第六話
前回予約投稿したつもりが、普通に投稿していた事に予約時間を過ぎてから気付きかなりショックを受けたというどうでも良い話。多分予約の日付を間違えるというぽかをやらかしたのです。
「此処です」
回廊を幾分か歩き続けた先、少しだけ明るい場所が見える。そこに足を踏み入れれば、シヴァは目的地に辿り着いたという証拠の言葉を口にした。
目的地――それはつまり、奏者の席であるということか。それとも、それに続く場所であるのか。何方かである事は間違いないのだろうが、然し悠木はいまいち判断がつかなかった。その場所が余りにも普通で、明るい以外は余り先程と変わりないというのも大きいだろう。
けれど奏者の席であるというのならば、シヴァが此処にいれる筈がない。セルヴァンは確かに、奏者のみが訪れられる場所といっていた。であれば、此処は何処かに繋がる場所と判断するが妥当か。
ぐるりと辺りを見渡して、けれど何処かへ続く場所が自身の後ろにしかない事を確認すれば、小さく唸る。
「本当に此処? 間違ってない?」
思わず悠木がそう問い掛けてしまったのも、頷けるというもの。もしや隠し扉の類いでもあるのではと思いはしたものの、だとすれば不用意に触れたくはない。だから念の為、何かに触る事もなくシヴァを見遣った。
僅かに首を傾げながら問い掛けられたそれにシヴァは力強く頷く。同時に、悠木に驚愕を齎す発言を一つ。
「此処が奏者の席になります。現在誰もが触れてません故、ラフィーネはその形を成しておりませんが」
「……此処が? 奏者の席だっていうの? だって何も――」
「ええ、何もありません。何もありませんが、奏者の席なのです」
「じゃあ、如何して君は此処にいられるの」
混乱していた。むしろすんなり受け入れろという方が無理に違いない。セルヴァンがまさか適当な事でも言ったのか、と此処にはいない男に疑いを向ける。
救世主と呼ぶ悠木を、狂信と呼んでも差異はない程心酔していた。故に嘘を付かれたとは些か考えにくいが、かといって目の前にいるシヴァが騙しているとも考えられない。
おまけに先程までの小部屋と違いは全くなく、ラフィーネの本体らしき欠片もどころか何もないのだ。此処には。それすらも肯定するシヴァに、悠木は化かされている気分に陥る。
逡巡の後、聞けば一番答えに近付けるだろう問い掛けを、けれど戸惑いの含んだ声で口にして。悠木はシヴァから視線を逸らさずにいた。
「それは、私が救世主様が訪れるまでの間を繋ぐ、奏者だからです」
はぁ? と間抜けな声を上げず、抑えただけ悠木は努力した方かもしれない。向けていた視線を、一体如何いう事だ説明しろ、と言わんばかりのものに変える。
さすれば悟ったのか、それとも元々そのつもりであったのか。シヴァは悠木に聞かせるように、語り出す。
「この世界が音獣によって食い荒らされている事は御存知ですか?」
問い掛けられたそれに、小さく頷いた。
次いで何処まで話を聞いたかという問い掛けには、この世界がどんなものであるか、現状、ラフィーネの事、そして悠木が救世主らしいという事。簡単に要点を纏めて、先程セルヴァンから聞いた事を口にする。
さすれば、粗方聞いていたのですね。とシヴァは説明の手間が省けた事を、少し喜んでいるようにも見えるように一度頷く。それから悠木の質問に答える為の話を、続けた。
「セルヴァン様にもお聞きしたかもしれませんが、本来ネヘトに住まう人間はラフィーネに触れません。勿論、此処に訪れる事もです。ですが中には稀に、訪れ、触れる事が出来るものがいます。そういった者たちは皆、私も含めて過去に喚ばれた救世主と血の繋がりがあるのですよ。……いえ、むしろ血の繋がりがあるが故に触れる事が出来るのでしょうね。本来……いえ、ラフィーネを授けられし頃は、誰でも触る事が出来たのですが……」
「乱用しすぎたか、或いはハトホルが気に入る音楽を弾けなかったから、取り上げられた……ってところ?」
「その通りです。まるで見て来たかのように当てられますね。流石、と言うべきでしょうか。……最初は、温情でしょう。ネヘトより救世主をお選び下さいました。けれど以降は、一度としてこの世界には生まれていません。ですから、救世主様をお喚びする事。救世主様が来られるまでの間、この世界を持ちこたえさす事。それが我ら奏者代理に課せられた使命なのです。紛い物といえども、音獣を多少足止めさせることくらいは、出来ますから」
