お兄ちゃん、恋するのです!
「にーにー、彼女居ないの?」
「ぶはっ!」
コーヒーを口に運んだ時に何てことを言うんだと、思わずまじまじとその顔を見つめた。
その発言をした彼女は、正真正銘妹で、年齢差は15。
下手をすると親子ほど離れたその子は、仕事で遠くに居る両親の代わりに、兄である千里が育ててきた──のだけど。
彼女が中学1年生、千里が27歳の頃だった。
「ねえねえ、居ないの?」
「な、何でそんなこと訊くんだ」
「あー、友達がお兄さん紹介して、って」
友達って、彼女の同級生とすると。
「この前までランドセル背負ってた中学生相手とか、俺を犯罪者にする気か万里! 俺ぁロリコンじゃないから断る!」
「だよねー、でも個人的に気になる」
「何で、そんな…」
思春期ってこんなものか?
いや、千里の時は、こう…。
「あっ! 赤くなった! にーにー聞きたいなー、聞きたいなー!」
「内緒! とりあえず今のところ交際相手は居ないけど学生はお断りだ!」
「ああっ…! そうか、ふーむ。にーにー、彼女出来たら教えてね!」
「……なんで」
仕事に行くというのに、この妹はマイペースに玄関までついてくる。
「あたしが篩に掛けてボットンボットン落としてあげるから! にーにーの彼女はあたしが認めなきゃ──」
「行ってきます」
「あぁっ! 逃げた! いってらっしゃあーい!」
パタン、と扉が静かに閉まる音がしてから、千里は小さく溜め息を吐いた。
どうして女っていうのは、人の色恋でこんなに盛り上がれるのだろう。
憂鬱な気分は、職場に向かうにつれて、更に千里にのし掛かる。
──俺の安息って、一体…。
「なーに辛気臭い溜め息吐いてるのよ、朝っぱらから!」
憂鬱な気分の上からゴスンとのし掛かるこの女性が、千里の幼馴染みで上司の、杏佳である。
「…杏佳サン、朝からそのタックルは勘弁してください…」
「千ちゃんそんなヤワじゃないでしょ、それにサン付けやめい! それから敬語も崩して…──って、逃げないで聞きなさいよ!」
冗談じゃない。
幼馴染みでも、一応上司なのにため口で話してみろ、例外なく他の上司に叩かれるに決まっている。
「杏佳さんは朝から元気ですね、俺には無理です」
「さりげなく敬遠すんじゃないわよ! あ、今日呑みに行くから宜しく!」
「え、俺ちょっと」
妹の夕飯を作らなきゃいけないんだけど。
言う前に、一刀両断だった。
「幼馴染み兼上司命令!」
「お…横暴だぁあぁ!!」
どうしてこうなる。
*
「……万里、今どこ? 学校帰り、とか?」
「うん、今は学校だけど…どうしたの、にーにーが電話してくるなんて」
珍しいね、仕事中じゃないの?
そう言いながらも万里の声はあからさまに上機嫌だ。
「今日…その、逃げられない飲み会があるみたいで」
「……あ、そうなの」
一気に意気消沈して、声だけで万里がどんな顔をしているか、大体はわかった。
「にーにー、お酒弱いんじゃないの? 素面で居るのって大変だって聞いたけど」
「いい、大丈夫。…何か買って、食べて先に寝ててもらっていいか」
「……起きて待ってる」
「いや、でも遅くなるし、」
「起きて待ってる。あたしだって子供じゃないもん、別に夜更かしくらいするよ」
「いや、でも…」
「早く寝て欲しかったら、にーにーが早く帰ってくればいい話でしょ!」
語気が荒くなり、電話の向こうで明らかに怒っています、というオーラを隠そうともしない。
──何故怒っているのか、理解が追い付かないのだけど。
「ば、万里、」
「万里ー、帰りクレープ食べて帰ろー」
奥の方で、女子の声がする。
友人であろう、その声は電話をしていることに気付いて、ごめんと謝罪を入れているようだったけど。
「──じゃあね、にーにー。早く帰ってきてよ?」
ぷつり。
電話が切れる直前、行くー! という声が聞こえた。
最後の最後に、まるで媚びる…いや、甘えるような声で言うのは、狡いんじゃないか。
──親の顔が見てみたい…って俺の親か。
帰りにクレープを食べて、何かしら買って食べて──あまり、遅くならなければ大丈夫かと、通話の切れた電話を見つめた。
また無意識に、溜め息が出る。
──どうして、怒ったんだろう?
「せーんちゃーん! ねえねえ、いい雰囲気のお店なーい? 私の上司達がさー、今日色んなとこで商談やら飲み会やるらしくてさー」
「じゃあ今日はやめましょうよ、あと杏佳さん抱き着くのもやめてください」
「やーだー! 今日はね、どーうしても千ちゃんに聞いてほしいことがあってね。いいでしょ~っ!」
「じゃあファミレスでいいですか」
「お酒の種類少ないから嫌!」
駄々っ子か!
