第十一話
無事朝を迎えた。たった一夜しか過ごさぬというのに、豪奢な部屋を充てがわれ、かつ何故かとても贅を凝らしたと見ただけで分かる夕食を前に、少しばかり神経をすり減らしはしたけれど。それでも何事もなく、平穏に過ごせたというのは大きい。多分怒涛の数時間を経てそう思えるようになったのだろう。
目覚めて、それから世界が変わらず現代日本でない事を確認すれば。昨日は無駄に濃い一日だった、と様々な意味で思った。けれど不思議と悪い気分はしない。
手触りのいい掛け布団を剥がし、綺麗に畳む。それからふわふわの絨毯が敷かれている床に足を下ろし、立ち上がって備え付けてある洗面所の方へと向かう。
ライフラインや派手である事を除けば、屋敷の作りは大体悠木の暮らしていた世界とさして変わらない。とはいえ、やはり何方かといえば現代というより中世ヨーロッパ風、ではあったけれど。困る程の違いがある訳ではないのは、救いだった。
蛇口を捻ると出て来る水を両手で掬い、身を屈めて顔にぱしゃりと掛ける。冷却でもされているのかと思う程に、随分と冷たい。お陰で目覚めてばかりであったから、少しぼんやりしていた頭がしゃっきりとする。
二度、三度と同じ行為を繰り返し、蛇口を捻って水を止めた。手近な所にあったタオルを手繰り寄せ、顔を拭く。柔軟剤がこの世界にもあるのか、それは柔らかく、仄かに香る花のような匂いが心地良い。
しっかりと顔に掛かった水分を拭き取れば、タオルを元の場所に戻す。その際ちらりと、視界に入った鏡に映る悠木自身の姿。
黒髪黒目。日本人にとっては良くある色彩。少し彫りが深い程度で、特別格好良い訳でもない。多分、何処にでも普通にある顔。変わらない姿に、けれど一つ違う所を悠木は見つけた。
――表情だ。以前までであれば、その顔に一切の色がなく、まるで人形みたいだと。当の悠木も少し気味の悪さを感じていたのだけれども。今はそれが薄く、人間味を帯びている。
とはいえ、相変わらず無表情であった。折角今鏡の前にいる。どうせなら、笑ってみようと思い、意識的にしてみたりもしたのだけれども。如何やら長い事表情筋を使っていなかったせいか、仕事をしてくれない。
何度試してみてもぴくりとも動かない表情に、けれど眉間の皺だけは寄る事を確認して、溜息を吐き出した。何だか無駄に朝から疲れてしまった気がする。
「ユウキ様、おはようございます。朝食の準備が整いましたので、お迎えに上がりました」
「そう。有難う。今行く……って言いたい所なんだけど、ねえ。着替え持ってないんだ。如何したら良いと思う?」
「お召し物でしたら、クローゼットの中に入っている物をお好きにお使い下さい、とシヴァ様よりお言葉を承っております」
「ん、分かった。有難う。着替えたら行くよ。昨日の所でいいの?」
「はい。朝食は昨日、夕食をお取りになられた所にご用意しております」
さて。顔も洗いすっきりした所で洗面所を後にして、部屋に戻ったまでは良かった。けれど悠木は暫し悩む。着替えがない事に気がついたから。
昨夜は用意されていた寝間着に着替えたのだけれども、然し脱いで畳んで置いた着てきた服は部屋の中に見当たらない。それ以外に持ち合わせがない悠木は如何したら良いのか、と辺りを見渡し始めた所でタイミング良く、部屋に響くノック音。
どうぞ、と短く告げれば相も変わらず綺麗なお辞儀で入室してきたシェラにナイスタイミング、と言わんばかりに問い掛ける。さすれば、なるほどクローゼットの中の物は自由に使って良いと聞いた。であれば遠慮する事は何もない。
一つ頷いてシェラが退室するのを見届ければ、ベッドの反対側にある、ウォークインクローゼットに繋がってるだろう扉の取っ手に手を掛けた。開いて、閉じる。
「いや、なにこれ」
思わず言葉を零す。借り物に文句を言うつもりはなかったが、然しこれは余りにも酷いと言わざるをえなかった。何故ならクローゼットの中身は、ゴテゴテした、とても動きにくそうな服ばかりだったから。
シヴァやセルヴァンでさえ着ていなかったような服の取り揃えに、悠木は頭を抱える。多分屋敷か部屋の主の趣味か、或いは救世主の為にと取り揃えられたものだろう。にしても、酷い。悠木の趣味じゃないのは当然として、着るのすら一苦労しそうだ。
