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02

 その佐々木との終わりから、約半年。

 翔子は絵を描きながらいつのまにかうとうとしてしまったらしい。時計は午前四時を指していた。真澄がかけてくれたのだろうか、毛布が肩からぱさりと落ちる。

「真澄?」

 返事は来ない。眠ってしまったのなら自分のベッドか、その横に布団を敷いて寝ているはずだがそこにも姿が見えない。

「帰ったのかなぁ」

 カーテンを開けると外はうっすらと蒼みがかって明るい。台所に向かいコーヒーメーカーをセットしながらテーブルを探すが書置きの一つもなかった。

「最近神出鬼没なんだから」

 コポコポと落ちる水音を響かせほろ苦い香が部屋に立ち込める中で、翔子は一人腑に落ちない気持ちを褐色の熱い液体で流し込んだ。


「最近あの子見かけないけど?」

 教室に向う廊下で背後から捕まえるように、茜が翔子に話し掛けてきた。

 彼女はあの佐々木に関する話をしかけてきた日から何かと声をかけてくる。といっても通りすがりに挨拶をする程度だが。そんな茜のことを真澄は「馴れ馴れしい人」と細めた目尻を尖らせ耳打ちしてきた。どうやら彼女は真澄にとってあまり気に入らない種類の人物らしかった。

「あなたたちが一緒にいる所もあまり見かけないし。喧嘩でもしたの?」

「先輩には関係ないと思いますが」

 真澄の耳打ちが利いたのか佐々木の一件のこともあってか態度が尖ってしまう。

「まぁそんなに睨まないでよ」

 つっけんどんな態度も柳に風という感じで擦り寄ってくる。

「それにね」

 翔子のすぐ耳元、唇が触れる感触が解ってしまうほどの距離で茜は囁いた。

「先輩じゃないわ、茜よ、緒方茜」

 息が触れた耳元からぞわぞわとする甘ったるい声が首筋を経由して背中を真っ直ぐ降りていった。

「気持ちの悪いことしないでください!」

 身を反らし茜の唇から顔を離しキッと睨みつける。しかし茜は翔子の怒鳴り声もものともせずに唇の端を少しだけ上げ目を細めて何事もなかったように薄く微笑み話を戻した。

「あの子、困ったことになってなければいいわね」

「どういう意味ですか?」

「さぁ? 随分色んな男の子に目をつけられたり恨まれたりしてたから、姿が見えないと心配になっちゃうでしょ?」

 心配と口で言いながら本心はどうだか怪しいものだ。

「真澄なら夕べも……」

「夕べ?」

 茜の細い目尻がぴくりと跳ね上がった。

「あなたたち夜会ったりなんかしてるの?」

 甘ったるさが消えた詰問するような強い語尾に驚いて後ずさる。

「何でそんなこと聞くんですか」

 脅える目でしかし負けじと噛み付くように聞き返す翔子の態度にハッとして目尻を緩める。

「そうよね、あなた達仲良かったものね、夜会ってたって何もおかしいことなんかないのよね」

 何が言いたいのか、まるで茜の真意がつかめない。戸惑う翔子の耳元にまた唇を近づけて

「あの子、あんまり休んでると単位も危ないんじゃない? ホントいろいろ心配ね」

 耳たぶにふっと息を吹きかけるように囁いて言い返す暇も与えずにさっと離れ、翔子がびっくりしたように慌てて耳元を押えるその反応を楽しんでいるかのように「ふふ」とまた薄く笑ってくるりと背を向けた。

「何なの、あの人……気持ち悪い……」

 しばらく呆然として動けないまま茜の背中を見送っていたが廊下の角を曲がりすっかり見えなくなってしまうとやっと落ち着きを取り戻し、先ほど茜に聞かされた話を頭の中で反芻しはじめる。

「真澄が最近学校来てないって? そういえば確かに校内ではずっと会ってない気もするけど……」

 夕べも確かにアパートで会った。自分が蛙の鳴き声にイライラしている時、いつのまにかやって来て寝ている間に音も無く姿を消した。

「確かに学校では会ってないけど、部屋にはいつも……」

 ふっ、と奇妙な違和感が湧き上がる。

「夕方うちに来るのはいいけど、真澄、あんな時間にどうやって?」

 うとうとと眠ってしまう前、最後に時計を見た時は深夜一時を過ぎていた。駅まで行くバスはとっくにない。歩いて行ったとしても始発の電車が出るのは五時二十分。一人で薄暗い駅の中電車を待ったのか?

