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終章 夕暮れに染まる榛の丘を

 練習試合の前日、留衣が連れて行ってくれたコンビニから左折して、緩やかな上り坂を登る。駅裏の通りは夜とは違い、車や人の往来が激しかった。駅付近から聞こえる中学校の鐘の音に、流れる榛の空が凄く似合っているような気がした。電球の切れかかった古い電柱も、所狭しと並べられた住宅の屋根の連なりも。いつの間にか日常の風景となってしまった街の風景は心なしか少し侘びしいような、そんな気分さえも思い起こさせた。

 どこからか聞こえてくる遮断機と電車の走る特有の音。ふと振り向いて見下げた住宅街の風景が1つ、また1つと明かりを灯した。

東の空からは薄暗い藍色の空が大地を包み込むように広がりつつある。けれど俺はそれとは反対に、まだ夕焼けの色を残す西の丘へ、その中心にある公園へと歩みを進めた。


『あ、留衣。そういえば、部活……』

「部長に了解は取ってきた」


 癖のない直線の髪を耳にかけて留衣はそう答えた。下校途中に遠回りをしてくれた留衣は、まだ学校帰りの制服のまま後ろを歩いている。その姿が、初めて会った時と全く同じに見えた。


「雛を説得するのには時間がかかったけど」


 溜息混じりにそう告げた留衣は、恨みがましくこちらを見た。一体誰のせいだ、という視線を向ける留衣に俺は苦笑を浮かべながら謝罪の言葉を口にした。


『ごめんって。……だけど、決めたら言ってしまわないと決心が揺らぐから……』


 俺の言葉に、留衣の視線が訝しげなものに変わる。乾いたコンクリートを足早に歩きながら、俺はふと向こうに見えてきた公園を指差した。


『あ。あそこだよな?』


 あの時は夜だったのでよく周りを意識していなかったけれど、丘の公園は住宅地の合間に作られた、本当に小さな場所だった。ブランコと、小さな砂場、2つしか並んでいないベンチ。昼には見られるであろう子供達の姿も、夜の帳が降り始めた今の時間帯では、その影すら見受けられない。風に小刻みに揺れたブランコが長い影を落としていた。

 一番奥にはフェンスで囲いのされた見晴らしのよい展望台があり、そこからは無数に広がる都会の風景が見て取れた。榛色の空に反射した幾つもの屋根が同じ色に反射している。まるでオレンジ色のフィルターをかけたような景色に、俺は感嘆の声をもらした。

 ふと、空を見上げてベンチに腰を下ろした留衣が怪訝そうな顔をした。その視線に誘われて俺も空を見上げると、そこにはいつの間にか小さな雨粒が雫を落とし始めている。地面に小さな染みが出来て一つの模様のようになっていく。

 雨が、音を立て始めた。


『留衣、傘持って……ない、か』


 当然だというような視線をこちらに向けた留衣は、天に視線を向けて言った。


「夕立でしょ?…すぐ晴れるんじゃない?」


 確かに、降り続ける雨とは対照的に空は榛色の夕焼けに染まったままだ。雷雨というわけでもなく、土砂降りになるような気配もない。留衣は座ったまま、こちらに視線を向けると落ち着いた顔つきでこちらを見た。


「……それで、どうするの?」


 湿気る空気の中で雨音が反響する。地面を全て覆い尽くすように落ちてきた雫が濡らしていった。至高の空に浮き出た、時空を越えて輝きを放つ月の姿が綺麗に思えた。今だけじゃなくて、生きていた頃も、死ぬ間際もずっと……。

 月光の光に誘われて、俺は口を開いた。


『あの美術書の人はさ、第1次世界大戦の時もアトリエから逃げなかったんだってさ』


 急にそんなことを話し出した俺に、留衣は首を傾げ、それでも口を挟むことなく、俺の言葉に耳を傾けていた。降りしきる雨が俺の言葉をかき消そうとするけれど、留衣にこの声が届いているということは、俺がここにいる証。生きている者としてではないけれど、確かに俺はここにいる。


