第十二話
馬車に揺られるというのは存外体力を使う。元よりインドア派でもやしっ子な悠木はともかくとして。元気一杯といった様子のシヴァでさえ、数時間も馬車に揺られていれば静かに大人しく、少しやつれた顔で座っていた。
シェラだけは一人、平気そうな顔で座っていたが、間違ってもシェラは悠木とシヴァの二人と、対等な立場ではない。故に必死に押し堪えていた可能性だって十分に考えられる。然し残念ながらシヴァにも悠木にも、シェラを気遣うだけの余裕はなかった。何せ自分の事だけで手一杯だったのだから。
食事時の他に数時間に一回、搭乗者を気遣ってか休憩がある。とはいえそれも数十分程度のもので、疲労は蓄積されていく。歩いて行くよりは随分マシだと思えども、然し現代のバスや車でさえキツイと感じる悠木からすれば、出来ることなら次回の搭乗は避けたいところだった。無理そうな事は薄々感じてはいたけれども。
夜の帳が下りた頃。元々車内は静かであったが、より一層静かになる。というのもシヴァも悠木も眠ったせいだ。ただ馬車の不定期な揺れに揺られ、決して柔らかくない座席に寝転がれない環境。また誰かが側にいるという、慣れない空間に悠木が完全に眠れる事はなかった。
寝ているような、起きているような。一晩中そんな感覚を味わっていれば、取れる疲れも取れない。おまけに眠気も飛ばず、今までにないくらいの不機嫌さに到達した頃。馬車は緩やかにスピードを落としていく。
夜は休まず走り続けると聞いていた悠木は、あれ、と漂っていた意識を引き摺り出す。閉じられていた目を開け、馬車に付いている小窓を覗き込めば。
「あれ、もう朝……」
「はい。朝で御座います。おはようございます、ユウキ様。如何やら、今し方国境に辿り着いたようです」
「……お、はよう。結構、朝早く着いたんだね」
「そのようですね。シヴァ様から聞いていた予定より、一刻か一刻半程早い到着です」
ぼんやりとしたまま、明るくなった外に気付き小さく零す。車内は静まり返っていたが故、反応があると思っていなかったのだろう。シェラが悠木の言葉に反応したのなら、驚きでぴくりと肩を揺らす。
若干詰まった言葉に、けれども気にした様子なく対応してくれるシェラにほっと息を吐き出した。それから一刻、と口の中で反復する。悠木の知識に間違いがなければ、それは昔の呼び方の筈。昨日は分単位で聞いた気がするのだけれども、混在しているのだろうか、と頭を悩ませるた。
然し混在していたとして。一刻とは一体何分であったか。悠木は知らない。少し考えて、然しそれを知らなかった所で別段困らないと思えば、思考を手放す。「一刻は、三十分程になります」途端横から入る声。思わずぎょっとしてシェラをまじまじと見てしまう。
タイミングが良いのか悪いのか。はたまた何故悠木の思考が分かったのかと聞きたい事は沢山あれど、聞いて分かった所で何かある訳ではない。そう判断すれば、小さく有難う、と感謝の言葉を述べるに留める。
シェラはその言葉を聞いて「当然の事で御座います」と切り返したのだけれども。いや、当然じゃない。と思わず悠木は突っ込みたかった。どうやらこの世界の人はボケ倒しのボケ属性ばかりらしい――残念ながら悠木はシヴァとシェラしか知らないが故、随分と偏った認識と言えたが――
そうしている間に馬車は完全に停止し、何やら御者と誰かの話し声が聞こえる。大方確認でもしているのだろう。少しもすれば話し声は止み、またゆっくりと馬車は走り出す。がたんごとん、と不定的にまた揺れ始める馬車に眠気が襲って来ない訳でもないが――元々余り眠れなかったのも原因だろう――然し目は完全に冴えてしまっている。今更眠れそうにもない。
結局少しの間目を閉じたりして見たりはしたものの、眠れる気配は一向に訪れず。暫しぼんやりと窓の外を眺める事にした。昨日まで見えていた、生い茂る緑と薄紫色の水晶の塔はもう、その姿を消している。代わりに窓から見えるのは、煉瓦作りの町並みに石畳で出来た街頭。現代とは掛け離れた、少し昔のヨーロッパを連想とさせる風景。
