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第1章 月を待つ男


 駅裏の通りは薄暗く、人の姿はなかった。

電球の切れかけた古い電柱が意味なくそこに存在しているだけ。時折儚い小さな明かりが付いては消え、付いては消え…を繰り返し、侘びしい風景をさらに際立たせていた。

 近くから聞こえてくる電車と遮断機特有の音が混じり合う住宅街の外れ。闇の中に雑音が消え去るとふと物悲しいような、そんな空虚な気持ちが心の中を通り過ぎていった。

 通りの少し奥に足を踏み入れると今度は暖かな明かりを灯した住宅地が視界に入ってくる。密集された家々の中で小さな家庭という集まりをつくり、狭い土地の中で細々と生きている人々。虫の音すら聞こえることのない都会の一角で無数の家々が明かりを灯していると、それがどれだけちっぽけなものなのか嫌でも分かってくる。

 密集された家々の間を通り過ぎると、小さなアパートが見えてきた。俺はその建物を見上げ、足を止める。

 築数十年を思わせる古ぼけたアパートには、どこから生えてきたのか分からない雑草のツタや汚れがいたるところにあった。2階へ登る階段は中途半端な駐車スペースの脇から上へとのびている。

 駐車場には律儀に車が一台駐車していて、その隣には一本の大きな杉の木がまるで影をつくるかのように伸びていた。階段前の郵便物入れには6つ、住人の名前が書かれていた。 階段を登る音を聞いて、俺は見つめていた郵便物入れから目を離す。先に2階へ上がろうとしている彼女の背中を追って、その後についていった。

 長い黒髪が、風に揺れる。梅雨時の湿った風が、今にも雨を降らせそうな気配を残して通り過ぎてゆく。

 曲のない彼女の髪がさらさらとなびいていた。衣替えしたばかりの汚れ一つない制服。そしてコンビニで買った夕食の袋をぶら下げて彼女は足早に階段を登っていった。

 2階の一番端の部屋は、駐車場の杉の影になって少し薄暗くなっていた。玄関前の蛍光灯に小さい虫達が群がっている。しかし彼女はそんなものには目もくれず、扉の前まで来ると鞄の中にしまっていた鍵を探し始めた。

 『榊 留衣』と扉の表札にはそう書いてあった。これが彼女の名前だろうか?

 そんなことを考えているうちに鍵を開けた彼女はドアノブを捻るガチャ、という音と共に電気の付いていない薄暗い部屋の中に、外からの蛍光灯の光が差し込んできた。

 彼女は無言のまま玄関で靴を脱ぎ、部屋の電気をつけた。いままで外にいたせいか、天井の明かりがやけに眩しい。

 部屋の中は女の子の部屋と思えないくらいさっぱりとしていた。テレビのあるダイニングにはコップや茶碗の並んでいる棚と電話機、小型のテーブル、テレビ、そしてある程度の大きさのあるソファーが置いてある。

 彼女はそのソファーに座り、コンビニの袋から今日の夕食を取り出した。それらに手をつけながら彼女は一旦途切れた会話を繋げる。


「…それで?」


 ドアの所に立ちすくんでいた俺は、とりあえず腰を下ろすことにした。


『それで?って言われても』


 膝を抱え込むようにして座り込んだ俺に、彼女は至極嫌そうな表情をしてみせた。


「あんた、さっきから何も考えてないんじゃない?少しはこっちの迷惑も考えてみてよ」


 初対面の人間に対して、彼女の言葉は容赦ない。

彼女は俺に言い訳させる隙を与えず、テレビを付けてそちらに視線を向けた。


「 ── で?この状態どうにかなんないわけ?」


 彼女は興味なさそうにバラエティーを見ながら、そう言う。俺は自分の両手を見つめ、途方に暮れたように言い返した。


『俺だってまだ頭ん中混乱してて…何がなんだか』


 視界に入った両手は、下のフローリングが透けて見えるくらい透明になっている。辛うじて手の輪郭は分かるのだけれど…。


「…とりあえず、自分が死んでいることは理解できる?」


 ため息一つして面倒臭そうにそう言った彼女の言葉を聞いて、俺はその現実をまざまざと思い知らされる。


『…なんとか』


 俺には、彼女に声をかけられるまでの記憶が全くない。気付いた時にはあの公園で、月を見上げていた。

だから、自分が死んでいることにも気付いていなかったのだ。


「『なんとか』じゃなくてはっきりして。うざったい」

『しかたないじゃん。はい、あなたはもう死んでますとか急に言われたって困るだろ?』


 対する彼女は至極嫌そうな顔をしてこちらに割り箸を向ける。


「その仕方ないことに私を巻き込まないでくれる?」


 言葉に詰まった俺に、彼女は早口にまくし立てていく。


「確かに声をかけたのは私の油断だったとは思うけど、だからって取り憑いて離れ方が分からないってどうゆうこと?」


 言いたいだけ言うと彼女はリモコンを手に取り、テレビのチャンネルを変え、視線をそちらに投げた。どうやら俺に言い訳する時間はくれないらしい。

 俺は、自分が死んでいるという自覚が無い。だって普通、人が死んだらこんな風になるなんて誰が予想するだろうか?だいたい死んだ後のことなんて誰が考える?…なのに、理不尽な神様はどうやら俺に幽霊になることを強要したようだ。

 しかも、こんな性悪女に取り憑く羽目になろうとは。

 実際、俺は取り憑こうと思って取り憑いたわけではない。別に呪ってやろうとか、自分が死んで他の奴が生きてるのが悔しいからとか、そんな気分だったわけでもない。だって自分が死んでることさえ気付かなかったんだ、どうやって人に取り憑こうなんて考える?

