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第7章 透明な月


「考える時間は必要でしょう」


 留衣は、そう言った。まだ混乱している思考の中で聞いた言葉だからはっきりとそう言ったかは覚えていないけれど、留衣は俺が答えを出すまで待っていてくれるようだった。けれど、それに甘えるわけにもいかない。

 雨雲を連れて、最後の梅雨が訪れていた。春と夏の境目にあたる激しい雷雨が降りしきる中、教室では最終テストにペンを走らせる音だけが響きわたっていた。窓際の席に座っている留衣も長い黒髪を耳にかけ、無心に手を動かしている。時折遠雷の音が響くと楽しそうに笑う者や怖がって小さな悲鳴をあげる者がいる。たいがい怖がっているのは女子生徒だった。

 今年は夏の訪れが少し遅い。6月から梅雨に入り、明けるのは7月中盤だそうだ。俺にとっては長かったようなこの1ヶ月半が、もうすぐ終わろうとしている。

 窓の外には視界を遮るいくつもの横殴りの雨が空から地面へと落ちていき、地面は湿り気を帯びて徐々に水たまりをつくっていった。ふと留衣がペンを書く手を止め、教卓の上にある時間を確認した。まだ時間が数分残っていることを確認した留衣は俺と同じように外の景色に視線を向け、ゆっくりと溜息をついた。


『雨ってさ…』


 俺はガラスの向こうで流れる一つの空間の風景を見つめながらそう言った。ペンの音と雨音しか反響しない教室で、俺の声だけが留衣以外の誰にも聞こえることなく透明な反響となって消えていく。喋ることの出来ない留衣は視線だけをこちらに向けた。


『雨って憂鬱だよな。雨音が単調だからとか、視界が悪くなるからとか、そういうんじゃなくて…なんか憂鬱になる』


 頬杖をついて窓を見上げる留衣に、振り返った俺は言った。


『けどそれって、何かを期待するから、待っているからこんな気分になるんだと思う。…上手く言えないけど』


 表情も変えずに俺の話を聞いていた留衣がふとペンを持ち、テストの問題用紙の隅に薄く文字を書いた。コツコツ、とそれを叩いて、俺の注意をそちらに引き寄せる。流麗な字体が綴りだした言葉は、たった一言だった。


【考えがまとまらないうちに答えを出すな】


 留衣らしい、すっぱりとした言葉。俺は一瞬だけ吹き出して、寝る体勢に入っていた留衣の一瞥をくらった。ごめんと、にやける口元を抑えて笑う。


『ありがとな』


 俺がそう言うと留衣は顔を隠して無視した。至近距離の照れ隠しは分かりやすい。寝ているフリをしている留衣に俺は苦笑を隠してまた視線を窓へと向けた。


『言いたいは言わないと、いつ言えなくなるか分からないから』


 そんな俺の独り言は多分誰にも届かなかったと思う。響く雨音が俺の言葉をかき消して、流れていった。





「さーちゃん!」


 終了の鐘の音と共に留衣の背中に激突してきた小動物に、留衣の体がバランスを崩した。溌剌とした表情を浮かべる島崎が、何かを訴えるような視線で踏みとどまった留衣を見つめている。尻尾を振る子犬のような島崎の隣で微笑む藤堂。その2人を見て、留衣は苦い表情を浮かべた。


『?』

「ちょーだいっ」


 意味が分からずこの状況を見守るしかない俺に留衣は鞄の中から何かを取りだした。頭を押さえつつ、盛大な溜息をつく。


「言っておくけど、選手になるなんて一言も言ってないんだから、これでいいでしょう?」


 島崎の顔に取り出した一枚の用紙を押しつけつつ、留衣は言った。顔から離した紙をまじまじと見つめた島崎が頬を膨らませるのと、後ろから覗いていた藤堂が微笑むのがほぼ同時だった。


「……さーちゃん?」

「留衣さんらしいですね」


 島崎の隣からその用紙を盗み見た俺は思わず目を擦って、もう一度その紙に視線を向ける。留衣の名前が書かれたその用紙は、入部用のカード。そこには『バスケ部、マネージャー』の文字がしっかりと記入されている。


『留衣、部活入んの!?』


 うるさい、と目で訴えるその表情を見て、勧誘の凄まじさに負けたんだろうと俺は悟った。いつもより怖い顔をしていたから。

 どうしても選手として入部させたかったらしい島崎を宥めて、藤堂が微笑む。


「部長、いいじゃないですか。留衣さんにはベンチコーチをしていただけるということになるんですから」


 その一言に島崎の表情がぱっと華やいだ。


「あ、そっかぁ。そしたら監督もやってもらおうよ、あさっち」


 どうやら顧問の存在を忘れているらしい2人。留衣は恨みがましい目で藤堂を見つめる。けれど藤堂の表情はニッコリと微笑んだままだ。


「藤堂……余計なこと言わないでくれない?」

「あら、私も昔からの付き合いですから、留衣さんの弱点くらいは知ってますよ?」


 しつこく頼まれたら断れないところ、と藤堂は不敵に笑った。あからさまに盛大な溜息をついてみせる留衣だったけれど、藤堂は動じない。2人の間に挟まれながらも、会話に入れなくなっていた島崎が兎のように跳ねる。どうやら2人の視界に入りたいらしい。


