お兄ちゃん、走るのです!
──千、ごめんね。でも千はしっかり者だから。私達の代わりに、あの子の面倒を、見てあげて欲しいの。
千里という名前をつけたのは、名前も知らない国へ仕事に行った父だった。
キャリアウーマンの母は、父と共有する時間も少なく、久々に会うと息子はほったらかしてしまう。
だから、彼の寂しい気持ちを紛らすためか、二人の仲がいいだけなのか、はたまた両方かは、わからない。
「千! 千里、聞いて!」
「…何? 久々に帰ってきたと思ったらまたノロケ? いい加減に──」
いいから鞄持ったままでいいから、とリビングに引っ張られると、両親が揃って満面の笑みを浮かべていた。
「……何?」
「千里! 妹か弟が出来るのよ!」
ドサドサッ!
手に持っていたものを全て落とす程度には驚いた。
いや、驚いたというか、思考が停止して力が抜けただけなのだが。
「あらやだ、千里ってば大丈夫?」
「……あ、うん」
「随分年の離れた兄弟になるけど、仲良くな」
「……うん」
それから暫くして母は仕事を休み、父は更に仕事に力を入れ、彼が高校1年の頃。
「千里! 妹だって!」
母親が、興奮した様子で電話を寄越した。
その妹とやらは万里と名付けられ、首も座ってきっちり歩けるようになるまでは、母親が育休をとっていた。
そう、それまでは。
「千」
「はーい?」
「千里は大学生だし、大丈夫だと思うの。だから、万里のこと、宜しくね」
千里が19歳、万里が4歳の時だった。
「…え、どういうこと?」
「千、ごめんね。でも千はしっかり者だから。私達の代わりに、あの子の面倒を、見てあげて欲しいの」
「ま、待って。万里ってまだ幼稚園児だよな?」
「オムツはとれてるよ」
そこも大事だが…いや、大事だけどそこじゃない。
「で、お母さんのそのバカでかいスーツケースはまさか」
「そ。今日から仕事復帰で、その足で北海道の左遷…じゃなかった、転勤先に挨拶に行って」
「今、左遷って言わなかった?」
「荷物取りに戻るけど、また数年戻らないから、千宜しくね! 行ってきます!」
「よ、宜しくじゃなぁーい!」
どうしろっていうんだ、子育てなんて高度なこと、大学生に出来るわけもない。
「にーにー?」
クイクイ、と上着の裾を引っ張られ、真横を見れば、くりくりの二重瞼を大きく開く万里の姿があった。
「にーにー、痛いの?」
「──違うよ、万里」
ぽん、と頭に手を置いて笑いかけると、首を傾げながら、彼女も笑った。
「ママはー?」
「ん? 万里が幸せに暮らせるように、頑張りに行ったんだよ」
手を引いてぺたぺた歩きながら、万里は首を傾ける。
「ママのが良かった?」
ふるふると真剣な顔をして、頭を振って、キッと見上げてくる。
──いい眼だ。
幼稚園児とは思えないくらい、力のある眼。
──イイ女になるぞ。
「にーにーいるから、いい」
「……そうか」
「にーにー?」
「……甘えて、いいんだからな」
言おうか迷っていたから、万里には聞こえなかったようで、キョトンと「?」を浮かべている。
言った方が、良いのだろう。
腰を屈めて、目線を近くする。
「万里は女の子で、妹なんだから。お兄ちゃんに甘えていいんだぞ」
「? うん!」
今、わからないって顔しただろ。
突っ込みつつも、クシャリと頭を撫でると、花のように笑った。
「ただし、友達の嫌がることはしないことな。何かあったら、お兄ちゃんに言うんだよ」
「うん!」
今度は元気のいい返事が聞けたから、幼稚園の先生へと引き渡す。
「……あれ? ええと、万里ちゃんの…?」
「兄の千里といいます。暫く、母の代理で送り迎えをするので、宜しくお願いします」
「あら、年の離れたカッコいいお兄さんがいたのね、万里ちゃん」
「にーにーカッコいいの!」
──止せやい、照れるじゃないか。
そしてふと時計を見て、サーッと血の気が引くのを感じた。
「やっべ、大学っ…! 終わったら迎えに来るんで、万里をお願いします!」
