01
○微同性愛傾向 ○反モラル傾向 以上二点ご留意ください
アパートの裏の雑木林で蛙が一斉に鳴きはじめた。
――つい先週までは手も足も出ないおたまじゃくしだったくせに……
この連中の声が響きはじめるとじめじめした蒸し暑い季節がやってくる。翔子は低い窓のさんに腰掛けてカップの底に一口程度残ったコーヒーを薄暗くなり始めた夕暮れの林に向って投げ捨てた。
ぱしゃ…という、葉がコーヒーを受け止める軽い音の後、一瞬だけ蛙の合唱が泣き止むが、僅か数秒もしないうちにまた『ぐわ、ぐわ』とも『ぐぇ、ぐぇ』とも表現しがたい声が戻ってくる。
「何イライラしてるの」
台所と部屋を仕切る曇ガラスの薄い戸に寄り添うように体をもたれさせ華奢で小柄な少女がくすくすと微笑みながら声をかけてきた。
「いつの間に来てたの? 玄関、開いてた?」 床板の軋む音もしなかった。
突然現れた来訪者に気付かないまま、蛙に向ってやつあたりのようなことをしてしまった姿を見られて、バツが悪そうに目を背けながら窓を閉める。
少女、伊藤真澄は翔子の問には答えず、透けるような薄く柔らかなワンピースをひるがえしながら空になったコーヒーカップを覗きこんだ。
「珍しい、インスタントじゃないんだ」
目を細めてカップに顔を近づけ、クンと鼻を鳴らす。
「せっかくコーヒーメーカーがあるんだもん、たまには使ってやんなきゃね」
「佐々木さんがパチンコで取ってきたやつ、ね」
半年以上も昔に自分と別れた男の名前を出されて翔子はムッとしたように口を尖らせる。
「いいじゃない、関係ないでしょ」
「うん。関係ないんだけどね。何で半年以上も経って引っ張り出してきたのかなぁって」
真澄はまたくすくす笑うようなからかい口調で喋りながらポットに残った僅かな褐色の液体を薄ピンクのマグカップに注いだ。
翔子のアパートは実家と大学のある街から随分遠い。
電車一本で行ける場所だが、その両方が在る賑やかな街に背を向け、急行も快速も途中駅からは全て各駅停車になってしまう路線を、ただひたすら静かな里に向って走る電車に乗って片道約一時間強。
駅を出て『セレブな田舎暮らし』が売り文句の住宅街が展開する小高い丘に向って坂を登る。その坂の途中、人気も民家も途切れるほんの僅かな通りを少し脇道に逸れて、周囲を林に囲まれた小さなアパート。バスに乗るには中途半端な距離を二十分かけててくてくと歩く。
誰にも煩わされることのない場所で一人静かに絵を描く環境が欲しかった。家族とも、ふいに訪れる友人たちとも、たいして必要と思えない会話に心乱されることなく、また、自分の描いている絵を覗かれ無責任な批評も聞かされることのない、ただ通学と寝食と僅かなバイトと絵に没頭する為の環境。
絵を描くことは好きだったけれど才能に関しては高校三年の夏、進路を決める段階で諦めた。だから普通の大学に入り適当に資格など取りながら就職するまでの四年間、未練が無くなるまで思う存分絵を描くことに可能な限りの時間を捧げたかった。
「就職なんてしちゃったらそうそう好きな事ばっかりなんてやってられないもんね」
溜息混じりに呟きながら偏差値と両親の希望を照らし合わせた学校を受験した。
翔子が何とはなしに空のカップを両掌でくるむように抱え込んでぼうっとしていると
「で? 翔子は何イライラしてたっての?」
屈託のない笑顔で小さな顔の中に体裁よくまとまった大きな瞳が覗き込んできた。
「別に」
無愛想に答えて話を変えてみる。
「それより真澄こそ、ここんとこずっとうちに泊まりこんじゃってるけどそろそろ家の方に顔出した方がいいんじゃないの?」
「別にぃ」
つっけんどんだった翔子の返事を真似しながら、けれどからかう口調は変わらない。その態度に呆れながら、しかし嫌いにはなれず
「まぁいいわ……」
ふっと軽く息を吐きながら空のカップと一緒に台所へ向う。
「ねぇ、晩御飯はどうするの?」
コーヒーの匂いのすっかり消えてしまった器具とカップを洗いながら、隣の部屋で大人しく文庫本を読みはじめた真澄に声をかける。
「んっとー……いいや……」
何の本を読んでいるのやら、歯切れの悪い答え。
――やれやれ……
じゃあ自分一人でも食べようかしら、そう思いながら冷蔵庫を開ける。実家の母親が見たら叫びだしそうな殺風景な庫内。本来卵が在るべき場所に大きな顔をして横たわる筆にペインティングナイフ……etc……
