もう帰れない
本当の恐怖は緊張が緩んだ瞬間に現れる
帰宅の途、家が見えてきた時に人は警戒を緩めた瞬間
怪異が肩を叩く
冷房が効きすぎた列車を降りると熱気に包まれた。
午後9時だというのに空気が冷めることはなかった。
ホームを歩いて改札にたどり着くまでにシャツは再び汗まみれになった。
会社から駅に着くまでに汗まみれになり、列車に乗り込んで30分かけて乾いたというのに。
駅を出てすぐにあるコンビニに飛び込む。
涼しい。背中は汗でシャツが張り付いて気持ち悪いが。
ビールも購入するがここはアイスキャンディも欲しい。シャキシャキ君ソーダ味をビールとともに購入した。
店の外で早速包装を破り一口頬張る。
冷たい。一気に口内が冷却される。そして一気に半分まで食べる。
知覚過敏ではないが口内が冷えすぎた。ここで一休みする。
これを食べ終えたら帰宅の途に就くか。けれど、うーん。時間が・・・
帰らなければならないのだが、アパートの自分の部屋。
さて、帰りつけるのか。また駅に戻ってきてビジネスホテルに泊まるはめに。
午後7時なら、日が落ち切る前なら部屋にたどり着いて帰れるのだが。
取引先との連絡が遅くなり商品発注していたせいで会社を出るのが遅れたのだ。
自身に帰りたくない願望があるわけではない。
一人暮らしでニヶ月前に引っ越したばかりで近所の人間関係も何もない。
早く帰って一風呂浴びて、エアコンで冷やした部屋でビール飲んでテレビでも見てくつろぎたいよ。
それが出来ない事情があるのだ。
日暮れとともに現れるあれと遭遇すれば撤退するしかない。
怪異、というものだ。
妖怪またはお化けと呼ばれているもの、かもしれない。
コンビニから300メートル先にある郵便局を越えたら、それらは現れる。
簡易郵便局の玄関が境界線だ。それを越えた途端に現れるのだ。
それは、自分のことをサッチャンと呼ぶ。
玄関の脇にあるポストの後ろから飛び出してきた。
おそらくは小学生くらいの女の子風。体つきは小学低学年くらいだろう。
しかし異常なのは顔の大きさだ。顔で等身を計れば1・5等身だ。
まるでハリボテのマスクを被ったような見た目だがちゃんと血が通い口が動いてしゃべる巨大な顔なのだ。
さらに異様なのはやはり巨大な目である。白目のない真っ黒の目がヌラヌラと街灯に照らされて光る様は恐怖と不快感が同時に全身に駆け巡る。
そしてサッチャンは電子返還されたような声で言うのだ。
「あーそーぼ。サッチャンとあーそーぼ」
これに遭遇した最初の3回は意味不明な奇声を発して逃げ出したものだ。
しかし4回めにこれがこれ以上こちらに関わってこないことを知ると無視して歩き出した。
何度か振り返ると数メートル後ろから「あーそーぼ」と言いながらついて来るのだ。
「あーそーぼ」
「・・・」こちらは反応しない。
「あーそーぼ」
「・・・・」
「あーそーぼ」
「・・・・・」
「あーそーぼ」
「・・・・・・」
このやり取りをしばらく続けると、郵便局から100メートル離れたコインランドリーの明かりが見える場所に来るといなくなっていた。脇道もなく民家もないので消えたとしか言いようが無い。コインランドリーの近くで振り返るといなくなっているのだ。これだけでも引っ越しする充分な理由になるような。しかしワーキングプアな自分には引っ越し資金がない。無害ならいいやと無視したのだ。
もうすっかりサッチャンを見ていないし聞いていない。いないものとしてコインランドリーまで歩くことにした。そういう日常に馴れたということだ。
しかしこれだけでは済まなかった。
フライング・ちょーさんが次に現れる。
最初は酔っぱらいに見える。ふらふらと左右に大きく蛇行しながら前方を歩いている中年のサラリーマン風なのだ。
しかしよく見ると、足が地についていない。比喩でなく本当に地上10センチ上を浮かんでいるのだ。
