第四章 「家族として」
『固有感覚』――――
それは、人間に備わっている7つの感覚のうちな1つだ。
人間には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、痛覚、そして固有感覚の7つの感覚が備わっている。
その中でも、固有感覚は他の6つとは少し違う。
固有感覚は、自分の『存在』を司る感覚だ。
手足が動いている。鼓動を感じる。何より自分が今ここに存在している。こういった感覚のことを言う。
固有感覚を失えば、人間は瞬間的に自分がここにいることが判らなくなる。
『孤独感』
この言葉が一番的確かもしれない。他者からの認識を得られなければ、自分の存在が、自分の中で不安定になってしまうんだ。
奏は一度、その状態になってしまったことがあった。
まだ小さかった頃、俺達四人が白の箱庭でかくれんぼをして遊んだとき、奏は隠れるのが上手すぎたんだ。日が暮れて、先に帰ったのかなと思った俺達は、一度家に帰ったんだ。けれど、奏はどこにもいなくて・・・
やっと見つけたときには、奏はフリージアの花畑の真ん中に呆然と立ち尽くしていた。
俺が近寄ると、
「お兄ちゃん・・・」
てっきり泣きついてくるものとばかり思っていた俺は、奏が落ち着いていることが理解できなかった。
「私、今、どこにいるの?」
「どこって、そこにいるだろ?お花畑だよ」
そして、何より理解できなかったのは・・・
「うん・・・それはわかるよ。けど、お兄ちゃん。私は・・・ここにいるの?」
ここにいるの、と壊れた機械のように繰り返す奏の様子だった。
その後奏を連れて帰り、次の日の朝目覚めたときには、ただ昨日のことを怒っている奏の姿があった。
まるで、昨夜のことが夢だったかのように・・・
「そうか・・・そんなことがあったんだな」
「ああ、悪い。話してなくて」
「いや、実際に次の日にはいつも通りだったんだろ?あの頃のお前なら、夢のように思ってしまっても仕方が無いさ」
今日は四人とも学校を休んだ。昨日あの後すぐに、葉月に電話して来てもらって、それからずっと奏についててもらっている。
その間に俺は征に、昔あった夢のような、しかし確実にあった、奏の過去を話していた。
「昔と同じってなら、時間が経てば元に戻るってことか?」
「ああ。俺もそう信じたいんだが・・・」
「だが?」
俺は征の意見を心では信じたいのに、脳が否定する。
(何なんだ?この妙な引っ掛かりは・・・)
「奏!奏!しっかりして奏!!私です!葉月ですよ!?」
2階から葉月の悲鳴じみた声が聞こえた。
「葉月!」
奏の部屋に入ると、葉月は泣きじゃくる奏をしっかりと抱きしめて、言い聞かせるように頭を撫でながら、「大丈夫。すぐ翔君も来ますから」とあやしていた。
「奏!」
「お兄ちゃん!?お兄ちゃんなの!?」
奏は葉月から離れ、俺に向かってきた。だけど、
「きゃっ!」
固有感覚を失っている奏は、平衡感覚を失っているも同然。自分の位置があやふやになり、すぐに倒れてしまう。
「大丈夫か、奏」
怖がらせないように、優しく声をかけ、奏を抱き起こす。
「お兄ちゃん・・・どうしよう、奏また、変になっちゃったよ・・・また、あの時みたいに・・・っ、うわぁぁぁぁぁん!」
奏は泣き声を抑えようともせず、俺に抱き着いたまま泣き続ける。
すぐ隣には、奏の頭を優しく撫でながら同じように涙を流す葉月。
そして、そんな俺達を見守りながら唇を噛み締めるようにして、自分への憤りを無理矢理抑えこんでいる征。
(くそっ、俺は、目の前で奏が泣いてるっていうのに、何も、何も出来ないのかよ!?)
