第十話
「さってと、夕食までは随分と時間があるんだが、ユウキ、何かしたいことは?」
「……特には。聞きたい事も聞いたし。何もすることがないなら、すこし、ゆっくりしたい」
「そりゃそうか、あっちこっち連れ回されたもんな。一寝入りするか? 準備ができたら起こしにいくけど」
「ん……いや、多分寝れはしないだろうから……こうしてるだけで、良い」
「分かった。ところで、俺は居ない方が良いか? 気が散るなら退散するけど」
「どっちでも。多分君なら、いてもへいき」
これは、デレなのだろうかとシヴァは思わず固まって頭を悩ませる。夕食までまだ三時間近くあったから、如何するかと聞いただけであった筈なのに。不意打ちにも近い、絶対的信頼のようなものを感じて、小さく唸った。つっけんどんな態度が多い悠木なだけあって、こういう態度が来ると、如何反応していいか分からなくなるのだろう。
自覚の無い悠木はシヴァの唸り声を聞いて、僅かに首を傾げる。何かおかしな返答でもしたのかと、少し気になったのだけれども。まあ何かあれば言うだろうと、とりわけ問い掛ける事もなく、ソファの背に身体を預けて寛ぐ体勢に入った。ちょうど首のところまでの背である為に、そこに頭を置く。おかげで天井を見上げる形になっているのだけれども、悠木もシヴァもさして気にした様子は無い。
「……じゃあ、此処に居座らせてもらうけど。それならなんか話したい。例えばユウキの事とか、俺ァ聞きたいって思うんだが」
「…………、……聞いても楽しくないと思うよ」
平素ならきっと此処で、じゃあ出ていけくらい言った筈だ。であるけれども言わなかったのは、相手がシヴァだったからか。或いは幾ら悠木と言えども寂しさや人肌恋しさを覚えたからか。何方かは分からないけれど。
自分の事を聞きたい、と言われた悠木の眉間は一瞬皺が寄る。幸いにも顔は上を向いていたので、シヴァには気付かれる事無く。けれど随分と低い声が出た故、語りたくないのは十分伝わっただろう。それ以上踏み込む事無く、シヴァはそうかと呟いて引き下がる。こういうところが、悠木にとってはとても好ましかった。
聞いて欲しくない事は聞かない、無遠慮に踏み込んでこない。相手の気持ちを察する事が出来る。まるで人間関係を築く上では鏡のような人間だ。多少粗暴な言葉使いであっても、全く気にならなくなる程に。本当にアレ――大方セルヴァンの事だろう――と血が繋がっているのかと、疑われても仕方が無い。むしろ血が繋がってないと言われた方が納得出来るというもの。
随分と失礼な自覚はあれど、ぼんやりとそんなことを考えていれば。悠木の耳にぽつ、とシヴァの言葉が耳に入ってくる。
「ごめんな、俺らの世界の事に巻き込んで」
それは殆んどと言っていい程付き合いのない悠木でさえ、どこからしくないと感じさせる言葉。おまけに割と脈絡が無い。思わず素っ頓狂な声を上げてしまいそうになったのをぐっと堪え、背もたれに預けていた背を起こして悠木はシヴァをみた。言葉から推察出来た通り、本当にシヴァは申し訳なさそうにしている。
シヴァは少し足を開いてその足に両手を乗せ、手を組んで顔を俯き気味にさせてその手をじっと見ていた。視界に入れるだけで、鬱々とした気分にさせる姿勢といっても過言ではない。
「……意味分かんない」
さて。如何答えたのかと悠木は逡巡する。如何にもこうにも陰気くさいその姿に、あっさりばっさり切り捨ててやろうかと思ったけれど。然し此れでもシヴァは真面目に悩んで、今の言葉を吐き出したのであろう。であれば、それは不適切に思えて、何故彼の思考がそうなったのか分からないと言いたげに、そういうに留める。
結局のところ、言葉にしなければ何も伝わらないのだ。そうしたところで。言葉足らずであれば相手はその意を上手く汲み取れない。相手の真意を知るには言葉を交わして、その中から探って行くしかないのだろうけれども。悠木はそれが上手くないどころの話ではない。今まであの一件――裏切られて、様々なものを失った悠木の転機とも呼べる事件――より、外界との接触を極力断ってきた。それが大凡の原因である、
とはいえ、それらを悠木は嘆く事は無かった。出来ないものは出来ないし、ああしていれば、こうしていればと思ったところで如何にかなる訳ではない事をよくよく知っていたから。思い悩むだけ、無駄な時間というもの。本当にそれらが必要であるならば、今このときより如何にかしていけば良いだけの話。そうするつもりが今、悠木にあるかどうかは全く別の話として。
