第十五話
幸いな事にシヴァの呟きは男の耳には届いていなかった。それがシヴァにとって幸いだと悠木が感じたのは、怒りに染まりながらもそれを抑えているから。何故そこまでして、と思わなくもなかったがきっと何かしらあるのだろう。悠木には分からない、何かが。
見ているだけでも分かる、少し複雑そうな関係性にそう判断すれば無闇に首を突っ込まないことにした。下手に悠木が口を出して、ややこしくなっては面倒だからと考えたのもあるだろう。何にせよシヴァや悠木の様子を気にかける事なく、衛兵に扉を開けさせ、中へと誘う男にそのままついていく。今はそれが一番最善であると判断したからだ。シヴァも同じだったようで、けれど憎々しげな視線は変わらないまま悠木の隣を歩いている。
以前教えられたシヴァから通り、誰でもラフィーネの中に入る事が出来るらしい。というよりも、それは開かれていた。
扉らしい扉はなく、ぽっかりと空いた空洞が入口となって奥深くへと続いている。中に構造はそれ程複雑ではなく、入口からある程度中が見渡せた。螺旋階段のようなそれが上に伸びていて、それ以外取り分け特記するべき点は見当たらない。きっとあれを上って行けば、奏者の室に辿り着くのではないかと悠木は推測する。
実際それは当たっていたようで、先頭を進む男は螺旋階段を上り始めていた。悠木もシヴァもそれに倣って階段を上ろうとしたのだが、一瞬上を見上げて何方ともなく溜息を吐き出す。理由は簡単だ。螺旋階段の上が随分と遠く見えたから。少し気が遠くなったのだろう。
けれど上らない、という選択肢は用意されていない。でなければ態々男に此処まで案内させた意味がなくなってしまう。お互い顔を見合わせて、二人ともが仕方がないと言わんばかりの表情を貼り付け、螺旋階段を上り始めた。
何れ程時間が経っただろうか。優に十分は過ぎた気がする。元々体力がない悠木がそろそろ息が切れ始めた頃。それでも男は兎も角、シヴァでさえ息切れ一つすることなく、階段を上っていた。何だか妙に裏切られた気分になって、少し先を上るようになったシヴァを後ろからじとりと睨め付ける。意味がないとは分かっていても、やらずにはいられなかったというところか。
それから更に十分後。漸く辿り着いたときには、もう悠木は息も絶え絶えになっていた。下を見下ろせば、高所恐怖症であったら悲鳴を上げてしまいそうな程地面が遠い。というより、ほぼ一色である為に全く見分けが付かず、地面が何処にあるか分からないといった方が正しいだろう。もしうっかり下に落ちてしまえば、吸い込まれてしまいそうな――そこまで考えれば、ゆるく首を左右に振って考えを追い出す。
「この少し奥に、いるはずです」
「分かりました。有り難う御座います」
「では、私はこれにて先に失礼致します。お戻りの際は、衛兵に声を掛けた後屋敷の方までお願いします」
奏者の元まで完全に案内して貰えるものだと思っていたが、如何やら違うらしい。ただ純粋に渋っている風には見えず、この先の案内は不要と判断したのだろう。何にしてもこれから悠木たちが奏者に会いに行く、という事実には変わりない。だから気にした様子もなく、普通にシヴァが礼を伝ると降りて行く男を見送った。案内だけであの階段を往復するなど、少なくとも悠木は絶対にしたくない。そういう点では僅かではあったが、男を凄いと思える。
「……すっげー遠いんだけど。ナニコレ。俺核の奏者で良かったって今心底思ってる」
男が降りてから暫くすれば、シヴァがぽつりと漏らす。まるで男が去って行くまで待っていたようにみえるだろうが、そうではない。悠木がその場から動けなかっただけである。シヴァはただ、そんな悠木に付き合い待っているだけ。今の悠木はといえば立っているのがやっとで、生まれたての子鹿のように足が震えているのだ。如何頑張っても動けるようになるまで、もう暫く掛かるだろう。
いっそ座れば良いのかもしれないが、それはそれで膝が言う事を聞かず、上手くいかない。日頃の運動不足を呪った瞬間である。とはいえ、とりわけこれから運動に取り組もう、などと思ったりはしなかったが。然しこの先支柱が全て同じだというのであれば、悠木は一度は引き受けるか検討する気でいた、救世主、というその立場をかなぐり捨てて、拒否してやろうかと思った。至極真面目に。