「それじゃっ、今日掃除が終わったら、先生の所に、行ってねっ」


 視界の隅を邪魔している島崎の頭を押さえつけ、その上に頬杖をついて答える。


「……面倒」

「すぐに終わりますよ、入部の話をしてくるだけでいいんですから」


 下敷きにされている小動物の頬が膨れていくのを見ながら、藤堂は留衣に視線を向けた。反抗している島崎を離して、留衣は頭を押さえた。もの凄く不愉快そうな表情を浮かべている。何も言い返さないのが逆に怖い。

 1歩ずつその場から後ずさりしていた俺に一瞬だけ留衣が視線を向ける。こちらを見た、というより睨まれたような感じだったが。八つ当たりされそうな予感…。


「……掃除に行ってくる」


 身を翻して歩いていく留衣の後ろを俺はゆっくりとついていった。今下手な事を言ったら、八つ当たりされかねない。


(……けど)


 いつもの「面倒くさい」オーラを振りまく留衣の後ろを見ながら、俺はふと思った。


(結局、毎日部活に行くんだろうな)


緩む口元を隠して、その後ろをついて歩く。なんとか本人には気付かれずに済んだけれど、もし留衣が一回でも振り返っていたら……どうなっていたか、分からない。





『留衣、部活は?』


 顧問の下へ入部届けを出した留衣がその足で向かったのは、体育館ではなく玄関だった。下駄箱の羅列の中に立つ留衣に俺は体育館への通路を指差して尋ねる。本人は俺の言葉に手を止めることなく、外靴に履き替えていた。


「顧問が職員会議で部活の方に行けないから…明日来いって」

『島崎達、怒るんじゃ…』


 無数に突き立てられた傘の中から留衣は朝、さしてきた傘を探し出す。外は見事なまでの土砂降りで、留衣は軽く溜息をつきつつ傘を広げた。


「その代わり明日の朝練の時に来いって。どっちに行っても同じでしょう?」


 歩き出す留衣を慌てて追う。雨に濡れる心配がない俺は留衣の隣を歩きながら、足下の水たまりを見つめて歩いた。大通りから駅までの道のりを歩く俺達の横を数台の車が走り抜けていった。

何を考えるでもなく帰路に就こうとしていた俺にいつの間にか信号の前で足を止めていた留衣が声をかけた。


「……ちょっと」

『?』


 駅までの道は直線。道路を横断する必要はないはず。傘から顔を出した留衣が、歩道の反対側を指差して言った。


「図書館に行きたいんだけど」

『図書館?何で?』


首を捻る俺に留衣は顔を背けて、一言こう告げた。


「前、借りてた本があったから」

『……?』


 その時、丁度歩行者用信号が青に代わり、留衣は向こうの歩道へと足を進めた。俺はまだ慣れない道にキョロキョロしながらその後を追う。

 入り組んだ道に入っていく留衣に、俺は後ろから声を上げた。


『なぁ、留衣。さっきのとこ……あの女の子いなくなってなかった?』


 ふと足を止めた留衣が追いついてきた俺に首を傾げ、そして思い出したように言った。隙間を埋めるように立ち並ぶ裏路地の店。生暖かく、湿った空気が不快だけれど慣れてしまえばそんなに気にはならなかった。


「ああ……消えたんじゃないの?それとも……」

『それとも?』


 聞き返した俺に留衣は珍しく視線を下に投げた。何かを口に出そうとして、そして止める。


「……何でもない」


 いつもと違う様子の留衣に首を傾げながら俺はふともう一度あの十字路を振り返った。視界不良の雨の中でひっそりと置かれた花束が虚しくも雨にうたれ、水滴を溜めていた。事故多発の表示も水滴の後を作り、だんだんと汚れていく。


『ああやって忘れられていくんだな……』


 そんな俺の独り言は留衣に届いたかは分からない。黙々と足を進める留衣は何も言わず目的地を目指した。

 白を基調にした外形が印象的な図書館が雨雲に曇った空を背景に佇んでいる。光の差す隙間もない薄暗い空は、その風景を陰鬱に彩っている。駐車場を越え、入り口前まで着いた留衣は傘を畳むと、俺を振り返ってこう言った。


「…すぐ終わるから外にいてくれる?」

『え?あ、分かった』


 自動ドアを開けて中へ入っていった留衣。俺はそれを見送った後、都会の雨の風景に視線を戻した。雨のあたらない所に立ってはいるけれど、やっぱりこうゆう風景を見ていると少し寒いような気がしてくる。上着を着ていない自分自身を少し悔やんだ。

 もうすぐ夏になる。梅雨の時期も終わればすぐ暑くなってくるだろう。俺はその頃、どうなっているだろう?消えているのか、それとも…。

いつまでも決断を下さないわけにはいかない。雨音がそんな俺の心持ちをたたみ掛けるように鳴り響く。俺の中を渦巻くのは、『消える』ことに対する怖さ。体もないから痛みを感じるわけはない。けれどそれでも恐怖心が湧き上がってくるのは何故だろう?