後半は既に遠くにいたので、随分と語尾が掻き消えていたが、保母さんはふふふと笑いながらその背中を見ていた。
「万里ちゃんのお兄ちゃん、目元がそっくりね」
「千里くんだっけ? 若いけど結構、大人ね……大学生ならアリだな、私狙えるかな」
「彼が相手するわけないでしょ」
つん、とエプロンが引かれ、彼女たちは仕事中ということを思い出す。
「にーにーは、ばんりのにーにーなの!」
子供の独占欲。
意味を履き違えていても、それはそれは可愛いものだから。
「あはは、ごめんね万里ちゃん」
「さ、冷えるし、中行こうか」
11月からは冷えるから。
という話をしている頃、11月だろうが関係なく汗だくになりながら、千里は走っていた。
「ま、間に合った、か?」
こういう時に限って講義が早いから、困るんだ。
「せ・ん・ちゃん!」
「おぉ、おは、よう」
「髪乱れてるよ」
「走ってきたから」
「ふぅん……」
友人は千里の肩に手を置き、もしかして、と囁いた。
「──女か?」
「ぶはっ!!」
「え、図星?」
「違っ…妹だよ!」
妹と聞き、友人は目を輝かせて食い付いた。
「何だと!? 美人!? 是非とも紹介して欲しいな、な?」
「…………幼稚園児を?」
吐き捨てるように言えば、彼は口角を引き攣らせたままの表情で固まった。
大学生の妹が幼稚園児──そりゃあ驚くだろう。
「ず、ずずず随分年の離れた妹だな」
「そうだね」
「紹介してもらうわけにはいかないなぁ」
最初から紹介するなんて言ってない。
あははと談笑しながら大学に向かい、講義をきっちり受けてから。
「千ちゃん、この後暇? バイト、やらない?」
「あ──…わり」
妹迎えに行かなきゃ。
そう言えば、友人はわかったよとケラケラ笑いながら冗談混じりに、
「妹中心の生活だな!」
そう言って去っていく。
否定しきれない。否、そこで息を飲むことで、漸くそうなのだと自覚して、愕然とした。
「…ははっ」
オムツが取れたからって、ちゃんと歩けるからって、手が掛かることに変わりはないのに。
──あんの母親ぁ!
今は北海道に居る母親を思い浮かべ、拳を握った。
ギリリとてのひらに爪が食い込んで、ふぅ、と溜め息を吐いた。
「………行くか」
ボーッとしていて時間をロスしたから、結局は迎えも走る羽目となったのだった。
「はぁ、はぁ、…あの、安藤万里の、保護者です、うぇ」
「あら、千里くん走ってきたの? お疲れ様」
「は、はい……」
「でもまだ時間はあるから、多少遅れても別にいいのよ?」
「──いえ」
呼吸を整え、暑くなったからマフラーを取り、保母さんに強気の笑みを向けた。
「他の子が帰って、万里がひとり取り残されるなんて、俺はさせたくないので。だから、いいんです」
きゅんと保母さんが頬を染めたのを、千里は知らないまま。
「万里ー! いい子にしてたか」
ぱたぱたと走ってきた万里を抱き止め、立ち上がった。
「にーにー!」
「仲良しねぇ」
「あはは、そうですね。…万里、帰りに商店街寄っていこうか、夕飯の買い出し」
「うん! ばんり、肉じゃががいいー!」
「いいよ、10年後には自分で作れるようになるんだぞー? 大抵の男は美味しい肉じゃがを作れる女の子に落ちるからな」
「? うん! ばんりがんばる!」
意味がわかっていないのに、と保母さんが微笑ましそうに見つめ、同時に思っていたこともあった。
「──千里くん、肉じゃがが好きなのね」
「っていうか、自分で作れるのに、料理出来る子に落ちると思うの? あんた」
「うっ…だって……カッコいいんだもん」
安藤千里は料理が上手い。
…というわけではないが、万里が生まれる前は、千里が家事のほとんどをこなしていたから、難はない。
「万里は何が嫌いなんだっけ? 肉じゃがの具で」
「ブロッコリー! まずい!」
「……そうか。でも肉じゃがに普通はブロッコリー入れないからな」
「あとね、いとこんにゃく!」
「え? 嫌いだっけ?」
「のどつまる!」
「よく噛んで食べなさいよ」
ボケボケの中身は、成長したらどうなるんだろう?
