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第十六話

 幾ら自分で言うと決めた所で、微塵も楽しい話ではない。それになるべく思い出したくない話だ。手短に、色々と搔い摘んで、伝える。

 悠木の両手では現在ラフィ―ネを演奏出来ない事、セラが癒しを得意としていると聞いたので訪れたという事。言葉にしたのはたったそれだけであったが、それでもセラには十分だったらしい。「まあ、そうでしたの」と少しだけ驚いた様子を見せたが、深く聞いてこようとはしなかった。それはとても悠木には有り難かったが、然し傍目からはセラがあまり意思をもたない、という風にも取れることだろう。とはいっても、今はそれを気にしても仕方がなかった。何せセラの持つ背景など一切知り得なかったし、何よりも出逢ったばかり。そんな悠木やシヴァに如何にか出来る訳がないのだから。

 元より如何にかしようという気概がない悠木は兎も角、シヴァは少し歯痒そうにしている風に見えた。けれど何も言わないという事は、きっと悠木と同じ事を思っているに違いない。


「それで、お願いしても大丈夫ですか? ……その、演奏を」


 やはりいきなり頼むのは流石の悠木も気が引けたのか、少し気まずそうにそう口にする。然しセラは一切気にした様子もなく、分かりましたといわんばかりに頷いてみせた。そうして、シヴァと悠木の二人を、先程セラが歩いてきた道へと誘う。もうこの頃には悠木の足の震えも治まり、幾分かは体力を取り戻していた。

 導かれるまま、二人はセラの後を進む。そこは思っていたよりも広く作られていて、平均身長の大人が二人縦に並んだくらいの高さがあり、横幅はその半分といったところで、楕円形のような形だった。その廊下を歩いて少しもしないうちに、開けたところに出る。とはいっても、先程までいたところの三分の一くらいの広さといったところだろう。

 部屋の中は奏者の席というにはあまりにも生活感にあふれていた。隅の方に寄せられてはいたが、寝具に机、椅子、少量の着替えに小さめの本棚にぎっしり詰まった本。此処でセラが住んでいるということが、ありありと伝わってくる。妙に居心地が悪かった。他人の生活空間を覗いたという感覚があるのかもしれない。

 所在無さげに視線を彷徨わせるシヴァと悠木にセラが気が付くと、わずかに首を傾げて不思議そうにしていたが、思い当たったようだ。それでも恥ずかしさも申し訳なさも匂わせることなく、相変わらずの笑顔を浮かべて。


「申し訳ありません。元々此処まで誰も来ませんでしたし、突然のことでしたから片付けることが出来なくて。お見苦しいかと思いますが、気にせずいてくださると嬉しいです」


 気を使っている二人が拍子抜けしてしまうほど、あっさりとした言い草に驚くが、頷くほかない。二人揃って首を縦に振ったが、しかし完全に気にしないというのも無理がある。

 実際セラはいそいそと演奏の準備をしながら、二人には椅子で座って待っていて欲しいと言った。それはつまりセラの生活空間に足を踏み入れることに他ならず、嫌でも意識してしまうというもの。幸いだったのは、セラ一人しかいないからといって椅子が一脚だけではなかった、ということだ。ギリギリ二脚あったことで、どちらかがベッドの上に座るという、選択肢を強いられずに済んだのである。

 なんとも言えない、微妙な表情を浮かべた二人が薦めたれた椅子に座り、少しして。用意ができたのだろうセラが二人の方に向き直った。


「……今までこうして、近くで人に聞いて頂いたことがありませんので、なんとも言えないのですけれど。お二人のお耳汚しにならないよう、全力を尽くさせて頂きます」

「いえ、そんなに気を使わなくていいですよ、いつも通りで大丈夫なので」

「そうはいきません。せっかくこんな機会に恵まれたのですから」


 無駄に張り切っているセラに悠木は少したじろぐ。どうしよう、と言いたげにシヴァに視線を向けたが、好きにさせとけとその目で言われた、気がした。当てにならないとじっとり睨みつけたかったが、実際今のセラは取り付く島もない。それになにより、この好意を無下にする必要性は皆無と言える。であれば好きにさせておくのが一番かという、結局悠木もシヴァと同じ結論に到達すれば、小さな声で「じゃあお願いします」というに留めた。

 悠木の言葉を受けて、心得たと言わんばかりに頷いたセラは二人に背を向ける。そうしてそっと手を伸ばし、こわれものに触れるかのように入り口から向かって正面の壁に触れて――それは、姿を表す。否、姿を変えたと評する方が正しいのかもしれない。