既に酔っているのではないかと思えるハイテンションに、思わず頭を抱えた。
後ろから抱き着いたその手も離してくれない。
離れてくれないと、押し付けられているモノで、色々考えてしまうのだけど。
結局、彼女は休憩時間が終わるギリギリまで、背中にピットリとくっついたままだった。
「千ちゃんの背中落ち着く~」
とか言いながら頬擦りもしていたか。
化粧品付いてないだろうな、と、ちょっと不倫をした旦那気持ちになってみたり。
見つかったら、万里は絶対に追及するだろう。
まさか、その相手が幼稚園の頃からの同級生で、幼馴染みなのに上司で、そのうえ千里の初恋の女の子だなんて──、
「………ないわ」
「何が?」
「…え、いや…ホッチキスの針」
「針ならそこにあるよ? …貸してみなさいよ千ちゃん、ほら、針詰まってるだけよ、しっかりしてよもう!」
「ああ、どうも…」
ほら、しっかりしない原因が自分だなんて気付かないのに──気付かせる気もないが──、どうして、こんな女を。
やっぱり、ついてない。
*
「千ちゃーん、結局決まらなかったよぅ…」
「取引先への資料選びですか?」
「違うよもう、バカ! 飲み屋! 無い!?」
「俺呑まないから知らな…いたた、つねらないでくださいっ!」
唇を尖らせて文句を行動で表す彼女は、かなり厄介だ。
しかし店をゆっくり選んでいたら、帰宅も遅くなって、万里を寝かせられなくなる──
「あ」
「何ですか」
「いいとこあるじゃない」
「どこです?」
嫌な予感しかしない。
いや、予感じゃない、確信に近い。
これは、ロクでもないことを言い出すに決まっている!
「千ちゃん家、行きたい」
「だっ…だだだ駄目ですよ、何言ってるんですかっ!」
「だって千ちゃん実家から通ってるんでしょ、しかも両親は普段居ない、となると一人暮らし同然! よし、決まり!」
「勝手に決めないでください!」
一人暮らしじゃないから!
大学に進学する千里と、就職をする杏佳で、高校時代は殆ど話すこともなかった。
大学に入ってからは、連絡も取らなかった。
因って。
彼女は、万里が生まれたことを、全く知らないのだ。
“彼女”を篩に掛けると張り切る妹の万里、そんなことを知らない幼馴染みの杏佳。
──無事に済む筈が無い!
「きょ、杏佳さん、ちょ、いや、別に杏佳さん家でもいいんじゃ」
「…疚しいことがあるのね、千ちゃん」
ギクリと目を逸らすのが肯定を示す。
根が素直なのも問題だ。
「オッケー、場合によっては私帰らないから」
「ちょ、待っ」
心臓が浮くような、嫌なドキドキに千里は口角を引き攣らせたが、そんなの抵抗とは言えなかった。
*
「にーにーおかえり! 早かっ…た……」
扉を開けてすぐさま、身の危険を感じた。
固まった前後二人の女から、逃げ出したいほどのチリチリと焦げるような視線を受け、グッと拳を握る。
「にー…」
「……説明、するから。説明終わるまで二人ともちょっと口開かないで」
パタン、と扉を閉め、身体の位置を動かし二人の顔を確認出来る場所に移動する。
双方の茫然とした視線は、遠慮なく千里へとぶっ刺さる。
「…杏佳さん、こちら俺の15歳離れた妹、万里です」
ぱくぱくと、口を開くが上手く声にならないようで、いい塩梅だ。
「万里、こちらは俺の幼馴染みで上司の杏佳さん」
人称代名詞ではない“彼女”という説明が無かったことに安心したのか、状況を先に把握したのは万里だった。
「は…初めまして! 妹の万里です、中学1年生になりました!」
「…初めまして、千ちゃんの幼馴染みの杏佳です。宜しくね」
一応、火花が散るのは未然に防げたようだ。
正直なところ、まだ不完全燃焼で聞きたいことが山程あることは、杏佳の視線だけでわかる。
二人きりになったら問い詰められるのだろう。
それくらい、わかっているから。
「万里、夕飯は」
「まだだけど…」
「わかった。作るから、ちょっと部屋片付けてもらっていい?」
「あ、うん」
ぱたぱたと部屋の奥へと向かう万里の背中を見届け、杏佳は台所でエプロンをしている千里の背後から忍び寄った。
「…千ちゃんの子じゃないの?」
「そのボケはもう飽きました」
「ボケじゃないよ…だって、千ちゃん、似てるもん…」
「兄妹ですから」
何にしようかなと言いながらも、迷いの無い千里の手の動きを、杏佳は後ろからぼんやりと見つめる。
「…実は奥さんが居るとか」
「15で妻子持ちって俺を犯罪者にしたいんですか」
誰の子だ、誰の。
「正真正銘、俺の妹です。といっても幼稚園児の頃から俺が育ててたから、育ての親ってのは合ってると思いますよ」
「…千ちゃんの子じゃ、ないんだ」
15歳の時には傍に居なかった。
その部分は、お互いの暗黙の了解だ。
「だからそうだと何度言えば──」
「良かった」
振り返ろうとして、そのまま固まった。
また、微妙なことを。
微妙な発言をして、彼女は千里の背中にコツンと額を預けた。
──ああもう、動けないし、どうしろっていうんだ!
