第二話
数分もしないうちに、扉のノック音が部屋の中に響く。それは男の言うように、侍女が飲み物の準備が出来た事を知らせる合図だった。
悠木が返事をしなかったからだろう。代わりに男が入室を促せば、その姿を現す侍女。侍女とは何であるか悠木には分からなかったが、それは現代ではメイドと呼ばれるものだった。それ以上言いようがないくらいに。
たっぷりとフリルがあしらわれた、白いカチューシャ。ロング丈の黒いワンピースに、上は肩から下はワンピースより少しだけ丈が短いくらいの白地のエプロン。此方はカチューシャと違い、実用性重視なのだろう。フリルは控えめに、けれどそれがとてもかわいらしく映るように設計されている。
ほう、と思わず悠木は声を漏らしそうになった。そういった趣味はないものの、確かに完成度の高い、そして本物のメイド――もとい侍女――を初めてみたのだ。感動してある意味当然と言える。
優雅な動作でお辞儀をして、茶器を運ぶその姿は悠木の目からはとても世間離れしているように見えた。
確か海外には、執事やメイドを養成する学校があったっけな。なんて、以前何かの番組で見たことを何故か唐突に思い出す。
まじまじと失礼でない程度に侍女を見つめた。肩より少し上で切り揃えられたショートカットの髪は、栗色だ。目の色は見えないが、然し顔立ちは東洋人というよりも、西洋人。
なるほど、と何となく理解する。時代錯誤だと思ったが、思い出した事を当てはめればそうでもない。おまけに日本にも、家事を専門にする学校や、会社もあった筈。
それとさして変わりないかと思えば、やはり現代日本だという認識を強めた。
例えば知らない場所に移動していたり、建物が異様に大きかったり。外観や内装が、西洋の城のようだったとしても。
ほぼほぼ現実逃避に近くなってきた、その認識をけれど悠木は覆すつもりはない。何故なら悠木の中では'異世界"なんてものは存在しないし、"トリップ"という単語すら認識してないのだから。
テキパキとした動作であっという間に悠木の前に置かれたカップに、注がれる紅茶。立ち上がる湯気と、いい匂いが悠木を誘う。
ちょうど喉が渇いていた事もあって、侍女が注ぎ終わると同時にカップの取っ手を取る。持ち上げようとすれば、取り方が悪かったのか、それとも他の要因があったのかは分からない。けれど一度取っ手から指を滑らせて、かしゃりと茶器の擦れ合う音を響かせた。
余り高さがなかったのが、幸いだっただろう。割れる事も、中身が零れる事もなく。事なきを得た、と言うべきか。
けれど悠木はそれらを気にする事なく、もう一度取っ手を摘む。今度は上手くいったようで、そっと持ち上げる。それから縁に口を付け、一口。紅茶を口内に取り入れた。
ふわっと広がる茶葉の味。熱さはあれど然しそれはこの味を引き出す為に、なくてはならないものだと感じ取れる。
口の中で幾度か液体を転がして、ごくりとのどを通した。
「……美味しいです。ありがとうございます、えーっと……」
「シェラと申します。救世主様に褒めて頂き、かの者も喜んでる事でしょう」
「そう、ところでなんで仲介に入ったの?」
「あの者は救世主様とは口を聞けぬので御座います。立場上の問題がありまして」
「ふうん……何だか堅苦しい。ねえ、そういうのナシに出来ないの?」
「はっ……いえそれは……救世主様のお立場が……」
「救世主の立場ってそんなもんで揺るぐんだ? へえ。そう。そんなもの救世主でもなんでもないと思うけどね」
言い淀む男を睨み付けて、吐き捨てるように自身の思った事を、包み隠さず口にする。
さすれば男はあたふたと慌てて、如何したものかと視線を泳がせた。悠木の機嫌を損ねたと思ったのだろう。だから何とか取り繕うとしているのだが、悠木は視界にいれすらしない。
扉の近くに立つ、シェラと呼ばれた侍女を男を見たのとは対照的な、何処か優しさを含む目で見る。そしてもう一度感謝の言葉を言の葉にすれば、ソファに座ったままであったが、軽く頭を下げた。
シェラは一瞬慌てた様子を見せる。が、そこは流石侍女と言うべきか。すぐさま取り繕い、九十度の綺麗なお辞儀を悠木に返す。
言葉を発さなかったのは、それが許されてないからだ。とはいえ悠木は然程気にした様子も見せず、少しだけ口端を持ち上げて満足そうに笑えば。
今度は側に立つ男に、冷やかな視線を向ける。
「で? そろそろ説明してくれるんだよね。現状の事」
「……っは、それはもう。救世主様が望むのでありましたら」
「御託はいいから。それと……悠木」
