第十九話
息を吸う。いっそ苦しくなるくらいまで肺いっぱいに空気を取り込んで、ゆっくりと吐き出す。シヴァすらいなくなった今、悠木はたった一人だった。それはこの世界に訪れてから初めての事で、他でもない悠木自身が言い出した事であるというのに、妙な寂しさに襲われる。
一人には慣れていたつもりだったのだが、如何やら案外そうでもなかったようだ。ずっと一人だと思っていたのだが、存外元の世界にいた時から一人ではなかったらしい。今になって漸く気付き、なんだか自分が如何しようもなく馬鹿らしくなって自嘲を零す。此処には正真正銘誰もおらず、悠木一人きりであったから何も隠すことなどなかった。
結局視界が曇って、見えるものも見えていなかったのだろう。それに気付かせてくれたシヴァに感謝する。この世界に来てからずっと共にあって、そうして心配してくれる彼はとても稀有な存在のように思えた。出会えた事は僥倖と言っていい。きっとシヴァのような人間に出会えることなんて、人生に一度もなかったかもしれないのだから。
そう思えばこの世界に来たことにすごく意味があるように思えて、悠木は少しだけ救世主として働いてもいいかもしれないと思った。別にこの世界に対する思い入れは欠片もないが、シヴァの生まれた世界。これからもシヴァは此処で生きてくのだ。今までシヴァが与えてくれた分に見合うかはわからないが、恩を返すという意味では有りかもしれない。
勿論それは悠木の勝手な思いでしかない。けれども例えばそれ以外であったとしても、何かしら恩返しはしたいと思った。然しなんにせよその為には一刻も早く、己が問題を片付けなければならない。救世主を引き受けるというのであれば、それは尚更である。何せ悠木は神器であるラフィーネを弾くことが出来ぬのだから。
もう一度息を吸い込んだ。今度は少し浅めに。そうすることで、少しだけ落ち着いた気がした。もう十分時間は経っただろう。きっとセラもシヴァもラフィーネの外に出ているに違いない。違ったとしても、きっと音の届かぬ所へと入っている筈だ。であれば、問題と思って一歩、踏み出す。今はセラがいない為か形を保たぬラフィーネに触れる為に。
幸いその姿が見えている訳ではなかったので、思ったよりスムーズに前までは辿り着けた。後は弾けるかどうかである。考えるだけ息がしづらくなるので、あえて何も考えないようにしていた。
そっと手を伸ばす。以前とは違って、その存在を主張するかのようにある核は悠木の目にしっかりと映っている。ゆっくりとそれに触れて――何かが、流れ込んでくるような気がした。それが何であるかは一切分からなかったが、然し少しだけつんと鼻の奥が痛む。同時に目の前に現れた、鍵盤。見慣れた白と黒のそれに、どくり、と心臓が音を立てる。
一切の邪念は振り払っていても、少し前に感じた恐怖というのはすぐに消え去るものではない。しっかりと覚えている。それがじんわりと悠木の心を蝕んで、鍵盤に手を下ろすことができない。それどころか、やはり先程と同じように視野がだんだんと狭くなり、息が苦しくなった。
上手く呼吸ができない。きっと離れればこの息苦しさも収まって、何時も通りに戻れる。わかっていたが、決して悠木はそうはしなかった。今戻れば結局元の黙阿弥で、ここにまで来た意味がない。何の為にわざわざ人払いまでしたというのか。それにもし本当に、先程考えた通り救世主を引き受けるというのであれば、これは絶対的に越えねばならない壁。
だから悠木はなんとか息をしようと焦ることもなく、ただただ手をその鍵盤に下ろして、一音でもいい。弾くことに全力を注ぐ。きっとほんの少しでも一度弾いてしまえば、如何にかなると思ったからだ。けれどそれまでがどうにも難しかったけれど。
数分、いや、数十分だろうか。悠木には永遠に感じられる時間の末、遂に震えるその手を鍵盤に導くことが出来た。指どころか、身体全体が震えている。まるでそこに触れることを拒絶するかのように。さっきより息も随分と荒い。そのせいで脳に十分酸素が行き渡っていないのだろう。頭がくらくらした。
然しそのお陰で無音の部屋に、一つの音が響く。悠木の指が産み出した、音。ただの単音で、決して曲などとは言えないただの音であったし、偶然の産物であったが、けれど弾く事が出来たのも確か。
悠木の頭に血が回らず、不意にふらついてしまったが故に生まれた音である。そこに悠木自身の意図などは一切含まれていない。然し、それでも幾分か悠木の心が軽くなったのは事実だった。――嗚呼、なんだ音を鳴らすのはこんなにも簡単だったじゃないか、と。
一度そう認識すれば、不思議と如何にでもなるもので、あんなにも怖かった鍵盤を見る事もふれる事も、なんてことなく出来るようになった。荒かった呼吸は少しずつ落ち着いてくると同時に、視野も広くなる。震えも止まって、そうして漸くきちんとそれと向き合う事が出来た。