――ラーメンでいいか――
お湯を沸かしインスタントラーメンの袋を開け麺を入れ、食欲をそそる匂いが立ち上り始めても真澄は椅子にしがみつき本に向い続けぴくりとも動かない。
中肉中背でダイエットの必要はない程度に柔らかくふくよかなごく普通の女性体型をしている翔子に対して、まるで霞でも食べて生きているんじゃないかと思ってしまう、指先が触れただけで砕け散ってしまいそうな小さい小さい真澄。
童話や剣と魔法の幻想小説などに出てくるような、背中に羽を生やした空想上の生き物を連想してしまうその外見に惑わされる人間は少なくない。
翔子はラーメンをすすりながら曇ガラスに映る真澄のお人形のようなシルエットをぼんやりと眺めていたが、ふっと、水切りに放り込まれたコーヒーメーカーの部品に視線をずらす。
――別に、佐々木先輩と別れたのはアンタが原因なんかじゃないんだから……
鍋と丼を洗って台所をきれいにすると、いくらか気分も切り替わった。
――絵の続きでもやっつけるか。
真澄は一度本に没頭してしまうともう、ちょっとやそっとじゃ動かない。静かになってちょうどいいわ、と部屋に戻り木炭で下描き中のカンバスに向う。
翔子の絵に全然感心を示さずカンバスを覗きもしないので真澄は気付いていないが、ここ一年以上、描き続けているのは全て彼女の肖像だ。数冊のスケッチブックも様々な角度から見た一人の少女で埋め尽くされている。時にそれは瞳だけを幾つも描いてあったり、手だけ、スカートから覗く足だけ、というページも多い。
高校時代は風景でも静物でも人物でも、何でも選ばず描いてきたが、大学も問題なく二年に進級し、初めて受けた講義で真澄と知り合ってからというもの何故だか他のモノを描く気が起きなくなってしまった。
それからずっと翔子にとって絵を描く対象は真澄だけ。
カンバスの中で遠い空を見上げる後姿の真澄。細い髪が風になびく様子を捉えるのに必死で線を流し描き続けた跡。そのカンバスに隠れるようにして被写体を盗み見た。
佐々木と翔子が知り合ったのは、学食で古いファンタジー小説を読みながら昼食をとっていた翔子に一学年上の先輩が話し掛けてきた、というものだった。
佐々木は翔子が手にしている本に強い興味をしめしてきた。話を聞けば、あまり有名にならないまま十年以上前に絶版になってしまった小説らしく、しかも本屋でも多くは流通されなかったので今ではインターネットのショップでも入手不可能な本らしかった。
いつものごとく真澄を描くのに何か丁度良いテーマはないかと自宅に戻り、子供の頃買った本を数冊持って来ていた、その中の一冊だった。
中学で油絵を始めて、こうした小説の気に入った部分をモチーフに描くのが好きだった、そんな翔子の話が佐々木は面白いと言った。
「自分で話を創ったり書いたりするわけじゃないけど本を読んで批評したり話し合ったりするのは好きなんだ」佐々木は自らをそう語った。
二人の逢瀬はもっぱら学校の中のみで、外で会う、どちらかの部屋を訪ねる、という話はまったくなかったが、昼食時の学食でほんのひとときを楽しんでいた。少なくとも翔子は。
その初々しい付き合いに真澄はちゃちゃを入れてからかう。
「ねぇ、佐々木さんの部屋とか、興味ないの?」
「たまにはさ、外で食事とかしようって思わないの?」
しまいには
「佐々木さん文芸サークルに入ってるって言ったけど、ホントかなぁ? お昼に会う以外のあの人のこと全然知らないんでしょ? 翔子ってば何か騙されてるんじゃない?」といったぐあいに。
「いいじゃない、悪い人じゃないわよ」
「まぁね、学食でいろいろ奢ってもらってるから、あんまり悪い事言うわけにいかないしねぇ」
ふふっと笑う真澄に力強く佐々木を「良い人」と言い切れないのは、つい先日佐々木と同じゼミを受けているという女性から聞いた話のせいだろう。
「佐々木君があなたにくっついてるのは伊藤真澄が目当てだって、解ってる?」
緒方茜と名乗った彼女は講義を控えた教室で忍び寄るように翔子の隣に座ったかと思うと、いきなり話をきりだした。
「伊藤さん、あの子ね、ちょっと有名だからね」