試されているとしか思えない。
「き、杏佳さ」
「にーにー!」
遠くから遮るその声は万里以外の何でもなく。
杏佳はそっと離れ、万里の方へと歩いていった。
だから、千里には杏佳がどんな表情をしていたか、なんてわかるわけもないし、見当もつかない。
「どうした、万里?」
「ううん、夕飯、何かなって」
「パスタ」
「こ、この匂いは…!」
「ん?」
「エビクリームパスタ! あたしの好みで言えば棊子麺が合う!」
──き、きしめん…。
確かに、形状はそうだけど。
しかもエビクリームもその通りだけど。
「ひら麺とか、小洒落た言い方は無かったのか」
「棊子麺が一番通る名称かなと」
洒落っ気より実用性。
性格なのか、まだお洒落というものにそれほど興味がないのか。
万里らしい。
「よーし、テーブルあけてー。あ、杏佳さん座っててください」
「え、でも」
「大丈夫です、万里が準備してくれたので」
「いいのかなぁ、私、女として何もしないって」
「女であるどうこうより、お客さんですから」
気付けば万里が支度を終え、テーブルには用意ができていた。
すとん、と正方形のテーブルの、杏佳の正面に、万里が腰を下ろす。
必然的に千里の場所は二人が両サイドにくる。
「いただきます!」
「いっただきまーす」
万里は、杏佳をどう思っているのか。
逆に杏佳は、万里をどう思っているのか。
二人は腹の内をひた隠しにして、笑顔でパスタを突っついている。
「あ、そうだ…杏佳さん」
「ん? パスタ美味しいよ?」
「ありがとうございます…いや、そうじゃなくて」
きゅぽん、と音を立てて栓を外し、彼女のグラスにトポポ、と流し込んだ。
「これは…、」
「ワインです」
千ちゃんお酒飲まないんじゃないの?
彼女は口にこそしなかったが、目ではそう言っていた。
目は口ほどにモノを言う。
「杏佳さんもよく知る友人が、よく呑みに来るんで、置いてあるんですよ」
そうなの。
呟くと、彼女はコクリとワインを喉へ流し込んだ。
飲酒をほとんどしない千里にはわからないが、杏佳の顔からして、友人の選択したそのワインは美味しいのだろうと解釈する。
「にーにー」
「ん?」
「あたし、お風呂入って部屋戻るから」
「あっ…あのさ、万里、ちゃん」
千里に掛けられた声に反応して、万里に声を掛けたのは、杏佳だった。
「あ、あのね、私も…一緒していいかな」
「お風呂…ですか?」
「そう…ダメ、かな?」
「いいですけど」
おいおい、普通は現在の家主に許可取るものじゃないのか。
と思いつつも、別に異議は無いので千里も頷く。
「じゃあ、杏佳さん、適当に服貸しますかね」
「あ…着替え、持ってきてなかった。ごめん、千ちゃん」
「いや、俺ので良ければ」
中学1年生の万里は、すらりと細身で、身長が低めだから、服を借りるに借りれないだろう。
「うん、ありがとう!」
しかし、どうしたことだろう。
会社では抱き着いたり騒いだりエトセトラの杏佳が、家に来てからは借りてきた猫のようだ。
否、正確に言えば──万里に会ってから、か?
食器を片づけて、選択してあるスウェットを持っていくと、二人はまだキッチンに居て。
何かよくわからないが談笑をしている。
杏佳が風呂に入っていく、と言ったのもきっと何か考えがあるのだろうとは思っていた。
あまりに、不自然だから。
──俺と二人っきりで居たくないとか? …否、それなら呑みに誘わないか。
「杏佳さん、これ着替え」
「あ、ありがとう千ちゃん!」
「その…下着、とかは…万里、貸せるか?」
「えー、あたしのスリーサイズじゃ杏佳さんのスタイルに合わないよー」
「や、大丈夫…うん、そのまま寝るとかじゃないし…」
なんとかするよ、あはは、と笑いながら、二人は風呂場へと消えて行った。
「じゃ、お風呂借りるね…?」
──家に来てからの杏佳は控え目で、昔の杏佳のような雰囲気を醸し出していて、正直調子が狂う。
*
幼稚園で、千里は一人で居た。
友達が居なかったわけじゃない。
一人で良かった。
一人に慣れていた。
物心をついた頃、既に両親は仕事で普段から家に居なかったし、千里は送迎バスのある幼稚園に通っていた。
比較的何でも一人で出来た。
だから、一人で本を読むことが好きだった。
ただ、それだけだった。
「…せん、り?」
「……きょうか。どうしたの?」
「ひとり?」
「ひとりだよ」
「ね、あそばない?」
「あそばない」
一人で本を読んで居たかった。
ただ、それだけだったのに。
「ね、あそぼうよ」
突っぱねても突っぱねても、彼女は千里に寄ってきた。
この頃は長かった、艶やかな黒髪を二つに結んで、彼女は千里の手を引く。
「…ねえ、せんちゃんって呼んでもいい?」
「だめ」
「なんで? ね、せんちゃん、なんで?」
「いや、だめだってば…」
「せんちゃん、なんで? …きょうかのこと、きらい…?」
「え、そうじゃなくて」
違う。
好きとか嫌いとかじゃなくて。
「じゃあ、すき?」
「かんがえたことないよ…」
困ったように眉根を寄せる千里の腕を引いて、杏佳は立ち上がる。
「じゃあ、いいよね。きらいじゃないなら、あそぼっ!」
「え、ええっ…きょうか、…!?」
あの時は地獄を見たと思った。
完全インドア派の千里は、杏佳のように外に出て走ったことも、虫を持ってこられたことも無かった。
隣で笑う杏佳は、幼稚園児ながらにも、可愛いと思ったのを覚えている。
「せんちゃん、ほら、あそぼ!」
控え目だけど、夏の向日葵に負けないくらいの、とびっきりの笑顔だった。
その日以来、彼女は暫く放っておいても、午後になると千里のところに来て外に連れ出すようになった。
「ずっと絵本を読んでた千里くんが、杏佳ちゃんのお陰で外に出るようになったんですよ」
「千里くんも、最初は嫌な顔してても、最終的に笑ってますからね」
「あら、ほんとですか?」
保母さん達が、杏佳を迎えにきた母親に話しているのを聞いたことがある。
…正直、千里には殆ど理解は出来ていなかった。
杏佳は家が近かったから、バスは使わず、迎えが来ていて。
「せんちゃん、またね! バイバイ!」
「…ん」
だからかもしれない。
外で遊んだ後、二人で屋内に居て、一緒に話をして、そのあと親が杏佳を迎えに来て、一緒に帰っていくのが。
──さみしい。
両親が居ないのは、普通だから。
一人も、慣れっこだから。
──だから?