どことなく、悲しみを帯びたような声であったのは悠木の気のせいだろうか。否、或いは存亡だったかもしれない。けれどその正体がはっきりと分からない悠木は気付かない振りをする。下手に誰かの領域に踏み込む気がなかった、というのも大きいだろう。
此処にシヴァが居る事が出来る理由は、分かった。召喚師と言われていた理由や、呼び出された方法なども。魔法の類いでもあるのかと思ったが、多分そういうものはこの世界には存在していない。あるのはきっと――音楽だけだ。音楽と、楽器。本当に何処までも変わった世界と言うべきか。
一瞬弾けるのならば、自分たちで如何にかしろと悠木は思わないでも無かった。けれど、それが出来ないからこうして呼び出されているのだろう、と思う。実際シヴァの言い方とセルヴァンの言葉をあわせれば、シヴァが弾くのと救世主が弾くのでは、その効果に多いな違いがあると解釈出来る。
音獣がこの国の死活問題であれば、喚び出すのは必然とも言えた。悠木からしてみれば、傍迷惑な事この上ないのは間違いなかったけれど。
小さく息を吐き出す。それは溜息のようであってそうではなく、深呼吸とは程遠い。一度目を伏せて、それから顔を上げてシヴァと視線を交えた悠木は相変わらず、その顔に色が無かった。
「……そう。それで。弾いていた君ならラファーネの出し方、知ってるんでしょう? 如何するの?」
同情の一つでもした方が良かったのかもしれない。けれどそれは何か違う気がして、代わりの言葉を見つける弧度が出来なかったが故に悠木はあえてその事に触れず。素っ気なく聞こえるだろう言い草で、問い掛ける。流石にそんな悠木の態度を見てシヴァは気分でも悪くしたかと思いきや、そんなことはなかった。一瞬だけ泣きそうな笑みを浮かべて、言う。
「私の後ろにある壁に、核が埋め込まれています。けれど今は力衰え、石のような色をしている為に薄暗さも手伝って、見分けが付きません。ですので、ご案内させて頂きます」
軽く頭を下げて、シヴァは歩き出す。悠木も倣って後ろを歩き、そして回廊からちょうど正面に位置する石の壁の前まで辿り着けば、シヴァはそろりと壁に手を添えた。そして何かを探るかのような手つきで、石造の壁を撫でていく。僅かな間そうしていれば、ある場所でぴたりとその手を止めて。
「……此処です、救世主様」
悠木に向き返り、小さく声にする。か細いその声は、この静けさの中であって漸く悠木の耳に届く程度だ。大きな声でも出せば壊れてしまうのか、或いは声を出せない何かがあるのか。分からなかったが、シヴァに倣う方が良いだろうと判断すれば、こくりと小さく頷くのみに留めた。
シヴァが探り当てたそれに、ゆっくりと近付く。一歩、また一歩と足を踏み出すたびに。どくり、どくりと心臓が脈打つ音が鮮明に聞こえてくる気がした。肌をなぞる風も、柔らかさを一層含ませているような、気がする。
少しずつ、少しずつ。悠木の中の何かに、訴えかけてくるものがあり。震える指先でシヴァが手を添えていた其処に触れれば、ぶわり、と。風が吹き、悠木を包み込んだ。
徐々に悠木の中の熱が核に吸い込まれていく。それと同じくらいのペースで、石畳だった世界は色を、材質までもを変えて外で見たラファーネの姿に変わる。
薄紫に光る水晶のような材質。先程までの薄暗さが嘘のように明るくなり、周囲を鮮明に映し出す。ほのかに透けているせいか、よくよく見ればこの建物の中から外の世界だって見えるだろう。
熱が奪い去られる感覚が引けば――嗚呼、懐かしい音がする。もう随分と聞いていない、否、聞く事を止めた。けれど愛してやまない、大好きな、音。それのせいですべてを失ったというにも関わらず、嫌いになれなかった、その存在が。音を響かせながら、悠木の前に姿を表した。
――グランドピアノ。悠木が使っていたものと同じくらいの大きさであり、そして色もこのラファーネに準じる事は無く、一般的な真っ黒な姿をしている。
悠木はその姿を認めて。人によって姿を変えるという、その神器がグランドピアノに姿を変えた事を認識すると同時に。どうしようもなく、泣きたくなった。
「……っなん、で……!」
思わず漏れた、叫び。お前であって良かった。おまえでなければ良かった、と相反する感情が鬩ぎ合う。此処に一人であれば、或いは泣いていたかもしれない。けれど此処にはシヴァがいる。誰かの前で弱みをさらけ出す事を、悠木は良しとはしなかった。ぐっと歯を食いしばって、耐える。
