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私を虐げた義妹の子を育てることになりました。元婚約者が今さら親権を主張してきましたが、いつまで選ぶ側だとお思いですか?

掲載日:2026/04/03


 ――えぇ、認めましょう。

 私、アデル・マルゴーは、努力ではどうにもならない理不尽に負けました。



 一度目の人生でも、私は奪われる側だった。

 父の後妻が連れてきた義妹ブリジットは、泣けば許される子だった。継母はあの子ばかりを可愛がり、家の者たちは皆、その涙に弱かった。私の持ち物を欲しがれば「お姉さまなのだから譲ってあげて」と言われ、私が我慢すれば丸く収まるのだと、いつだって当然のように押しつけられた。


 婚約者だったオズボーン・ラトゥールも同じだった。

 私がどれだけ言葉を選んで話しても、どれだけ彼の立場や領地の事情を理解しようとしても、最後に彼が目を向けるのはいつだって、怯えたように睫毛を震わせるブリジットの方だった。



 私は、一度目の人生で破滅した。

 家族の愛情も、婚約者も、立場も、最後には命まで失った。

 そして死んだはずのあと、気づけば幼い頃の自分に戻っていた。


 最初は夢だと思った。

 でも違った。見覚えのある部屋も、廊下の模様も、季節ごとの行事も、全部が一度目と同じように進んでいく。なら今度こそ、同じ結末にはならないようにしようと、私は決めた。


 泣いている暇はなかった。礼法も、歴史も、政治も、領地経営も。大人たちが驚くくらい必死に学んだ。魔術はそれ以上だった。基礎理論から古代の魔術の本にまでかじりつき、自分の魔力を極限にまで高めた。


 誰にも文句を言わせないほど有能になればいい。

 誰より価値のある人間になれば、少なくとも一度目のようには捨てられないはずだ。


 そう信じたかった。

 信じなければ、二度目の人生をやり直す意味がなかったから。


 けれど、現実は驚くほど安っぽかった。



「アデル・マルゴー。君の危険性は、これ以上看過できない」


 十六歳の春。

 そう言い放ったのは、やはりオズボーンだった。明るい金髪に青い瞳、誰が見ても主役然とした美しい顔。けれど、その口から出た言葉は、一度目と何も変わっていない。


「お姉さま、ごめんなさい……。わたし、こんなことになるなんて思っていなくて……」


 その隣で、ブリジットが震えていた。

 相変わらず、守ってあげたくなる顔が上手い。自分こそ傷ついた被害者です、と全身で訴えるのも。


 王家の使者、神殿の司祭、ラトゥール辺境伯家の関係者、そして私の家族。

 誰一人として、私の味方はいなかった。



「辺境の結界を維持する礎として、お前の力が必要だ」


 王家の使者が冷たく告げた。


「膨大な魔力を持つ者を野放しにはできぬ。国のため、その身を捧げよ」


 私は、その時になってようやく理解した。

 どれだけ学んでも、どれだけ役に立つ人間になっても駄目なのだと。

 有能であることは、私を守る理由にはならない。むしろ都合よく使い潰す理由にしかならない。


「ふざけないで」


 低く言い返すと、場の空気がぴんと張った。


「私は罪人ではありません。なぜ辺境のために、私が人生を差し出さなければならないの」


「まだそんな我がままを」


 オズボーンは呆れたように眉をひそめた。


「君は昔から、自分だけが可哀想だと思い込む」


 可哀想。そうね、この時の私はたしかに可哀想だった。目の前の男が私を犠牲にしようとしているくせに、自分がどれほど酷いことを言っているのか少しも分かっていなかったのだから。


