序章 それは宵待草のように
『 ── 何、あんた』
俺の記憶は、ここから始まっている。
不機嫌そうなこの声に振り向いたその瞬間から。
『……?』
ふいを突かれて、声を出すことが出来なかった。
長い間、話すことが出来なかったせいか、それとも言葉さえも忘れてしまったのか。
月夜が照らし出したのは、俺と同じくらいの年頃の制服を着た女の子。
彼女は曲のない長い黒髪を風に揺らしながら、しっかりとした目で俺を『見て』いた。
『 ── あんた、誰?』
不信そうな瞳の奥に、恐怖心はなかった。
近くの車道の音しか聞こえてこない都心の公園に、その言葉はやけに大きく響いた。
声を出せずにいる俺に、彼女は一層眉をしかめる。
答えなくては。
そう思うのに俺の口からかろうじて紡ぎ出すことができたのは、この一言だけだった。
『 ── 分からない』
脳裏に浮かぶのは、霞がかった月夜の風景。
たった、それだけ。
『ずっと月を見ていた気がする……。それしか……覚えてない』
『自分の名前も?』
『自分の名前も。今までのことも。……これから何をすればいいのかも』
俯く俺に、彼女は少しだけ困惑したように口を開き……そして告げた。
また、満月が空に昇っていた。
月光の照らしだす丘の公園に、風がゆっくりと通り過ぎていった。
『 ── 自分が、死んでることも?』
梅雨に濡れた草木が揺れていた。
それでも月は、光り続ける。