平気だなんて、誰が、言った?
「せんちゃん、あそぼ!」
「…………ちかよるな」
傷付く前に。
傷付けられる前に。
…傷付ける前に。
「ぼくに、かかわるな」
最初に拒絶したのは、千里だった。
さみしいなんて感情を、知りたくなかった。
彼女が居るから傷付き、そんな自分を守るために、彼女を傷付ける、くらい、なら。
──近寄るな。
その日から暫く、杏佳が泣いているのは、何となくわかっていた。
でも、でも、でも。
泣きたいのは、こっちだ。
半端な優しさなら。
ずっとずっと、一緒に居られないのなら。
──そんなもの、要らない。
ずっと、一人のままでいい。
そうして、千里と杏佳は関わらなくなって、千里は一人のまま、杏佳は女友達と一緒に居るようになって、成長して──…、
「千ちゃん」
その日は、来た。
小学生も、後半に差し掛かろうという頃に。
久々に、自分に向けられた声。
いつから聞くだけになっていたのだろうか、その声は。
「千ちゃん」
出来るだけシャットアウトしていたから、たまに耳に入るだけになっていたその声は。
その昔、初めて自分に声を掛けてくれて、外で遊ぶということを教えてくれたその手は、
「千ちゃん、あのね。クラス全員でドッジボールするから、校庭に出て、って」
「…わかった」
「うん、じゃあ、行こ?」
拒絶を忘れたかのように、また長い時を越えて、再び自然と重なってきた。
「…離して」
「やだよ、千ちゃん逃げるでしょ? 千ちゃん入れて人数ピッタリなんだよ、行こ!」
グイグイと腕を引くその体温は変わっていなくて、グッと何かが込み上げるのを感じる。
身体一つ分、前を行くその後ろ姿が、もう懐かしい。
あの頃は長くて、二つに結んでいた髪の毛が、肩につかない長さになっている。
それが何だか、彼女らしい、と思ってしまった。
「みんなー、千ちゃん連れてきた!」
「え、安藤くんやるの?」
「人数ぴったりになったね」
「んじゃ、始めよっか!」
いや、俺やるなんて言ってないし。ちょ、おい、杏佳。
そんな内心に誰も気付かず、既に組は分けられていて、杏佳と同じ組になっている。
何の陰謀だ。
「…おい、安藤居て大丈夫か」
「あいつ体育とか真面目にやってるの見たことないんだけど」
「俺もー」
同じ組の男子からは、大丈夫かと下に見られ。
違う組の男子からは、安藤を狙えと言われ。
普段こういうことは遠巻きにしていた千里だから仕方がないのだけど──、
「千ちゃん、運動神経はいいんだから。…本気で走れば速いし、ドッジボールだって、例えやったことなくても大丈夫」
一緒に遊んでた私が言うんだから、確かだよ。
隣に居た杏佳は、他の人には聞こえない程度の声で千里に声を掛ける。
どうして。
──どうして、俺が拒んだのに、杏佳…お前は、俺に手を差し伸べるんだ?
*
杏佳の言った通り、千里は運動神経の無駄遣いと言えよう動きで、飛び交うボールを避けに避けまくり、気付けばコートに残ったのは千里一人だった。
「…あれ?」
え、杏佳は?
他のチームメイトは?
みんな、アウトになり、外野へと回っている。
「おい、安藤…狙っても狙っても避けられるんだけど」
「終わらないよ!」
相手も少ないけど。
ボールに当たると痛いから避けていただけなので、あとは千里が投げない限り、終わらないわけで。
「千ちゃーん!」
杏佳だというのはすぐわかった。
「千ちゃん、真面目にやってみなよ! …今まで、何でもやってきたじゃない!」
どうしてそれを知ってるんだ。
友達と言える友達は殆ど居ないし、そのうえ今のクラスには居ない。
杏佳が傍に居る時、千里は大体ひとりだった筈。
どうして、他の数少ない、後腐れのない友人と一緒に居る時のことを。
「…なんで」
呟きは、飛んできたボールの音で掻き消された。
──どうして、杏佳は、俺を…。
吸い込まれるように飛んできたボールを、ガシッと掴むと、そのモーションのまま、先頭で投げたポーズのままの男子の、足元目掛けて力一杯投げた。
*
「…ごめん」
「いや、大丈夫…くくっ……あははっ! バカみてぇ!!」
千里が投げたボールは、ミラクルを起こし、男子の足に当たったあと跳ね返って、ポコポコと色んな人物に当たり、地面に着地した。
一瞬静まり帰った校庭が、一気に沸く。
待って、何、え。