生憎と朝が早い為か人通りは殆どなかったが、ほうと悠木は感嘆の声を漏らす。ちょっとした映画のワンシーンのように見えたそれに、感じるものはあったのだろう。夜灯りを灯す為に備え付けられているガス灯を見かけ、生活水準はそんなに低くないのだと判断する。
屋敷でも感じたのだが、割合この世界はライフラインが整っていた。未だ街中に住まう人々の状態を見てはいないが、町並みを見るにそれ程悪い生活を送っているようには見えない。救世主を呼ぶ程、切迫した状態であると考えていた悠木は少しばかり拍子抜けしてしまった。勿論だからといって、もっと屋敷でゆっくりしてこれば、とかこんな強行軍を行わなくても、とは思わなかったけれど――もう少しだけゆっくりと馬車を走らせて貰えば疲れなかったかもしれない、程度は考えたかもしれないが――
「ん、ん……ふ、ぁ……あれ。おはよ、ユウキもう起きてたんだ?」
「うん、まあね」
「早いなー。あ、シェラもおはよう」
「おはよう御座います、シヴァ様。もうすぐ予定されていた、朝食をお取りになられる手筈の店に着きそうです」
「随分と早かったね。このまま行けば夜には付けるかな。それともちょっとゆっくりする? 此処まで来るのに随分と飛ばしてもらった事だろうから、馬も御者も疲れてるだろうし、シェラも寝てないでしょ」
「シヴァ様の采配にお任せ致します」
「んー……じゃあ朝食食べてる間にでも考える。今寝起きであんまり頭回ってないし」
思わずぎょっとした視線を二人に向ける。流石に驚きの声を上げる事は、なんとか押さえ込んだけれども。否、全く予想していなかったと言えば嘘になるが、然し本当にシェラが一睡もしてないと、悠木は考えていなかったのだ。シヴァも悠木もぐっすりとは言えずとも寝ていたから。その合間を縫って、少しくらいは、と思っていたのだろう。
此処で少しゆっくりしていき、シェラが休めるのであればそうしたい。出来れば、であるけれども。残念な事にこの度の予定は全て仕切っている。悠木では地理、掛かる時間等分からないから。せめて後で進言するぐらい、しておこうかと思考した。それが例え無理で、無意味なものになったとしても、別に悠木の懐が痛む訳ではないのだから。
そしてふと気付く。自然と人を気遣う考えを持てるようになっていたことに。元々、全くそういった事が出来なかったかと言えば否だが、それでも前ならば、この程度気にも止めなかったに違いない。けれど今は如何だ。赤の他人の為に人の考えに口を出そうと、独りでに考えていたではないか。素直に驚かざるを得ない。
良いのか悪いのかいまいち分からない自身の変化に戸惑いつつ、嗚呼感化されているんだな、と少しだけ思った。目の前の、眠たいのだろう大口を開けてあくびをして間抜け面をさらしている、シヴァという男に。そう思っても、悪い気はしなかった。
暫くして、馬車がまたスピードを落として行く。少しもしないうちに完全に止まれば、シェラが窓から様子を伺う。問題がない事を確認すれば、さっと馬車の扉を開いた。それから扉の少し先で頭を下げて悠木たちが降りてくるのを待っている。それが仕事だと分かっていても、悠木は少しいたたまれなかった。慣れていないからか、或いは文化の違いだろう。
シヴァに続き馬車を降りながらシェラに向かって一度頭を下げる。シェラがそれを見ているかどうかは分からなかったが、結局のところ自己満足だ。見ていなくとも問題ない。馬車から少し離れた先に立つ少しお高そうな印象を受ける、店。はたしてそれが如何いった系統の店であるのかは分からなかったが、けれど其処で朝食を取る事には間違いなさそうだ。
恐る恐ると言った様子で悠木は店内に足を踏み入れる。悠木たちだけかと思いきやそういうことはなく、他にも幾人か、身なりの良い人たちがちらほらと視界に入る。如何やら朝を外食で済ますというのは、存外少なくない事らしい。店側に案内されるシヴァについて進み、席に着く。注文をどうするかと聞かれれば、分からないからと全部シヴァに放り投げて店内を観察する。
割とプライベートを優先させた店なのだろうか。個室ではないにしろ、ある程度区切られており、悠木の席からではさした情報は得られない。そう判断すれば早々と放り投げ、注がれた水に手を伸ばす。