 セラの触れている少し下の壁から突出してきた”何か”に悠木はとても見覚えがあった。見覚えしかなかった。

 愛して、あいして、あいしてやまないピアノの鍵盤。支える部分はラフィーネの色と同じ透けるような薄紫であったが、鍵盤部分は見慣れた白と黒で彩られている。

 ぐっと息が詰まったような、気がした。何の因果か今の悠木を作った全ての原因であり、元凶であるそれが癒すかもしれないというのだから。とても皮肉なものだと思う。同時に今からそれの音を聞かねばならぬと思えば、冷え冷えとする。弾けない自分に、弾ける彼女。全く何も思わないでいる方が悠木には難しかった。

 壁に添えていた手をそのままゆるやかに下ろして、鍵盤に置く。だらんとぶらさげていた手も、添えて。そうして一呼吸してからセラは弾き始めた。やわらかく、やさしく、どこまでも心に染み込んでくるような、そんな風に。

 正直悠木からしてみれば、とてつもなく拙い弾き方だった。何年も弾いていない自分がいま弾けたとすれば、それでも間違いなく自分の方が上手いと思えるほどに。けれどセラの演奏には悠木にはない、”なにか”があった。人を惹きつけるか、あるいは癒すような、何かが。

 どうしようもなくそれが悠木の心にぎちり、と不協和音を生む。確かに悠木は師に疎まれるほどの技術を持っていた。けれどそこには何かが足りないと、いつも感じていたのだ。勿論それはきっと悠木しか感じていなかったことであったし、そんな状態でも賞を取り続けていたというのが実際のところなのだけれども。

 しかし、それは国内に限っての話。世界に出て、羽ばたくには。確実に一つ欠落していたのだ。最も大切な部分が。

 セラの弾く音を聞き、身体が、手が、指が、心が。軽くなることを感じながら。一人で悠木は思考していた。一体何が違うのかと。然しいくら考えたところでセラとの間にある、違いが分からない。思考を巡らせて、頭が湧いてしまうかと思うほどに考えても答えは導き出せなかった。

 しばらくして、音が止む。ゆっくりと余韻を残すように引いていったことから、演奏は終わったのだろう。セラはその身を反転させて、二人の方に向き直れば一度礼をする。そうして、まじまじと様子を伺うかの如く、二人に視線を向けた。感心せんばかりの視線をセラに向けているシヴァに、どこか険しい顔をした悠木。対照的な二人にセラは目を瞬かせる。


「……あの、ユウキ様」


 もしかして効かなかったのか、とでも思ったのだろう。実際悠木が頼んだのは”癒してくれる事”であったし、険しい顔をしていればそう思われても仕方がない。何処か不安げな様子を見せて問い掛けてくるセラに、頭の中の考えを放置して、違うと言わんばかりに悠木は首を左右に振った。


「大丈夫ですよ。多分、効きましたから。どの程度かは、分かりませんが。結構、思うように動くようになりました、ので」


 ね? とほんの少しだけ首を横に傾け、スムーズにグーパーを繰り返す事が出来る、その手を見せる。そうすればシヴァもセラも安心した様子を見せ、じゃあ、とシヴァが切り出す。


「……一度、試してみたらどうだ? その、あれの形状はユウキのと同じだろ?」


 気を使うかのように悠木の耳に口を寄せながら、シヴァはいう。けれど何故態々セラに聞こえぬように、と配慮したのか悠木には分からなかった。然し悩んでいても致し方がない。時間の無駄というものだ。であればその気遣いを有り難く思いつつ、同じように声を潜める。


「でもさ、あれ触ったら権利みたいなの、移るんでしょ。僕に。まだやるとも決めてないのに、下手に触る事は出来れば避けたいんだけど」

「分かるんだけど、確認しとかなきゃダメだろ、やっぱり。最悪ユウキが触った後でも形状は変わらないんだし、セラが演奏する事は出来る筈だから、なんとかなるって」

「……なにその、すごく無責任な感じ」


 思わず呆れたような声色が出てしまったのは致し方がない。シヴァの読みの甘さと適当さがここまでとは、と言わんばかりに少し睨みつけるような視線を向けながら、けれどもし本当にそうであるならば強く拒絶する理由はなかった。それになりより、悠木自身本当に良くなったのか――それが以前のように音を奏でられるまで――気になっていたのだから。

 しかし、同時に怖かった。未だに悠木のその心は葛藤に蝕まれている。先ほどセラの演奏を聞いたが為に歪んだ歯車も合わさって、それは以前よりも肥大化したといってもいい。

 結局悠木は逡巡した後、シヴァの言葉に従う事にした。勿論それには現在代理であるとはいえ、奏者であるセラの許可を取らねばならない。その事がひどく悠木を憂鬱な気分にさせたが、幸いな事に顔に出る事はなかった。こんなときばかり仕事をしない表情筋には感謝する。立ち上がる事なく椅子に座ったまま、控えめにあの、とセラに向かって悠木は声を掛けた。