 無に還る。心も、記憶も、全てが消えて…無くなる。いつか忘れられていくのかもしれない。自分を知る人もいなくなって、忘れ去られていく。それは誰だって同じなのに。かき回されるように混乱していくのはいつものこと。けれど時計は動きを止めることはない。永遠に回り続ける。

 けれど、誰も永遠に生き続ける者はいない。存在し続ける者はない。


(俺は…)


 何かの音が耳元に届いた。けれど、俺の視線は果てない雨雲の向こうに向けられたまま。ふと、あの怪訝そうな声が聞こえる。


「…何してるの」


 留衣の、夜を思わせる黒髪の下から覗いた瞳が、不審そうにこちらを見ている。俺は答えた。


『いや、なんでも…』


 首を振る俺は、見上げてくる留衣の右手に視線が止まった。留衣も俺がそれに気付いたのを見て、俺の目前に表紙を押しつけた。


「…この間来た時、見てたでしょう?」

『あ…』


 そう言えば。島崎達と図書館に来た時、本棚の前で足を止めてしまった記憶がある。


「あの本棚でアンタの見そうな本はこれだけだったから」


 古ぼけた題名と、表紙絵を見た俺は微笑って頷いた。油絵で描かれた表紙絵の名前は、睡蓮連作…睡蓮を題材に絵を描いたことで有名なクロード・モネの美術書だ。


『これ、俺に?』


 思わずそう言ってしまった俺は、留衣の一段ときつい一瞥をくらうことになってしまった。別にアンタの為に借りてきたわけじゃない、と罵倒が飛ぶ。その割に、睨んだ後留衣は本を鞄の中に入れ、顔を隠すように傘を広げると足早に歩いていった。

 雨の降りしきる中を俺もその後を追って追いかける。緩む口元を抑えて謝っても、すぐには機嫌を取り戻してはくれなかった。





 雨音が途切れ、重苦しい雨雲が去っていったのはその日の夜だった。湿った地面が乾き始めるのは明日になるかもしれない。俺は出窓に腰かけて、そこから外を見ていた。雲間から朧気な光が差し込んでくるが、まだその全体が姿を現すことはない。テレビから流れる天気予報が、明日の快晴を予言していた。


「ちょっと。借りてきたのに見ないわけ?」

『見る、見る』


 まだ雲が開けるには時間がかかりそうだ。俺もダテに空を見ていたわけじゃないから、いつ頃月が見られるようになるかは見当がつく。

俺は出窓から降りて、留衣の隣に座った。暑苦しいと顔をしかめる留衣だったけれど本を見ているうち、いつもの表情に戻った。無表情のように見えるけれど、それが留衣の表情。

 モネの睡蓮画は睡蓮の草花と水の動き、空の色を反射する水面をよく捉えている。昼夜変わるその風景に、晩年のモネは引き込まれたのだ。第1次世界大戦の年、彼は逃げる事もせず、ただ一心に睡蓮を書き続けた。

 ただ見るだけで満足してしまうような華やかさではなく、そこにある一つの光彩や水鏡の映しだした風景。何処にでもあるような、そんな一つの光景に独自の魅力を見つけたモネは、死ぬまで睡蓮を書き続けたという。


(……死ぬまで、か……)


 ふと熱風が網戸越しに部屋の中を通り過ぎた。行き場所のないその空気は途中で道を見失い、ゆっくりと消えていく。団扇を片手に暑苦しそうに顔を仰ぐ留衣の髪がふわりと揺れた。

 俺はふと、先程まで腰掛けていた出窓を見上げる。四角形の窓枠の向こうに見えるのは夜を知らない眠らない都市と、天空から目映い月光を放つ満月。雲一つない星空が、梅雨明けを示すかのようだった。


『……なぁ、留衣?』

「何」


 視線を美術書の方に落としたままの留衣に俺は言った。真っ白な球体が指し示すのは、明日の快晴。テレビから流れるニュースの音がいつの間にか、遠くで鳴っているようなそんな気がした。


『明日、あの丘の公園に連れてって欲しいんだけど……いいかな?』


 ふと、留衣が顔を上げた。扇いでいた手を止めて、こっちを振り向く。


「……別にいいけど」


 もしかしたら、気付いたのかもしれない。俺が答えを出そうとしていることに。留衣は一瞬首を傾げてそう言うと、また視線を美術書に落とした。

 熱帯夜を予感させる風は街を覆い、虚空には月が浮いていた。歩道の並木から梅雨の雫が落ち、その葉が乾いてゆく。常緑の葉が夏色に染まり始めると、もうすぐ次の季節が来る。

 夏という、新しい季節が。


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