この酔っぱらい幽霊は今度は自分の目の前1メートルぐらいを蛇行し追い抜かせないようにしているのだ。右や左に避けようとすると背後を見ずにこちら側の避けた方向に左右に身体を移動させてくる。
「ぬーかーせないよー。ちょーさんはぬけないよー。けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ」
しかし、ちょーさんも30メートルほど一緒に歩くと突然消えてしまう。
そういう意味では無害な存在なのだ。
一番厄介で危険なチヨコさんに比べれば・・・
シャキシャキくんを食べ終えて歩き出していた。
仕方ない。行かなければ帰れないのだ。
迂回路はないのか?と考えたのだが、アパートは南北に伸びた市道に面しているのみで駅から北上してアパートに帰るしかない。なら北から南下したらと思いスマホで検索してみた。
北はアパートから2キロ先の東西に伸びる国道と交わる以外隣町まで雑木林と水田だけだった。そこまで行って南下してるということになるが車もバイクもないから国道から迂回することが不可能だった。
コインランドリーから200メートル位歩くと右曲がりの急カーブがありその10メートル先にアパートがある。
まさにその急カーブの真ん中にチヨコさんは待っている。
実はこのチヨコさんについては色々分かっていることがある。
なぜなら彼女は自分が住んでいるアパートの元住人だったのだ。
東山千夜娘が本名だ。
彼女はこのカーブでひき逃げに遭い23歳でこの世を去ったのだ。
だからこのカーブに幽霊として現れるのは理にかなっている。因縁深い土地に縛られている地縛霊というものなのだろう。
土地に縛られているせいでアパートに帰れないということなのだろう。
彼女は新婚で事故にあった日がちょうど新婚生活を始めて1ヶ月だったという。
それがとても無念だったのだろう。事故から2日目から彼女は現れるようになった。
彼女は少し錯乱しているのだ。愛する夫との新婚生活に執着しすぎているのだ。
とは言え、その愛する夫も妻の事故死という事実に耐え切れずにアパートの部屋で自殺してしまったのだが。今でもその部屋は空き部屋になっている。特に出るという話は聞かないし隣の部屋に住んでいる自分も誰もいない部屋から異音を聞いたということはない。
それを彼女は知らないのだろう。事故に遭遇した路上に縛られているのだ。
彼女は夜道を歩いてくる男性を夫だと勘違いして路上でオママゴトを始める。
それに引きこまれた男性は体の自由を奪われて彼女のなすがままにされる。
彼女が風呂に行けと言われると服を脱がされ全裸にさせられるのだ、路上で。
重要のポイントは彼女自身がここで事故に遭遇したように急カーブから突然車が現れるように見えるのだ。
全裸の男性が路上で直立していて車に引かれるという事故が実際に起きているのだ。
その理由は未だに不明。被害者は酒気を帯びておらず薬物も体内から検出できなかった。全く原因が不明だった。
彼女が原因だとは誰も公表できないだろう。それでその他の危険の黄色い道路標識が立っているのだが、その意味を知っているのは彼女を知っているものだけだ。
彼女が立っているカーブにさしかかろうとしていた。
一旦立ち止まり生暖かい空気を大きく吸い込む。
さて、どうするか・・・
実はチヨコさんには会ったことがない。
ちょーさんまではクリアするのだが、カーブの直前でいつも引き返してしまうのだ。
チヨコさんはマズイ。ヤバイのだ。
実際に死人まで出ている以上危険な幽霊であるのは間違いない。
それ以上にカーブの手前から漂ってくる気配が怖気づかせる。恐怖が忍び寄ってくる。
死の匂いというものが鼻で感じられるならこういうものなのだろう。
直接脳に突き刺さる感覚なのだ。
しかしなぜか今日は行く気まんまんだった。どうしてだろう、魔が差したとしか言いようが無い。