 そんな俺の言い訳は口に出されることなく、虚しくもテレビから流れるCMの曲だけが部屋の中に響いていた。

 項垂れている俺の様子を横目で見た彼女は、盛大なため息をつく。


「反省したんなら次のこと考えたら?どうやって私から離れるか」

『そんなこと言ったって…』


 取り憑いてしまった時の対処法なんて今時坊さんでも分からないだろう。死んだことがないわけだし。

俺の様子に呆れた彼女は、眉間に皺を寄せてまたため息をついた。いかにも嫌そうな表情を浮かべて言う。


「 ── あんたは、このままでいいわけ?」


 そんなあからさまに面倒くさい、という顔をされても。俺はもう一度自分の半透明な手を見て、下を向いたまま口を開いた。


『死んでるってことは、生きられないんだよな…?』


 こっちの気持ちもお構いなしに、彼女は即答で答えた。


「当たり前でしょう?死んでるんだから」


 死。言葉にするのは簡単だけど、表現することの出来ない重い単語。恐いとか、嫌だとか、そういった気持ちは何故か湧いてこなかった。ただ脱力したと言うか、妙に空虚な気分に襲われる。

 もう、自分は生きていない。 ── 何も、出来ない。


「…変な奴ね、あんた」


 急に聞こえてきた彼女の声に、俺は間抜けな声をあげてしまった。


『は?』


 彼女は日本人形のような黒い髪を耳にかけながら、俺を全部見透かしたような目でこう言う。


「普通、死んでることに気付かなかった霊なら、気付かせてやれば消えるはずなんだけど」


 はずなんだけど、ときつい口調で言われても。なんかさっさと消えてくれ、という風にしか聞こえないんですが。


「……何か思い残したことでもあるわけ?」


 頬杖をついて、真っ黒なその瞳をこちらに向けてくる。


『それは…ない、と思うけど…』


 口ごもる俺の声を聞いて、彼女は頭をおさえた。ため息をもらして、俺を睨みつける。


「あんた本当に鬱っ陶しい」

『え?』


 切って捨てるように、彼女は言い放った。


「選択肢は2つに1つ。成仏するか、そこら辺彷徨って浮遊霊にでもなるか。さっさと決めて」


 言いたいだけ言うと彼女はまたテレビに視線を戻した。その冷淡な言い草に少し苛立ったりはしたけれど、彼女の言っていることは間違っていない。

取り憑かれた方にとって、俺はこの上なく邪魔な存在だろう。

俺は何も言えなくなって、ただ天を仰いだ。





 梅雨明け、というわけではなかったけれど、久々に快晴になった青空は蒸し暑い太陽を覗かせ、都心の通行人達を苦しめている。

人々の行き交う通勤・通学ラッシュの時間帯、駅前は予想以上の混雑を見せていた。

 制服や、スーツの人並みに困惑しながら、俺は前を歩く留衣の後ろをついていく。光綾とかかれた制服を着ている留衣は、都内でも有名な私立光綾高校の2年生。

 光綾は結構な偏差値を誇る進学校で、共学の高校だ。開襟シャツに、リボン。そしてチェックのスカート。それがこの有名校の制服。


「…何?」


 ぼーっと後ろ姿を見ているとその視線に気付いたのか、留衣が至極嫌そうな顔でこちらを振り返った。


『えっ、いや、なんでも』


 俺は慌てて首を振る。そんな俺の様子に、留衣はふと目を止めた。


「…そういえば、あんたのその制服…」

『…へ?』


 自分で自分を見て、初めて気付いた。濃い赤のネクタイ、Yシャツの胸ポケットには、SHと書いてある。どこからどう見ても何処かの学校の制服だ。


『…気付かなかった…』


 そう呟く俺に、留衣はまた軽蔑の視線を投げかける。なんだよ、そっちだってさっき気付いたくせに。


「…先に言っておくけど、学校に着いたら静かにしててよ」


 留衣は小声でそう言った。蟻の集団のように無数の人々が行き来する街中。きっと誰1人として俺の存在に気付いている人はいない。

はたから見れば、留衣は独り言を言っているようにしか見えないのだ。

 俺はきっと誰の目にも見えていない。


「分かった?」


 ぼうっとそんなことを考えていた俺は、急に聞こえた留衣の言葉に慌てて頷いた。


『あ、ああ。分かった』


 聞いてなかった、なんて言ったらどんな暴言で返されるかも分からない。とにかく一応頷いておいて、通学路へと視線を移したその時だった。


「あっ、さーちゃーん!」


 俺と留衣の後ろの人混みからそんな脳天気な明るい声が響いてきた。ふと振り返ると、誰かが超高速でこちらに右手を振っている。背が小さいのか、人混みの中をぴょんぴょん跳ねながら『さ〜ちゃ〜ん』という言葉を繰り返している。近くに友人でもいるのかと何気なくあたりを見回し、視線を留衣に戻した瞬間。後ろから走ってきた、何か小さいものが留衣の背中に激突した。バランスを崩した留衣が倒れるまで数秒もかからなかった。