「あれでしょ、君僕の随行なんだから。僕が救世主になった場合、全部についてこなくちゃならないんだからね」
「……ごめんそれだけは本当勘弁して。こんなの一度っきりで良いわ」
「僕もなんだけど。今凄く此処に来た事、後悔してる」
「いやそんなこというなって! せっかく救世主になってくれたんだからさ!」
「……は? 僕まだ一度として、やるともなるとも言ってないんだけど」
「えっ」「えっ」
如何やら二人の認識に行き違いがあったようだ。シヴァは悠木はもう救世主としての立場を受け入れてくれたものなんだと思っていたが、悠木はそうではない。まだ思考段階程度で、此処で本当に両手が治れば考えるかもしれない、といった程度。
思わず二人ともが間抜け面を晒して、同時に言葉にもならないそれを漏らす。暫し目を瞬かせて見つめ合い、先に悠木が視線を逸らして溜息を吐き出した。
「ちゃんと明言してなかった僕が悪かった。……演奏、出来るようになったら考える、かもしれない。くらい。でもまあ……出来るようになったらなったで、やっぱり凄く複雑なんだけど。此処まで来ておいて、言うのもなんだけどさ」
「……まじか。俺ァてっきり……いや、そうだよな。勝手に勘違いしてた俺が悪い。ごめん。無理強いはしないから。それに心の整理が必要だってんなら、今日は会うだけ会って帰ってもいいし、時間も作る。強行軍しちまったから、悩む間もなかったもんな。俺のミスだ」
「いや、僕が早く行きたいって言ったんだ。君はそれを叶えただけ。実際――君と話して此処に来ると決めたときは、なんともなかったんだけど。こう、いざ突きつけられると、凄く戸惑ってきたんだよね。階段上りながら疲れない為に考えてたっていうのに、余計疲れちゃったよ」
元よりそれが原因で一度死のうとまでしたのだ。むしろ今此処に立っている方が奇跡と呼ぶに近い。目の前で見て知っているシヴァは、それを分かっていた。だからなるべく悠木を刺激しないように、悠木が良いようにと促すのだけれど、悠木は首を振る。そうして、肩を竦めてみせながら、心配させないようにとおどけたように言う。
けれど実際、内心はとても複雑だ。自由に動くようになるように、ずっと願ってきたけれど。実際そうなった場合、何故あんな出来事が起こらねばならなかったのか。どうしてもその事が頭をちらつく。それに、あれを経て今ある自分が否定されるような、そんな気がして。治るかもしれないと知っても、素直に喜べなかった。元々が少々ひねくれた性格だった、というのも関係しているのかもしれない。
何にしても、少しばかり時間が欲しかった。それで如何にかなるとは思わなかったが、かといって此処で引き返してはきっと二度と来ないに違いない。幸いにも長たらしい階段のせいで、足が動かなくて移動するまでには時間を要する。この間に少しでも良いから、整理を付けたいと思った。思っていたのだけれども。
「……あの、何か御用ですか?」
ひょっこりと顔を出した、一人の少女によってその願いは打ち砕かれる。シヴァは悠木に、悠木は自分自身に掛かりきりであった為、気付く事が出来なかったのだろう。シヴァの後方、奥へと続く穴の入口に立って、不思議そうに首を傾げながら悠木をシヴァを見つめている。
蜂蜜色の髪に薄い紫の目。天然なのか全体的に緩くウェーブが掛かった髪は、もう長い事切っていないのだろう。膝くらいまでの長さがある。とても可愛らしいという形容詞が似合う、そんな少女が奏者だとすぐに気付いた。というよりも少女以外に奏者と呼べそうな人がいなかったから、というでもいうべきだろうか。
ただ随分と長くなっている髪はあの男が言っていた、ずっと此処に居るという情報と合致した。一体何れ程の期間此処に閉じ込められていたのだろう、と少し気になったが聞いた所で如何にかなる訳ではない。けれど少しばかり、あのときのシヴァの怒りが分かったような気がした。きっと全くベクトルは違うのだろうけれど。
「あ、えーと……此処の、奏者代理の人、ですよね?」
「はい。その通りです。ええと、あなたがたは……」
「私がシヴァ・イーリイ、先日まで核の奏者をしていました。奥の人物がユウキ・クロカワといって、救世主……になるかも、しれない人です」