暑さで冷静さを失っていたのかも。早く帰って冷えた部屋でビールを、という衝動に抗えなかったのだろうか。今となってはよくわからない。
カーブに向かって歩き出した。
カーブの半ばに白い人影が見える。チヨコさんだ。
ぱっと見た目の第一印象は普通に若い女性で、もし彼女が見えた人がいたとしても気にせずに通過してしまうかもしれない。若干の不気味さを感じるかも知れないが。
しかし彼女からの視線を感じるものには人外の者の恐怖心を抱かざるをえない。
彼女は自分の夫と同じような年齢の男性が通過すると視線を送って魅入らせるのだ。
魔眼なのである。
その力で自分の意志ではどうすることも出来ずに服を脱がされて路上で入浴のパントマイムをさせられ事故死させられるのだ。
ただこれには対応法がある。
ただ一人生き残った男性がいるのだ。その体験談がネットの心霊サイトに書き込まれていた。
本当か嘘かは検証のしようがない。かれが唯一の生存者だから。
それによれば彼女は最初にこう聞くそうだ。
「おかえりなさい。汗をかいているなら風呂でも入ってきたら」
ここで肯定すれば脱がされる。しかし、
「いいやご飯だな」といえば彼女は容易をするふりをするのだ。彼女が背中を向けた瞬間を狙って全力で走って逃げたらしい。彼女は一定のエリア以上には追ってこないらしい。上手く彼は逃げ切ったということだ。
しかしこの後に脱出例が一切書き込まれなていない。この書き込みを読んでさらに書き込もうとする体験者がいなかっただけなのかもしれないが。
それを試す第二例になってやろうと何故か思ったのだ。
あれがマチコさん?
普通に白いブラウスに茶のロングスカートは履いたセミロング髪の若い女性がカーブの半ばで立ってこちらを見ていた。別段幽霊には見えなかった。ただこんなところに立っているという状況に違和感を感じざるを得なかったが。
一瞬立ち止まり躊躇しそうになったが足を進めた。すでにさっきとは空気感が変わりここは彼女のエリアなのだと感覚的に理解していた。彼女が見ている間は逃げられないようだ。
「あなた・・・」
気が付くと青白い顔が間近にあった。ひんやりとした冷気が汗ばむ肌に悪寒を走らせる。毛が逆立つ。
「うわっ」
思わず声が出る。
「あなたおかえりなさい・・・」
抑揚のない声で耳元で囁くように言われた。
「お、おう。ただいま」
つい反応して応えてしまう。応えてしまって大丈夫だろうか?
「あなたご飯にする?それともお風呂?」
ああ、きた。
「おお、メシに・・・」
ここでポケットのスマホが鳴った。マナーモードにしていなかったためアイドルグループの曲のイントロが流れる。
「・・・・」
「・・・・」
スマホを取れと言っているようだった。取らざるを得なかった。
ポケットから取り出しボタンを押す。
彼女の木梨真知子からメールだった。明日のデートの約束の時間と場所を送ってきたのだ。
こちらに予定がなければOKの返信するつもりでマナーモードを解除していたのだ。
だがこのタイミングで。もっと早いか遅いか、少なくとも帰宅の時間帯以外だと思っていたのだが。
返信に遅れると色々勘ぐられるので一応備えていたのが仇になった。
ここで彼女からのメールはマズイだろ。
今の自分は幽霊の夫だからな。
しかし、それは後ろから覗きこまれていた。背後から冷気が・・・
「あなた・・・マチコって誰?」
二ヶ月前、彼女と喧嘩した。会社の同僚の女性を浮気相手と勘違いされたのが原因だった。
彼女は嫉妬深い。だがキッチンの包丁を持ちだされた時は気が気じゃなかった。
必死に説明してその時は事なきを得たが。
本当に嫉妬深い女性は怖い・・・
翌朝、近所のアパートに住む25歳の会社員が路上で死亡していた。
極めて猟奇的な死因であった。
近くに立てられていたその他の危険の標識が途中からねじ切られ、胸から串刺しにされそのまま地面に突き立てられていたのである。