至極真面目に悩んで言った言葉をあっさりばっさり、切り捨てられたシヴァはばっと勢い良く顔を上げて、目を瞬かせる。まじまじと悠木を見て、それから心底そう思っているだろう事に気付けば。可笑しそうに、けれど情けなさを滲ませながら、笑う。
「本当……お前って変な奴だよなァ。普通恨み言の一つでもいうもんだろ。何勝手にこんなとこ連れてきてんだ、ってな。……だって、お前を喚んだの、俺なんだぜ?」
「…………、……それで? じゃあ僕が君に八つ当たりしたところで、帰れる? この世界の状況は好転する? 違うよね。だったらそれはとても無駄な時間でしかない。……というより僕、自分の居た世界に別に、未練とか、そういうのないだけだから。別に君が、気にする事ではないよ」
「いや、家族とか、友達とか。そういう大切な人たちと離ればなれになるのって、寂しかったりつらかったりしないか? 淡白な感じはしてたけど、流石に――」
「いないもん」
「……えっ?」
「家族とか、友達とか。そういった存在はいなかったから。だから別に今更、此処に一人で居たところでちょっと、いる世界が変わった、くらいの認識なんだよね」
眉一つ動かさず、それがさも当然と言わんばかりに言い放つ悠木にシヴァは言葉を失う。其処にどういった事情があったのか、シヴァは知らない。けれど悠木が少し前に聞いても楽しくない、といっていたのはきっとこういうことなのだろう。話したがらなかったそれに、踏み込んでしまった。その事がとても申し訳なく思えて、そっと悠木の顔を伺い見る。
相変わらずというべきか、その顔に表情は無い。だからシヴァには悠木が怒っているのか、不快に感じているのか。或いは悲しんでいるのか、もしくはそれ以外の感情を持っているのかは全く読めなかった。何と声を掛けるのが正解か逡巡して、けれど答えは見つからない。ならばとシヴァは、直感で思うがままに、言葉を並べる事にした。きっとそれが正解だからと自分に言い聞かせるようにして。
「なら、ユウキの元の世界の奴じゃなくて悪いけど、さ、俺がユウキの友達第一号になって、そんで、家族……つってもこの年で父さんとか呼ばれんのは嫌だから兄……いや、弟か? まあどっちでも良いや。家族みたいな存在になる。ユウキが元の世界に戻るって言うなら、そんときゃ俺も付いて行く」
多分、いや絶対。会って間もない人間にこんなことを言うなんて可笑しいのは、分かっていた。けれどこういうのは本当に理屈ではなく、ただ感情が人を突き動かすのだ。この場合シヴァを突き動かしているのは、悠木が普通に笑っている姿がみてみたい、といったところだろう。否、笑わなくともいい。随分まともになったとはいえ、人形みたいに感情が殆ど見えないそれを、如何にかして人間のように喜怒哀楽を少しでも良い。見せてくれれば、という思ったから。
突然のシヴァから放たれた友達、家族宣言に聞いていた悠木は目を瞬かせる。今まで両親を失った悠木に向けられる目線は、哀れみや同情、見下すような視線ばかりであった。だからきっと、シヴァも無意識的に見下さずとも哀れむかと、思っていたのに。そうであれば悠木はまた、確実にシヴァ相手にも心を閉ざしていたに違いない。
けれどシヴァはといえば、予想の斜め上を突き進む。全く持って予想だにしていなかったその言葉に。そして今しがた出会って間もないその人間の為に、生まれ育った世界を捨てると、宣言した男に。悠木は何と言えば良いのか分からなかった。
例えばそのどれもが嘘であったとしても、初めて掛けられた言葉に答えるべき言葉を悠木は持ち合わせていない。嬉しくない訳ではなかったが、ただ素直にそう言えないのだ。元来の性格と、様々な要因がまるで糸のように複雑に絡み合って。
それに、どれだけひたむきに感情を向けられても、それが嘘であった場合の事が脳裏をちらつく。一度信じていた師に裏切られたその過去は、気にしていない風を装っていたとしても悠木の奥深くに強く根付いている。負の感情として。とはいえ、信じたいという気持ちが全く芽生えない訳ではない。一度死の淵から救い出し、助けてくれたシヴァであれば。そう、思わない事も無いのだけれども。
やっぱり、怖いのだ。すんなりと悠木を助け、欲しいものをくれるシヴァだからこそ、今度信じて裏切られたらと思えば悠木は二の足を踏む。やはりなんて事ない風に装っていても、悠木はまだ子供。臆病で、何もかも押し殺して気付かない振りをしているだけの、ただの臆病なちいさい子供なのである。
「……君、やっぱり頭可笑しいよ」