消えるのか、ボケに拍車が掛かるか。
将来が楽しみだなと思う辺り、妹というよりも娘に近い感覚だ。
「…と。人が多いな。万里、手」
「て?」
「手、貸して。はぐれたら、探すの大変だから」
娘と言った方が近い妹。
遠方で働く両親が千里を信用して預けた、宝物のような子だから。
てのひらを差し出せば、きゅっと小さな手が指先を握る。
「──もうすぐ、クリスマスだな」
「サンタさん!」
「そうだなー、今年は何くれるかな?」
「ばんりにも、くれるかな?」
「くれるくれる。何が欲しい?」
さりげなくリクエストを訊けば、クンと腕を引かれ、万里はズンズンと商店街を進んでいく。
そして、とあるショウウィンドウの前で立ち止まった。
「これ!」
4歳児と同じくらいの大きさの、クマのぬいぐるみだった。
──テディベア。
いくらするんだろう、大きさからいって…桁は4つ……いや、5つか。
財布と相談するまでもなく、生活費がパァになる。
「…にーにー?」
「そうだな…いい子にしてたらな、サンタさんがくれるよ」
「ばんりおてつだいがんばる!」
4歳児が出来るお手伝いなんてたかが知れてるとわかっていながらも、微笑ましさに頭を撫でてしまう。
一万円とちょっと?
頑張ると言っている妹が、それを欲しいと言うのならば。
「……よーし、やるぞ、万里!」
「おー!」
お兄ちゃんが、プレゼントしてやろう。
*
「あれ、安藤?」
「あー…先輩?」
街中で、暫く会っていなかった先輩に出会し、千里はしまったという顔をし。
彼女は、色々とやりにくい。
「久しぶり、またカッコよくなった?」
「いや、俺は変わってないですよ。先輩こそ、綺麗になりましたね」
「そう? ありがとう! それで…──」
視線の向いた先に気付き、ギクリと顔が引き攣るのを感じた。
「この可愛い子は、まさか安藤の子!?」
「違います!」
やっぱり。彼女なら言うと思った。
「じゃあ何、誘拐? 返してきなさい」
「違いますってば!」
「じゃあまさか…紫の上を狙って」
「先輩黙ってください! 妹です!」
彼女は、一瞬だけ動きを止めて、万里の目の前に座り込む。
「お名前は?」
「あんどうばんりです!」
「……そう」
なぁんだ、と彼女はつまらなそうに唇を尖らせる。
「安藤をロリコンとか紫の上狙ってるとか、デマ流そうと思ったのに…残念」
そんな純粋な子を傷付けるつもりは無いしね、と言うと、彼女は万里の頭を撫でて、去っていく。
──先輩は俺を何だと思ってるんだ。
後輩なんて、そんな役回りだよな、とぼやきながら、万里の手を握り締めた。
*
「──もしもし、例の話、まだ有効?」
唐突にかけた電話の向こうでは、笑い声が聞こえた。
そして二つ返事。
明日また話そうといって切った電話を見つめ、千里は唇を引き結んだ。
「にーにー。ごはんー」
「ああ、今作る」
「ばんりもてつだう!」
「そうだな、じゃあそのテーブルにある物をどかしておいてくれないか」
主に万里の物なのだけど、それを片付ける手間が省けるなら、それに越したことはない。
「なあ、万里」
「にーにー?」
「明日から、帰りが遅くなってもいい?」
「うん?」
「……遅くまで、一緒に居られる子は居る?」
「だいじょうぶ、ばんりひとりでもへいき!」
お前のためなんだ、なんて言葉は、千里のエゴに過ぎない。
万里を一人にはしたくないけど、それ以上に喜ぶ顔を見たいという、自分勝手なエゴを、小さな小さな妹に押し付けているだけだ。
「終わったら、急いで迎えに行くから、先生の言うことをちゃんと聞いててな。夕飯に食べたいもの考えててな」
「うん! おえかきしてまってる!」
「よし、いい子だ」
期限付きだから、どうか我慢してほしい。
──翌日から、千里は一息もつけない日々が始まった。