何が起こったのか理解していない千里は、ひとりコートの中でオロオロとして。
一番最初にボールが当たった男子が蹲った事で漸く理解した。
ボールが当たった素足は、赤くなっていた。
「…ほんとごめん」
「大丈夫だって。…いやぁ、安藤があんな最終兵器になるとはなー」
その男子の隣に、杏佳が仁王立ちをする。
「さ、黒田! 謝ってね」
「……安藤、ごめん」
何のことかわからず、千里は首を傾げた。
話を聞くと、杏佳とその黒田は、ドッジボールに千里を加えるかどうかで言い争いになったらしい。
黒田は、どうせ本を読んでいるし、使えなそうだし、入れないでいいじゃないか、と言って。
杏佳はそれに激怒し、千ちゃんを仲間外れにするなんて許せない、千ちゃんを加えて負けたら謝りなさいよ、と言ったそうだ。
「…人で賭けすんなよ」
「う、ごめんって…」
自然と杏佳と話せていることが、とても不自然だ。
この頃も、千里は家でも一人で居たから。
杏佳とも、関わる気は無かったのに。
「ごめんな、安藤」
「いや、黒田の見解が正しいと思うけど…、こちらこそ、痛かっただろ」
大丈夫だってば、という黒田の足には、氷が当てられている。
お互いに謝ってばかりで、バカみたいだ。
「………千、ちゃん?」
「…え?」
「え、いや、あの、そう、呼ばれてたから…えっと」
何だ。
…そういうことか。
「黒田」
「え…」
「いいよ、それで」
別に、自棄になったわけじゃなくて。
意固地になっていた自分が、とんでもなくちっぽけに見えた。
それだけだ。
「俺も、流って呼ぶから」
黒田──本名黒田流之介は、それ以来、中学高校大学と、千里と同じ学校に通い、どこかの企業に入社し、よく呑む仲になった。
杏佳の呑んでいたワインも、実は彼の物である。
「黒田狡い! 千ちゃん、私が千ちゃんって呼び始めた時、何て言ったか覚えてる!?」
「お、覚えて…うえ、酔うから、揺らすなって」
「そうよ、忘れられてたまるもんですか! ダメ、って即答よ!? 考えもせずに!」
流之介は、思いの外にいい奴だった。
万里も流之介によく懐き、いつぞやのクリスマス以来、「お兄ちゃん」と言ってついて回るようになった。
そして、それから──…。
拒絶を完全に忘れたかのように、杏佳は自然と千里と行動を共にするようになったし、そこに流之介が入っていてもそれは変わらなかった。
杏佳と千里が喧嘩をすると、仲介をしたし、よく一緒に居るようになって。
杏佳に特別な感情を抱いていると気付くのに、あまり時間は掛からなかったけれど。
それでも千里の中には、今も後ろめたさが残っている。
なあなあのまま、ずるずると幼馴染みの関係を引き摺ってきてしまって。
改めて、幼少期の事を謝罪するのは、なんだか間抜けな気がする。
「…あ」
そういえば、この頃はまだ、ただの元気な女の子だった。
暫く会わないうち、杏佳は、今のキャラクターへと変貌したのだ。
…悪くは無いが、たまに昔の杏佳に戻られると、とんでもなく動揺する。
万里が流之介と仲良くなったように。
杏佳とも、仲良くなるのだろうか。
*
「お姉ちゃん、お風呂上がりは何牛乳派?」
「私ね、コーヒー牛乳派かな。万里ちゃんは?」
「にーにーと一緒だね! あたしフルーツ牛乳!」
「兄妹って、違うのねぇ…」
──…おいおいおい、どういうことだ、人が回想をしている間に、何があった。
風呂上がりの二人は、髪を拭きながら牛乳について語りながら居間に入ってきた。
お姉ちゃん、って。そんなに仲良くなったのか。
千里が、杏佳さん、というようになったのは、大学を出て、就職をしてからだ。
仕事場に初めて行った時、初めまして、と言って、手を差し出したのが、まったく変わらない笑顔の杏佳だったから、酷く驚いたのを覚えている。
仕事でわからないことがあったら、私に言ってね、と。
隣に居た筈の杏佳は、手の届かない人になっていて。
──知らない、人、…みたいだ。
4年も先に就職したからか、仕事中の彼女は随分と大人びて見える。
クラリと、目眩がした。
「あのね、千ちゃん」
「千ちゃんって呼ばないでください、“杏佳さん”」
再び突き放したも、千里だった。
杏佳は、また泣くのか。
また、昔のように。
今度こそ、これを謝罪出来たら、前とは変るのだろうか?