悠木の視線に耐え兼ねてか、男は頭を下げた。そして少しでも悠木の機嫌が戻るように、と下手に出るのだけれども。然しそれは逆効果で。
棘を含んだ言葉で切り捨てるのだけれども。その後に、少しだけ迷った挙句、自分の名を口にする。
それは"救世主"と呼ばれる事に、強い嫌悪感を覚えていたからだ。様付けで呼ばれる事も、自分の感知しない肩書きで呼ばれる事も悠木には腹立たしくて、仕方がないのだろう。
けれど男はその悠木の意図を察する事が出来ず、小さく息を漏らしながら俯けていた顔を上げ、間抜け面を晒す。
思わず溜息を吐き出した悠木は、きっと悪くない。
「黒川悠木。それが僕の名前。救世主様って呼ばれるの、嫌なんだよね。かといって、あんたに名前呼ばれるのもアレだけど、まだマシかなって」
「おお、なんと救世主様が名を、名を! 私めなどに教えて下さるとは……っ! なんと光栄の極みっ!」
「……うるさい」
ぴしゃりと、一切の容赦なく言い放つ。多分男の耳には都合の良い事しか入ってないに違いない、と悠木は真面目に思わざるを得なかった。
「ところでクロカワユウキ様、とは。不思議な音に御座いますね。何方が姓で何方が名で御座いましょうか?」
一頻り悠木の事を放り出し、悠木から名を教えられた事を喜んだ男は、僅かに首を傾げながら悠木に問い掛ける。
如何やらやはり、男の耳には都合の良い事しか入ってないらしい。悠木は二度目になる、けれど一度目よりも大きな溜息を吐き出す。
隠すつもりは毛頭ないようだった。その必要がなかったからともいえる。何せ男には、どうせ聞こえぬのだろうから。
至極面倒臭そうな表情を浮かべて、如何答えたものかと一瞬思考を巡らせた。適当に好きなように解釈させておいてもいいのだが、然しそれでは後が面倒くさいことになるだろう。
そう判断すれば、心底渋々といった様子で口を開く。
「……黒川が姓で、悠木が名前」
「なるほど。ではユウキ様、とお呼びさせて頂きます」
「好きにすれば」
この世界では姓ではなく、名で呼ぶのが普通なのか。それともただ単に、この男が馴れ馴れしいだけなのか。推し量るだけの情報を持たぬ悠木は、男の好きなようにさせることにした。
特に名の呼ばれ方に拘りがあるわけではない、というのも大きいかもしれない。
再度手に持ったままであった茶器に、口を付ける。中身を一口、二口。半分ほど喉を潤わす為に飲み込めば、手にしていたそれを机の上にある皿の上に置く。
かちゃりと、部屋の中に音が響いた。
「今度は、そっちの番だよね。早く聞きたいんだけど」
如何やら悠木の沸点は低いらしい。苛々を隠すことなく声にのせている。ひんやりとしたものを覚えるその声色は、然し興奮冷めやらぬ男には効果が薄かった。
説明を求められた男は、嬉しそうに語り出す。
「勿論で御座いますとも! ええ、ええ。何からお話致しましょう。そうでございますね、先ずはこの世界の事からお話致します」
「いいよ別に。普通に日本の事なんて、知ってるから。授業で習う程度だけど。……あんた、テンション上がり過ぎじゃないの」
「いいえ、いいえ。ユウキ様。必要な事で御座います。何故なら此処はニホン、とやらではないからです」
「――…………、……は?」
告げられたそれに、怪訝そうに眉を顰める余裕も、表情を取り繕う暇もなく。ただただ、素っ頓狂なその声に合う、先程までの不機嫌の欠片もない、間抜け面を悠木は晒す事になる。
「ですから、此処はニホンでは御座いません。音楽を愛する神であるハトホル様が作られた、音楽に満ち溢れていた世界。我々、此処に住まうものは皆こう呼んでおります――ネヘト、と」
がつん、と。頭を殴られた気がした。まさかそんな、と思うと同時に、然し妙に納得する自分が悠木の中にいるのも確かで。
ただ如何してもそれは受け入れ難く、理解したくない。悠木の思考回路が、それらを拒絶する。男の戯言だ、と認識を弾く。
何か、何か――此処が現実であり日本である証拠が欲しい。と、悠木は視線を彷徨わせた。
侍女に黒いローブをすっぽりと頭から被った男、よく分からない絵画に彫刻。壺やアンティークの棚。
境界線が曖昧なそれらは、必要ない。欲しいのは確かな証拠だけ。ぎしり、と音を立ててソファから立ち上がる。何故かふと、窓の外を見ればいい気がしたのだ。
困惑している二人の人間など構う様子なく、厚手のカーテンが引かれた窓へと悠木は歩み寄る。
光を遮るかのように――然し光は確りと通す――引かれた布切れは、何処か不思議だ。けれどそんな事は気にした様子も見せず、カーテンを横に引っ張った。