朝、万里を預けると、走って大学へ行き、そこから友人の勧めてきた場所へ向かう。
「…ここ?」
「そ。人足りないからさ、友達紹介しろって店長が」
「…難しい顔で履歴書と睨めっこしてるんだけど、俺何か悪いこと書いたか?」
「さあ」
お金を稼ぐのに、手っ取り早いのはバイトだった。
「安藤…千里くん?」
「あ、はい」
「ぶふっ! いや、裏のない人だってことはわかったよ、採用」
「早っ! つか今笑いました?」
「くくっ…お金が必要なんでしょ? …しかし、バイトの履歴書に、志望理由、妹にプレゼントを買いたいって書いてあるの初めて見たよ、達筆な字で」
「千ちゃん…素直……」
それ以外に浮かばなかったのだ。
友人と違い、実家から通っているから家賃や食費は親持ちで、正直、お金のやりくりに困ってはいない。
この件がなかったら。
「……それしか、理由浮かばなくて」
「そうか、いや、顔もいいし、いい友達紹介してくれて良かったよ」
「俺が口説きに口説いて口説き落としたんですよー」
「誤解を生むから黙ってて」
本気で落ち込む友人をよそに、千里は店長から直々に、仕事を教わることにした。
いいバイトを紹介してくれたのはありがたいが、少々残念な性格をしていると思う。
「千里くん、こっち」
「あ、はい──」
そうして、日は暮れていく。
*
「こんばんは! 遅くなって悪かった、万里!」
「あら、千里くん、こんばんは。遅かったのね」
「すみません、友達の手伝いでバイト始めちゃって…。今休憩の時間なんですけど、また戻るから、万里…」
「万里ちゃんね、さっき寝ちゃったみたいなの」
──マジでか。
思ったが、それなら背負えるとも思い至った。
保母さん達に礼をして、日もすっかり落ちた夜道を、千里は走りに走る。
「……にーにー?」
「あ、万里起こしちゃったか?」
「んーん…」
「お兄ちゃんな、やること終わってないんだ。帰るまで、おうちでいい子に寝てられるか?」
「えっ…」
まだ添い寝が必要なのだとはわかっているけど。
寝かしつけるほど、時間は残っていない。
「万里」
「わ、ぷ」
「このぬいぐるみ、お兄ちゃんが万里くらいの時に、ママから貰ったんだ、貸してあげる」
「ねこ?」
「そ。お兄ちゃんだと思って、握って待ってて。何かあったら、電話してな」
泣きそうな顔の万里を、千里は見ない振りをして、家を飛び出した。
──何のためにやっているの?
──誰のために働いているの?
いつしかそれがわからなくなっていたことに気付いたのは、クリスマスイブの前日に、迎えに行って家に帰ってから。
万里がぬいぐるみを抱き締めて、バイトを始めてから、初めて「いってらっしゃい」と言った時だった。
──一緒にいてよ。
そう言おうとしているのを我慢しているような、そんな表情をさせてまで。
──俺は、一体何をやってるんだ?
万里のため万里のためと、彼女を理由に、彼女に我慢をさせている。
──大馬鹿者だ、俺は。
「……もしもし、俺」
電話を掛けたのは、ほぼ反射のようなものだった。
「ごめん、妹が体調崩した」
「!? にーに…」
しゃがみこんで目線を合わせ、頭を撫でてやれば、万里は声を出さない。
「──ああ、明日な、オッケー。じゃあ、宜しく」
「にー、にー? ばんり、どこもわるくない…」
電話を切るとすぐ、万里は泣きそうな顔をして見上げてきた。
「万里…我慢させてばっかりで、俺はお兄ちゃん失格だな」
「ううん」
頭が落ちそうなくらい首を横に振って、必死に千里の腕にしがみつく。
「お兄ちゃん、今日の夜はお休み貰ったんだ。一緒にご飯食べに行こう?」
「にーにー、あしたって…」
「ああ…そう、今日お休みの代わりに明日行かなきゃだから、万里は友達と遊んできたらいいんじゃないかなって」
「ともだち?」
嬉しそうに、パッと顔を輝かせる。
