待ち人来たりて
オリーは出ません。
(遅いよな………)
腕時計を見ると、既に約束の時間を三十分も過ぎていた。
ルースのいるカフェは混んでいる。それもそのはず、今日は休日、今は、昼近い時刻である。ざわめきが小波のように響いてくるテラス席で、ベーグルサンドとアイスコーヒーを前に、ルースは溜息をついた。
ペーパーバックを読んでいるため、そんなに暇をもてあましているわけではないのだが、やはり待ち合わせている相手がなかなか現われないのでは、気もそぞろになろうというものだ。
頬杖をついて、ストローでアイスキューブをつついていたルースの、おおらかそうな眉間が、
(そういえば………)
ふと思い出した事柄のせいで、ほんのわずかばかり強張りつく。
待ち合わせに割ける時間で、相手に対する愛情を計ることができるという、ある種の心理学のようなものだった。
(他愛ねぇこったけどな……………)
憮然とストローに口をつける。
(なんだか、めちゃくちゃ、腹が立ってくるよな)
愛情を計るなどという連想をしてしまった自分自身にか、そういう連想を自分にさせてしまう相手になのか、見た目そうとはわからぬほどではあるものの、ルースは、不機嫌になっていた。
「いるな」
目当ての人物を見つけ、ディヴァンのフェイスラインが弛んだ。
店内を進み、テラス席へと向かう。
単なるキザか、剣呑な職種の人間なのか、悪趣味一歩手前の麻の上下姿のディヴァンの足が、ふと、止まった。
ルースは、ディヴァンには気づいていない。
(気を抜いているな)
店内に背中を向けているとはいえ、彼は狼男である。彼の気配に気づかないのは、いささか間抜けだろう。
後ろ姿を一目見るなりそうと気づく自分とくらべて、肩をすくめる。
(これは、愛だ)
内心で嘯く。
しかし、軽そうな独白とは反対に、瞳は少しも笑ってはいない。運悪く通りがかったウェイターが思わずルートを変えるくらいには、視線の鋭さが彼の感情を現していた。
ディヴァンの視線の先で、彼の見知らぬ女性とルースとが話しをしている。もちろん彼が見ることができるのはルースの背中だけなのだが、ルースが相手を嫌っていないことがディヴァンには感じられたのだ。
頬を染めて、ルースに笑いかけているのは、短い髪、ふっくらとした顔立ちの、可愛らしい印象の、女性である。
「くっ」
手近にあった観葉植物の葉をむしりとり、握りつぶす。ぱらぱらと落ちる緑の残骸を、近くのテーブルの灰皿に捨てた。
内臓がよじれるほどの不快感が、あの笑っている女性に対する嫉妬なのだと、ディヴァンにはわかっていた。
目の前の女性の顔が、ふっと強張った。
「?」
首を傾げたルースの肩に、
「待たせたな」
力任せに降ってきた手の持ち主を振り返ったルースの表情が、いぶかしげに顰められた。
見下ろしてくるディヴァンのまなざしのきつさに、厭な予感を覚えた。
「一時間も遅れるなんて、まったく。連絡くらいいれてくださいね」
不安を打ち消したくて、口調がつっけんどんになる。
「連絡されて困るのは、おまえのほうだろう」
降ってくる声は、深い響きを宿して耳に心地がいいほどではあるが、いかんせん、ディヴァンの視線がすべてを裏切っている。
どうやら彼女のことをあてこすっているらしいことを察して、
「お気遣いどうも」
ルースが意固地になる。
にやりと、頬の辺りによからぬ笑いを貼りつけて、
「それで、そちらは?」
ディヴァンが、水を向けた。
正面を向いたルースが勧めるよりも早く、ディヴァンが隣の椅子に座った。
「ミス・ローズ。近所のドラッグストアの娘さんですよ」
知らなかったんですか? とばかりにルースの緑の双眸が見開かれた。
「はじめまして、ミス・ローズ。ディヴァンといいます」
にっこりと笑って、はじめて、女性の表情が笑顔になった。
こんにちは――と、挨拶する彼女に、
「こいつの、恋人です」
と、手を差し出した。
「なっ」
横で絶句しているルースの表情に、にんまりと溜飲を下げながら、よろしく――と、彼女の手を握って軽く振るディヴァンだった。
「なんてことを! あの店、もう行けないじゃないですか」
気に入っていたのにと食ってかかるルースに、ふふんと鼻で笑いながら、
「浮気なんぞするからだ」
と、腕を掴んで、ひねる。
痛みに引き攣るルースのくちびるに、ディヴァンが、噛みつくようなくちづけを落とす。
(浮気ってなんです、浮気って)
言いたいことは山のようにあるものの、封じられてしまっては、どうにもならない。せめてもの意趣返しに、口内を這い回る舌を、噛む。
不快な感触に後頭部が逆毛立つが、腹が立っているのだ。
ひとを待たせた挙げ句、ドラッグストアの看板娘との談笑を邪魔された。しかも、一方的なカミングアウト―ディヴァンのよく通る声―のおまけつきである。その上、今日の予定をすべて取りやめて、いきなりディヴァンの寝室に連れ込まれたのだ。これで腹が立たない人間など、いないにちがいない。
「チッ」
小さな舌打ちが聞こえたとほぼ同時に、ルースは、ベッドに押し倒されていた。
揺れるベッドと、全身を打った衝撃に、視界が眩む。
衣擦れの音が耳を打ち、
「ちょ、なにしてるんですかっ。ディヴァンっ! やめてくださいよ!」
気がつけば、両手を、それまでディヴァンの首に下がっていたネクタイでベッドヘッドに括りつけられていた。
あまりといえば、あまりなしうちに、ルースの全身が、怒りに震える。
しかしそれも、のしかかってきたディヴァンの表情を見るまでだった。
「っ」
情けなく悲鳴をあげそうになり、くちびるを噛みしめる。
能面のような無表情の中、常には意志の強さを宿している緑色の瞳が、炯々と底光りしている。舐めるような、焼き尽くされそうな、きついほどの視線に、全身に粟が立つ。かすかにディヴァンが笑った気配に、自分が彼を恐怖したことを知ったのだと、悔しさに顔を背けた。
頤にディヴァンの手を感じ、仰向けられまいと力をこめる。
しかし、
「………………」
耳元で囁かれたことばに、ルースの意地が、挫ける。
ディヴァンに向けたルースの顔からは、血の気が失せていた。
「いいな」
念を押すディヴァンに、ルースはようやくのことでひとつ頷いた。
それをきっかけに、獰猛なまなざしが、猛々しい情欲が、ルースを、巻き込み、喰らい、飲み込んでいった。