『全てを捨ててここを離れるよりは、制作中に死んだ方がマシだって、そう言ったらしいんだ』


 雨音が地面を叩く音。けれど俺はその雨に体をぬらす事もなく、通り抜けていく雫を見上げて果てしない空を仰いだ。


『死んでしまったら、絵を描くことも出来なくなるのにその人はそう言ったんだよな』


 それがきっと彼の存在理由だったのだと思う。絵という生き甲斐を捨ててしまう事はきっと本人にとっては自分が死んだのと同じことだったんだろう。そこまでして、彼は1つの絵を描き上げたかった。

 夕闇が迫りつつある榛色の風景は、どこまでも遠くまで続く果てない都会の美しく見える瞬間。人の作りあげた一つの文明が、一瞬時を止めたかのように見えるこの景色がなによりも綺麗に見えた。空には沈みかけた太陽が最後の光を放ち、反対側では月が照り始める。

 夕立に濡れた草木の露が夕焼けの色を反射して、淡く光った。風に揺れ、儚くもその雫が地に落ちていく。


「……」

『留衣。俺……』


 俺と同じようにフェンスの向こうを見つめていた留衣がふとこちらに視線を向けた。俺は編み目越しの天空を見つめ、触ることの出来ないフェンスに手を伸ばした。案の定、通り抜けた色の薄い手を、昇り始めた月に向かって伸ばし、そして下ろした。

 もう、高望みはしない。死んでいることに、動揺したりなどしない。


『月を見ていた気がする……』


 その不機嫌そうな声に振り向いたその時から、俺の記憶は朧に光る月夜の風景しかなかった。自分が死んでいることも分からず、果てしない宇宙の中心に浮かぶ月を見上げて、誰かを待っていたのかもしれない。死というものに翻弄されて、存在しないことに動揺して。

 けど、君の声で俺の中の溶けかけた世界が形を成した。やっと、分かったんだ。



  俺はまだ、何もしてない。



『俺……いつ消えるか、分からないけど。留衣の邪魔になるだけかもしれないけど……もう少しこうして生活しててもいいかな?いつか、俺が完全に消える時まで』


 振り返って告げた言葉に、留衣は何も反応を示さなかった。自分の横に置いていた鞄を手に取ると、盛大に溜息をついてこちらを呆れたような目で見つめた。


「……アンタ、私が嫌だっていったらどうするつもりだったの」


 眉根を寄せてそんな表情を浮かべた留衣に、俺は微笑って見せた。島崎や、藤堂がいつも留衣を言いくるめる時みたいに。

 留衣は断らない。俺にはその自信があったから。


『その時はその時。……だって断らないだろ?』

「……アンタ最近自身過剰なんじゃないの?」


 留衣はそう言ってまた溜息をついた。黒髪を滑り落ちる雨の滴が、地面へと落ちた。制服に付いた水滴を払い落として、留衣はまた空を見上げる。榛色をした虚空には、いつの間にか薄い虹が架かり、都会の風景をさらに彩っている。

 視線を戻して留衣は公園に背を向けて歩き出した。また、初めて出逢った時のように俺が留衣の後ろを追いかけようと足を踏み出した時、留衣の声が凛と響く。

 雨音が徐々におさまりつつある中で、その言葉はしっかりと聞こえた。



「行くよ、蓮」



 あまりにも自然に出てきたその言葉に、俺は危うく頷きかけた。はた、と足を止めて、思わず聞き返す。


『……え?』


 歩みを止めた俺に、留衣は嫌そうな顔をしてこちらを振り返る。面倒くさいという表情を全面に出した彼女は、俺を睨みつけるように見つめる。


「名前。考えとくって言ったでしょう?』

『あ……!』

「嫌なら別にいいけど」


 顔を背けて足早に歩き出した留衣に、俺は慌てて声を上げる。


『ちょ、嫌じゃないって、留衣!』


 湿ったコンクリートの上を俺は留衣を追いかけて走った。小降りになった雨はゆっくりと流れていき、公園の草花は生き生きと輝きだした。どこまでも果てしなく続く住宅地の風景が広がる丘。目映い程の夕焼けがいつの間にか西へと移動していき、夜が訪れる。

 色味を取り戻しつつある球体は、いつの間にかその形を成し、ゆっくりとその明かりを地上に送り始めた。何億年と変わることのない月が、光り続ける。

 榛に染まる夕立の丘を。



fin.


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。少々設定を間違い、ここで『完結』に設定するのを忘れてしまったため、次回の番外編を更新して完結とします。


 ありがとうございました!

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