序章 日常
少年が陽だまりの中、本を広げる。
本の中には、夢が詰まっていた。
見たことの無い美しい植物、恐ろしい生物、不思議な奇跡。
知らない建物、想像すらしなかった職業、夢の中だけしか存在し得ない筈の風景。
思いもよらない出会い、別れ、再会。
本を読めば読むほど心が躍り、うっとりと夢の世界に浸かる。
けれど、所詮、夢は夢だ。
己の立場を考えると、この夢の世界へは自分は行けないのだと思い知らされる。
ページを捲っては夢を見て。
ページを捲っては現実へ還る。
いつも、その繰り返し。
少年は陽だまりの中、広げていた本を閉じる。
大事な、大事な夢の本。
少年の宝物。
けれど少年は、今日、この日、その本を封印する。
数日前、少年の弟が産まれた。
少年にとって、守るべきものが増えた。
産まれたばかりの小さいその手を取って、決意したのだ。
守る、と。
だから、夢に浸るのは今日でおしまい。
現実を、生きなければならない。
こうして少年の宝物は大切に封印される。
少年が青年に成長する、その日まで……。
* *
「まあ、そんな訳で、後は頼むよ」
そう言ってロアノ王国クライヒ公爵家の時期当主、ルドルフ・クライヒは机の上に書類の束を置いた。
「ちょ、頼むって……」
書類の束とルドルフを交互に見て、慌てるのはクライヒ公爵家の第二子、アルベルト・クライヒである。
「これは、兄さんの仕事だろ?」
眉間に皺を寄せ、書類を突き返すアルベルトに、ルドルフは嫌そうな顔をしつつ、言い放つ。
「ふん。そんな仕事、誰がやったって同じだ」
「そんな仕事って、これ、施療院の予算の仕分けじゃないか!」
怒鳴るアルベルトに、ルドルフはしれっとした顔で返す。
「ああ、つまらない仕事だろ?」
ルドルフのその言葉に、アルベルトとは唖然とする。
「そんな地味でつまらない仕事より、もっと派手な、僕に相応しい仕事で僕は忙しいんだ。だから、それはお前がやっておけ」
「兄さん!!」
アルベルトの怒鳴り声を無視し、ルドルフはさっさと部屋を出て行ってしまった。
「ああ、もう……」
「アルベルト様……」
アルベルトを気遣わしげに見遣るのは、アルベルトの腹心の部下、カイン・ジュネルである。
「はぁ……。まったく、兄さんには困ったもんだ」
カインは溜息を吐く主を心配すると共に、クライヒ公爵家の跡取りでありながら、暗愚であるルドルフを嫌悪する。
「まあ、良い。この施療院の件は俺が言い出したことだし、気になっていたからな。やっておくさ」
そう言って書類を読み出したアルベルトに、カインは尊敬の念を送りつつ、今までの主の功績に思いを馳せる。
主の功績は、僅か三歳の幼い頃から始まる。
三歳で既に読み書きを覚え、五歳の頃には魔術を習得。
七歳の頃には師を必要とせず、神童として他国にすら名が知れ渡った。
そして八歳の頃に羊皮紙に変わる、植物から成る紙の作成に成功し、製紙業に革命を起こした。
九歳になる頃には、ミソやショーユという発酵調味料を生み出し、新たな食文化を花開かせた。
十歳になる頃には、その有能さが認められ、異例の若さで重要な政務に携わる事となる。
その非凡な才は留まることを知らず、その優しく慈悲深い性格から民の生活の向上を念頭に置き、改革が始まる。
現在、十五歳のアルベルトが行った事は、治水工事や、一つの農地を三つに分割し、冬畑・夏畑・休耕地とし、年々順次交替させて行う作付けという三圃式農業の採用。衛生のために建設した大衆浴場、安価な石鹸の作成。医者が病人の家に赴くか、病人が小さな診療所に赴くのが主流であったが、医者が常に常駐し、病人が泊まることのできる大きな施設、施療院の建設計画等、大事から小事まで様々な事をやってきた。
そして民は富み、国王からの覚えもめでたく、大勢の人間から信頼と尊敬、好意を勝ち取ってきた。
正に、天才というのに相応しい人物である。
けれど、どんなに主が天才といえど、結局は神でもなんでもない、ただの人間なのだ。もちろん苦手なことも、弱いところも有る。それを支えるのがカインの仕事なのだ。主の腹心の部下となり、その役目を任される事は何と誇らしいことか。
たとえ何があろうと御側に仕え、支えていこうと、熱心に仕事に励むアルベルトの横顔を盗み見ながら、カインは決意を新たにした。