第九話
「……それで、参の国……、だっけ。それって、どうやっていくの」
騒動が一段落した頃。タイミングよくシェラが暖かい紅茶を二人分、準備する。良く出来た侍女だと普通ならば感心するところ。けれどこの場では、其処まで気を回せる人物がいなかった――幸い二人とも、お礼の言葉は口にしていたけれど――
出されたあたたかい紅茶を飲み、一息ついたところでおもむろに悠木が口を開く。突然乗り気とも取れる発言をした悠木に驚いたのか、シヴァは目を瞬かせて紅茶を思わず喉に詰まらせる。吹き出さなかったのだけが幸いだったといえよう。ゴホッゴホッと咳き込み、少し波駄目になっている。一因が自分にあると、何となくとはいえ理解した悠木は、控えめに大丈夫かどうか問い掛けた。
「……っは、あ……大丈夫です。すみません、お見苦しいところを……」
「別に……僕が突然言い出したのが悪かったんだろうし」
口では何とでも言える、という言葉の代名詞と言わんばかりに悠木の表情に悪びれた様子は無い。とはいえついさっきの今だ。元々――と言える程誰も悠木の事を知らないが――表情が変わる事が少ない事も掛け合わせれば、表情が変わらぬのはある種当然とも呼べるだろう。分かっているのか、気にしていないだけなのかは知らないけれど。それでシヴァが気分を害した様子は見受けられない。
「いえ、完全に私の不手際ですのでおきになさらず。それで、参の国への行き方でしたよね。徒歩か馬車しかありませんが、何方で行かれますか?」
「どれくらいの距離かによる」
「大まかになりますが徒歩だと五日程度、馬車で二日から四日程度でしょうか」
「……結構遠いんだ」
「まあ、そうですね。国もそうですが、この核が大きいのもありまして、ちょうどこの屋敷の反対側が参の国への入り口になっていますから。それだけで一日掛かるんですよ」
「わお……この世界の構造が分からないけど、ものすごく不便そう」
「実際かなり不便ですよ。このラフィーネを取り囲むように、五つの国が存在するのですけど、ラフィーネを真ん中に据えているせいで、国と国の移動は隣同士でなければかなり時間を食います。……ただでさえ、ラフィーネ核内の移動だけでも、面倒だというのに」
「そういえば……あれって、普段はどうやって入るの? 僕があれの中に入った時、君が呼んでくれたけど次はそうはいかないじゃない。階段とかそういう類いのものは見受けられなかったから、今になって気になってきた」
半ばシヴァの愚痴のようなそれを聞きながら、ふと思い出した事を口にした。それはあのときでは気付く余裕の無かったものであり、さっきの今とはいえ悠木が随分落ち着いている事を示している。
大方ラフィーネの演奏を用いて、部屋と部屋を移動したのだろう。その原理がどういったものであるかは一旦置いておとくとして、奏者が変わってしまった今、それは取れない方法だ。シヴァがラフィーネ自体に触れられなくなる事は無いだろうが、然し奏者の上書きは終わってしまっている。つまるところ、新たにシヴァが触れたところで奏者として認識されず、形状は変わらない、ということ。
今ラフィーネの核に鎮座する楽器は、紛れもなく悠木があいしてやまない、グランドピアノ。そしてシヴァはそれを弾く事は出来ないといっていた。ならば先のような手段は取れないと思っている方が良い。そもそもそれ以前にシヴァはどうやってあの場に訪れたというのか、それが疑問で仕方がなかった。
「嗚呼、支柱とは違い核は本当に不思議なもので。ラフィーネ本体に触れて願えば、連れて行ってもらえます。あの帰りのように。……ただし、奏者の資格を持つ者のみ、ではありますが」
「ふうん、なんか本当に神が作ったもの、って感じだね。でも支柱と核って違うものなの?」
「先ず大きさからして違いますから。支柱はあくまで補助的なものなので、簡素な造りなんですよ。核のように壊されたら困るものでもありません。だから階段も扉もありますし、あちらの奏者の室には誰でも入る事が出来ます。無論ラフィーネに触れる事は出来ませんが」
「……ごめん良く分かんない。ラフィーネは置いてあるのに、壊されても困らないっていうのは、どういうこと」
「簡単に言えば修復が聞くのです。支柱は核に連動していますので、核さえ正常であれば支柱のものはどうとでもなる……と私は聞いておりますが。実際ラフィーネを如何にかしよう、なんて輩が現れて事がありませんので、本当かどうかは知りません。何せあれは、このネヘトに生きるもの全ての、心の拠り所ですから」
