第十七話
「……ごめん」
ラフィーネ内部の階段を先に降りるシヴァの背に向けて、悠木は小さく零す。騒がしいところであれば聞こえなかっただろう程度の音量であるその声は、しかしこの静かな場所では確りとシヴァの耳に届いていた。足を止めてシヴァは悠木の方に視線を向ける。
「いや、今回は俺が悪かった。普通に俺と接してくれるユウキをみて、大丈夫だって安易に判断したのは俺だ。だから、俺が悪い」
「意味わかんないんだけどそれ。どういう理屈なの」
「そういう理屈だ」
「……やっぱり君ってちょっと頭おかしいんじゃない」
至極真顔で言い切ったシヴァにユウキは思わず、怪訝そうに眉間に皺を寄せた。そうしてこの世界に来てから、何度目かになる発言を零せば同時に呆れたと言わんばかりに、わざとらしく盛大に息を吐き出す。このまま何度やりとししても、きっと押し問答になるだけで時間の無駄になるだろう。そう判断すれば悠木はそれ以上何も言うことはなく、止めていた足を動かし始める。
けれどシヴァのおかげで取り乱さずにいることができ、かつ少しばかりとはいえ早くも平常心を取り戻しているのは事実。感謝していないでもないが、どうにも口に出してそれを言うことは、憚られた。
行きより少しだけ時間が短縮されたような気になりながら、降り終えれば外に出て息を吸う。胸いっぱいに吸い込んだそれは、お世辞にも綺麗だとは思えなかった。無論排気ガスなどが蔓延する、現代よりは随分とマシな筈だ。なんといっても、この世界にはそういった空気を汚す類のものは、今の所見当たらないのだから。然し、代わりに音獣が存在する。それ自体は大した脅威ではないが、音を食い神の恩恵を受けられなくするその存在は、間接的に空気汚染にも関与しているのだろうと思わされた――正しい解釈であるかどうかは定かではなかったが――
衛兵への話はシヴァに任せ、悠木はひっそりとその後ろに立って待つ。少しもしないうちに威圧感のあるその扉が開かれたのならば、シヴァに続いて街中へと出た。あそこに入る前と何も変わらないそこ。少しは心境的に、色彩でも変わって見えるかと思ったが一切そんなことはなかった。いっそのこと、笑ってしまいたくなる。
「……つーか付いてこないんだな。てっきり尾行でもして、見張られるもんだと思ってたんだけど」
「なに、わかるの? そういうの」
「まあなー。これでも気配には敏感な方なの。俺。……まあ、人通りがあんまりないから付けることに意味がないって思ったんだろうな、大方」
確かにシヴァの言う通り、悠木達と同じようにこの通りを歩く人は程んどいなかった。というよりも、今現在時点でいえばゼロというべきだろう。此処を通った先ほどからは一時間程経っている筈だ。正確な時間は分からないが、太陽もそこそこに登っていることから、もう少し活発さがあっても良い。この場が住宅街っぽいということを合わせても、いささか不自然さが際立つ。
「……そういえば、どうしてこんなに人がいないの」
「正直これは俺の憶測でしかないけど。――多分、この辺りの奴は貴族だから。詳しい内情を知ってて、なるべく屋内に引きこもってたいんじゃないかって思ってる」
「……? 屋外にいると何かあるの?」
「今回もそうとは限らない、が……昔、音獣に音を食われすぎて、恵みが世界に行き届かず空気が汚染されたって文献が残ってる。流行病に伝染病、色々蔓延して、一気に人が死に絶えたらしい」
「ふうん……でもそれって、室内にいてもあんまり変わらないと思うんだけどね。結局、空気を吸ってる限り」
「その通りなんだけど。まっ、気休め程度にはなるんだろうな」
少しだけ肩を竦めて見せながら、シヴァはそう言葉を紡いだ。そもそも悠木にはいささかこの世界の原理か理解出来なかった。音獣、と呼ばれるそれが音を食べたからといって恵みが失われるという、その理由が。現代日本においても歴史を見れば、それに準ずる何かを学ぶことはある。けれど結局それが正しい訳ではない。だって、今の日本はそうでない状態で成り立っているのだから。
結局ようは人の思い込みなのだろうと思った。そうあらねばならない、と思っているからそうなるのだろう、と。そう思えばきっと悠木にもこの原理は当て嵌まるのかもしれない。例えば――そう、この手が傷付いてしまった原因とか、先ほど弾けなかった、ことであるとか。否、悠木自身は分かっていた。前者は分からなかったが、少なくとも後者は。