唸る。この中から選ばねばならないのかと思えば、頭が痛い。けれどこれは仕方ない事だと割り切り、なるべくその中でも簡素な部類を選ぼうと決心して。一度深呼吸してから、もう一度扉を開ける。
彩り鮮やかなせいで、目がチカチカしそうだった。がさごそとハンガーに掛けられた服を漁り、けれどその途中奥の方の床に何かが置いてある事に気付く。
はて、と僅かに首を傾げながらそれに手を伸ばして――悠木は歓喜した。勿論一切表情に出る事はなかったけれど。
何故ならそこに、Yシャツとジーパン、というなんとも場違いな服が置いてあったからである。この世界にそれがあるのはとても喜ばしかったし、何よりもあのゴテゴテしたのを着る必要がない事に、悠木は心底安堵した。
一枚ずつ引っ掴み、紺色のジーパンと白いYシャツに着替えて寝間着を畳みベッドの上に綺麗におけば、身支度は完成。何処も可笑しなところはないか一度確認して、大丈夫であったから部屋を出る。
その足で昨日夕食を食べたその部屋に向かおうとして、けれど扉のすぐ側にシェラが直立不動の姿勢で立っていたのを見つけた。驚いて目を瞬かせるが、それが彼女の仕事なのだろう。待っているといえば悠木が急ぐと思ったから、言わなかったに違いない。
部屋から出てきた悠木を見て、また綺麗なお辞儀を一度するシェラに小さく、有難うと本日三度目になる感謝の言葉を述べる。けれどシェラは「当然の事で御座います」としれっとした顔で言う。実際その通りなのだろう。けれど悠木としては言いたかっただけであったので、その反応に対し、さして気にしなかった。
シェラに先導されて朝食の席に向かえば、既にそこにはシヴァが着席して悠木を待っている。意外と朝が早いのだな、と妙に感心しながら朝の挨拶を交わし、悠木も席に着く。
「やっぱり。そっちのがユウキっぽい。昨日慌てて準備させて良かった」
「……そう、だったんだ。そっか。ありがとう」
「いーや気にすんなって。俺が勝手にやりたくてやったことだし」
屈託無く笑うシヴァの笑顔が少し眩しい。今朝方笑えない事を再確認したばかりの悠木からすれば、如何やって笑っているのか教えて欲しいくらいだった。無論絶対、言葉にして聞いたりしないけれど。
空だったカップに紅茶が注がれ、それを合図に二人とも朝食に手を付ける。大きめの腸詰めにカリカリに焼かれたベーコン。グリーンサラダにトマト、ふわふわの白パンにブルーベリーやイチゴなど数種類のジャムにバター。
やはり悠木の目からみれば、とても贅沢な食事風景に見えて仕方がなかった。とはいえ、昨夜同様シヴァは気にした様子を見せない。これが彼の日常なのかと思えば、その反応は当然のものなのだろう。
俗に言う貴族のような存在なのかもしれない。あいにくと悠木はその存在を話の中でしか知らないが、シヴァも元は奏者。あれに触れられる悠木が救世主と呼ばれるだけあって、この世界の人からみれば、シヴァも救世主のようなものに違いない。であればこの生活も、とても納得出来る。
或いは本当に貴族階級というものがあって、シヴァはそれに属している可能性だってなきにしもあらずだ。とはいえ別段知らねばならぬ事ではないが故、聞こうとは思わなかったのだけれども。
食事中はさしものシヴァもお喋りを封印するのは、昨日で知っていた。静かに食べたい悠木としては有難く、部屋には時折食器が触れ合う音だけが響く時間が暫く続き。
「……さて、と。んじゃこれからの予定話していいか? つっても、今はとりあえず参の国に行くまでの話になるけど」
「うん。お願い」
二人ともが食べ終え、食後の紅茶が新たに注がれたのならば。シヴァは静かに切り出した。小さく一度頷いて、悠木はシヴァの話に耳を傾ける。
「馬車の準備が整えば、俺とユウキ、それからシェラの三人で馬車に乗り込む。今日の昼と夜は街もないから、悪いが馬車の中か、馬車を止めてラフィーネの周りで食べる感じになる。夜通し走って、明日の朝には参の国との間にある境界線を越し、参の国に入れる筈だ」
「えっ、彼女も行くの?」
「そりゃユウキ付きだからな。俺とユウキ二人よりも、融通が利くだろうし。何か不味かったか?」
「ううん。そういう事ではないから気にしないで」