成る程と納得したように悠木は一度頷く。この世界にあるかどうかは分からないが、ラフィーネはこの世界の住人にとって、多分宗教のようなものなのだと認識する。何時ぞの時代でも仏教やカトリック教、怪しげな新興宗教に縋った人が居たように。それがただ、ラフィーネというそれにすり替わっただけなのだろう。
今大まかに持っていた疑問は解決した。ならばこれ以上特に聞いておくべき事はない。そう判断すれば、目の前に机の上に置かれているカップを手に取り、中身を一気に口の中へ流し込む。全て喉を通り飲み干せば、かちゃりと戻す際になった音など気にする様子無く、口を開いた。
「そう、それでさっきの質問の答えだけど。僕としては馬車で早く行きたいんだよね。ただ……」
言い淀む。馬車というのが何れ程のものであるのか、悠木はその価値を知らない。あまり目立った移動、というよりも目立つ事をしたくないのだ。誰もがこの世界で馬車を持っているというのであれば、何の気負いも無く使えるのだけれども。もしそうでなかった場合、五日も歩かねばならなくなる。
勿論道中休みは貰えるだろうが、元より体力の余り無い悠木に取って、その選択肢はかなり過酷なもののように思えた。つまるところ、天秤にかけているのである。目立たない方を取るべきか、それとも目立っても自分を優先するべきか。どうしようもなく些細な事であるが、然し悠木にとっては結構重要な事に違いない。
言葉を詰まらせている悠木にシヴァは心配そうな視線を向ける。何か悩み事でもあるのだろうか、と。例えば馬車酔いしてしまう性質なんだとか、馬が苦手だとか、長時間座っていられないのだとか。手の一件がある。何か抱えていても可笑しくない。そしてそれを不用意に聞く事は憚られて、結局静かに見守るしか無いのが如何にもこうにも、シヴァには歯がゆく感じられた。
暫し奇妙な沈黙が、その場を支配する。物音一つ立たないそこで先に口を開いたのは、やはりというべきか。悠木であった。どちらをとるのか、決まったのだろう。
「それってさ、誰でも持ってるもの? 乗り合いとかじゃなくて個人所有? 多分だけど、乗り合いとかだと僕、色んな意味で死にそうで。かといって、人が滅多に持ってないもので街中を移動するって言うのも、かなり神経すり減りそうなんだよね……ああ、うん。僕も自分がどれだけ些細な事で悩んでるのかは十分分かってるから、突っ込まなくて良いよ」
至極真剣味を帯びた表情で言われることは、一体なんだろうと。思わずシヴァはごくりと音を鳴らして唾を飲み込んだというのに、悠木の口から出てきたのは予想だにしなかったもの。思わずあっけにとられて、間抜け面を一瞬晒してしまうのだけれども、直にその顔を引き締める。
けれど。なんだか雲の上に存在しているようであった悠木が、凄く身近な、ただの人であるように感じれば、自然こみ上げてくるのは嬉しさ。何故だか分からないけれど、手を伸ばせば届く位置にいるような気がした今、とても喜びを感じたのだ。それは先の一件を知っているからかも、しれない。そうではないかもしれないけれど。なんにせよ、シヴァは嬉しかった。
「全員が全員、という訳ではありませんが、裕福なものは皆持っております。そうですね……参の国でしたら、半数は所持しているかと。ですので、目立つという事はないと思います。それに乗り合いだと目的地には到着しません。徒歩より少し時間が掛かってしまうくらいですので、選択肢にはいれなくて大丈夫ですよ」
「そう……よかった。じゃあ馬車でお願いしていい? 徒歩の方が都合がいいって言うなら、それでもいいんだけど」
「何方でもさして変わりません故、おきになさらず。ところで、何時出発されますか? 今日はもう午後も半ばですので、一旦此方でお休みして頂きまして、明日……もしくは、近いうちに、という形が良いかと思うのですが」
「君に任せる。僕は別に今から移動でも全然気にしないくらいだから。予定さえ教えてくれたら、それでいい」
「有り難う御座います。では、此方の都合で申し訳ありませんが、明日の朝、朝食を食べ終えて少ししたら出発という形を取りたいのですが、構わないでしょうか?」
「ん。分かった。じゃあ僕は今日、何処で過ごしたら良い?」
「そうですね……此処ではあれですから、新しく部屋を一つ用意させましょう。――シェラ」
「把握致しました。部屋のご準備が出来次第ご案内させて頂きますので、今暫くお待ち下さい」
「ありがとう……それと、ごめんなさい。この部屋の窓。割ってしまって」
「いいえおきになさらず。我々が後で片付け致しますので、どうぞそのまま置いておいてくださいませ。それでは一度失礼致します」