だったら、泣けばいい。
泣いて、怒って。
そうしたら、謝るから。
幼少期の頃のことも含めて、全部謝るから。
だから──。
そう思ったのに、大人になった杏佳は、強くなっていた。
「何言ってるのよ、幼馴染みに! いい? 今日は新入社員の歓迎会があるから、仕事が終わったら呑むわよ! 千ちゃん、逃げたら承知しないんだからね!」
──この時、思った。
杏佳はもう、違うのだと。
千里の知る彼女とは、違うのだと。
だったら──離れてくれるまで、泣くまで、突き放すまでだ。
我ながらバカなことをしていると、わかっている。
それでも、彼女を想う千里の心はきっと、幼いまま、止まっているのだろう。
突き動かす時が来るまでは。
雪解けの春を待つ新芽のように、千里の中で、眠ったまま。
*
「千ちゃん、コンビニ、付き合って」
「…コンビニ?」
「お酒。人の物、全部飲むわけにはいかないでしょ」
──いや、流も杏佳さんなら別に許すと思うけど。
そう思いつつも、千里は財布と鍵を持って腰を上げた。
「万里」
「はーい」
「ちょっと出掛けるから、戸締りしとくけど、誰か来ても開けんなよ?」
「いってらっしゃーい」
万里がパタパタと奥に入っていくのを最後に、パタンと扉が閉じた。
「ね、千ちゃん」
「…くっ付き過ぎです、杏佳さん」
手を繋いで寄り添うのは正直、幼馴染みの域を出ている気がするのだけど。
彼女は、離そうとはしない。
「前みたいに呼んでよ、ね」
「…嫌です、どこに社員が潜んでいてもおかしくはないんですよ?」
「別にいいじゃない、仕事とプライベートは別モノでしょ? ね、仕事中は我慢するから、千ちゃん」
「嫌です」
ぷく、と頬を膨らませたまま、彼女は更に密着してくる。
寄り添い、甘えるように、腕に頭を預ける。
「…ちょ、」
「千ちゃんが、いつまでも私に距離を置くなら。…千ちゃんが嫌だって言っても、私は追いかけるんだから」
「…」
嫌だなんて、言うわけがないのに。
「千ちゃんが、どうしても…どうしても、私が上司だっていうことを、敬遠する理由にするなら。……私、仕事辞める」
「は!?」
「私は!!」
近くの街頭で、彼女の顔は見えるのに。
千里はどうしても、真っ直ぐな杏佳の視線に、耐えきれない。
「……私は、昔みたいに、千ちゃんと…クロと、一緒に…楽しい話とか、したいのに…」
クロというのは、流之介のことで。
確かに一緒に居た時間は楽しかったけれど。
「…昔、みたい…なんて、無理だろ」
どんどんと、綺麗になっていく杏佳は。
幼いまま眠っている千里の恋心では、手が届かない。
差し伸べられた手も見えない。
「どうして?」
「……それ、は…」
「私のこと、嫌い?」
ドクン、と。
心臓が一際大きく、歪な音を奏でる。
先程思い出していた幼少期にも、聞いた言葉。
「…そんなわけ」
「じゃあ、好き?」
心臓を、直接撫でられたような感覚。
土足で、踏み込まないでくれ。
お願いだから。
いくら、…杏佳、お前でも。
「…もう、考えたことないなんて、言わせない」
クイッと、冷たいてのひらが、両頬を包み込む。
払いのけようと思えば出来るのに、それをさせない、強い瞳に捕まった。
「万里ちゃんに聞いたの」
「…何、を」
「私が、千ちゃんと一緒に居られなかった時間を、埋めたくて。覚えてる範囲で、色々と。…カッコいいお兄ちゃんやってるんだってね」
軽口のように口角を上げるのに、目だけは真剣で、逃げたい衝動に駆られる。
「私も、知ってほしい。千ちゃんが、知りたいと思って、それで知ってほしい」
「きょ…」
「この期に及んでさん付けで敬語を崩さなかったら」
てのひらに、グッと力が込められて。
「ここで唇奪ってやるんだから」
「ッ…!!」
体重を掛けられて、無理矢理屈まされて。
至近距離で、揺るぎない双眸が、睨み上げるように、何かを読み取るように、千里の眸を捕まえて離さない。
急速に熱を持ち、徐々に溶かされる心が、やめてくれ、開けないでくれと、悲鳴を上げた。
「……杏佳…わかった、から…」
杏佳の両肩に手を置き、力任せに距離を作る。
これ以上、暴かれたら──暴かれたら?
長い間眠っていた恋心が目を覚まし、その暁には何をするか、わからない。
そんなこと、千里の理性が許すわけがない。
「何がわかったの」
「……距離。作ってほしくないって。…努力する、よ。流も呼んで、休日に呑んだり遊んだり。いいよ、しよう」
それが精一杯だ。
近くのコンビニのある方向の暗闇へと歩き出す。
街頭の下に残った杏佳が、一歩遅れて走って追ってくる音が聞こえ、
「──ッ!」
ドン、と。
背中に抱き着かれ、一気に頭に血液が昇った。
「きょっ…杏佳お前…ッ!!」
下着はなんとかする、と言ったくせに。
抱き着かれた感触は、スウェット以外に隔てるモノがなくて。
流石に引き剥がそうと、真っ赤になってもがくも、杏佳は離れそうにない。
どうしよう、どうしよう──これは、かなりまずい。
「……杏佳、離れて」
首を横に振る気配。
背中に頭を押し付けたまま振るから、わかりやすい。
「何か言って。動けないんだけど」
「…千ちゃん、置いていかないで…」
「は?」
置いていくほど先に歩いてはいなかったはず。
何を言っているのかよくわからないので、力の抜けた返事をしてしまった。
「千ちゃん…中学の後半から、私を置いて成長していってさ…」
「身長の、話?」
ふるふると、また首を振る。
そんなに頭を横に振って、中身どろどろにならないのか。
大丈夫なのだろうか。
「見た目もそうだけど、中身も…あれから随分経つけど、私なんか、見向きもしないで、どんどん大人になってくんだもん」
「何それ」
「千ちゃんが、“お兄ちゃん”やってる時、知らない人みたいでヤだった…! 初めて商談した時も、誰よあんた、ってくらい話し方違って、」
「それは杏佳も同じだろ」
「同じじゃないよ。私は、必死に背伸びして、大人の仮面被って、千ちゃんに追い付こうって思って」
それは、千里が。
先に入社した杏佳が大人びて見えて、遠く離れていったように感じたのと、同じ感覚。
──なんだ、そうだったんだ。
「ふっ」
「……何で千ちゃん笑うの」
「いや、同じだな、って」
「? どういうこと?」
わからないのか。
いつも、随分前の方を突っ走っていると思っていた杏佳が、背伸びをやめたら。
──何だ、学生時代のまま、自分と大差は無いじゃないか。
「杏佳」
腕だけ後ろに回して、手だけで探し当てた、杏佳の頭を、少しだけ乱暴に撫でる。
お腹の辺りまで回っていた腕が、ピクリと反応したのが、顕著に伝わってくる。
乱暴に撫でるその頭の高さは、万里よりは高いが、平均から見るとやはり低い。
──いつから、俺を見上げるようになったんだっけ?