「りょーかい。んじゃ続きな。明日の夜には支柱の方に辿り着く。遅くても此処出た三日目の朝には着けるだろう。参の国に入ったら、そっちでご飯やら何やらは調達するか、店で食べる予定」
「……ねえ、やたら食事事情が多いんだけど。なんで?」
確りと予定を頭に叩き込む為、真面目に聞いていた悠木であったが、然し。何故かご飯は如何する、という話題ばかりで疑問を抱く。
もしや、と思って何処かじとりとした視線をシヴァに向けながら、問い掛けてみれば案の定といったところか。ぎくりと固まり、一体何の事だと言いたげに悠木に視線を向ける。けれど悠木にそれは通用しない。
「やっぱり……随分と食い意地が張ってるんだね、君」
「だってさー、いや確かに食べる事は好きだよ? 今しか食べれないから、好きなもの好きなだけ満足に食べたいじゃん。でも旅とかしたこと無いっていうか、こっから出たことないから、楽しみだし。何よりユウキと一緒ってところが、ミソなんだよ!」
「……あ、そ」
「うわっ冷たい! 氷の山に頭から突っ込んだみたいに冷たい反応! 朝から目ェ冷める!」
きゃあきゃあとまるで内緒話をして盛り上がる女子のように反応するシヴァに、悠木は何処かげんなりした様子。とはいえシヴァの言葉が――悠木と一緒である事を喜ぶ類――嬉しくない訳ではない。むしろ、嬉しいぐらいだ。
若干の照れ隠しが含まれている事をシヴァは悟っているのだろう。辛辣な反応をする悠木を見ても、その顔は嬉しそうに笑っている。
なんだこの、冷たい男に心底惚れてる馬鹿女みたいな反応は、とうっかり思ってしまった悠木は悪くない。決して。けれどシヴァがそういった人間でなければ、きっと悠木はこんな風に思ったり感じたり、する事がなかっただろう。否、今ここに生きて座っていることすらなかった筈だ。
分かっているし感謝もしているが、やはりシヴァという男が悠木にはよく分からない。小さく息を吐き出して、目敏くそれを見つけたシヴァが「あ、今溜息ついたな? 幸せが逃げるぞ吸い込め!」などと宣っているのを尻目に、立ち上がる。
「さっきから彼女が目で訴えてるよ。早く行きましょうって」
「えっ、あ……準備出来たの?」
「はい。十分程前には既に」
「うそん……そーいうのは早く教えて……って俺が騒いでたのか。二人ともゴメンナサイ」
「別に。十分くらいじゃ大して変わらないでしょ」
「……ユウキってさ、意外と優しいよな。そんでもって、懐が深い! 天使か! あ、救世主か!」
「はあ……? 頭可笑しいって昨日も何回か言ったけど、本当に可笑しくなったの? 大丈夫? 切り開いて見てもらった方がいいんじゃない?」
「すげー辛辣! しかも割とエグい! でもユウキらしー」
思わずシヴァに向ける悠木の視線が、蔑むようになったとしてもきっと仕方がない。許される範疇だ。ボケ倒すシヴァに、突っ込む悠木。まるでどこぞのコンビ漫才のようであるが、きっとシヴァに言っても通用しないだろうし、そもそも悠木にその自覚がなかった。あったのなら、突っ込む事ようなことはしなかっただろう。
朝から衰える事のないシヴァの元気にやられた悠木は、起きたばかりだというのに、少しだけ疲れたようにも見える。とはいえそれでも、不思議と悪い気はしなかった。
随分な変化だと思う。きっとシヴァに助けられる前の悠木であれば、付き合うことをしなかった部類の人間。自分とは違う世界に住む人間だとすら、思ったに違いない。
だからこそ、なのだろうか。交わらない平行線が交われば、それは複雑に絡み合い解ける事がないと聞く。今のシヴァと悠木は、まだきっと絡み始めたところなのだろうけれど。なんとなく、もう解けないだろう気はしていた――解けたとしても、解いていたかどうか分からないが――
シヴァが悠木に倣い立ち上がれば、揃って部屋を後にする。先頭はシェラで、その後ろにシヴァと悠木が並んで歩いた。暫くして、玄関に辿り着けばそこから外に出る。
昨日と同じく太陽は光り輝き、周囲を明るく照らしている。何一つ変わらない世界。だけれども、色褪せ眩しさすら感じたその世界が、まるでなんて事のない、日常の一幕のように悠木には感じられた。
シヴァのせいでシリアスが吹き飛ぶこのタグ詐称具合。