第七話
「それで? 如何しろっていうの。僕に」
ラフィーネを放り出されてすぐ。悠木とシヴァは幾人かの侍女に取り囲まれ、とりわけ悠木のことを丁寧に何も無かったかと言わんばかりに確認される。服装で侍女であると確認出来なければ、一体何事だと悠木は混乱しただろう。
幸い傷一つとしてない事を確認すれば――そもそもあの程度で傷が出来る訳が無いし、ラフィーネとて悠木たちを傷つけるつもりなどない筈だ。なにせ貴重な奏者なのだから――侍女たちは安堵の顔を浮かべて、揃って頷く。それから代表者と思わしき一人が「ご案内します」と頭を下げて述べた。つまるところセルヴァンがいるところに案内するに違いない。
実際シヴァはとても落ち着いて慣れた様子でそれを受けて、侍女の言葉に小さく頷きながら立ち上がっている。横目でそれを見ていた悠木は倣うように、自分も立ち上がった。しっかりと自分の足を地面に付けて立つ。先程までそうしていたというにも関わらず、浮遊感に慣れすぎたせいか。はたまた、ラフィーネ内部が特殊な構造であったからか至極久し振りであるように感じる。
二人ともが何事も無く立ち上がったのを確認すれば、先導するように侍女たちは歩き出した。複数人が前を歩く姿を見て、別段一人でも良かったんじゃと悠木はぼんやり思う。然し微妙に悠木の周りを取り囲んでいるように感じれば、きっとこれは”檻”であるのだと認識する。
悠木は随分と渋っていた。痣のみで実際ラフィーネを使う力を持たないなら、逃げられても気になどしなかっただろう。けれど悠木はラフィーネを正しく起動させた。否、起動させてしまったとでもいうべきか。本来あるべき姿を取り戻させた悠木は、如何足掻こうとも彼らの言う”救世主”に違いなかった。
短時間の付き合いであれど、セルヴァンの悠木に対して――というよりは、救世主に対してと言うべきか――発揮された、執着心の凄さは身を以て知っている。異常とも呼んで良いそれは、自分が少し目を離した隙に逃げる事を危惧したに違いない。だからこその、この人数なのだろう。正しく自らが狂信してやまない救世主を逃がすまいと言わんばかりに。
であれば、確認する為とはいえ悠木を一人ラフィーネ本体に送り出したのは、些か疑問が残る。幾らセルヴァンたちが訪れる事が出来ないとはいえ、だ。シヴァに監視を頼んでいた可能性もあるが、だとしてもそれだけでは心もとない。考えてみた。何故セルヴァンが自ら言い出し、悠木をラフィーネに触れさせたのかを。
本当にただ真に救世主であるかどうか、確認したかった。この人数は救世主である悠木を出迎える為の、必要処置――この可能性である事はかなり低く見積もっている。というのも、あの対応を受けて果たして誰が正直にそれを信じられるというのか。あれはまさしく悠木が救世主であると、確定的に見ていると言っても過言ではない、接し方であった。
逃げられないと思っていたからか。シヴァは召喚するその術を知っているし、逆の術だって知っているかもしれない。けれども悠木は大まかな説明しか受けていない、異世界人だ。例え奏者の資格があれど、元の場所に戻れないと踏んだ可能性は、それなりにあるだろう。或いは――セルヴァンは悠木の話を、聞いていた。この両手が楽器という楽器を弾けないであろいうという、話を。だから安心して、悠木を送り出せたと考えれば。それはとても納得のいく事のように、悠木には思えた。
何にせよ、考えれば考える程気持ち悪さが増す。答えも得られないそれに気分を害してまで考えを費やすのは馬鹿馬鹿しく、其処まで考えたところで悠木は思考を放り投げた。でなければ反吐の一つや二つ、吐いてしまいそうだったから。
誰も喋らぬ無言の道中。悠木は此処に来て案内されたときのように、周囲を観察する心算は一切無い。その証拠にその視線はただ、前を歩く侍女のみを捉えている。見ようによっては、もう知っているが故確認する必要が無い、とも取れるだろう。然し悠木のその行為は、表情から察するに全てを拒絶しているが故の行動にしか見えない。