「杏佳」
「…うん」
「杏佳」
こうなってくると、名前を呼ぶだけで、学生のころに戻れたような感覚に陥って。
少しずつ、恐れていた蓋が、開いていく。
杏佳。
杏佳…なあ、どうしてお前は俺に声を掛けてくれるんだ?
拒絶しても、拒絶しても、何でもないように──ううん、本当は何でもないわけじゃないから、少し傷を癒す時間をおいてから──でも、次の時には、幼少期と変わらない、向日葵のような笑顔を向けてくれる。
杏佳。
そう呼んで笑いかければ、絶対に笑顔が返ってくるのは、もうとうの昔にわかっていたこと。
その理由を考えるうち、大人になった千里に、眠っていた恋心が追い付いてくる。
「俺は、全然大人なんかじゃないよ」
「…え?」
「万里の言う、“カッコいいお兄ちゃん”も、出来てる自信がないし」
「千ちゃん…」
するりと杏佳の腕が滑り落ち、解放された千里は、暗闇でくるりと彼女に向き合った。
「俺は、ただの“大人ぶってないといられない、中途半端に成長した子供”だよ」
変わらない。
兄になったからって。
大学を出たからって。
就職したからって。
本質が、急に変わるわけがない。
「杏佳がどうかはわからないけど。…俺の中には、薄皮一枚剥がすだけで、まんま高校生の俺が居るんだよ」
「…何それ」
拗ねるような、吐き捨てる口調。
「私、頑張って背伸びしてたのに」
「もういいって。お互い背伸びしてたら、疲れるだろ」
「千ちゃんも、もう私のこと、敬遠しない?」
「…………」
「え、ちょっと、そこは頷く場所でしょ!?」
正直、関係がそのままで、感情が変わったからといって、ガラリと対応を変えたら──上司から、同僚からの風当たりが、予想できる。
「杏佳、お前自分が上司ってこと忘れてない?」
「千ちゃんが出世すればいい」
「簡単に言われても」
なんだか、本当に。
本当に、ずっと意地を張っていたのが、バカみたいだ。
「杏佳、俺になんか言うこと、ない?」
「…え?」
「ない?」
何かあったっけ、と思いを巡らせているようだ。
…外れてたら、かなり恥ずかしいなと思いながらも、腐れ縁だからもう、そんなことすらどうでもいい気がする。
だから、助け舟を出す。
「…俺のこと、嫌い?」
「そんなわけないじゃない!」
即答が気持ちいい。
そんな感じで、次の質問も即答で頼むよ、と内心冷や汗をかきながら。
幼稚園児の頃の質問を、そのまま返す。
「じゃあ、好き?」
「そ…ッ!!」
暗闇で、口をぱくぱくさせているのがわかる。
──多分、真っ赤なんだろうな、見たいな。
「…んな、こと……」
「“考えたこともない”?」
「!! せ、千ちゃん!」
ぼかぼかと、拳で叩かれる。
闇雲に叩くから、結構色んなところが痛い。
「………い、言わないでも…伝わってると、思うの…」
「そうだね、俺もそう思う」
「!!」
ああ、出来れば明るい場所で見たかった。
きっと、涙目なんだろう。
声も、心なしか、か細くて。
「好き?」
「…………」
「あそう」
くるり、と背を向けて、またすたすたと歩き出す。
足音が遠ざかるのが聞こえてか、彼女も慌てて追ってくる。
今度は、抱き着くことなく、一歩後ろを歩いていた。
「せ、千ちゃん、怒った? 怒った!?」
「なんで? 怒る要素、ないだろ?」
「えええ、怒って無かったら今の反応おかしいよ!!」
怒ったんじゃない。
怒ったふりをして、焦る杏佳を見たいだけ。
「せ、千ちゃん、待ってよ…」
痺れを切らしたのか、街頭の下で、裾を引かれた。
街頭のお陰で、漸く千里を見付けて、引っ張れるようになったのだろう。
「なに?」
振り返ってよく見れば、身長にまったく合っていない自分のスウェットを着た杏佳が居た。
手足の長さがぶかぶかで、可愛いのだけど危なっかしい。
「あの…あの、…」
「どうした?」
出来る限りの優しい声を出して、彼女の目線まで屈めば、ボン、と真っ赤になって。
千里の読みは間違いじゃないということがわかった。
「す、…ッ…好きだよバカ! もう! …わざわざ言わせないでよ! わかってるんでしょ!?」
「俺も」
自分の声に被る千里の声が聞き取れなかったのか、我が耳を疑ったのか。
真ん丸に双眸を見開いて、千里の次の言葉を待ちながら、パクパクと口を開けたり閉じたりする。
──その反応で、十分だ。
満足げに笑って再び歩き出す千里のてのひらは、今度は杏佳のてのひらをしっかりと掴んでいた。
「せ、せん…えぇぇ!?」
そのあと、コンビニに寄り、目的の物を買って帰ると、そのまま杏佳は千里と呑み明かした(千里は呑まなかったが)。
そうして朝、ソファーで千里の上着を掛けて眠る杏佳と、床で寝転がっている千里を見付けた万里は。
「にーにーの意気地なし────!!」
腹式呼吸で腹から出した声で、二人を起こしたのだった。
いつまで起きていたのか、寝不足ですと顔に書いてある千里は、頭を押さえながら起き上がった。
杏佳は死んだように眠ったままである。
「…俺の何が意気地なしだって? 万里」
「にーにー、絶対帰ってこないと思ってたのに!」
「…は?」
何を言うんだこいつは、と千里が目で訴える。
コンビニから帰ってくるな、と?