普段友達と遊ぶといったことがないから、きっと珍しいのだろう。
「そ。一緒に遊ぶ人決めて、電話するから」
「えっとねー」
こんばんは、安藤万里の兄です。はい、明日、実は抜けられない用事がありまして、万里をそちらで預かっていただけないかと。はい、宜しくお願いします。
電話を切ると、万里は我慢しているわけでも泣きそうでもない、無邪気な笑顔を見せた。
「にーにー!」
「よし、じゃあご飯食べに行こうか」
「うん!」
1ヵ月とちょっと、万里には我慢をさせてきた。
4歳の子を、家にひとりで寝かしつけて、保護者はバイトに向かうなんて。
小さな子供が静かな家にひとりでいる不安や恐怖は、簡単には払拭出来ないのに。
万里のためのバイトだなんて、免罪符にならないのに。
「何食べたい?」
「肉じゃがー!」
「……それ好きだな」
いいよ、万里がそれでいいなら。
食事を終えて疲れきって眠っている万里を背負い、千里はぼんやりと街中を歩いていた。
どこもかしこもクリスマス一色だ。
明日は、クリスマスイブ。
夜にはバイトを上がって、万里に美味しいモノを食べさせて。
そして寝かし付けたら、枕元にテディベアを置いておけばいい。
計画は完璧…の筈だった。
「──じゃあ、万里をお願いします」
「事情は保母さんに聞いたわよー、大学行ってる傍ら、バイトしてるんですってね」
「あ、ええと…」
万里に聞かれていないかとチラリと見れば、友達と一緒に遊び始めていて、聞いていないようだ。
「大丈夫よ、聞かれてもきっとわからないだろうから。万里ちゃんの送り迎えもして、…疲れてるでしょう、お兄さん」
確かにそうなのだけど。
初対面で見破られて、千里はポリポリと指先で頬を掻いた。
「普段、親が居ないから…万里には、欲しいモノを買ってあげたいんです」
「じゃあ今日が給料日ってとこかな?」
そこまでバレているのか、人の親、恐るべし。
へらっと笑えば、てのひらを出して、と言われた。
言われた通りに手を差し出せば、コロンと小さなモノが転がった。
「……え、これっ…」
「疲れてる時は、甘いものが一番よー? 子供のおやつしかなくって悪いんだけど」
「あ、ありがとう、ございます!」
てのひらを転がる小さなチョコレートの包み。
万里の友達の母親は、気遣いが出来て、急な頼み事も、嫌な顔ひとつせずに聞いてくれた。
万里は、千里が何をやっているのかもわからないまま、1ヵ月もひとりで待つことを我慢してくれた。
結局、年上も年下も関係なく、千里は周りに支えられていると気付かされた。
「──バカだな、俺は」
「ん? 何か言った?」
「…いえ」
自分のエゴが、周りの優しさによって成り立っていることに気付いた、なんて。
格好悪すぎて、さすがに言えなかった。
「ほら、万里ちゃんはこっちに任せて。早く行きなさいな。せっかくのクリスマスイブなんだから、いい思いさせてあげなきゃ」
「…そうですね、じゃあ、いってきます」
踵を返した千里の背中を見た万里は、友達の母親の服の裾を軽く引っ張った。
「おばちゃん、“ばいと”ってなぁに? にーにー、なにやってるの?」
*
「…悪いな、送ってもらって」
「いや、いいよ。千ちゃんがおっきなプレゼント抱えてるなんて、滅多に見れな…ふがが」
「うるさい、前向いて運転しろ」
バイト帰りに、貰った給料でプレゼントを買ったまでは良かったが、街中を、そのどでかい、いかにもプレゼントを抱えて歩くのは恥ずかしすぎた。
免許を持つ友人に電話を掛ければ、今から行くと迎えに来てもらうことが出来た。
「ちょっと待ってて」
「ん、いいよ。妹ちゃんのいるとこまで送ってくから」
「さんきゅ」
どでかいぬいぐるみを屋外の倉庫に仕舞い、友人の車に乗り込もうとした時。
「にーにー!」
「……え?」
──どうして?