「どの程度良くなったのか。試させて貰っても構いませんか」

「勿論です。それにわたしはあくまで代理にしか過ぎませんから。ユウキさまのお好きなときにお触りになってください。わざわざわたしの意見など聞かなくて良いのです」

「……そう、ですか。ありがとうございます」


 悩む間もなく是という答えを導き出し、あまつさえ付け加えられた言葉に、とても複雑な感情を抱く。言い出しっぺは間違いなく悠木だったので今更嫌だとは言えなかったが、なんだか遠慮したい気分に襲われた。湧いて出た憂鬱な気持ちを押し隠し、のろのろと椅子から立ち上がって遅い歩調歩き出す。

 セラが譲るように傍に避けたそれの前に進んでいけば、一歩、また一歩と近付く度にどくり、どくりと心臓の音が響く。終いにそれの前に立てば、口から飛び出さんばかりに動悸が激しくなった。息苦しい。はっはっと犬のような呼吸を悠木は繰り返す。呼吸が上手く出来ないせいか、はたまた他の要因があるのか。視野も狭くなり、薄らぼんやりとしてきた。

 様子が可笑しくなっていく悠木に気付いたシヴァは少し慌てたように、名を呼ぶ。けれどそれは悠木の耳には届いておらず、返事が返ってくる事はない。反射的に不味いと思ったのだろう。急いで椅子から立ち上がれば、一直線に悠木の元に駆け寄りその肩を掴んでシヴァは自分の方に悠木を振り向かせた。顔色を伺うようにして、覗き込む。


「……ユウキ、ユウキ?」


 その目は虚ろで何も捉えていない。何時ぞやの一件を沸騰とさせるその目に、シヴァの背筋にはぞわりと悪寒が駆け上った。軽く肩を揺さぶり、何度も名を呼ぶ。戻って来いと言わんばかりに。シヴァのその願いが通じたのか、次第に悠木はその目に生気を取り戻していく。けれど何かに怯えたような、そんな目をしていた。


「……、…………ねえ。どうしよう、…………弾けない、んだ」


 震えた声。切実さが篭るその声は、愕然としている悠木の今の心境を痛いほどにシヴァに伝えてくる。

 何も言えなかった。否、正確には掛ける言葉をシヴァは持っていなかった。無責任に大丈夫とも言えないし、なんとかなるだなんて口が裂けても言えない。弾けないその原因が分からぬ限り、シヴァには如何することも出来ないだろう。

 だから考えてみた。悠木が弾けないというその原因を。

 先程の様子から見て、元弾けなくなった原因の怪我が関係しているとは思えなかった。少なくとも鍵盤にその指を乗せた様子はなかったし、そもそもラフィーネの前に立っていた、とは言っても随分距離がある。手を伸ばせば届く範囲であったとはいえ、腕が動いた様子すら見せなかったのだ。つまるところ、弾けない要因というのはそれ以外だろう。

 であれば何か。簡単な話だ。――心理的要因。以前セルヴァンが背中を押したせいで、危うく一大事になりかけたあの時と全く同じ目をしていることからも、それは割合信憑性が高い推測だった。

 なんてことない、平気そうな顔をして。けれどやはり何かしら踏みきれない何かが、悠木の中にあるのだろう。たわいもない話はすれど、そういった核心に触れる部分には触らずに来たが故、詳しい原因は分からない。けれど此処で無理強いさせるべきではないとシヴァは判断すればそっと悠木に話し掛ける。


「分かった。とりあえず、今日は一旦引き上げよう。ちょっと、落ち着く時間がやっぱり必要だったんだ」

「…………おかえりになるのですか?」


 肩を抱きながら、そっとその手を引いてこの場を後にしようとして。けれどセラの何処か棘を含むような声を聞き、シヴァは悠木から視線を逸らしてセラに向けた。


「ええ、まあ。今彼に必要なのは、時間のようですから」

「時間は、無限ではなのですよ」

「知っていますよ。……しかし、一日やそこらじゃ、変わらないでしょう」


 何か言いたげな顔をしていたセラであったが、これ以上言うべきことはシヴァにはない。今日は突然押し掛けてしまったこと。演奏への感謝の言葉。それらを簡素ながら述べれば悠木の手を引いて、シヴァは歩き出した。セラのじっとりとした含むもののある、その視線を背に受けながら。

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