 俺はぎょっとして激突してきた女の子を見る。


「痛…」

「おはよう〜、さ〜ちゃん」


 呆然としている俺の前でその子は言った。どうやらこのクルクルの髪の毛をした小動物的女の子の言う「さ〜ちゃん」とは留衣のことらしい。彼女はぴょん、と留衣の背中から離れると、てへへ、と無邪気な笑顔を浮かべた。

 俺はこの命知らずな女の子の行動に冷や汗をかいていた。だが、もうすでに留衣の口元には引きつった笑みが。


『る、留衣?ほら、この子、悪気あったわけじゃなさそうだし…』


 フォローもむなしく、留衣は素早くこの小動物の首根っこを掴んで言った。



「……雛。あんた、朝っぱらから誰かに体当たりしないと挨拶の一つも言えないわけ?」

「だって愛情表現だもん〜」


 対する女の子は、大きな目で頬をぷく、と膨らませた。はたから見れば小学生の行動だが、彼女の持っているのは赤いランドセルではなく、留衣と同じ通学用鞄。そして、制服も………。


『高校生!?』


 身長から言っても145と少しといったところだろう。165以上ある留衣と並ぶと、お世辞にも高校生とは言い難い。驚きの声をあげている俺に、留衣が「うるさい」という視線で睨みつける。けれどその視線はすぐ俺の後ろへと移った。


「人に抱きつくことでしか表現できない愛情って不毛ですよ、雛さん」


 雛、と呼ばれたちびっ子が、ぱぁ、と明るい表情をした。なんだかコロコロと雰囲気の変わるコだ。


「あ、あさっち〜」


 2人の視線の先を追って振り返ると、そこには同じ光綾の制服を着た、大人しそうな女の子が立っていた。セミロングの髪を風に揺らしている。彼女は片手で鞄を持ち、もう片方の手で口元を押さえて苦笑していた。


「おはようございます、留衣さん」

「…おはよう」


 立ち上がり、スカートの砂を払っていた留衣がぶっきらぼうにそう返す。


「藤堂、あんたも何か言ってくれない?そうじゃないとこの小動物、毎日人に体当たりし続けるから」

「う〜、あさっちもさ〜ちゃんの味方ぁ?」


 小動物はまるでハムスターのごとく頬を膨らまし、ぶーぶー言いながら留衣達を見上げた。藤堂、と呼ばれた女の子は、微笑んで言う。


「表現されなくても、留衣さんなら十分分かっていらっしゃいますよ」


 2人の会話を横目に見ながら、小声で留衣は俺の方に向き直った。


「あの小さいのが島崎 雛。今話してるのが藤堂 浅海」

『親友?』


 問い返す俺に留衣は一瞬面食らって、すぐ顔を背けた。


「…まぁ、ね」


 一瞬だけ見えたその横顔は、少しだけ赤くなっているようにも思えた。


『…照れてる?』

「なにか言った?」


 振り向かず、留衣はそう言った。笑いがこみ上げてきて吹き出しそうになった。他の2人を引き連れて歩く彼女が一瞬だけこちらを振り返り、俺を睨みつける。多分、後で怒られるんだろうな、と思いながらも俺は留衣の後を追っていった。






 鉄筋コンクリート造りのありがちな校舎が見えてくると、俺は校門の前で一瞬足を止めた。留衣達と同じ制服を着た生徒達を吸い込んでいく大きな建物。鐘の音の響く校舎と、朝練に励む運動部の声が木霊している校庭。ざわめく木々がそこを取り囲み、露に濡れた葉から雫が落ちる。

 校門をくぐり校内へと足を踏み入れると、外の熱気が一瞬薄れ、コンクリートの壁が校内の気温を低くしていた。1階の廊下には特別教室といくつかの教室が並んでいて、数人の生徒達が行き来している。反対側の窓からは校庭の様子が見てとれた。