弾きたいと思っていても、その心はそうは願っていなかった。弾いてしまえば苦しんだ自分をなかったことにしてしまう、なんて生易しいものではない。”弾けないこと”が怖かった。両親が健在して、この手が思うように動いていたその時のように、弾けないことが。不協和音しか生み出さないかもしれないという、それが悠木の心を蝕んでいたのだろう。
過去の栄光に縋っているといえば、きっとそうに違いなかった。だってなによりもあの頃はとても楽しかったのだから。両親がいて、敬愛する師がいて。弾けば誰もが褒めてくれる。上手だ、素晴らしい、天才だと褒め称えた。それがどうだ、弾けなくなった悠木には誰もが哀れんだ視線しか向けない。ピアノに触れば、醜い音だと罵られる。縋らずにはいられなかったのだ。
「……それで、どうする? このまま屋敷に帰るか、それともちょっと気分転換にでも散策するか。何するにしてもユウキの自由だぜ」
「別になんでもいいんだけど……君は、どうしたいの?」
「俺? 俺かァ……いや、これといってやりたいことはねーんだよな。あえて言うなら、市場の方とか見て回ってみたいなって思ってるけど」
「……買い食い?」
「そうそう……って別にそれだけじゃねーからな!」
「はいはい。君が食い意地張ってるのなんて、今更でしょ」
「っかー! なんかその俺分かってますよっていう言い方すげー腹立つ! 別に食い意地はってるんじゃねっつうの!」
「どっちでもいいよ、僕には関係ないことだし」
「冷たい。知ってたけど冷たい! 絶対零度だよユウキ! やめよう太陽昇ってるのにすごく寒くなるから!」
横で喚くシヴァを適当にあしらいつつ、視線を彷徨わせる。何かを探していたようだったが、しかしそれでは見つけられなかったらしい。少し迷った様子を見せつつ、口を開く。
「……ねえ」
「ん? なんだよ」
「市場の方って、どっちなの」
ばつが悪そうな顔をしながら、問いかける悠木にシヴァはあんぐりと口を開いて悠木をまじまじと見つめている。居心地が悪いと感じながらも悠木は、今ほどらしくないことをいった自覚があったようで。慌てて「少しお腹すいたんだよね」なんて付け加えた。然しそれはまったく効果を持たず、次第にシヴァの目はキラキラしたものへと変化していく。
失敗した、と思った。頭を抱え、溜息を吐き出したい気持ちはすごくあったが、誰がなんと言おうと自分が撒いた種である。であったからぐっとそれらを押し殺し、代わりにはやくと言わんばかりに催促の視線をシヴァに投げつけた。
「えっとな、確かこっちの方なんだよ!」
もう誰が何処から見てもシヴァは浮かれている。間違いなく。嬉しそうにその顔を緩め、かつ弾ませた声では否定の言葉が飛び出てきたとしても、信用する人などいないだろう。終始無表情で、感情を表したとしても喜怒哀楽の怒や呆れた様子程度の悠木とは、大違いだ。だからといって、別段シヴァが羨ましいとは思わなかったが。
少し前と同じように悠木の手を引いて、先導するように歩くシヴァに付き従う。握られた手に意味があるのか、かなり疑問であったが好きなようにさせておくに限るだろう。それほど不愉快感もないが故にそう思えば、気にしないようにして歩を進める。
暫くして、少しずつ通りに活気が出てきた。どうやら貴族たちの住まう住宅街は抜けたらしい。その証拠に並ぶ建物があの住宅街にあるものより、随分と小さくなっている。もちろんそれでもまだ十分な大きさを持っていたが、やはり比べると小ささが目立った。
そこから更に足を伸ばせば、徐々に騒がしくなる。同時にちらほらと道端に布を貼った簡易の店が立ち並ぶ。しかしこの辺りに並ぶ店は何処かしら怪しさが漂っているように見えた。小さく首を傾げながら、前を歩くシヴァに問い掛ける。
「ああ、この辺りは多分……呪いを売ってるんだ。もちろん実際効果なんてないけどな」
「呪い?」
「そう、呪い。例えば空気を浄化するとか、食物を良くするとか、そういうやつ」
「ふうん……売れるんだ。そういうのって。それにしても、自分で聞いておいてなんだけど。引きこもってたっていう割には、いろいろと詳しいんだね」