軽く頭を下げて、退室するシェラにちらりと悠木は視線を向ける。冷静に考えれば、窓を割るという行為は全く持って褒められた行為ではない。未だ床には硝子の破片が散らばっているし、風が部屋の中に吹き込んでくる。寒さを感じさせないのが、まだ幸いといったところだろう。けれど割れた硝子は元には戻らない。覆水盆に返らず。
今しがたシェラには謝ったけれど、子の屋敷の持ち主には謝っていない。一体誰がこの屋敷の主か分からなかったが故、暫し悩んだ挙げ句悠木はシヴァに謝る事にした。或いはシヴァから謝罪の言葉を伝えてもらおうと思って。
「窓の事。屋敷の人にもし良ければ僕が謝ってたって伝えて欲しい。出来れば……うん、修理費まで出せるのが良いんだろうけど、生憎とこの世界の金銭は持ち合わせてないから。謝罪する事しか、出来ないんだし。せめて、ね」
どことなく申し訳なさを漂わせながらいう悠木にシヴァは思わず目を瞬かせる。まさか謝るとは思っていなかったから、だろう。あれは確かに悠木が悪いかもしれないが、一人の責任ではない。背中を無造作に押した人物がいるのだから。そしてそれと止める事が出来なかった自分にも一端があると思っているシヴァは、ぶんぶんと首を振る。
「そんな……救世主様が謝る事では御座いません。それにこの屋敷は個人所有のものではありません故、気にする必要は無いのです」
「そうはいっても、ねえ。割っちゃったものは割っちゃったし……」
「……では、私どもの都合で勝手に御喚びした事。此れから御勤めして頂く事で、なかったことにということは出来ませんか?」
「ん、まあそれなら。……ところで、その救世主様っての、止めて欲しい。あんまり好きじゃないっていうか、反応しにくいっていうか」
「そうでしたか、申し訳ありません。では、なんと呼べば?」
「あ、そっか。君は僕の名前知らないのか。黒川悠木。ええと、黒川が姓で悠木が名前なんだけど。まあ好きなように呼んで。それと敬語もいらない。見たところ、僕と同じか……んん、もしくは少し、君の方が年上っぽいし、これから、色々と君には教わらないといけないだろうから」
「わかりま……わかった。じゃあ、お言葉に甘えて。ユウキって呼ばせてもらうし、敬語も外す。……多分、こんな事知れたら親父にどつきまわされんだろうけどな。っと、改めて俺はシヴァ。シヴァ・イーリイ。さっきの……あー、あの黒いのはセルヴァン・イーリイっつって、一応父親。殆どそれらしいことしてもらった記憶は無いけど。さっきそこにいた侍女がシェラ・フェネリー。ユウキ付きになって貰う予定。気に入らないなら別の子探すけど。如何する?」
驚いた。それが悠木の素直な感想。本来の性質がこうであるとは全く予想出来ていなかったからだろう。随分と畏まっていたのだな、というよりも猫を被るのが上手いという表現がしっくりくる。小さく頷きながら、なるほどこれは見習うべきだろう、と思わず思う程に――実際見習えるかどうかは全く別として――
悠木など皮を被ったところで直に脱げてしまうのだ。いや、脱いでしまうと言う方が正しいのか。おまけにさらりと悠木に会った全員の人物の紹介までしてしまうこの手際の良さにも、感心してしまう。何にせよ、このシヴァという男は父親に似なくて良かったな、という何とも失礼な気持ちが悠木の中で芽生えた。
「……べつに、こだわりが無いから誰でも良いよ。とりあえず、煩くなくて、僕に構い倒そうとしない人なら誰でも」
「ああ、ならその点については完璧だ。シェラは公私混同を絶対しないから。じゃあそれで話進めとくぜ」
「うん、お願い。……ところで。僕って今更だけど敬語使った方が良い? 君に対して」
「まさか! やめてくれよ。普通に喋るユウキを知ってるから違和感満載になる予感しかしねえ」
「そう……じゃあこのままで」
然し如何にもこうにも、シヴァという男は馴れ馴れしいようでいてそれを感じさせない。多分人のパーソナルスペースをしっかり把握しているのだろう。そして、其処に踏み込む事が無いのだ。救世主の血筋とはいえ、奏者に選ばれただけのことはあるというもの。
ほんの数時間――いや、下手したら数十分か――前までいっそ死んだ方がマシだと、むしろ死のうとしていたとは思えない程、悠木は平素通りだ。それどころか、現代にいたころよりも随分と気持ちが軽い気がする。それは良くも悪くも、シヴァのお陰なのだろう。
今この場で面と向かって言えないけれども。何時か、何時か言えたのならばいいな、と思う。あの時闇の泥沼から引き摺り出してくれて、死ぬ事を止めてくれて。欠片とはいえ欲していただろう言葉をくれて、ありがとう、と。
豪胆に笑うシヴァを見ながら、悠木はひっそりと感謝した。目の前の男に。