「ね〜、さ〜ちゃん」


 2階の階段に足をかけると、後ろにいた島崎が留衣の制服の裾を引っ張った。何か企んでいそうな目で見つめてくる。それに対して留衣は視線だけを島崎に向けた。


「何?」

「ちょ〜っとお願いがあるんだけど…」


 両手を組んで可愛らしくお祈りポーズをして、目をキラキラさせる小動物。しかし、留衣は興味なさそうに即答した。


「部の勧誘なら断る」

「えぇっ!?なんで、なんで、なんでーっ!?」


 廊下全体…否、校舎全体に響くようなこの大声に耳をふさがないのは留衣と藤堂だけだ。


「部活に入る気はないから」

「なんでっ!部活は楽しいよぅ、それに私もあさっちもいるんだからぁ!」


 島崎と藤堂の部活?俺は首を傾げた。この2人、とても同じ部には見えない。ひょっとして、文化部とか? けど次の瞬間、そんな俺の浅い考えは藤堂の微笑と共に吹っ飛んだ。


「そうですよ。留衣さん、バスケお上手じゃないですか」

「得意なものと好きなものは必ずしも一緒じゃないでしょう?」

「あら、でもバスケをしている時の留衣さん、とても楽しげに見えますよ?」


 2人の会話を聞き終えた俺は、一拍おいて叫んだ。


『ば、バスケ部!?』


 運動部の中でも一番運動量の多くて一番きつい、あのバスケ部!?いや、もしかしたら、マネージャーとかかも…。 留衣は一瞬こちらを睨んで、そして藤堂に向き直る。


「…藤堂。あんたまで勧誘?」

「はい。部長命令ですから」


 にっこりと微笑んで彼女が指差したのは、隣で「さ〜ちゃ〜ん、バスケ部はいって〜」と嘘泣きで懇願している島崎、雛。また驚きで声をあげそうになったけれど、留衣に怒られるので、なんとか我慢した。


「でもぉ、でもぉ…今度の練習試合には出てよぅ。今、選手の1人が怪我しちゃって出れないんだよぅ…」

「…補欠がいるでしょう?後輩だって不足してるわけじゃ…」


 がしっ、と島崎が留衣の腕に貼りついた。


「全員一致の意見でもぉ?」


 まるで脅しの入ったような言い方だ。何故か島崎の目が怪しく光っている。留衣は無視して歩きだそうとしたが、へばり付いている島崎が動こうとしない。


 しばらく留衣と島崎の格闘は続いたが結局、結果は島崎のねばり勝ちだった。留衣はあからさまに面倒くさいという表情を浮かべて、島崎に一瞥くれる。


「…練習試合だけ。大会までは出ないから」

「は〜いっ」


 留衣とは逆に、周りに花びらを散らすかのように笑顔を浮かべる島崎。留衣は盛大なため息をつくと、さっさと教室へ足を進めた。

 40個の椅子と机が所狭しと並べられている教室。自分の席に鞄を置く留衣を横目に見ながら俺は窓の方へと向かう。眼下に広がる校庭の景色に俺はなんとなく、何か懐かしいような、そんな気分に襲われた。梅雨の雨で水たまりの出来た校庭、そして運動部の走った足跡。校門から入ってくる通学の生徒達。徒歩の者もいれば、自転車の者もいる。友人と登校したり、1人で登校したり…そんな様々な生徒達がそれぞれ挨拶を交わして校舎の中へと入っていく。

 何が懐かしいってわけじゃなく、学校生活そのものに俺は懐かしさを感じていたのかもしれない。


『……』


 自分の着ている制服を見やると、ネクタイとYシャツにS・Hの文字。この制服は、この学校のものじゃない。ふと教室全体を見渡せば俺1人だけがクラスの中で浮いていた。当たり前、と言えば当たり前のことなのに、俺は少しだけ虚しさを覚える。


「…考えたってしかたないじゃない」


 窓際の席にいた留衣が小声でそう言った。多分、クラスで俺にしか聞こえていないだろう。


「…そんなこと考えてる暇があるんだったら、今すべきことを考えたら?はたから見ててウザいんだけど」


 留衣はいつも、俺の考えなんか見透かしているように言う。それが癪に障るけれど、当たっているんだから反論は出来ない。


『…今すべきことってさ、消えるか消えないか考えろってことだろ?』


 窓の風景に手をそえながら、俺は青空の下に広がる校庭のグラウンドを見つめていた。皮肉なくらい青々と空が明るく光り、太陽が照っている。


『もし消えなかったとしても、俺は誰にも見えないわけだろ?誰にも見えない、誰にも聞こえない、

 誰にも気付いてもらえない…』


 視線を教室に向けて、その日常的な平和な空間が瞳に映っても俺という存在は、そこに存在しない。俺の話を聞く気もないのか、留衣は鞄から取り出した教科書に視線を移し、つまらなそうにそれを見ていた。 そんな留衣の様子がまるで見離されたように感じて俺は複雑に入り交じった感情を抑えきれないまま、声を荒げて言った。


『早く消えろってことだろ!?確かにそっちにとっては早くいなくなってほしいかもしれないけど…結局、俺はそれしか…選べないじゃないか…』



 留衣は俺の声になんの反応も示さなかった。それが悔しくて、右手で服の裾を握りしめていた。 本当は分かってる。結局俺は、昨日留衣が言ったようにただ同情してもらいたいだけなんだ。いつのまにか自分が死んでて、これからどうすればいいのかっていう凄く大事な選択を迫られて、その現実から逃げたいだけだってことも。