確かに真澄は校内でもとびきり有名な少女だった。人間離れした美少女ぶりと浮世離れした風体。彼女とお近づきになろうと声をかける男性が冷やかな目でちらっと睨まれ侮蔑するような「悪いけど」そのたった一言で玉砕していくのを翔子は彼女の近くにいるせいで、何度となく見てきた。
「将を射んとすれば、てやつよね」
茜の翔子を見つめる眼差しが気の毒そうに、と語る。
「あなたは……佐々木先輩の? それとも真澄に何か恨みでも?」
不愉快なその視線に反論をしたつもりだった。しかしそれはさらりと流され肩透かしをくってしまう。
「私?私は……貴女の味方よ。翔子さん」
講義開始のベルが鳴る直前に席を立ち
「あの子は、どうやって翔子さんにそんなに気に入られることができたのかしらねぇ」
意味深とも思える不可解な言葉を残して教室を出て行った。
――どうやってって――
翔子は真澄と出会って、話をするようになったきっかけをよく覚えていない。気が付けば廊下を並んで歩き、たいした話をするわけでもなく昼食を共にし、いつのまにかアパートに入り浸るようになっていた。事実お互いに交わした会話の内容もどんなものであったのか、殆ど印象にない。一つだけあるとすれば
「翔子って私のこと何にも聞かないのね」
え? と思った。
まるで自分が真澄のことに関心がないかのような言い方。そしてその後で「ふふ」と柔らかく笑った表情。
関心なら充分あった。しかしそれは私生活や過去に立ち入るようなものではなく、徹底した被写体としての関心。初めて真澄の存在を知り、彼女を描きたいと思い盗み見ながらスケッチしていた。
その視線に気付かれたのかもしれない。
――そうだ、私から話かけたりしたわけじゃなかったもの。
その視線の感触が嫌なものなら真澄は近づいてこなかっただろう。そしてそれがどんな気持ちを産んだのか真澄は何も語らない。だが自分を見つめる視線の主に対し、通りすがりに自然な挨拶を交わすうちお互い近寄っていった、そんな感じだった。
茜の話は確かに思い当たるフシが無いわけではなかった。
佐々木は何かにつけよく学食でご馳走してくれた。コーヒーに昼食、ちょっとしたスナック類、「パチンコで勝ったから」と大学前の店でケーキを買って来てくれることもあった。コーヒーメーカーを「パチンコの景品で取ったから」と豆と一緒にプレゼントされた。そしてそれはいずれも『真澄が一緒にいる時』だった。
そんな佐々木の態度に真澄はいつから不信を抱いていたのだろう、そして不愉快に思っていたのだろう。佐々木に話し掛けられても無愛想に上の空でろくな返事もしなかった。
アテが外れた。翔子と親しくしていても真澄の気を引けるわけじゃない。それどころか真澄の態度はどんどん頑なになってゆく。「ちっ失敗したな」誰に言うともなく佐々木はやがて学食に顔を出す回数も減ってゆき自然二人から遠のいていった。
「だから私言ったのに、あの人感じ悪いよって」
「そんな事言わなかったよ、真澄」
「そうかなぁ言ったような気、するんだけど」
ふぅん、というどこか聞き流しているような返事。
「それにしてもあんな曖昧な態度の人と三ヶ月?学校の中だけとはいえ、よく付き合ってたねぇ」
「だって……」
言いかけて飲み込んだ言葉。曖昧な態度なら自分にもあった。
「ま、あんまり深い付き合い要求されなくて楽だったんでしょ、翔子も」
見透かされた? 翔子はどきりとして真澄の目を見る。
「アパート来られたり色んなことに口挟まれるとめんどくさいだけだもんね、男は。そうなると私も翔子のトコに居づらくなるしさ」
軽いふわふわとした相変わらずの口調だが付き合いが長くなってくるとそれなりに真相をついたことを言ってくる。翔子はそのきれいな唇から零れる言葉をどきどきしながら聞いた。
確かに自分の生活にまで立ち入ってこない佐々木との付き合いは気楽で居心地が良かった。真澄の言うとおり、アパートにまで来られる関係になってしまったら絵を描き続けることにも影響してくる。しかし人並に異性との付き合いにも興味はあった。だから佐々木が本音と下心を隠しているように思えてきてもそこには目を塞いで付き合っていた。
「あぁ短い春だったなぁ」
溜息をつく翔子に
「まぁたそんなこと言って。どうせ翔子だって興味本位程度の付き合いだったくせに」
真澄はくすくすと笑ってみせる。