だから。結局悠木は少し前と同じ言葉を、口にした。無表情を装って、シヴァの言葉なんて真面目に取り合ってないと言わんばかりの顔をして。けれど中々、どうしてこうも上手く行かないもので、シヴァの目には悠木が照れているようにも見えたのだろう。それはシヴァの錯覚であったかもしれないが、或いは本当に悠木が嬉しいと感じた、内面が表に出ていたのかもしれない。
悠木の言葉を聞いて一瞬、やっぱり上手くいかないよな、とでも言いたげにしゅんとした顔を見せる。然し悠木の顔がちらりと視界にはいったのならば、シヴァはこれでもかと言わんばかりにぱあと顔を輝かせた。そして嬉しそうに笑いながら悠木の傍に駆け寄って。
「頭可笑しくってもいいよ、だってそれでユウキが俺のこと信じてくれるんなら、ぜんっぜん痛くも痒くもないっていうかむしろ、もっと頭可笑しくなるっていうか」
――なんだこの物体は。思わずそう怪訝そうに眉間に皺を寄せて、シヴァを見てしまったのは仕方が無い事なのかもしれない。純粋に振りまかれるその言葉にも態度にも、悠木はやっぱり訳がわからなかった。そもそも頭が可笑しいと二度言われて、挙げ句二度目などそれで良いなんて。如何すればそう思えるのだろうか。悠木には分からない。
適当にふうん、と流しながら然し悠木はそのシヴァの姿に何かが重なる事に気付く。じっとシヴァを観察するようにみて、それからぽんと軽く手を叩いた。
「犬だ」
「……は?」
唐突に零された悠木の言葉にシヴァは首を傾げる。犬が如何いったものか分からない、というより何故突然犬が出てきたんだ、と言った顔だ。悠木はそんなシヴァをさして気にした様子も無く、自身の例えにご満悦らしくつらつらと話し出す。
「なんか君見てると尻尾が見えるっていうか、飼い主が大好きな犬に見えてきたんだよね、という事でお手」
「ほれ、……じゃねーよ! クソッ乗せられた俺も俺だけど!」
「ははっ」
シヴァの目の前に手を出し、お手を請う悠木。ノリが良いのか或いは本当に犬属性なのか、言われるがまま悠木の手の上にぽん、と自分の掌を置いてから、はっと我に返ったシヴァは頭を抱える。その姿がなんだか面白くて、小さく笑い声を悠木は漏らした。――とはいっても、殆ど表情の変化は見受けられなかったが――
「ッ…………! ユウキ今、今笑った!? 笑ったよな!?」
「……ちょっと、人の耳元で煩いんだけど」
「ユウキが笑うなら俺、ユウキ専属の犬になる」
「やっぱり君の頭って可笑しい」
僅かとはいえ、表情が変化した事。初めて笑い声らしきそれを聞いたシヴァはもう大興奮で、今にも小躍りせんばかりの勢いだ。若干鬱陶しそうにしながらも、然したったこれだけのことで此れ程までに喜んでくれる人がいるのか、と悠木は少しだけ感慨深くなる。
どうしようもなく、馬鹿らしい意味の無いやり取り。けれども空っぽだった胸の中が埋まって行く感じがしなくもない。辛辣な言葉を吐きながらも、悠木は頭の片隅でシヴァなら。この男なら――少しくらい信じてみてもいいかもしれない、と思うのだ。
勿論結局思うだけであって、それを実行に移せる勇気はないのだけれども。
「でもさ、ユウキ元の世界に帰りたかったんじゃねえの? 俺ァそういう風に聞いてたから、すげー悩んだんだけど」
「…………嗚呼、ただ非現実的で受け入れがたかっただけ。でも、目の前で起きて体験しちゃったら、ねえ? 本当に元の世界に未練があるわけじゃないよ。あっちには何も無い。こっちにも何も無いけど」
「そっか、ならいいんだ。でも何もねーとか言ってられんのは今のうちだと思えよ? そのうち俺がいるからってお前に言わせてやるからな!」
「まあ、精々頑張れば?」
一頻り興奮したシヴァが落ち着くまで大分時間を要したが、落ち着いた頃。先程までとは一転して、また真面目な声色になれば、少し前の話を蒸し返す。成る程、とシヴァの言い分を聞いて悠木は納得した。大方セルヴァンかシェラから聞いたのだろう、説明を聞き終えてから「帰して」といった悠木の言葉を。
実際シヴァに死の淵から救い上げてもらっていなければ、もしかしたら今も帰ろうと思っていたかもしれない。けれどそう思わないのは、多分目の前で無邪気に悠木に尻尾を振ってくれる、シヴァという男のせいだ。何も無いとは言ったけれど、既にこの言葉は強がりかもしれない――悠木は漠然と、そう感じる。
そして近い未来シヴァの言う通りになってしまうだろう予感が、何処かでしていたのだけれども。不思議とそれは、悪い事のように思えなかった。
※シヴァくんはヒロインではありません。この作品にBL要素は一切ありません。
悠木よりよっぽどシヴァの方が主人公っぽいと思った今日この頃。