「まあ、そうでしたか。シヴァ様はお務めご苦労様でした。ユウキ様も、わたしたちの都合で御喚びしてしまって、申し訳ありません。なにか、不便な事など御座いませんでしたか?」
朗らかに笑っているその姿は、自然体に見える。けれどそれは何処か痛ましくも感じた。そこに心がないように見えたからかもしれない。或いは壊れていると評するべきか。例え此処でなくとも、閉鎖空間にずっと閉じ込められていれば、自己防衛反応と考えた場合。それはとても当然の流れのように思える。
かといって、積極的に何かをするつもりなど悠木にはなかった。こういうものは得手不得手というものがあって、残念な事に悠木は完全に不得手側であるということを自覚しているからである――というのは、建前でしかない。結局の所、この奏者の現状がとても過酷なものであったとしても、一切悠木には関係のない事に思えたのだ。可哀想だね、と感じる程度で、それで終わり。
例えばシヴァが同じ状況に陥るかもしれない、と言われれば多少動くかもしれない。少なくとも望む望まないは関係なく、今悠木が生きているのはシヴァのお陰であって、それなりに抱いていた憂鬱な感情を吹き飛ばしてくれた人間である。その辺りに、一応の恩義を感じていない訳でもないからだ。
では目の前の少女はと言われれば、完全なる初対面。助ける義理も気にかける必要も感じない。
その点でいえば、シヴァも悠木をほぼ初対面で助けた上、現在進行形で気にかけている。けれどシヴァと悠木は別人だ。同じ事が出来るかと言われたら、その答えはノーにしかならない。元々の気質が違う。その証拠にシヴァはまだ見ていなかった頃に、この少女の為に怒りを露にしていた。同じ奏者であるというだけで、見ず知らずの人の為に怒る事など到底悠木には出来ないだろう。
「いいえ、私たちは。それより……あなたは、大丈夫ですか? その、お身体の方など不調は」
「見ての通り、元気いっぱいなんです。だから、何も問題はありません。……わたしなどのことを気にかけて下さって、有難う御座います」
相変わらず少女の笑みは途絶えない。というよりもそれしか知らないと言わんばかりに笑っている。まるで人形のようだと悠木は思った。笑う事しか知らない、壊れてしまった人形。日に当たらない為に恐ろしいまでに白く、遠目から見ても分かるくらい少し力を入れれば折れてしまいそうな華奢なその身体が、そう思わせるのに拍車を掛けているのかもしれない。
同じ風に思ったかどうかは知らないが、少なくとも少女を見てシヴァも思う所があったのか眉間に皺を寄せている。或いはシヴァが投げた問い掛けに対する反応であった可能性もあるだろう。然しもしそうであった場合、悠木には引っ掛かる点が分からなかった――というよりも体調を心配する理由が、と言うべきか――
確かに少女は至って健康であると、声高々とは言えない。今にも壊れてしまいそうな感じではある。けれど、何かしら病気を患っているようには、少なくとも外見上は見えなかった。内面であれば分からないが、医学に精通していたとしても、たった一巡のやり取りでは見抜ける筈がない。出来れば、それはもう神の領域に到達しているというべきだ。断言はできなかったが、奏者として過ごしていたシヴァがそうあるとは悠木には到底思えなかった。
「同じ奏者として当然です。……そういえば、あなたのお名前を聞いても良いでしょうか? まだ、お聞きしていなかったと今、気が付きまして」
「申し訳ありません。久し振りに人と話すものですから、すっかり忘れてしまっていて……わたしは、セラ。セラ・ワイアットと申します。もう御存知の通りですが、参の国の奏者代理を務めさせて頂いています。ところで……お二人は、引き継ぎに参られたのでしょうか?」
こてりと首を傾げながら問い掛ける少女――セラの言葉を聞いて、シヴァは悠木を見やる。今の今まで全部シヴァに投げて、会話に参加すらしていなかった悠木に突然話を振ろうとしているのか。否、違う。此処に来た本来の理由を告げて良いかどうか、口に出しこそしなかったが聞いているのだろう。
悠木は軽く首を振る。けれどそれは告げるな、という意味ではない。自分で言う、という意思表示の現れだった。