 そういえばここ数日ずっとそのパターンの繰り返しだった。雨の日も夕方いつの間にか姿を表し深夜いつの間にか消えている。

 ――あの近所でうちの他に立ち寄れる所なんてあの子無かったはずだけど……

 考え始めると奇妙な事は他にもたくさんあった。

 部屋に現れて幾つかの会話を交わしたきり、本を手に取ったが最後まるで人形のようにぴくりとも動かずにそのまま没頭してしまう。同じアパートの一室で同じ空気を吸っていながら何日だか、食事も一緒にした覚えがない。

 ――あんな大人しい人形みたいな子じゃなかったのに。

 胸の中で何か薄暗い物がぞわぞわとざわめきはじめる。

「とにかく帰らなきゃ」

 まだ講義は幾つか残っている。しかし急いで帰らなければという気持ちが翔子をはやしたてる。

 電車を待っている時間がまどろっこしい。一時間の道のりが胸に広がりはじめた不安をさらに煽る。

 確かにこの数日間、真澄はおかしかった。

 頻繁にアパートへ立ち寄ってはいたがこんなに毎日連続して来ることは無く、四〜五日に一度はきちんと家で夜を過ごしていたし、夕食も確かにあまり食べる性質ではなかったがそれでも翔子が食事をする時には付き合ってにサラダとご飯程度は食べていた。

「翔子ってば私の好きな物作ってくれないんだもん」

 そう言いながら翔子の嫌いなセロリや玉葱を自分で買って来て薄切りにして自分でドレッシングを作り、小さな口に運びながらしゃりしゃりと軽い音を立てていた。

 何か家に帰りたくない理由でもであったのだろうか?

 食事も喉を通らないほど悩んでいることがあったのか?

 相談したくても言いたくても口に出せずにいる何かがずっとあったのか……

 今まで、真澄と部屋で過した時間、学校で一緒にいた時間を考えると他の誰よりもずっと傍にいたと思っていた。しかし考えてみれば翔子の事をあれこれ詮索されなかった代りに、彼女自身の話を聞くこともなかった。今更だが真澄の家族構成すらまともに知らなかったことに呆れてしまう。

 確かに煩わしくなく心地良い関係であったが、お互いの事にまるで関心のないただの通りすがりと何も変わりのない関係。

 ―― 一年以上もつるんでたのに、これじゃぁ……

 帰路に焦る翔子の脳裏に茜の薄い微笑みが蘇る。

――これじゃあの人の方がずっと真澄を知ってるみたいじゃない!

 頭の中に浮かぶ茜の微笑みを真っ赤なペンキで塗りたくってやりたい、理解に苦しむ醜い感情。

『あの子、困ったことになってなければいいわね』

 さらに不安を煽る茜の言葉。

――嫌な女! 嫌な女!

 電車の椅子の背もたれに背中をどっぷり預けて目を閉じる。脳裏を支配する茜の顔と言動と不安を追い出すように、両手の指を膝の上で組んでぎゅっと握る。

「……真澄……」

 小さく小さく呟いた。


 改札を走り抜けるとそのまま駆け足でアパートに向う。一時間に一本あるかないかのバスを待つより走った方が速い。途中息が切れ立ち止まり大きく深呼吸をしてまた走りだす。長い坂の途中に突然現れる細い脇道。その奥にひっそりと建つアパート。

 鍵を出し穴に鎖しノブを回すのももどかしい。

「真澄、来てるの?」

 おそらく、翔子がこの部屋に住み始めてドアを開けた時に言葉を発するのはこれが始めてに違いない。「ただいま」も「行ってきます」も必要のない一人暮らし。合鍵を渡していない真澄が翔子の居ない間に部屋へ入ることはありえないと解っていながら声を張り上げる。

「真澄?」

 案の定、台所にも部屋にも真澄の姿はない。

 気が抜けたように机に鞄を放り出し椅子にどさっと腰を下ろす。

 溜息をつきながらぐるりと見回す見慣れた部屋。

 違和感。

 夕べ真澄はこの椅子に座って本を読んでいた。

 違和感。

 台所でラーメンを食べている時、曇ガラスに映った華奢なシルエット。

 違和感。

 何かが、おかしい。奇妙さが立ちこめる部屋。

「……ますみ?」

 椅子から立ち上がり本棚に向う。

 夕べ彼女が手にしていた本はどれだろう? 並べられた文庫本の背中をなぞる人差し指の先に薄く埃がひっかかる。本棚と本に積もった埃がもう長い間その場所に触れる人間が居なかったことを言葉無く語る。

 指先の埃を払いながら台所へゆっくり向う。安普請の小さな食器棚、並べられたカップと食器。薄いピンクのマグカップを手に取る。真澄が勝手に持って来てこの部屋で愛用していたそのカップの底にもうっすらと埃が敷かれている。

「夕べもこれ、使ってたわよね」

 昨日の夕方真澄の手の中でポットに僅か残ったコーヒーを受け止めたのは確かにこのカップだったはず。

 しかし思い出そうとすると記憶は曖昧になってゆく。

 夕べの真澄はどんな服を着ていた? 何を話していた? 何の本を読んでいた? どんな顔を、していた……?

 翔子は冷たい台所の床にぺたりと座り込んでしまった。

「昨日も来てたわよね? 真澄」

 だが、部屋の中の家具も本棚も長い間使われていない真澄用の布団の埃も、全てが翔子の記憶を否定する。

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