ある晩酌にて
私と彼は酒で乾杯し、腸詰めをつまんでいたら1時間ほど経過した。彼は何か感極まった様子で涙を流したが、すぐに泣き止み語りを始めた。
生きていると、ただ死に日々近づいているのみに思われます。もちろん、近々でやるべきことは積み重なっており、やらねばならないことも往々にして自覚しているのですが、それとは別にこの問題が常に脳裏にあるのです。だからといって、生きることに絶望したり、投げやりになったり、ニヒルになったりすることはないのですが、いつまでも自分の中にこの感情を飼いならしていたくない。言うならば、子どものときのように死という概念すら存在しなくて、目に見えるものだけで世界が構築されている、目の前のことを処理するだけで手一杯で喜びが引き出される、そんなあの頃へのノスタルジーがあるのです。
何かに没頭するとき、自分の興味や関心が自分の外、とりわけ他者や芸術に向けられているときはあなたの言う通り私も死については意識の俎上にはありませんし、「楽しい」「美しい」という感情が偽りであるはずがありません。ただ、これらの快感は私が期待するほど持続するものでもなく、むしろそこから引き戻されたときのやるせなさや倦怠感のほうが大きいと思うのです。かのショーペンハウエルの言葉で、「生きることは退屈と苦しみの振り子のようである」というのがありますけれども、まさしくそのとおりで、楽しい感情、嬉しい感情は振り子が振れる過程に他ならないのです。ただ現実を見ながら生きること、思い通りにいかないことが大半であること、他者なんてこれっぽっちも理解できないし、ましてや他者が僕を理解してくれることなんてない、などのことを鑑みれば、
常に意識を外に向ける、自我を忘れることは確かに幸福につながることは認めます。というのも、私が好きな「ラッセル幸福論」はまさにその実践の手引きだからですね。しかしそうやって意識を外に向けることにも多大な努力を要しませんか。例えば、人と会話するなら適当な友人を作り、お茶に誘わなければいけない。絵画を生目で鑑賞したいなら美術館へ出向かなければいけない。手元の携帯で音楽を聴くのも倦怠感を伴う。要するに、世に氾濫しているコンテンツから、自分の注意を少しでも外界へと遠ざけてくれる適当なものを見つけ出し、消費する、という過程すらももはや疲弊するのですよ。勉強に没頭するのは幸せですが、勉強には大抵何かしらの目標があり、それは自分を磨くためか世間で通用するステータスを獲得するということであるならば、競争である。資本主義が競争であるから疲れるように、勉強は競争であるから疲れる。ずっと寝ているわけにはいかない。寝れば必ず目が覚めるからだ。生が死の中にあるように、意識は「無」意識の中にあって、私たちの注意と昂奮は気休めか競争にしかない。だから、人生には倦怠感が伴う。
文学はとても良いものです。ただ私のこの一生を賭けても、世界の古今東西の書籍を読破することは叶わない。より面白く、出会えていたら人生を変えていたような本がそこにあったかもしれない。そもそも表現すること自体は人間に許された自由な営みなのであって、今判然と世に見えていなくても過去現在で表現はどこにでもあったわけです。それが、神の手なのか、それとも純粋な偶然なのか、私にはわかりませんが自然選択のような原理を貫通して、今に残る表現があります。これを人々は芸術と呼びます。表現の多くは時間や空間の遷移とともに忘れ去られ、その破片すら落ちていないことがしばしばである。私がどんなに読書に沈潜しても、音楽に陶酔しても、それはもう虚しい虚しい活動で、世界に働きかけることはない。本当に、退屈と苦しみを揺れる振り子の周期をわずかにゆっくりとさせたにすぎないのではありませんか。いやいや、ここまで言ってはもう私が立派なニヒリストのようではありませんか。