「…………まだ、弾けるかな」
優しく鍵盤を撫ぜる。いとおしそうに。少し前まで確かに愛していたのに、ひどく怖いものに見えたそれ。けれど今はいとおしさしかない。自分の指が本当に動くのか、以前のように弾けるのか。些か色々と気になるところはあれど、然し今はそんなこと全く関係なかった。ただただ、音を奏でることしか悠木の頭にはない。
近くにあった椅子を引き寄せる。そこに座って、深呼吸をした。先程のように恐怖を打ち払うためのものではなく、緊張を解す為のそれ。少しばかり楽になった気持ちを抱いて、悠木はそっと鍵盤に指を乗せた。――大丈夫。自分にそう、言い聞かせて。
実際最初の構えは何の問題もなかった。弾けなくなる前と同じように、出来ている。後は実際に弾いてみなければ分からない。ぐだぐだと悩むことなどなく、ただただ弾く為だけに神経を集中させる。少しして、悠木の指が音を奏で始めた。
最初は静かに。まるで触れたら壊れてしまうものに触れるかのように、そっと。しずかな前奏を続け、そうしてサビまで辿り着けば、一気に音を強くする。またしずかな曲調になって、少し激しいサビを繰り返して――悠木は、楽しくて仕方がなかった。故障してしまうまでのように完璧になんて弾けない――当たり前だ。なにせもう長いこと弾いてなかったのだから――ところどころ、音を間違えている。けれどそれでも、楽しくて、清々しくて、気持ち良かった。どうしようもなく。
そうして最後まで弾き終わった時。悠木の顔にはほんのわずかであったが、笑みが浮かんでいた。音も外したし、少しテンポがずれたり、指運びが上手くいかなかったところがそれなりにあったけれど。今の悠木には関係ない。ただただ、達成感と弾けたことの嬉しさ、楽しさに満ち溢れている。
――きっと足りなかったのはこれだ。この気持ちなんだ、と唐突に理解した。ずっと探していた悠木に決定的と言えるほど、欠落していた”足りないもの”。セラにはあって、悠木にはなかったのはきっとこの楽しむ気持ちに違いなかった。
悠木もかつては楽しんで弾いていないこともなかっただろう。初めてちゃんと弾けた時は、今のような気持ちだったはずだ。けれど上へ、上へと目指すたび、完璧さだけを追い求めるようになる。楽しさやその他なんて、二の次、三の次。それが決して悪いことではなかったし、当然完璧であって当然である。完璧でなくてはいけなかったが、然し楽しむ気持ちだってなくてはならなかったのだろう。
なんだか憑き物が落ちたような気分だった。弾きたかったピアノを弾けるようになった、ということもある。けれどれよりも、ずっと探し求めていた答えを漸く見つけれたことで、雲っていた視野が広がったような気がした。もちろんそれは、錯覚かもしれなかったけれど。
「ねえ、先生。あなたはどんな気持ちだったの」
それは、憎んで、憎んで、憎んで。どれだけ憎んでも憎み足りなかった、自分の師へ向けての言葉。ここから問い掛けたところで届く訳がない。現代日本に戻ったところでも一緒だ。
――なにせ彼の人はもう生きてはいないのだから。自責の念に駆られたのか。或いは、もしかしたら誰かに嵌められたのかもしれない。真相は師しか知りえなかった故に、もう二度と悠木がその真意を聞く事は出来はしないだろう。けれどきっと、師が遺書の通り、悠木に複雑な気持ちを抱いていたのは本当だ。賞を取ったと喜ぶ悠木に優しい言葉を投げかけながらも、その視線は嫉妬に満ち溢れていたのを良く覚えている。
とはいえ、それは人としてある意味当然の感情なのかもしれない。疑うべきは、そこではなく、遺書の通りその感情のまま悠木達が乗る車を事故に巻き込ませた、ということくらいか。以前の悠木は絶望に打ちひしがれて、目の前に見えるものしか信じなかった。明確な恨み先を求めていたからというのもあるに違いない。
けれど今は違う。すっかり晴れた今はもう恨む気持ちは少しも残っていなかった。もし遺書そのままであれば、確かに許されることではない。けれどいつまでも憎しみをその胸に抱いていたって、どうにもなりはしないのだ。復讐しようにも、もうその人は死んでしまっている。如何することもできないのだから。
であれば、これを気にいっそ何もかも許して、生まれ変わってみるのも悪くないと思った。何より師の気持ちは少しだけ理解出来たというのも大きかもしれない。悠木もセラに少しばかりの嫉妬を覚えたからだ。流石にどうこうしようとは思わなかったが。
ゆっくりと椅子から立ち上がった。大丈夫だったと、早いところシヴァに知らせなければならない。存外心配性なシヴァのことだ。何時までも悠木が降りなければ、ここにまで乗り込んでくる気がする。その様子を想像して、面白かったのだろう。悠木はくすりと笑った。残念なことに、口元はあまり動いているように感じなかったが。これは今まで無表情でいたツケだろうと思って、受け入れることにした。今すぐどうにかしようなどと思ってできるものではないからだ。
