第一話 ロイヤルファミリー
弟が赤ん坊の頃から、寝る前に絵本を読んでやるのが習慣となっていた。
弟は手のかからない静かな子で、自分が絵本を読んでやると熱心に耳を傾けていて、その様子がたまらなく可愛かった。
けれど、そんな習慣は弟が三歳の頃、字の読み書きを覚えた事で終わってしまう。
自分が好きだった冒険物語より、弟は魔術の専門書の方に興味があるらしい。自分が絵本を読んでやる時間も、専門書を読む時間に充てたいようだった。
自分もその専門書を読んでみたが、とてもつまらない物だった。弟は変わっている。
弟が五歳の頃、魔術を習得した。何がそんなに嬉しいのか分からないが、始終弟がご機嫌で、可愛らしかったので良しとしよう。
* *
「これは、我が愛しのフィニア姫様!」
そう言って少し大げさとも言える仕種で、ルドルフはロノア王国国王の第二子であり、第一王女であるフィニア・ロノアの手をとり、その手の甲に口付けた。
「お久しぶりです。ご機嫌いかがですか?」
そう言って甘い笑顔を浮かべたルドルフに、フィニアは扇で口元を隠しつつ、答える。
「そうね、あまり良くはないかしら。貴方、お兄様に呼ばれているのでしょう? 早く行かないと、お兄様の機嫌を損ねるのではなくて?」
トゲの有る物言いに気付いているのかいないのか、ルドルフは甘い笑顔を崩すことなくフィニアに一礼し、次の再会を楽しみにしている旨を言って去って行った。
「汚らわしい……」
フィニアは御付きの侍女にルドルフが口付けた手の甲に浄化魔法をかけさせ、嫌悪も顕にはき捨てる。
「あんな男を重用なさるなんて、お兄様一体何を考えていらっしゃるのかしら」
ルドルフ・クライヒはフィニアが最も嫌うタイプの男であった。
権力を嵩に着て好き勝手し、己より上の権力に媚び諂う。無能であるくせに権力の上に胡坐をかく怠惰な男。そんな典型的な貴族の馬鹿息子が、フィニアは大嫌いだった。
なのに、そんな大嫌いな男が、フィニアの許嫁なのだ。しかも、この許嫁の約束は国王からの命なので、事実上の婚約である。
故にフィニアのルドルフに対する嫌悪は留まるところを知らず、ルドルフの評価は下がるばかりだ。
それに、フィニアは知っているのだ。
過去、ルドルフの偉業とされている幾つかの手柄は、実はルドルフの弟、アルベルトの手によるものであると。
アルベルトの優秀さは幼い頃から聞き及んでおり、幼いフィニアは次第にアルベルトに仄かな恋心を抱くようになった。
そんなある日、フィニアはアルベルトと直接会う機会を儲けることとなった。
アルベルトが、王妃が主催する園遊会にクライヒ公爵夫人とルドルフと共に招かれたのだ。
そして、あの忘れもしない薔薇の迷路で幼い二人は出会った。
それは、フィニアがまだ七歳であった頃。
侍女や護衛の目を盗み、庭園を散歩していたとき、髪に結んでいたリボンが枝に引っかかり、解けてしまったのだ。解けてしまったリボンはそのまま風にさらわれ、より高い枝に引っかかってしまった。
どうしようかと困っていた時に出遭ったのが、園遊会を抜け出し、庭園に迷い込んだ六歳のアルベルトだったのだ。
アルベルトは涙ぐむフィニアに驚きながら、木の枝に引っかかったリボンを見つけ、状況を把握した。
そして、魔法で宙に浮かび、易々とリボンを回収し、フィニアに差し出したのだ。
お気に入りのリボンが返ってきた事をフィニアは大いに喜び、そのままアルベルトと話し込んだ。そして、目の前の少年が噂のアルベルトである事に驚き、その優しい性格を知って益々アルベルトの事が好きになった。
わたしは絶対、将来アルベルトのお嫁さんになるわ。
その好意は、幼い自分にそう決意させるぐらいに強いものだった。
けれども、その決意は誰かの目にふれる前に、胸の奥深くに封印させられる事となる。
「フィニア、実はね、この園遊会は貴女の許嫁を紹介する為のものなの」
優しげな母の言葉に、フィニアは目を丸くし、期待を持った。
もしかして、その許嫁とは、アルベルトの事ではないだろうか。
「お母様、いいなずけとは、誰のことなのですか?」
期待に満ちた目をした娘を愛しげに見遣り、王妃は紹介した。
「こちらが貴女の許嫁の、ルドルフ・クライヒ殿よ」
そう。よりにもよって、フィニアの許嫁はアルベルトの兄であるルドルフだったのだ。
期待していたぶん落胆は大きく、キョトン、としているアルベルトの視線が痛かった。