何かに堪えるように唇を結ぶ事も、眉間に皺を寄せる事もなく。何も感じさせない、所謂、無の状態。感情の一切を削ぎ落としてしまったかのような、そんな顔。一体何がそうさせるのかは、きっとラフィーネ内部での出来事が原因だろう。或いは、その前から積もりに積もっていたそれが、あの場所で遂に崩れかけてしまっただけなのかもしれないけれど。
暫く歩き、漸く辿り着いた建物は、最初に案内されたそれとさして変わらないように見受けられた。繋がっている建物だと言われても、何ら驚きはしないだろう。それ程までに差異はない。一つ違う事と言えば、目の前にある扉が先程のそれの簡易さとは違い、まさしく正面玄関とでも言うような、豪奢な造りであったことだろうか。
どっしりと構え、綺麗に飾り付けられた鉄、或いは銀らしきそれで出来た扉は、とても重婚感があると同時に重く、動かすのに一苦労しそうだ。正直悠木は手の事がなくとも、一人でそれを動かせやしなかったと思う。だから目の前で、侍女の一人がなんて事無く、平気な顔をして軽々と開けてしまった事に、平素であれば悠木は驚いたに違いない。今はただ、感慨も何も浮かばない顔で相変わらず眺めているだけ。
左右両方の扉が開かれると同時に、目の前に広がるのは侍女たちがずらりと並び、出迎えるその姿。一斉に頭を下げるその光景は、一種の芸術とも呼ぶに相応しい。シヴァは何処か居心地悪げに苦笑いしながら、頬を掻く。これは自分に向けられているものでもなく、ましてや此処に居ては行けないだろうと思ったからだろう。
実際これらは正式に救世主と認識された、悠木に向けられたもの。けれどその当の本人はと言えば、眉の一つとして動かす事は無かった。立ち止まる事無く、先導する侍女についていく。だだ、それだけ。
様子の可笑しい悠木に誰も気が付く事はないまま、侍女の出迎えを通り抜けて館の中を進む。それから少しもしないうちに、一つの扉の前に立つ男が悠木の視界に映る。
――黒いローブをすっぽりと纏った、男。それは紛れも無くセルヴァンと呼ばれる、あの男であった。
一瞬だけ悠木の目がきらりと光ったような、気がしたけれど。然し相変わらず表情は変わらないまま。頭を下げて悠木を出迎えるセルヴァンを一瞥する事も無く、セルヴァンの傍に控えていた侍女によって開けられた扉の中に、足を踏み入れる――それはシェラだったのだけれども、残念な事に今の悠木はそれを認識してはいなかった――
部屋の中は最初に迎えられた其処よりも、一回り以上大きいようにも見える。内装は大した代わりは見えない。それらを確認する事無く、中央に机を挟んで向かい合うように置かれている長ソファのうちの一つに、座る。
迷い無く腰を落ち着けて、それからセルヴァンが悠木の視界に映ると同時に、彼が座る事を待たずに、開口一番無表情のまま、冒頭の台詞尾を吐き出す。顔に表れている通りに、その声には抑揚もなく、一切の感情という感情が感じられない。
シェラもシヴァもセルヴァンも。その声に一瞬驚いた様子を見せる。然し、かといって悠木の平素を知らぬ三人だ。それが可笑しい事と気が付く事も無く、各々が場所――セルヴァンは悠木の向かいにあるソファに座り、シェラは先程と同じように扉付近に立ち、そしてシヴァはセルヴァンの座る素ソファの後ろに立つ。
「如何しろも何も、ユウキ様には救世主として立って頂きます。ラファーネの核が、正常に作動した――それは何処に居る、どんな人であろうともその肌で、その耳で、感じ取った訳ですから」
ゆっくりとした口調で、真面目な顔をしながらセルヴァンは悠木を見つめ、そう言葉にした。けれどそれは、ほとんどと言っていい程悠木のそれとかみ合っていない。悠木は別に、救世主である事を否定はしていないのだ――ただしそれが認めたが故の発言かと言われたら、そうではないのだけれども――
ただ、弾けぬこの手で如何やって救世主たれというのかと、問い掛けているだけ。救世主というのはこの世界の希望のようなものであると、悠木は認識している。かといって、何もしない救世主など、存在しているようでいないようなもの。むしろ期待してしまう分、居ない方がましなくらいだろう。
