うの?」
「そうだよ。他にも風の便りを運んでくれたりもするんだ」
「風の便り? お手紙のこと?」
「ボクたち動物のお手紙は、風に言葉を書くんだ」
「すごいなぁ」
獣は王子の知らない事を、たくさん知っています。王子は王様になる勉強よりも、こうして獣の教えてくれる事を聞く方が、何倍も楽しかったのです。
「ねぇ獣。もうすぐどこかで赤ちゃんが生まれるんだよね?」
どこかで新しい命が生まれようとしている。それは王子の心を強く揺すりました。
「ボクのところに来ないかな?」
「さあ、どうだろう」
獣は少しだけ寂しそうに言いましたが、新しい命の事を考えている王子は、それに気がつきませんでした。
「ボクのところに来たら、たくさん遊んであげるのに」
王子は、自分のところに来ると決まったわけでもないのに、もうすっかりお兄さんになった気分でした。
「来てくれるといいね」
獣の言葉に王子は強く頷きました。
何日か後、王妃に新しい命は降りてきました。あの知らせ鳥は、王妃にそれを知らせていたのです。
しかし、その事に気がついたのは、やはり王子と獣だけでした。
季節が一巡りした頃、王子はお兄さんになりました。弟が出来たのです。
珠のように可愛らしく、その小さな身体は昔死んでしまった動物達を思わせます。
王子は弟を守ってあげようと、心に決め、自分に出来るお世話を、例えばおしめを替えてあげたり、ミルクを飲ませてあげたりと、一生懸命頑張りました。
そんなある日、王子は王妃に強く怒られたのです。
王子は可愛い弟の面倒をよく見ていましたが、王様になる勉強を少しサボっていたのです。
「王子、どうして勉強をしないの?」
王妃の目は、三日月のように細くつり上がっていました。
王子はあまりにも怖くて、言葉がうまく喉から出てきません。
王子がいつまでも黙っているので、王妃は顔は更に恐くなり、言葉はナイフのように鋭くなり、王子の心臓を何度も何度も突き刺しました。
王子はそれが痛くて痛くて、涙を流しました。
「泣いても許しませんよ。貴方は王様になるのよ。聞いているの? 黙っていないで何か言いなさい」
王子の目から溢れる涙は、止まることはありませんでした。
ヒック、ヒックと喉を鳴らしながら、ようやく言葉が出ました。
「ボクは、可愛い弟を、大事に、したかったのに」
王子の言葉は王妃の耳に届いたのですが、王妃の心には届きませんでした。
「王子はお兄さんなのよ。お父さんでも、お母さんでも無いの。お世話はお父さんや、お母さんの仕事なの。だから貴方は頑張らなくていいの。
王子はお兄さんなんだから、お兄さんらしく、ちゃんと勉強をしなさい」
「……はい」
王子はこれ以上何も言えませんでした。ただ悔しくて悲しくて仕方ないのです。
王子は部屋に戻ると、ふかふかの獣に抱きつき、大粒の涙を流しました。
王子は王妃に叱られた事を話し、獣が慰めてくれるのを待っていました。
「お母さんは酷いんだよ」
涙をなおも流し続ける王子でしたが、獣はそっと王子を抱きしめ、ゆっくりと優しい声で話しました。
「辛かったね。王子は、弟を大切に思っているんだよね」
王子は首を縱にふりました。
「でもね王子。王子は王様になる勉強をしなかったよね?」
王子は首を縱にはふりませんでしたが、獣には王子がその事をわかっているのがわかりました。
「怒られるのは確かに苦しいよ。でも、それは王子が勉強をすれば、怒られなかったんだ。王子も悪かったんだよ」
王子は弱々しく頷きましたが、胸の中に残った、言葉のナイフの欠片が、じくじく痛みました。
「ここが痛いよ」
「あぁ。なんて酷いことを」
獣には王子の胸に残ったナイフの欠片が見えていました。それは王子の心臓を傷つけていて、目に見えない血を流させていたのです。
獣は王子の頬に流れる涙を、ぺろりと舐めました。すると、王子の胸の痛みは、するりと無くなったのです。
「もう、痛くない?」
「うん。痛くないよ! ありがとう! 魔法みたいだ!」
王子の顔には、笑顔が戻っていました。獣はそれを見て、とても安心したのでした。
次の日から、王子は弟のお世話をしなくなりました。
本当はしたかったのですが、弟が怖くて仕方ないのです。遊んであげる時も、王妃の三日月の目を何度も思い出してしまい、長く遊ぶ事は出来なくなりました。
その頃からだんだんと王子は、いろいろなことを頑張ることが出来なくなっていきました。 小さな失敗をする度に、王妃のあの三日月の目を思い出し、時には言葉のナイフが王子の心臓を傷つけたのです。
獣は何度か王子の涙を舐めました。そうする事でしか王子の傷を癒すことが出来なかったのです。
月の満ち、太陽が登り、風が月日を回しました。
遥か東に浮かぶ雨雲は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、小さな国に近づいてきていました。
その事に気がついているのは、やはり、獣ただ一匹だけなのです。
「あぁ、お願いだよ……西風さん雨雲を追い払っておくれ」
獣は風の便りを遥か西に住む、西風の精霊に送りました。
しかし、その返事は何年たっても返ってくる事は無かったのです。