「ユウキはどうしたい? ちょっと観光でもしていくか? あんまり見るところはないけど」
「……どっちかといえば、ゆっくりしたい」
「ははっ、そればっかだなユウキは。もしかして、あんまり外に出たりするのは好きじゃない感じか?」
「まあね、ずっとピアノばっかり弾いてたし。というかそれ以外にやりたいことなかったから」
「ふーんなるほどねえ。じゃあこれを機に、ちょっとお出かけしてみたり、とか――」
「しないよ。絶対」
ばっさりと切り捨てる。予想していたのだろうシヴァは、だよなあ、とからからと笑っていた。分かっているなら聞くなと言いたいところであるが、聞くのがシヴァという男なのだろう。いい加減慣れてきた悠木は突っ込む事もなく、水を一期に飲み干した。
寝起きから一度として水分を取っていなかった所に水を入れたからか、今になって喉の渇きに気付く。幸いにも流し込んだ水で、少しは潤ったらしい。
「んーまあ、あっちに早く着ければ向こうでゆっくり休めるんだよな。多分それが一番最善かなって思うんだけど。でなきゃこっちで宿取ってーってしなくちゃ、休めるもんも休めなくなるし。そうなると到着は明日の朝になるんだよなー」
「君が進行係なんだから、好きなようにすれば良いじゃない」
「そりゃそうなんだけど。此処で休まずに進行して、辿り着けなかった事も考えるとやっぱ悩むっていうか二の足踏むっていうか」
「そのときはそのときでしょ。未来の事なんて誰にも分からないんだから。今最善だと思う手を取るのが最も効率的だと思うよ、悩むよりもね」
「おっいいこと言うね! じゃあこのまま突き進むか。あのペースで進んでくれるんなら、夜とは言わず、夕食前くらいには着けるんじゃねーかな。その場合ノンストップになるけど」
「……途中で下手に休憩挟むより、是非とも突っ切って欲しい」
「間違いねえ。あれは休憩とは言わないって昨日すげー思った」
今後の話を一方的にするシヴァに悠木は適当に相づちをうちながら、手持ち無沙汰に時間を持て余す。そうして十分程した頃、ウエイトレスが現れ注文した料理をテーブルの上に並べて行った。白パンに二種類のジャム、種類は分からなかったが魚のカルパッチョとスクランブルエッグ、ミネストローネらしきもの。焼かれた分厚いハムステーキ。
昨日より些か豪華さの増したそれに、成る程この世界は此れが標準なのか、と思わずにはいられなかった。
「……思ってたんだけど、意外と裕福なんだね、この世界。もっと切迫してるのかなって考えてた」
ぽろりと漏れる本音。朝から感じていたそれを口にすれば、シヴァは一瞬目を瞬かせて緩く首を左右に振る。如何やら違うと言いたいらしい。
「切迫してるさ。ただ核の周りと、参の国はまだ被害が少ないんだ。自分で言うのもなんだけど、今の奏者の中でも力を持った方だったから。一番酷いのは伍の国で次いで弐の国。伍の方は元々病弱な奏者だったってのも関係してるかもしれない。……まあ、俺も人から聞いた話でしかないけどな」
「ふうん……やっぱり奏者の中でも力の上下とかってあるんだ」
「そりゃな。力量を元にそれぞれ核と支柱に振り分けられる。一番力が高いのが核、後は国の重要度によって、って感じ」
「つまり君が一番だったと」
「そーいうこと。まあその俺であっても、悠木の足下にすら及ばないんだよ、実際は。ラフィーネを弾けても、覚醒はさせられなかったし。一応これでも歴代ネヘト産奏者では、一番力があるんだぜ?」
「……って言われても、他を知らないからなんとも」
「そりゃそうか。つっても、俺だって他の奴のこと知らねーし、過去の人とかもっと知らねーや。力が云々だって親父やその他お偉いさんの受け売りでしかないから、実際力がどんなものかって事すらしならいんだけど」
聞いていないだけで、色々と複雑そうな印象を受ける。この参の国の重要度が高い理由が気になりはするものの、知ったところで何かに役立つ訳でもない。そう思えば自然聞こうとは思わず、目の前の並べられた料理を食べる姿勢に入る。
それから食事中は変わらず静かな時間が続き、食べ終えるまでは店内の喧噪とも呼べない程度の音を、二人ともがBGMにしていた。