第15話
次に王子が目を開くと、そこは真っ白な場所でした。
地平は無く、ただ永遠の白が視界を埋めていました。
そこには、三枚の扉があり、その内の一枚は開いていました。
扉の向こうは、色とりどりの花が乱れ咲き、風も大地も呼吸を優しく繰り返していました。
そして、そこには一匹の獣がいたのです。
王子はその姿を見つけ、目を見開きました。二度と会うことの叶わない彼が目の前にいたからです。
夢にすら現れなかった彼が、今こうして手の触れそうな位置にいる。
これが残酷な夢であっても構いませんでした。あの少年が見せた幻想であろうと、こうして獣に会えた事実は、それだけで王子の心を満たしました。
「これが別の道」
無機質な少年の声が聞こえました。
「ここは橋と呼ばれる界を繋ぐ場所。今君が見ているあの場所は、双界ではない。あの場所へ行けば、二度と双界に戻る事は叶わぬ」
王子は少年が何を言っているのか、よくわかりませんでしたが、一つだけ確かなことがありました。
――あの場所へ行けば、ボクは二度と国に帰れない。
「かつて、一人の少女がこの場所に来た」
話し始めた少年の指す少女は、あの森の魔女の事だとわかりました。
「万物の魂は星の道へと還る。故に扉も開かず橋にも至らぬ。
あの少女の母は星の道へと帰した。故に少女は己が運命を受け入れた」
「何を言っているんだ」
「運命に選択が有ることは、稀である」
「話を聞け」
「どちらを受け入れるか?
双界へと戻り、星の運命を受け入れるか。
双界より離れ、獣と生きるか。
選べ。君にはその資格がある」
あまりにも強制的な問いだった。それは胸に咲いた花の誘惑と同じに、聖導師の提案と同じに、聞こえました。
「しばし、時間を与える。君にはその権利もあろう」
王子は少年の気配が無くなったのを感じました。
「王子」
その声に王子は涙を流しました。そして、それと目が会いました。
「獣」
後は言葉になりませんでした。嬉しさ、悲しさ、苦しさ、楽しさ、ありとあらゆる感情が王子の喉に押し寄せ、言葉は上手く形にならなかったのです。
「こっちへ来てはいけない」
その声は王子が王妃に叱られたとき、王子をなだめる声色と同じでした。
「どうして。獣はボクと一緒に居たくないの?」
溢れる悲しみは寂しさと混ざって、より深い藍色の風になりました。
「居たいよ」
その切実な声に王子は息を飲みました。
「だったらボクは行くよ」
「でも、ダメだよ。王子を待っている人達がいるんだ」
「もう、誰も待ってないよ」
「王妃様も、あの子も、君の友達も、王子を待ってる」
「みんな自分の事で精一杯で、ボクの事なんて、みんなすぐに忘れるよ。
ボクには君が必要で、君以外の誰も必要無いんだ」
「王子、いいかい。よく聞くんだ」
獣は優しく、しかし厳しい声で、言葉を繋ぎます。
「あの子がもうすぐ町の人に殺されてしまう。今は必死で逃げているけど、近い内に見つかってしまうんだ」
「森の魔女」
「そう。王子はまだわからないだろうけど、王子はあの子を失ってはいけない」
「どうして?」
「それが理由で、君は魔法の小瓶を使うからだよ」
少年の見せた未来の一つ。それは国を焼き尽くす自分の姿。
不意に未来の自分の言葉が浮かびます。
『命の罪は、命で償うしかないんだ』
「王子。今なら間に合う。ボクはその為に西風にお願いをしてきたんだ」
「でも、そうしたら」
王子の言葉を遮る声がしました。無機質な声です。
「君は二度と獣に会えません」
ハッと振り返った先にあの少年が立っていました。
「黒の獣よ、考えましたね。因果の鎖を断ち切り、風に因果を紡がせる。実にいい考えだ」
「ボクは王子が好きだ。王子が生きる世界を、王子の心を守るためなら、なんでもするって決めた」
獣の強い心を王子は感じました。誰よりも自分の事を大切にしてくれて、誰よりも自分の事を想ってくれている。
「王子。これでお別れになるね」
どう答えていいのかわかりませんでした。目の前には獣と生きる道があるのです。さよならなどしたくないのです。
なのに王子には言葉が見つかりません。
「王子。ボクは君に生きて欲しいんだ。
例えどれだけ辛い苦しい世界でも、ボクは君に生きて欲しい。
あの中庭で動物達やボクと過ごした時と同じ、いやそれ以上の笑顔や幸せの中で生きて欲しいんだ」
それは小さな夢で、小さな願いでした。王子にはそれがどれだけ罪深い願いかわかりました。
運命を変えてしまう、その祈りにも似た夢は、けして許されない事で、世界の約束を破る事です。
王子はこれほど誰かに想われた事はありませんでした。
そしてこれほど誰かを大切に想ったことも、またありません。
夢を、願いを、祈りを、ありのまま受け入れようと王子は、強く、強く思いました。
「獣、今までありがとう」
王子は涙を流しながら笑いました。
「王子、これからも元気で」
獣も涙を流しながら笑いました。
「ばいばい」
二つの声は重なり、王子の視界は黒一面に塗りつぶされました。
そして王子と獣は、もう二度と会うことはありませんでした。