「お姉ちゃんが告白するって言ってたから!」
「宣言してたのか」
「だからにーにー、絶対お姉ちゃんの家に転がり込んで、お姉ちゃんとイチャイチャしてから、えっ」
「ストップストップ! 何を言わんとしたかわかった!」
つまり千里がまだ杏佳を抱いていないということが不満らしい。
なんてませた中学生だろうか。
千里が耳まで赤くなって、あわあわと言葉を選ぶ。
「も、物事には順番があんだろ! っていうか、俺ってそんな軽い男に見られてたわけ!? 心外なんだけど!」
「え、だってこの少女漫画だと、先に告白よりも身体──」
「な、なんてモノ読んでんだよ!?」
漫画と現実を混合するな!
幼少の頃からボケボケだった万里は、やはり成長してもボケボケのようだ。
しかし──今時の中学生って。
一体何段飛ばしで大人の階段を掛け上がっているんだろうか。
千里達といえば、まだ恋人らしいことは全くしていないというのに!
「…万里、篩がどうのってのはいいの?」
「あたしと気が合ったからオッケー!」
妹に恋人オッケーを貰う兄の図って、何だかとても情けないのだけど。
「ん…? 千ちゃん?」
「おはよ」
寝ぼけて視点が定まっていないのが、やけに新鮮で、可愛いと思えてしまう。
千里の青春の扉が全開である。
「おはよー、千ちゃーん」
目を擦りながら、ふにゃふにゃと言っているその姿を見て、千里は無言で立ち上がった。
そして朝ごはん作ってくる、と一言残して去ってく。
「…万里ちゃんおはよー」
「おはよ…お姉ちゃん。それはちょっとにーにーが不憫だと思うの…」
千里は卵焼きを焼きながら、悶々と煩悩を撒き散らしていた。
何年も想い続けた幼馴染みの恋人というポストを手に入れて。
翌朝、彼女が着ている、自分が貸したスウェットが鎖骨下まで肌蹴ていて。
ズボンも何故か、辛うじて足に引っ掛かっている程度まで脱げていて。
──もう! 俺今後絶対苦労する!
先が見えたような気がして、朝から頭を抱えたのだった。
後日のお話。
「え、私が飲んだワイン、クロのだったの!? …千ちゃんとクロ、私より頻繁に会ってたなんて狡い!」
流之介が持ってきていたワインを杏佳に出した手前、言わないわけにはいかないだろうと報告してみれば。
「久々にクロにも会いたーい! ね、クロ呼ぼうよ!」
「………うん」
「何よ、その間は」
「…普通さ、」
「うん?」
「…相手も小学生からの付き合いとはいえ、彼氏の前で他の男に会いたいって、言う?」
唇を尖らせると、一瞬キョトンとした杏佳は、すぐに理解したらしく、お腹を抱えて笑い出した。
「あっはははは!」
「ちょっ」
「ははっ…っ──!」
「き、杏佳」
「──! ッ──!!」
後半は、呼吸がまともに出来ずに爆笑していた。
彼女が普通じゃないのは、わかっていたけど。
いくらなんでも酷いんじゃないか。
「あー、笑った」
「…もういいよ、流呼ぶ…」
不貞腐れてカチカチと携帯をいじりだすと、杏佳はその後ろから、ふわりと抱き着いた。
するりと首に腕が回る。
「……杏佳」
「んー?」
「ご機嫌取りのつもりなら、やめて」
「違うよー」
付き合う前も、今も。
「千ちゃんに抱き着いてると落ち着くから、くっついてたいのー」
──だったら、流に会いたいなんて、言うなよ。
思わぬところで嫉妬をさせられた自分が許せなくて、千里はムスッとしたまま、電話を掛けた。
*
「うわー、ホントに杏ちゃんが居るー」
「きゃーっ! クロ久しぶりー!」
久しぶりに会う友人だから、当然といえば当然の会話なのだけど、やっぱり面白くない。
「え、何、杏ちゃんが上司ってのは千ちゃんから聞いてたけど、休日の昼間っから居るってことは、やっとそういう関係になった…ってこと!?」
「え、ちょ」
「そうなのーっ! 千ちゃんってば意地悪でさー」
「え、待っ…ねえってば」
「昔から意地悪ではあったよな、優しく突き放すっていうか」
「わかるー!」
「き、聞いてる!? 二人とも!」
千里が口を挟むと、二人が「え、何」と首を傾げた。
「や、やっとって何?」
「え、杏ちゃんの気持ちに気付いてなかったの、千ちゃんだけだと思うよー」
「私そんなにわかりやすかった?」
「うん。もうさ、他に誰も入り込めなかったよー」
──俺は今、二人の間に入り込めないのだけど。
何だそれは、だったら、千里の気持ちも駄々漏れだったのか?
「いや、全く」
「千ちゃん表に全く出ないんだもーん、わかりにくいよ」
「わかりやすかったら違うモーションかけてた?」
「そりゃもう、上司とか関係なしに色仕掛けを」
──ついていけない。
やっぱり、杏佳には頭を悩まされるのだと、千里は小さく溜め息を吐いたのだった。