「……まあ、一応な。これでもいろいろと勉強したから。というか、させられた、の方が正しいんだけど」
悠木の疑問に苦虫を噛み潰したような顔でいう。小さく最後に付け足されたそれは、騒がしさから聞こえないかと思われたが、残念なことに確りと悠木の耳に届いていた。何かしら複雑な事情があるのだろう。シヴァに気を使ってなどではなく、別段悠木自身が気にならなかったが故に聞き返したりほじくり返したりすることもなく、そっけない返事一つでその話は流した。
代わりに近くにあった店をそっと覗き込む。確かに呪いという割には付けられた値は安いように思われた。とはいえ、悠木はこの世界の通貨を知らない。普通の人がどれだけの収入を経て、一ヶ月生活するのにどれだけを必要とするのかも。
実際単位は円ではなく、銅貨、と書かれていた。――二十五銅貨。それが呪いを買うのに必要な値段。
然し銅といえば悠木のような現代人の認識は、大会などでよく使われる金銀銅、という序列最下位というもの。もしそれが逆でもない限り、二十五という数字と合わせて、経済を知らない悠木でもその効果は一切期待できそうにもないと思った。
「……そういえば、今気になったんだけど。この世界の標準語ってなに」
それは唐突な質問。けれど気になったものは仕方がない。今の今までなんの疑問も持たず、シヴァたちと会話していたが此処は異世界である。すっかり忘れそうになっていたが、今しがた通貨の違いを見せつけられて、よぎったのだ。――何故言葉が通じているのかと。あるいは文字が読めた事に対する疑問かもしれなかったけれど。
突然の質問にシヴァは目を瞬かせて、それから何か思い当たる事があったのだろう。ああ、と言葉を漏らす。
「標準語っていうか、俺らが使う言葉はこの世界だったら全部一緒だ。ユウキと俺らがこうして話したり出来るのは、救世主の恩恵って言われてる。ラフィーネを介して救世主を呼ぶから、一部力の譲渡……っていうのが正しいのかわからないけど、まあそれらしいのがあって……。まあ、簡単にいえば、今ユウキの中に神の一部が宿ってるから、なんでも融通が効くって事」
「はあ……なにそのご都合主義的な、あれ」
「って俺に言われてもなー。俺だって文献読んだだけだから。それが本当に正しいのかも知らないし」
「まあ、分かったよ。つまり異世界に来た特典的な認識でいればいいって事でしょ。僕に不都合な事って訳でもないし細かい事は気にしなくていいや」
「……なあ、ユウキなんか諦め癖みたいなのついてない? それもともとか?」
「そう。元々」
話しながら歩いていれば、左右一列にずらっと店が並ぶ通りに出た。先ほどの簡易なものではいとはいえ、立派とはお世辞にもいえなかったが、しかししっかりとした骨組みに丈夫そうな布などで覆ったそれらが並ぶ光景は、確かに市場というにふさわしい。
ところどころからいい匂いが漂ってくる。匂いにつられて悠木はぐう、と自分のお腹がなったような気がした。
「おー……結構いっぱいあんな。どうする?」
「どうするって言われても……ねえ。どうするの?」
「聞き返すなよ俺がきいてんだって! じゃあとりあえず適当に見ていくか? 気になったのがあれば都度立ち止まってみる、って感じで」
「ん、そうしよう……でも、ところで君お金持ってるの? 僕持ってないよ」
「知ってるっつーの、そんなこと。まあそれなりに持ってるから心配すんな」
「そう……じゃあ、任せたから」
それなりに人通りがある。決して大混雑とまでは行かないが、通りも元々がそんなに広くないせいか、賑わっているように見えた。適当に話し合って、方針を決めれば人混みの中に混じる。混雑の中で逸れないようにかより一層力を込められた手に、外の熱気のせいもあってじんわりと汗が滲む。
しかしその手の感覚が何時もより鮮明で、ひきつるような痛みも感じなかった。
嗚呼本当にこの手は治ったんだ、とじわり、じわりと心の中を侵食していき、すとんと落ちる。感慨に浸ることも、感傷を感じることもない。驚く程にその心が波風を立てることもなく、ただあるがままの事実を、他人事のように受け止めたかのように。
※この作品はBLではありません。
いい加減ちょっとタグ付けた方が良い気がしてきた今日この頃。