そんな怒りを感じながらも、俺は努めてその感情が奏に伝わらないように、優しく奏の背中をポンポン叩いてあやし続けた。
医者に診せても、身体の機能破損ということではないらしい。精神面から何らかの損失を受け、結果として固有感覚が失われているときと同じ状態になっているそうだ。つまり、原因となるトリガーが何なのかはっきりしない限り、手の打ちようがない、そういうことだ。
その日から奏は学校に行かなくなった。・・・いや、行けなくなったんだ。今の奏が、俺達以外の人とまともに会話できるはずが無い。俺も奏を一人に出来るはずはなく、するつもりもないので、一緒に休んでいる。
葉月達も休むと言ってくれたが、さすがに人数が居すぎてもあれだし、放課後からってことで納得してもらった。
それから数日が経っても、治る様子は見られない。俺や葉月や征が、常に傍にいないと、途端に孤独感に苛まれる状態だ。
奏も明るく振る舞ってはいるが、内心かなり不安なはずだ。
原因は、はっきりしている。
昔のトラウマ――――あの時の孤独感がまた表に出てきたんだ。
だが、何で今になって、しかもあのタイミングで発症したのかがさっぱりだ。少なくとも、孤独感を感じるような状況ではなかったはずだ。
(一体何がきっかけでこんなことに)
「お兄ちゃん」
俺が思考を巡らせていると、奏がベッドから身体を起こして話しかけてきた。
「ん、起きたか。調子はどうだ?」
「・・・よく、わからない」
「・・・そうか」
「だけど・・・私はここにいるんだよね?」
「当たり前だろ。今、俺の目の前で、寝癖ぼさぼさのだらいない格好を曝しているさ」
奏は「え、嘘!?」といいながら近くの手鏡を手にとる。その時、一瞬悲しそうな顔をしたのを俺は見逃さなかった。
(早く何とかしてあげないと・・・。これ以上、奏の悲しそうな顔は見たくない)
俺は奏を抱きしめた。理由なんてない。ただ、俺がそうしてあげたかったんだ。
奏は何も言わず、されるがままになっている。
今度はもう、泣かなかった。
[Hazuki Side]
単位の問題があるので、私は今日、翔君を無理矢理学校に行かせました。
俺も残ると言って聞いてくれなかったので、お兄様が引っ張っていってくれて助かりました。
・・・実は今日、翔君に言ったのは嘘です。まぁ、あながち嘘じゃないかもしれませんが。
「・・・ありがと、葉ちゃん」
そう、奏に頼まれたのです。
「明日、相談があるの。葉ちゃんに」と
「それで、相談って何ですか?」
私は奏の手を握りながら話しかけます。
「うん、あのね。あの晩のことなんだけど・・・」
「あの晩?」
「・・・私が、おかしくなった日の晩」
そう言って奏はいったん言葉を切りました。何かを逡巡するかのように・・・
私は黙って次の言葉を待ちます。
ややあって、
「わ、私ね。あの日の晩・・・お兄ちゃんに、キス、したの」
「!!?」
私は予想外すぎて言葉を失いました。
「ご、ごめんね。いきなり、こんな話をして・・・」
そう言った奏の表情は、本当に申し訳なさそうで・・・今にも泣いてしまいそうで・・・。
「・・・だけど、聞いてほしいの。たぶん、原因はここにあると思うから」
奏は自分の胸に手を当てて、真っ直ぐこちらを見てきました。
(この子が、こんなに真っ直ぐな目をするなんて・・・)
翔君と違い、奏はどこか自分一人で思い詰めることが多い子でした。その奏が私に相談してくるなんて、今までになかったことです。
そのことを嬉しく思うと同時に、力になってあげたいと強く思いました。
「・・・これは私の勝手な解釈かもしれませんが」
全てを聞き終わってから、私は自分の考えをありのままに伝えました。そして、
「私に任せてください。奏。夜、翔君を借りますね・・・大丈夫です。お兄様が来てくれますから」
「うん。ホントにありがとう・・・お姉ちゃん」
(お姉ちゃん、ですか・・・)
私はその言葉に、本当の家族のような信頼と絆を感じました。
(いえ、それ以上、ですかね)
両親を失って、確かに悲しい思いで当時はいっぱいでしたけど、この10年は、そんな悲しさを何倍も超えた楽しさに満ち溢れていました。それは今となっては、本当の家族以上に大切な家族が、いつも傍にいてくれたからです。そのかけがえのない家族のために、私ができること――――
(さて、今度は翔君の番ですね)
そして私は、『弟』の帰りを待ちます。
「本当に、世話の焼ける兄妹なんですから」
誰にともなく、そんな言葉を呟きながら。