 けどこうやってあがいていないと、やっていられないことも真実。無言のままの留衣の隣、窓際に背をもたれて俺は座り込んだ。苛立った感情をぶつける場所がなくて、膝を抱えてうずくまる。

 留衣はこちらを一瞬だけ見たが、声をかけてはこなかった。





 体育館の中は風通しが悪いせいか、それとも連日続いた雨のせいか、熱気がこもっていて、一歩足を踏み入れた途端に不快感が湧いてくる。そんな室内でも懸命に体を動かすバスケ部の面々は過酷な練習メニューをこなしていた。次の大会を前にして、3年生が引退した今、どこの部も2年生が主体となって活動している。

 そして女子バスケ部も新しいキャプテン・副キャプテンの下、大会優勝を目指して練習に励んでいた。


「…で?いつの練習試合に出て欲しいって?」


 不機嫌な表情を露わにしてそう言う留衣は、基本練習を放棄してキャプテン(島崎 雛)を見下ろしている。副キャプテン(藤堂 浅海)は後輩の練習を1人1人確認して熱心にそれぞれの癖、練習の必要な部分を指導していた。


「えっとね〜、確か…土曜日の試合!」


 そんな2人の会話を遠巻きに見ながら俺は体育館の2階部分からバスケ部員達を眺めていた。


「土曜?」


 いかにも面倒くさそうな表情をする留衣に、小動物は特有の可愛らしい目をくりくりさせた。


「何かあるのぉ?」

「別に…」


 そんな島崎を軽く流して、留衣はボールを手に取った。開いているゴールの方へボールをバウンドさせながら歩いていく。体育館シューズが床を踏む音。ふと、部員達の視線が留衣の方へと集まる。


「…?」


 気が付くと、男子バスケ部の音まで止んでいる。静まりかえった体育館に外を通り過ぎていく風の音、運動部のランニングのかけ声…そんな様々な音が響いてきた。

 バウンドするボールの音。弾力のある球体は空中に跳ね上がり、彼女の手によってまた床へと引き戻されていく。オレンジ色のボールが垂直に落ちて、また跳ねる。

 もう1度バウンドしたそれを留衣の手が捕らえた。無駄のない動きでボールを額より少し上へと持ち上げる。膝を少しだけ折り、真っ直ぐに伸ばす時の反動と、手のスナップを利用して前へと押し出す。

 フリースローのラインより少し離れた所からシュートされたボールが、綺麗な弧を描いてゴールへと近づいていく。真っ直ぐに吸い込まれていくボールは、ゴールの丁度真ん中へと入っていった。リングに少しも触れず、ただ真ん中に。


「ふわぁ…!いつ見ても凄いね、さ〜ちゃん」


 静まり返った中で最初に声をあげたのは島崎だった。リングを抜け、床を転がるボールを拾い、藤堂が留衣にパスする。


「さすが留衣さん」

「………」


 留衣は2人に答えず、パスされたボールを片手に黙々と練習をし始めた。こちらに背を向けた留衣を見て、2人は忍び笑いをもらす。


「…照れていらっしゃいますね…」

「うぷぷ。さ〜ちゃん、正直じゃないんだからぁ」


 留衣に注目していた部員達もだんだんと練習を再開し始め、また熱気のこもった体育館に活気が戻り始めた。部員達のかけ声が響いてくる。隅で練習し始めた留衣の上から、俺はその様子を眺めた。


「…何?」


 その表情には見るな、と大きく命令形で書かれている。うざったそうにこちらを見る留衣の顔に、俺は一瞬ひるんだけれど、なんとか次の言葉を返すことには成功した。


『…いや、その…バスケ上手いんだな、と思って…』


 今朝喧嘩をふっかけた相手に対してこうゆうことを言うのは少々不満だったけれど、留衣の反応は結構意外だった。


「…それはどーも」


 そう言ってまた顔を背けるように別な方向を向く。どうやら癖らしい。


(…あ、また照れてる)


 どうやら彼女は朝、俺が怒っていたことに対してなんの感慨もなかったようだ。なんだか嬉しいような悲しいような。謝る必要がない、という点では良いことなのだろうか?

 ボール片手にジャンプシュートの練習を始めた留衣に、俺はふとため息をついた。


「…まだ、なんか用?」


 今の表情、訳すなら『ため息つくな、鬱陶しい』といったところだろうか?俺はそんな留衣を見返して、視線を右手のボールに移した。


『いや、バスケしたいなぁ…って思っただけ』


 なんとなく、ただなんとなくだけど。楽しげに部活に励むバスケ部員達を見ていたからかもしれない。留衣はボールと俺とを見比べてあからさまに嫌そうな顔をした。


(そこまで嫌がらなくても…)

