三日月
夜、私は空を見上げる。
見慣れた空。でこぼこした空の表面。まるで見下ろしているんじゃないかという感覚。
私は今日も、地べたに座り込んで、上を見上げて、空を見下ろしている。通りすがる誰もが、不思議そうに一瞥をくれる。それももう、慣れてしまった。私は待っているだけ。一向に見えてこない、もうひとりの私を待っているだけ。
あの話を聞いたのは、確か三年前。
「空の向こうにはね、ここと本当にそっくりな場所があるんだよ」
友達が得意気に教えてくれた。興奮気味な彼の鼻息に気を取られながらも、私は本気で信じた。
「木も花も土も同じで、空だってきっと同じなんだ。きれいな空色だよ。でね、そこには僕たちも住んでいるんだ」
「私たちが?」
「と言っても、もうひとりの、だけどね」
余計、わくわくした。会えたらどんなに良いだろう。空の向こうには、どんな私が居るんだろう。空を飛び越えて、見に行けたら良いのに。……彼の他に誰も信じてくれなかったから、私は待つ事しか出来ない。空が、退いてくれるのを。
いつになったら、この空は退いてくれるんだろう。
「空は退くわけないでしょう」
いつになったら、もうひとりの私が見えるだろう。
「向こう側なんてものはないんだよ」
何と言われようとも、私は学校帰りに必ず空を見上げた。夜、空の端が光るまで。
向こう側に居る私も、この空の反対側を見ているんだろうか。
ときどき、石を投げる事もある。端っこの見えている、意地悪な空に。
いっそのこと、私が空の見えなくなるところまで行ってみようか。むっくりと起き上がって、何度も思ったことに舌打ちする。
そんな時間無いってば。
「やあ、久しぶりだね」
声をかけられて振り返ると、彼が居た。三年前から変わっちゃいない。
「久しぶり」
「何してるの?」
さっきまで私が見ていた空を、彼も見上げる。
「空が、退かないかなって」
「どうして?」
「どうしてって……、向こう側が、見えないかな、と」
「え、あれまだ信じてたの?!」
彼は目を丸くして、素っ頓狂な声を出した。私は驚きながら頷く。
「やだなぁ。あんなの本当なわけ無いじゃんかー。サンタさんみたいなものだよー」
パラパラと、頭の中で何かが崩れ落ちた。戸惑う彼を置いて、私は家へと走り出す。
――嘘なはずない。空の向こう側には、もうひとりの私がいるんだ!
自分に言い聞かせるように、腹の底で、そう繰り返した。
毎朝、空の隙間から流れ出る朝日が、今は遠い。夜だから。
風を切って、自転車を漕ぐ。耳に嵐のような音を感じながら、空回りするほどペダルを漕いだ。電柱を避け、ガードレールの間を通り、クラクションを鳴らされながら車道を突っ切る。知らず知らず、大声を上げていた。何を言っていたのかは分からない。ただ、叫んでいた。
目の前に朝が近づいてくるまで、足を止めなかった。信号無視もいっぱいした。全身で朝日を受けたとき、頭がスーッと冷えたら、きっと昨晩は衝突事故が多発したとかいうニュースが流れるんじゃないかと思った。
一度止まると、漕ぎ始めが軽い。でもって重くなるのが早い。顔中から汗を噴出しながら、それでも立ち漕ぎで前へ進んだ。
――わたし、なにやってるんだろ。
馬鹿馬鹿しくなってきた。空の端から向こう側を見て何になる。一時の感情に身を任せると失敗するって、後悔するって言うじゃないか。
「もういい!」
誰に言うでもなく、嗄れた喉で叫んだ。
夜、私は空を見上げる。
なんとなく、お月見気分で。
満月は好きじゃない。満開や、満月だけが美しいわけじゃないって言うし。三日月の日は、何度もその輪郭を目でなぞる。
毎晩見ているあの月の向こう側は、どんな模様をしているのだろう。気にしてみると、同じ模様にしか見えない。向こう側。月の向こう側に、もうひとりの私が居たら面白いのにな、と思う。