何故、迎えに行っていないのに、家に万里が居るんだ。
ぐるぐると停止した思考を働かせていると、玄関の前に仁王立ちしていた万里が、千里にガシッとしがみついた。
「にーにーのばか!」
「…え? え? 万里?」
「にーにーが、バイトしてるって、しってるんだから!」
「なん、え!? 何で?」
遅いことが気になって、様子を見に来た友人が、どうしたのと後ろから顔を出した。
「ばんりの、クリスマスプレゼントを、サンタさんにこうしょう? しに行ってるんだって、みーちゃんのおかあさんがいってたの!」
…それはまた、説明のしにくい言い訳をしてくれたものだ。
ふと前方──万里の後方──を見ると、みーちゃんとやらと、先程の母親がすまなそうに立っていた。
「ごめんね、お兄さん。万里ちゃん聞いてたみたいで、その…」
苦し紛れな言い訳を考えたと。
サンタだ何だと信じている子供の夢を守りつつ、千里のバイトの理由を守るために、必死に考えたのだろう。
そして憤慨した万里を、時間になってから家まで連れてきたはいいが、家の鍵が開いていなかったと。
「いえ、ありがとうございます」
「ごめんなさいね、もう…」
「いいんですよ、……万里?」
べりっと引き剥がすと、万里の目の前にしゃがみ、目線を合わせた。
「お兄ちゃんな、サンタさんと交渉しながら、今日のご馳走のためにお金稼いでたんだよ」
ご馳走のためだけじゃないだろ、と友人の耳打ちが聞こえたが、手で払い除ける。
「…ごちそう?」
「せっかくだし楽しくしたかったんだけど、逆に寂しい思いをさせて、ごめんな」
秘密を露見させ、寂しい思いをさせたと言って非を認めれば、万里は瞳を滲ませ始めた。
「さびしく…ない、もん」
「そうか?」
「おるすばん、ひとりでできるもん」
「ん、偉いぞ。…けどな」
小学生だって中学生だって。
「高校生だって大学生だっていい年こいた大人だって、ひとりは寂しいんだよ、そんな思いさせて、ごめんな」
「……にーにーは?」
「俺? そうだな、最近忙しいからひとりじゃないけど。…万里が生まれる前までは、家じゃひとりが当たり前だったよ。寂しくないなんて、強がりも言えなかった」
わしゃわしゃと頭を撫でると、細い髪の毛が指先に絡みつく。
「ばんり、だって…さびしかった、もん」
蚊の鳴くような、か細い声だった。
ぐしゃぐしゃな顔をして抱き着いてくる万里に、まだちょっと嘘をついていることに罪悪感を感じる。
その罪悪感を振り払うように、万里を抱き上げた。
「…みーちゃんのお母さん」
「はい?」
「お騒がせして、すみません。何か巻き込んでしまって」
「いやぁ、青春を思い出せて、良かったわー」
青春て。
後方で友人が笑う。
正直、存在を忘れていた。
「…そうだ、旦那さんのお仕事は?」
「あー…海外赴任だから、ちょっと」
帰れないと。
いい塩梅だと、千里は笑った。
「一緒に、ご飯食べていきません?」
「え」
「お前も」
「俺も?」
千里は万里を抱き上げたまま、みーちゃんと呼ばれた友達の前にしゃがみこんだ。
「みーちゃんだっけ」
「うん!」
「ご飯、大勢で食べたら美味しいよね?」
「うん?」
「…万里と、ご飯食べない?」
「食べるー!」
「え、でもお兄さん…」
「いいんですよ」
よいしょ、と立ち上がると千里はまだぐずる万里の背中をポンポンと叩いた。
「人数増えたところで、多めに食材買ってあるから困らないし。……お前も今彼女居ないだろ」
「俺の扱いぞんざいじゃない?」
「俺の手料理を食えんというのか貴様」
「…イタダキマス。酒は?」
「自分で買ってこいよ、この酒豪が」
ずり落ちてきた万里を抱き上げ直すと、嗚咽混じりの声が耳元で聞こえた。
「にーにー」
「うん?」
「あのね、みーちゃんがね、にーにーのこと、カッコいいって」
「あはは、小さいうちは、大人はそう見えるのかな」
「にーにー」
きゅっと肩の辺りを、熱いてのひらが握るのを感じた。
「にーにーは、いつまでも、ばんりのだいすきなにーにーだよね?」
「──そうだね」
千里くらいの年齢になれば、いつまでも、なんて言葉ほど不確かなモノはないとわかっていても。
「…にーにー、ありがと」
可愛い妹の夢を、千里が壊せるわけがない。
*
千里がご馳走を作っている間、友人が万里とみーちゃんの相手をしながら、母親と話をしていた。
「千ちゃーん、本当に手伝わないでいいの?」
「いいからそっちに居てー。疲れてる奴に下手に手伝われるよか、居ない方がいい」
「……千ちゃんひどいぃ」
「ぷっ」