『…ま、出来ないもんは仕方ないって言うんだろ…』


 次に出る言葉を予想して、俺はため息をついた。けれどその瞬間、留衣の声が割って入る。


「…出来ないわけじゃないけど?」


 俺は思わず間抜けた声をあげた。


『…はぁっ!?』


 留衣はこちらに一瞥くれて、至極盛大なため息をついた。バウンドするボールに視線を移し、俺のいる場所にしか聞こえないくらいの小声で言う。


「…未だに自分が霊体だってこと忘れてるの?」

『…あ』


 そういえば。そう思ったのが顔に出たのか留衣は呆れ顔1つしてボールを手に取る。


「…今日は駄目だけど」


 今日くらい普通に練習させろ、と留衣の目が訴えている。俺は何度も頷く。何にも触れられない、そう思っていた。けれど、こんな方法があったんだ…。

 有頂天になっている俺を横目で見た留衣は、またため息をついた。


「ほんと、鬱陶し…」





 段々と慣れてきた留衣のワンルームの部屋は、1人ならまだしも2人いるとちょっと窮屈に感じる。たとえその片方が幽霊だとしても、留衣の目には人間に見えるわけだから、このジメジメした時期には暑苦しくてたまらないらしい。

 テレビの前に座ると、留衣は眉をしかめた。けどそれは別に俺が部屋の中にいるから、というわけではない。


「1つ言っとくけど、人の体借りて勝手なことしないでよ」

『…それより俺、乗り移り方自体分かんないんだけど…』


 私に聞くな、と罵倒が飛ぶ。けれど取り憑き方さえ分からない俺に、一体どうやって乗り移れっていうんだ。


「壁とか通り抜ける時みたいにすればいいんじゃないの?」


 面倒、と顔に書いてある留衣は一緒に考えてくれるなんてことはしない。半分テレビの方に意識がいっている。夕食後のアイスを口にしながら、留衣は暑苦しそうに扇風機にあたっていた。


『か、壁とかって…』


 自慢じゃないが、幽霊になってまだ2日…否、幽霊になったことを自覚してまだ2日。壁抜けなんて芸当は未だ恐ろしくてやっていない。それを言ったらまた非難の目を向けられそうなので、口にするのは控えておく。

 おそるおそる目の前にある留衣の背中に手を伸ばす。けれどやっぱり恐いような、そんな感じに襲われて手を止めた。普通恐いのは乗り移られる方だとは思うんだけど…。

 肩に触れるはずの指先が、空を切ったように滑り落ちる。するっと肩を通り抜けた。

 留衣は気にした様子もなく、テレビに視線を向けている。


(…どうしろっていうんだよ、この状態…)


 俺はもう1度手を伸ばした。期待通り指先に感触はなく、そのまま手が留衣の体の向こうへと消えていく。もしかして反対側から出てたりして。そしたらホラーだな…、とか考える俺。


『…あー!もうっ!』


 考えたってしかたない。 思い切って手をさらに伸ばした。肘あたりまで留衣の体の向こうに消える。


(乗り移るったって、一体どうすりゃ……うわっ!)


 心の中でそう悪態をついた瞬間、目の前が一気に真っ暗になった。パニくる俺に、いつも通りの冷静で抑揚のないあの声が聞こえる。


『…静かにしてくれない?煩いんだけど』

「えっ、…えっ?真っ暗でよく見えないんだって!」


 暗闇の中でもあの呆れ返ったような、それでいて皮肉を含まれた言葉が返ってくる。


『あんたね…。目の開き方も忘れたの?』

「へ?」


 目の開き方?


 俺はとにかく意識を落ち着かせて、深呼吸をする。吸って、吐いてを繰り返していたら何処からか留衣の苛ついたような気配が伝わってきたので、止めた。

 そしてゆっくりと瞼を上げていく。徐々に開けていく視界にテーブルと、テレビの画面が入ってくる。完全に目を開けた状態で、俺はやっと理解した。

 目線が、違う。


「…え?…え?え?え?」

『騒がないでよ、アパートなんだから』


 驚愕の声をあげそうになったが留衣にそれを悟られて、俺は絶句するしかなかった。ふと思いついて両手を見てみると、明らかに今までの自分の手より小さい。色も白いし、細い。どこからどう見ても留衣の手だ。