少しずつ前へ進めばいい。急いでも良いけれど、そうしないことで得るものも見えるものもある。
急いで足りないという焦燥感の元を埋めようとした昔があって、諦めてから初めて気付くことが出来た悠木だからきっとそう思えたのだろう。
なんだかこの世界にきて、とても良いこと尽くしだと思った。探していたものを見つけ、自分を心配してくれる他人がいる。それはとても幸福なことに思えた。一人それを享受するのは、憚られないといえば嘘になる。両親を、師を踏み台にして、生きている悠木が幸せになる資格があるのかと問われたら、素直に是とは言えない。けれど今更その他人も答えも、手放す気にはなれなかった。だったら。
「……幸せを。世界は違うけれど、僕が出来ることをするべきだ」
――たくさんの人を幸せにすれば良い。両親を、師を幸せにできなかった代償として。自分が感じた幸せを、みんなに分け与える。一人一人の幸せは違うけれど、きっとこの世界が平和で満ち溢れて、今後何かに怯える必要がなくなれば、きっとそれは少しとはいえ幸せだろうと思った。その為に悠木が出来ることと言えば、彼らに呼ばれる”救世主”となることだろう。
その名を示すような、立派な何かにはなれないし、行い自体だってそうだ。結局そうするのは悠木のエゴでしかないし、やることと言えば魔獣と戦ったり、人々を導くことではない。ただ神器と呼ばれるそれを弾き奏でるだけである。それでも、悠木がこの世界に喚ばれたのはその為。であればやる価値はきっと十分に違いない。
悠木は決意を新たに奏者の席を後にして、長たらしい階段を下り始める。不思議と一度目に感じた苦痛は感じなかった。
「……シヴァ様。落ち着いたら如何ですか? いい加減せわしなくて、少し目障りです」
「分かってます。分かってますけど……って意外と辛辣な言葉使いますね」
「ずっと隣でそわそわして、ぶつぶつ言っている人がいればどのような人物でも、きっとこういいます」
「左様で……いや分かってはいるんですけどね。心配なんですよ。やっぱり」
悠木が願った通り、シヴァはセラとともにラフィーネの外へと出て二人で待っていた、悠木が降りてくる事を。或いは、音が響く事を待っていたのかもしれない。けれどセラはおろか、シヴァすらすれは難しいと思っていた。二人とも悠木がピアノを前に震えていたのをみていたから。
時間が解決するとも思っていなかったが、しかし言葉にした通りシヴァは一日で如何にかなるものではないと思っていたからだろう。今まで――たった数日の付き合いだが――を見てきたというのも大きいかもしれない。ただ、万が一如何にかなるのであれば、きっとそれは相当な覚悟があっての上に違いなかった。
何方にせよ何もなく無事に終わる事。それさえ叶えば、シヴァは構わなかった。離れてからずっと、死んだ魚の目をしていたあの日の悠木が脳裏にちらついて、落ち着かない。そのせいでじっとしていられなければセラに真顔で、そしてしずかに怒られる。
結局のところ、それでも落ち着かなくてセラに呆れた視線を投げられた。しかしそんなものは少しも痛くない。悠木で慣れたからだろう。嫌な慣れだなと思ったが、不思議と悪くはなかった。悠木のそれは一種の親愛の証じゃないかと考えていたからかもしれない。
一体どれほどの時間が経っただろうか。いい加減心配になりすぎて気でも狂いそうになって、いっそ中へと乗り込もうとシヴァが考え始めたその時。ラフィーネから音が響く。
澄んだ音だった。優しくて、楽しげで、透明感のある、空の硝子コップを叩いた時に出るような音。すっと心の中に染み込んできて、溶ける。頭の先から足の指先まで、幸福感に満ち溢れるような気分だった。
その場にいるシヴァは勿論、衛兵も、そうしてセラですら音に聴き惚れている。誰もが音が鳴り止むまで耳を傾けた。曲が終われば、皆名残惜しそうな顔をする。もっと聞きたいと言わんげであったが、しかしそれ以来ぴったりと音が漏れる事はない。
「……ユウキ、」
間違いなく、今の演奏者であるその人の名をシヴァは無意識のうちに口にした。それは皆のように名残惜しそうな様子も見えたが、最も多く含まれていたのは、感動。シヴァの考えなど遥かに凌駕して、乗り越えた事もそうだが、なによりこれ程までの音を生み出せる事に純粋な気持ちで感動したのだ。言葉では言い表せないくらいに。
走って迎えに行くのもいいかもしれない。今ならあの苦痛でしかない長たらしい階段も、きっと何の苦にもならないだろう。けれど何故か動く気にならなかった。今走っていけば、全てが無駄になる気がしたのだ。ぐっと衝動を抑えて、悠木が降りてくるのを待つ。誰もがあの演奏の素晴らしさに、口を開く事もなく奏者を出迎えるため、一様に入り口に視線を向けていた。