やっぱりどうしようもなく、それを愛しているのだと悠木は思い知らされた気分に陥っていた。例え見て見ぬ振りをしてみたところで、何度も目の前に現れる。嬉しくない訳が無い。けれどどれだけ頑張ったところで、悠木はもう、その手でピアノを弾く事は出来ないのだ。
拙く辿々しい、幼児が弾くようにするのであれば、可能かもしれない。けれど悠木は知っている。自分の思いのまま、思うがままに、ピアノを弾ける楽しさを。そもそも聞かせられるレベルではない演奏をするのは、やはりプライドが先ず以て許さなかったし、けれど許せたところで楽しくないと弾く事を拒否するだろう。
否、確かに弾く事は楽しい。それが例え拙くあっても。だが、思うままに弾けぬというのは苦痛で仕方が無いのだ。如何して、何故、と。そんな気持ちに苛まれていくくらいならばいっそ――そう思って、悠木がピアノを手放したのは、道理とも言えた。
シヴァは何と声をかけるべきか迷う。悠木が核に触れた途端、色を失い正しくその姿を保てていなかったラファーネが、一瞬で元のあるべき姿に戻る。そんなシーンを見てすぐは、歓喜の声を上げようとしていた。然し、聞いてしまったのである。悠木の悲痛な叫びを。
事情――悠木がピアノを弾けぬ事、またその理由――を知らぬシヴァは、一体何故それ程までに思い詰めたような声を出すのか、分からなかった。だからこそ、声をかけられなかったのだろう。だって今の悠木は、必死に押し隠していても伝わって来てしまう。
その背中を少しでも押してしまえば、壊れてしまうだろう事が。
何がトリガーで何が引き戻す言葉か分からぬ今、不用意に声をかけるべきではないとは分かっていたが、然し放っておく事も憚られた。逡巡した挙げ句、けれどやはりそっとしておくに限ると思ったのだろう。シヴァは悠木に気付かれぬよう、そっと彼の傍から離れる。
しずかだった。何かを祝福するよう、自動的に音を鳴らすグランドピアノ以外。
暫しの間その音を聞きながら顔を歪めていた悠木だったが、一瞬キツく、固く、目を瞑って開けば、シヴァへと視線を向ける。けれどその目は――濁っていた。まるで死んだ魚の目のように。それはシヴァが背中を押さずとも、壊れてしまった事を意味している。
とはいえ、僅かだが生気が宿っていない事もない。その証拠に、嬉しそうでありながら哀しそうで、苦しいと叫んでいるような。兎に角持ちうる感情全てをぐちゃぐちゃに混ぜ込み、奥底に押し込めようとしている。そんな顔をしていたのだから。
一瞬シヴァはその目に恐怖を抱くが、けれど覗く感情を垣間見てぐっと推し留まる。――まだ。まだ、完全には落ちていない。大丈夫だ、と。そう思ったところでシヴァに何か出来る訳でもなかったけれど、壊れていないと思えば自然、安堵の溜息が漏れる。
「……ねえ、これ、僕が触った後でも君、弾ける?」
「はあ……いえ、それは試してみない事には、分かりませんが。生憎、私はこの楽器はからっきしでして」
「ふうん、そっか」
然し突然の問い掛けにシヴァは目を瞬かせざるを得なかった。だってそうだろう、ラファーネがピアノに姿を変えたという事は、つまり悠木は弾けるという事に他ならない。そして本来の奏者がいるにも関わらず、代理に弾かせようする人間なんて、居る筈が無かったのだから。
予想だにしなかったそれに思わず素直に答えれば、納得したのかしてないのか。いまいち分からない反応を残しながら、悠木はすうと左手でグランドピアノを撫ぜる。
「ところで此処からでるの、弾かなきゃ出れない?」
「いいえ、そんな事はありません。私どもが出る事を望めば、出られます」
「それってさっきのところに戻る? あの男に話があるんだけど」
「ああいえ、先程のところには戻りませんが然し、セルヴァン様にお会いになる事は可能です。此処から出られてから救世主様が向かうところに、おります筈ですから」
「そう……じゃあ早く出よう、此処から」
何処か優しさと愛おしさすらも感じられるその手つきに、だからこそ先程彼の口から漏れた言葉たちが、いまいちシヴァには信じれなかった。合致しない、といっても良いかもしれない。何が何だか分からぬまま、けれどシヴァに反論する理由も無いそれに小さく頷く。
そうすればまるで弾き出されるように浮遊感に包まれて、それから緑が生い茂った芝生の上に、二人して放り出された。先程まで居た、最初に悠木が見たものよりも一層光り輝く薄紫色をした水晶のような塔を、背にして。