広がるのは、何てことのない。普通の光景の筈だった。筈だったのに。
それは悠木の期待を容易く裏切る。
確かにこの邸についてるだろう庭は、許容の範囲内だ。そしてその先に見える、街並みも。
これが現実であっても、現代日本ではない――それどころかタイムスリップなども完全に否定してしまえる程。現代科学や過去のそれの技術など、とうに凌駕しているのか。科学では解明出来ぬ、現象が悠木の目の前に立ちはだかる。
薄く紫色に光る、水晶のような材質で出来ているだろう塔。それは見ようによってはパイプオルガンのようにも見えなくもない。
目幅でしか測れないが、それなりの距離――悠木がいるこの部屋から歩けば、ゆうに一時間は掛かる程度――にある。だというのに、圧巻の一言に尽きる大きさ。先端は天高くまで伸び、白い雲が掛かっていて見えなかった。
こんな状態でなければ、感嘆の声一つでも上げていただろう。然し、今は。悠木にとって、憎く、恨めしい対象でしかない。
ぎり、と僅かに音を立てながら奥歯を噛み締める。認めたくはなかったが、然しこれが現代日本などではないと。悠木が生まれ育ったそこから、遠く離れ、何処にあるのかさえも分からぬ土地だと。
そう、認める他なかったのである。
「……ユウキ様、」
控えめに黒いローブの男が呼び掛けた。然し反応はない。
憎々しげな瞳すらも向けられる事がなく、それが余計に男の不安を煽る。一体如何すれば良いのだと問い掛けたげに、悠木の後ろで侍女のシェラと二人、男は顔を見合わせた。
そんな事など露知らず。悠木は頭の中で情報を処理していく。速度は何時もの半分以下であったが、この環境下だ。流石に仕方がないだろう。
此処が異世界だと認めるのならば。最初の浮遊感、頭を打った理由。そして訳の分からぬ男が湧き出て、喚いている事。侍女や、調度品の事など。その他、全て不可思議な事に説明が付く。
分かっていた。最初から。けれどやはり悠木は、認めたくなかったのだ。だってそんな。非現実的な事がこの身に起こり得るなんて、ある筈がないのだから。
取り分け此処が、音楽を愛する神が作った世界であるのだというのならば。特に。
開くために握ったままになっていたカーテンを、くしゃりと握り締める。皺が寄るなどということは、心配の一つとしてしなかった。元の気質としてもあるだろうし、今はその余裕がないからというのも大きいだろう。
如何すれば自身が置かれた現状を、理解出来るのか。悠木は認める事を一旦諦め、考えた。そちらの方が余程有意義に思えたから。
導き出た答えは、時間が経てば解決するというそれだけ。何と役に立たない事か。
然し確かにそれは真理を言い得ているだろう。時間が経過すれば、否、或いは――と、そこまで考え悠木はて緩く被りを振った。認めたくないそれを突きつけられて、冷静さをかなり欠いている。頭に血が上った、と表現するのが一番正しいだろう。
息を吐き出して、吸って。数度深呼吸を繰り返し、頭の中をクリアにしていく。さすれば段々と頭に集まった血が全身に分散され、冷静さも取り戻す。
何事においても冷静である事が、重要だ。何よりも。そして悠木はそうある事が得意である、という自負がある。例えどんな状況下だろうと、認めたくない事があろうとも。
現に今、もう平素と変わらぬ装いと思考に戻り。悠木は手にしていたカーテンを手放した。
「……嗚呼、ごめんね。少し取り乱して。まさかこんな、自分に漫画や小説みたいな事が起こるなんて予想しなかったし、信じられなかったから」
「左様で御座いましたか。そのまんが? とやらが何かは分かりませんが、心中お察し致します」
どの口が、とかお前に分かるか、なんて。思っても決して口にはしなかった。幸い今回は、表情にも出なかったようである。
はあ、と内心で溜息を吐き出す。それを隠す為、取り繕うように笑みを浮かべようとして、失敗した。そもそも悠木の表情筋は余り仕事をしないのであったのを、すっかり失念していたともいえる。
思い出せば直ぐに引き攣った頬を元通りに戻す。そして、何事もなかったかのようにまたソファに腰を掛けるべく窓に背を向けた。
「それで。この世界――ネヘト、だっけ? ここに僕が呼ばれた理由は、なに」
元座っていた位置に、腰を下ろす。音を立てる事もなく悠木の体重に沿って、沈むソファ。やはり高いだけのことある。
居住まいを正せばこてりと、首を傾げる事もなく。前調子を取り戻した様子で、淡々とした口調で問い掛けた。