皆が祝辞を送ってくる間、フィニアは唇を噛み、ずっと俯いていた。だから、ルドルフが自分に対し、どれだけ優しげで、心配そうな視線を送っていたかなんて、幼いフィニアは気付かなかった。
それは、十七歳になった今も変わらない。
* *
「ルドルフ!」
「お久しぶりで御座います、殿下」
そう言って丁寧に一礼するルドルフに、ロノア王国国王の第一子にして、皇太子たるアルフォンス・ロノアは破顔して出迎えた。
「ここは公式の場ではないのだ。そんなに畏まる必要は無いぞ。それに殿下ではなく、昔のようにアルと呼べ」
「恐れながら、殿下の威厳に関わりますので……」
ルドルフのその言葉に、アルフォンスは不満そうに鼻を鳴らす。
「ふん、つまらん。お前は年を重ねるごとに固くなって……。まったく、非公式な場で友人たるお前にアルと呼ばれる位で、俺の威厳は落ちん」
わざとらしく不機嫌な顔をして見せれば、ルドルフは苦笑しつつ、尋ねた。
「殿下、恐れながら、私をここへ呼んだご用件をお伺いしてもよろしいですか?」
「……まったく、本当に固くなったな」
少しは無駄口に付き合って、俺に仕事をサボらせろ、とぶつぶつと愚痴をこぼしつつ、アルフォンスは数枚の書類をルドルフに見せた。
「……これは」
「ああ。今度、街道を整備する事になってな。お前の意見を聞きたい」
「私の、ですか……」
少し焦った様子を見せるルドルフに、アルフォンスは鋭い目をして釘を刺す。
「いいか、ルドルフ。お前が一体何をしたいのかは知らんが、俺の目は誤魔化されんぞ。紙とペンはそちらの机に乗っている。簡単に箇条書きでも何でも良いから、お前の意見を纏めて書いていけ」
「……」
ルドルフはしばし視線をさ迷わせた後、一つ溜息を吐いて小さな机の前に座り、ペンを走らせ、十数分後にそれをアルフォンスに渡した。
「ふむ……。流石だな」
「光栄です」
満足そうなアルフォンスに対し、ルドルフは何処か疲れたような顔で礼を言う。
「いっそ、このままコレを提出するか。直さなくても、これなら議会ですぐ通るぞ」
「やめて下さい」
アルフォンスが受け取った計画案には、必要な材料、人手の数、年数、数件の材料の入手先、起こるであろう問題点、その解決案等、様々な事が書いてあった。
「本当に、お前が義弟になる日が楽しみだな」
アルフォンスは苦笑いするルドルフを横目に、ルドルフが義弟になり、自分の右腕になるその日を楽しげに夢想するのであった。
* *
ロノア王国国王、ロードリッヒ・ロノアは息子のお気に入りの臣、ルドルフ・クライヒと偶然廊下で出くわした。
ルドルフは廊下の端に退き、国王が通り過ぎるまで頭を下げ、待機する。
ロードリッヒはそれを横目にルドルフの前を通り過ぎ、執務室へと向かった。
執務室で書類に向かいつつ、先程すれ違ったルドルフの事を考える。
ロードリッヒは、何故アルフォンスがあそこまでルドルフを重用するのかが理解できなかった。
娘のフィニアの様にルドルフが無能とは思わず、実に有能な男であるとは知っているが、ルドルフを確実に繋ぎとめるために、わざわざたった一人の王家の女児たるフィニアまで使う必要を感じなかった。
親としては酷い言い草であるとは思うが、王としての立場から言うならば、貴重な政治の道具たる王女は、様々な富を齎した天才、アルベルトをロノア王国に繋ぎとめる為に使うべきだと思えた。
ルドルフと違い、アルベルトは次男だ。是非婿にと、他国の王族、貴族からの申し込みが殺到している。
そんな金の卵を産むアヒルたるアルベルトを、わざわざ他国に出すなど、以ての外だ。より強固にロノア王国に縛り付ける必要がある。
その為に、ロードリッヒはフィニアをアルベルトと結婚させたかった。
今からでも遅くはないと、ロードリッヒは何度かフィニアをアルベルトと婚約させようと画策したのだが、その全てはアルフォンスに叩き潰されてしまった。その時のアルフォンスの殺気といったら、自分の息子ながら恐ろしいものを感じた。
ルドルフは公爵家の跡取りなのだから、フィニアを使わずともロノア王国の為に力を尽くしてくれるだろうに……。
ロードリッヒは溜息を吐きつつ、書類に目を通し、サインする。
三年前に病で亡くなった妻が生きてさえいれば、きっと自分の意見に賛成し、フィニアは愛するアルベルトと婚約出来ただろうに。
最近、息子に気圧されつつあるロードリッヒは、憂鬱そうに次の書類に目を通し、再提出、と書き添え、書類を再提出用の籠の中へと落とした。