小さく息を吐き出して、それからきっと発言の内容が分からなかったのだろうと判断すれば。なるべく、目の前の男でも分かるように、噛み砕いて話そうと。その口を動かす。
「僕が聞きたいのはね、弾けないこの手でどうやって、君たちの言う救世主になるのか、聞いてるんだよ。例え僕が核を稼働させたとしても、痣があったとしても、本当に救世主だったとしても――ラフィーネを弾けない以上、何も出来ないよ、という話をしてるんだ」
「――嗚呼、なんだそんなことでしたか」
悠木の発言真意を聞いて。セルヴァンはほっと安堵の溜息を漏らす。ラフィーネを起動させておきながらも、まだ救世主ではないと言い張るつもりなのだろうか、と思っていたが故だろう。けれど安心したセルヴァンは、悠木のその変化に一切気付いていなかった。
例えばそれが、他人に取ってはさした悩みではない事でもしよう。けれど決して”そんなこと”とは言うべきではない。何故ならその”そんなこと”が重大な悩みである人も、居るからだ。今この場が良い例だろう。
如何しようもなく不用意なセルヴァンのその発言を耳にして、形の良いその眉をぴくりと動かす。如何しようもなく、聞き捨てならなかったのだ。悠木が人生の半分以上悩み、それのせいで全てを失い、やりたい事も出来ず、諦めなければならなかったその全てを。否定されてような気がして。
反論の一つでもしようかと、思ったのだけれども。然し次の瞬間心毎、へし折られてしまう。
「ユウキ様の手の事でしたら問題ありません。参の国にいる奏者が癒しを得意としています。ですから、そちらに向かって頂き、参の国の奏者に演奏させればその程度ですと、すぐに動くようになりましょう」
ぱきん、と悠木の中で何かが壊れる音がした。寸でのところで押し留まっていたものが、ぶわりと溢れ出す。叫ぶ気力すらなく、ただただ、今までの苦労は。歩んできた人生は、一体なんだったのだろうと思うのみ。いっそこのまま、何もかも捨ててしまいたかった――その命でさえ。そうすれば、きっと楽になるのだろうと、それがとても魅力的なものに思えてならないのだ。今の悠木には。
全身を無気力感が襲い、どっと疲れのような者が押し寄せてくる。それに逆らう事無く、身体を後ろに倒し、ばふり、と音を立ててソファの背に凭れ掛かった。そうでもしなければ、身体を支えきれる自信がなかったから。
それをみたセルヴァンは手が治る事を、喜んでいると勘違いしたらしい。色々とあれやこれや言っているようだが、然しそれらは全て悠木の耳には届いていなかった。おまけに目で見る事すら拒絶しているのか。その目にはセルヴァンの姿は無い。それどころか、何もかも拒絶したような、うつろな目は焦点が定まらずにいる。
けれどそんな悠木の異変には、誰も気が付けない。それだけならまだしも、追い討ちをかけるようにセルヴァンは次から次へと、地雷を踏み抜いていく。幸いだったのはそのどれもが、悠木の耳に入っていない事だろう。でなければ、今頃悠木はもっと酷い有様になっていたに違いないのだから。
暫くして。ようやっと悠木の様子が可笑しい事に気が付いたのは、然しセルヴァンではなくシヴァ。何の返答も無く、ずっと同じポーズを保つ悠木に違和感を覚えたからだろう。そっと様子を伺うように救世主様、と呼び掛ける。だが、それに返事は無い。もしやセルヴァンの声に重なり聞こえてないだけかと思えば、未だ楽しそうに話すセルヴァンに声を掛ける。
「セルヴァン様……お話途中に申し訳ありません、ですが……」
「何だというんだ、一体」
「救世主様のご様子が、可笑しいのです」
「……ふうむ。言われてみれば確かに。――ユウキ様、ユウキ様?」
話を止めて、少し身を乗り出しながらセルヴァンは悠木に向かって呼び掛ける。けれどそれは、間違いだった。悠木が一通り満足し終えるまで待っていれば、或いは違う未来があっただろう。それがセルヴァンたちにとって良い未来であるかどうかは分からないが、少なくとも悠木にとっては最善だったに違いない。
奥深く、ふかくの泥沼に沈んでいた意識がセルヴァンの呼び声によって、引きずり出される。ほんの少しだけ意識が目の前の事に向けば。悠木はおもむろに、ふらりとよろめきながら立ち上がった。