『ご感想は?』


 何事もなかったかのように聞こえてくる平然とした声。俺はふと辺りを見回し、留衣の姿がないのを確認する。


「…留衣は、何処にいるわけ?」

『体はそこ、意識は頭の中』


 どうりで、声が間近で聞こえるはずだ。近いどころか、頭の中から聞こえてくるのだから。 ふわ、首を振っていた扇風機の風が首筋にあたる。長い黒髪が揺れた。


「…すごい。涼しいって感覚がある…」


 俺はふとさっきまで留衣が食べていたアイスに手を伸ばした。スプーンを握ると金属特有の硬質な感触が右手に伝わってきた。何気なく、アイスをすくって食べてみる。


「…あ。冷たい…」


 視覚も、味覚も、聴覚も…幽霊の時とは少し違う、この感じ。なんとなく、懐かしい気がする。


『…勝手に食べないでくれない?』

「あ。ごめん」


 そう言って、ふと口元をおさえた。


「…留衣の声?」


 その声に、留衣の意識が呆れたようにため息をついた。


『…当たり前でしょう?これは私の体なんだから』


 そう言われて、やっと完全に自覚が持てた。留衣の体に乗り移っている。今更だけど、変な感動が湧き上がってきた。


「すご…。視線も低いし、座ってる感覚もする…」

『悪かったわね』


 有頂天になる俺とは逆に留衣のテンションはどんどん低くなっていった。その気配に最初は怒ってるのかと思ったけれど…どうやら違うらしい。


「…留衣、どうかした?」

『…別に』


 なんだか少し疲れたような、そんな気配が伝わってくる。俺はアイスを口に運びながら首を傾げた。長い髪が揺れてなんだか首筋がくすぐったい。そして暑い。


「なんで女ってこんな暑い想いしてまで髪伸ばすんだろ…」

『さぁ?』


 そっけない返事で返される。一応留衣に質問したつもりなんだけど。


「留衣だって女じゃん」

『私は特別理由があるだけ』


 説明させられると予想したのか、留衣はさっさと話を切り上げようとした。その様子に俺はテレビ画面を見ながら少し意地悪くこう言ってみた。


「…それなら理由教えてもらうまでず〜っと憑依したままでいようかな〜」


 ちょっとした嫌がらせだ。本当のことを言うと単に離れ方が分からないだけだけど。留衣は怯んだ様子もなく、淡々とそれに答える。


『…ああ、そう。それなら無理矢理追い出すけど』


 自信の発言、というわけじゃなく、留衣は平然とそう言った。


「…へ?」


 間抜けな声をあげた俺。頭の中から聞こえてくる留衣の、訳の分からない言葉の羅列に呆然とする。ゆっくりと留衣の声が大きくなっていく。何と言っているのかはよく分からない。

 何かに弾かれたように目の前が真っ暗になった。テレビを突然消したときのよう。画面には何も映し出されない。すっと体が軽くなる。


『…え?』


 目を開けてやっと視界がいつもの位置に戻っていることに気付く。一瞬ぽかん、として目の前にいる留衣を見た。また何事もなかったかのようにアイスを食べ続ける留衣に俺は恐る恐る聞いてみる。


『る、留衣?今の、何?』


 留衣はテレビに視線を向けたまま、そっけなく答えた。


「瞬間的に体外へ弾き出しただけ」


 だけって…。


『な、なんで留衣、そんなこと出来んの!?』


 ふぅ、と息をついて留衣はこちらを向いた。面倒臭そうな表情だけど、どうやら説明してくれるらしい。


「…家が神社で、昔から巫女の真似事させられてきたから」


 髪を伸ばしているのもそのせいだ、と留衣は嫌そうな顔をする。どうやら彼女自身、髪を切りたいとは思っているのだが、巫女の仕事を時々させられるので、切るに切れないらしい。

 どうりで、と俺は1人納得していた。何故何処にでもいる女子高校生が幽霊が見えたり乗り移ったものを祓い落とすことが出来るのかと思いきや、そうゆう仕事を昔からしてきたからだったのか。


『今まで何人かあんたみたいなのは見てきたけど…』


 最初に留衣が言っていた言葉。今になってそれが蘇ってきた。


(ってことはもしかして…)


 留衣はいままでも何人か、俺と同じ境遇の幽霊を助けてやったことがあるのだろうか?神社の仕事や巫女さんの仕事なんて全くと言っていいほど分からないけれど、これだけは言える。

 きっと、これまでも何人かの人が、決めたんだ。自分の行く末を。俺と同じ、消えるか否かの選択の答えを…。





 数学の授業ほどつまらないものはないと私は思う。教師特有の眠気を誘う声が教室に木霊していればなおさら。黒板に書かれた文字の羅列に私はため息をついた。

 昨晩行った予習と全く同じ問題の解き方。公式と問題の種類、そしてコツさえ掴んでしまえば答えは一通りにしか出てこない。別解というものはあっても、辿り着くのは同じ答え。

 数学は嫌いではない。けれど、もう容量を得た問題を何度も繰り返し解かされるのは好きではない。1の足し算、1の掛け算を繰り返しさせられると飽きてくるのと同じことだからだ。 だから私は数学の授業を睡眠時間と決めている。おかげでテストではある程度の点数を稼ぐことは出来るが、授業態度の減点の為、数学は未だ5を取ったことはない。


「この計算にこの公式をあてはめると……」


 私のクラスの数学担当はバスケ部顧問の杉村だ。体育教師でもないのにバスケ部顧問、というのは昔取った杵柄。杉村は昔バスケ部で全国大会まで行った強豪チームのメンバーだったという話だ。ただし、全国でどこまで勝ち進んだかは定かではない。否、スタメンだったかさえも怪しいところだ。

 黒板に几帳面な文字が綴られていく。眠気を誘う杉村の低音の声と、怒っても恐いと思えないあの中年太りの体型。おかげでこのクラスの大半は寝ている。

 私は眠気と共に重くなる瞼を窓の方へと向けた。窓と私の机の間に座り込んで膝を抱えている「そいつ」は、なにやら考え事をしながら

 黒板の文字を眺めているようだった。

 原因は、昨日の夜のことらしい。また何か余計な考え事を始めたらしく、はっきり言って鬱陶しいことこの上ない。考えても仕方がないことに何故気付かないのか。こいつの思考回路は全く理解できない。