母親が、笑いを漏らす。
「あはは、あなたも若いわね」
「…どういうことですか」
「“疲れてるんだから、休んでろ”ってことよ。あと、感謝かな。彼、きっと凄くあなたが大事なのよ」
「!」
千里は、それが聞こえていながら、否定も肯定もしなかった。
忙しなく動きながら、チラッと友人達の方を見て、フッと笑っただけだった。
「…くそ、俺、女だったら今の千ちゃんに惚れてる」
「ふふふ、私も旦那が居なかったらちょっと考えちゃいそうだわー」
「お、言いますねー」
「……くだらないこと言ってないで、ほら、出来たから」
ぶっきらぼうに料理を運んでくる千里は、仄かに耳が赤い。
言わずもがな、照れているとわかる。
「ほんじゃ、グラスは手に渡りましたかー? 大人はお酒、子供はジュースだぞー!」
「よし、じゃあメリークリスマス!」
「乾杯!」
*
「──って、千ちゃんお酒弱ッ!」
「あらあら、疲れも手伝って…」
遊び疲れてコテンと寝転がる子供2人は予想していたが、現在の家主の千里が潰れるのは予想外だった。
友人は口角を引き攣らせながら、千里をソファーに横たえる。
「わー、千ちゃん寝顔幼い…」
「お兄ちゃんやってて、普段大人に見えるぶん、余計にね」
「ですね…じゃあ、すみません、片付けましょうか」
大人2人が片付け終えた頃、子供組が目を覚ました。
「おっ…と、そうだな、万里ちゃんおいで」
「じゃあ、万里ちゃん任せていいかな。そろそろ、帰らなきゃ」
「みーちゃん寝かせなきゃですからね。…今日は楽しかったです」
「私達も。そこの彼にも伝えておいてね」
「はい」
親子が帰ってから、友人はフゥ、と溜め息を吐いた。
「おにーさん」
「ん? どうした、万里ちゃん」
「にーにーは?」
「…千ちゃんね、疲れてるみたいだから、起こさないでおこうね」
「うん」
「じゃあ万里ちゃんが、お兄ちゃんを困らせないように出来ることは?」
「はやく、ねる?」
「正解。賢いね、歯を磨いたら、速やかにお布団に入るんだよ」
コクリと頷いた万里を見て、友人はホッと一息をついた。
──…千ちゃん、四六時中こんなことやってんのか。
そのうえバイト。
そりゃ疲れるわと、眠りこける千里の頬を、指先で突っついた。
*
千里の目が覚めたのは、翌朝の7時。
メールの着信音で意識が覚醒した。
上体を起こせば、耐え難い倦怠感が全身に襲い掛かる。
おまけにガンガンと頭が痛い。
「え、なん…」
「にーにー!」
おはよー! と叫びながら、万里が部屋に入ってきて、漸く自分がリビングのソファーに横たわっていることに気付いた。
──え? 7時?
ハッと時計を見て、日付と時間を確認し──頭が真っ白になった。
──え、何、どう…まさか、俺、クリスマスプレゼント、万里の枕元に置き忘れ…
「にーにー! くまさん! くまさん貰ったの! 欲しかったくまさん!」
「……えっ」
何故?
千里は眠りこけて、万里の枕元には置いていないのに、まさか。どうして、置いてあるわけがないのに。
万里の腕には、抱えきれていない、見覚えのある大きなくまのぬいぐるみがあって。
「サンタさんありがとー!」
「あ、あぁ。良かったな…」
携帯に目を落とすと、千里を夢から覚ましたのは友人のメールだったようで。
「──…あっははは!」
「!?」
「あ、ごめん、ビックリした? ぬいぐるみ、良かったな」
「うん! にーにーも触るー?」
「触るー。ふわっふわしてるな」
「うん! おっきいのー! うれしい!」
「そっか、大事にするんだぞ?」
「うん! ばんりの宝物!」
──件名:無題。
千ちゃんおはよう、目は覚めたかな?
お疲れみたいたったから、起こさないように片付けて、クリスマスプレゼントを勝手に倉庫から万里ちゃんの枕元に移動しておきました。
あのお母さんも楽しかったって。
プレゼント貰って万里ちゃんが喜ぶ様子が、目に浮かぶようだよ──
友人のメールの全文だった。
「…あいつ」
「にーにー! きめた!」
「ん?」
「このこを、にーにーだとおもうことにする! ねこさんかえす!」
「そうか、じゃあもう寂しくないな?」
「うん! えへへー、せんちゃんだいすきー!」
「えっ」
「このこ、せんちゃん!」
──って、俺か!
何だそれ、何だそれ、何だそれ…!
可愛いにも程があるだろう、この妹。
「にーにー?」
「…いや。いいんじゃない?」
何と言っても、可愛いし。
せんちゃんことテディベアの千ちゃんは、二十年後、万里の結婚式の受け付けにも飾られることとなったのだが、それはまた別の話。