(…馬鹿らし)


 2つしか選択するべきことはない。消えるか、否か、たったそれだけ。…そして皆、その簡単な選択に苦しむ。

 分からない、と私は心の中で呟いた。何故皆そんなことに悩むのか。もう死んでいること、誰にも気付いてもらえないこと、何も触ることが出来ないこと…そんな諸々の理由が何故そんなに辛いことなのか。

 肘をつい無言のまま黒板を見つめるそいつはらしくもなく眉間に皺を寄せ、まだ何か考え込んでいる。その横顔が一瞬、公園で初めてこいつを見た時のあの表情と重なった。月を見上げていた、あの時の顔。


(何も覚えてない幽霊、か)


 記憶が何一つないこいつが唯一覚えていたのは、『月を見ていた』こと。朧に光る、梅雨時の空に浮かぶ月…。

 通常幽霊というものは何か思い残すことがあって姿を現す、と伝えられている。それが恨みや思い残しであれ、普通ならばなんらかのきっかけを持っているはず。けれどこいつは、そんな感情なんて何1つ持っていなかった。

 それは単なる馬鹿なだけなのだろうか?それとも…


『留衣、留衣っ!呼ばれてる!』


 そんな声が思考に割って入ってきたので、私は一瞬だけ固まった。顔を上げると、首を傾げてこちらを見る杉村の顔が視界に入ってきた。


「…榊?どうした、外に何かいたか?」


 いつの間にか、教室中の視線が私に集まっていた。雛や藤堂までもがこちらに視線を向けている。教室が奇妙な緊張感に包まれた気がした。


「いえ、なんでも…」

「そうか?それじゃあ榊、ここの問いの答えはどうなる?」


 杉村がそう言って授業を再開させると、私に向かっていたクラスメイト達の興味が反れ始めた。私はノートに書いていた基本問題の答えを読み上げ、席につくと息をついた。


『…留衣、どうかした?』


 私は脳天気に首を傾げたその幽霊に一瞥くれて、教科書に視線を戻した。抗議の声が隣から聞こえてきたが、授業終了のチャイムにかき消され、よくは聞こえなかった。





 徐々に夏らしくなりつつある6月の夕焼けは榛の色をしていた。空に段々と薄い月の影が見え始めると、風も涼しくなり夜の気配がしてくる。車の行き来する音を間近に聞きながら俺は夕方の大通りを留衣と一緒に歩いていた。駅までの道に生徒の姿は少ない。

 大通りまで出れば駅までの道は一直線。車道の隣に作られた歩道には夕焼けの光に反射する緑の葉をつけた街路樹が立ち並んでいた。

 時折車が通りかかるとその枝が風に揺れる。


『…?』


 ふと俺はその向こうに奇妙なものを見つけた。少し入り組んだ十字路の片隅。


『留衣、あれ…』


 足を止めてこちらを振り向く留衣に俺はそれを指し示した。十字路の片隅に置かれた花束と、事故多発の看板。そして傍らに何かの衝突で曲がったガードレール。

 夕日に染まる看板とガードレールには傷がいたるところについていた。彎曲したそれらは何か物悲しそうにその場所に存在している。

 けれど俺が指差したのは事故の残骸ではなく、その十字路の片隅に佇む小学生くらいの女の子の姿だった。


『透けてる…』


 彼女の姿は、完全に透けていた。そう、俺と同じように。

 留衣はそちらに視線を向けると、何の抑揚もなく言い放った。


「幽霊でしょう。この間、事故があったらしいから」


 俺は足を進める留衣の後ろをついていきながら、視線をそちらへと向けていた。女の子が無表情に花束を見つめているのが、俺の目に入る。


『…事故…』


 その一言がとても大きく、重いもののように感じた。


『…留衣』

「何?」


 こちらを振り向きもしない留衣に俺は後ろから問いかけた。歩道に、1人分だけの影がのびている。


『…なんであの子はあそこにいるんだろう?』


 ふと足を止めた留衣に、俺は続けた。


『普通さ、理由があってそこに残るんだよな?それじゃあの子は何を思い残してるんだろ…』


 留衣はもう一度十字路の片隅に目をやり、またくるりと背を向けて駅への道を歩き出した。


『え?あ、ちょ、ちょっと、留衣っ!』

「…時々」


 呟く留衣の後ろ姿は、夕焼けに染まった榛の空を見上げていた。


「死ぬのを認めるのが嫌なんじゃなくて、残した人のことが心残りで此処に残るやつもいる。あの子も、そうゆう感じじゃないの?」


 ビルが夕陽を反射して光っていた。留衣の視線を追って見上げた空には、薄い月が段々とその姿を現し始めている。車の雑音、時折聞こえる帰宅途中の学生達の話し声、そんな諸々の風景やノイズが俺の中で異様に印象に残った。



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