「君は封印され、魔力の供給源になるだけだろう」


 さらりと、オズボーンは言った。


「辺境を守る名誉ある役目だ。大げさに騒ぐな」


 封印されるだけ。

 人生も未来も時間も全部奪うくせに、この男にとってはそれだけのことだった。


 私は笑ってしまった。

 怒りを通り越して、乾いた笑いしか出なかった。



 床に刻まれた封印陣が輝き始める。私は反射的に術式を読み解いた。魔力の流れ、陣がどのように作用するか、すべてが嫌でも分かる。二度目の人生で死ぬほど学んだのだから。


 そして悟る。

 この封印は、私自身を鍵にして閉じる術だ。外から干渉するにも、内から壊すにも、私と同等かそれ以上の魔力が必要になる。


 そんな存在、この国にいるはずがない。


 つまり私は、永遠にここへ閉じ込められる。

 誰にも救われず、誰にも惜しまれず、辺境を守るための道具として。



 光に呑まれる直前、最後に見えたのは、オズボーンがほっと息をつく顔だった。ブリジットは彼に縋りつき、周囲はまるで国を救ったような顔をしている。


 誰も惜しまない。

 誰一人として、私が消えることを痛まない。


 ならもういい。

 もう、誰にも期待しない。


 そう決めた瞬間、世界は白く塗り潰された。



 ◇


 封印の中に、時間の流れはなかった。

 ただ白く、冷たく、どこまでも空虚な場所で、一度目の人生と二度目の人生の記憶だけが、何度も波のように押し寄せては消えた。


 見たくもないのに見せつけられる。

 奪われたものばかりが、繰り返し胸を刺す。



 やがて悲しみも怒りも摩耗しきった頃、不意に小さな音がした。

 ぽちゃん、と。

 水面に小石が落ちたような、ひどくか細い音。


 次の瞬間、白い世界がひび割れた。

 誰かが泣いている。必死に、どこかへ行かなきゃいけないと縋っている。

 その気配に引っ張り上げられるようにして、私は意識を浮かび上がらせた。



 目を開けると、そこは朽ちた封印施設だった。

 白亜だったはずの壁は灰色にくすみ、床の術式はところどころ砕け、風が吹き込むたび砂が転がる。長い時間が経ったのだと分かった。なのに私の指先は十六歳のまま、少しも変わっていない。


「やだ……っ、やだよ……っ、ママのところに行かなきゃ……!」


 泣き声がした。

 顔を上げると、崩れた柱の影で一人の少年がうずくまっていた。十二歳ほどの小さな身体、乱れた淡金の髪、泥で汚れた服。青みがかった紫の瞳から、次から次へと涙がこぼれている。


 その足元に残る術式を見て、私は息をのんだ。

 無理やり組まれた転移陣だった。魔石の配置も理論も滅茶苦茶なのに、発動だけはしてしまった痕跡がある。しかもその残滓は、今にも暴走しそうなほど不安定だ。


 こんな子供が、こんな無茶な術を?


「その場から動かないで!」


 鋭く言うと、少年がびくりと肩を跳ねさせた。涙に濡れた目が怯えたようにこちらを見る。


「だ、だれ……」


「今はそれより、残った魔力を止める方が先よ」


 駆け寄ろうとした私の視界に、少年が握りしめているものが映った。

 指輪だった。淡い青石を嵌めた、古びた金細工。

 見間違えるはずがない。実母が私にくれた形見で、継母が勝手に取り上げ、最終的にブリジットの手へ渡ったもの。


 胸の奥に冷たいものが落ちる。



「それ、どこで手に入れたの」


 少年はしゃくりあげながら答えた。


「ママの……引き出し……」


「ママ?」


「ブリジット、さま……」


 そこで、すべてがつながった。

 なるほど。この子は、オズボーンとブリジットの子なのだ。

 よりにもよって、私から婚約者も家も形見も奪った二人の、その息子。


 皮肉が過ぎる。封印から目覚めて最初に見たのが、その結果(こども)だなんて。


 けれど感傷に浸る暇はなかった。転移陣の残滓が危険な明滅を始めている。私は少年の手首を掴み、指輪に魔力を流し込んで、暴走しかけた術をねじ伏せた。封印明けの身体にはきつい。喉の奥が焼けるように熱くなる。それでも止める。今ここでこの子を魔力の暴発で細切れに飛び散らせるわけにはいかなかった。



 やがて光が消えると、彼は呆然と私を見上げ、それからまた泣き出した。


「やだ……ぼく、ママのところ、行かなきゃ……っ、置いていかれる……っ」


 その泣き方は、とても年相応より幼い。だがそれは甘やかされて育った子供のものではなかった。誰にも上手く甘えられず、縋り方さえ半端なまま放っておかれた子供の泣き方だった。


「何があったの?」


「……ママ、聖女だから……勇者さまと旅に出るって……。ぼくは父さまの王都のお屋敷で待ってなさいって……でも嫌で……っ」


 勇者。

 聖女。


 その言葉に、一度目の人生の記憶がよみがえった。

 魔物が大氾濫し、神殿に神託が下りたのだ。



『神が選びし勇者とその仲間に旅をさせよ。魔物と、いずれ現れるであろう魔王を討伐するために――』


 強く、美しく、誰の目にも主役と分かる男が勇者となり、その隣には選ばれた者たちが並んだ。


 その中にいたのが、義妹のブリジットだった。


「ごめんなさい、オズボーンさま。わたし、選ばれし者だったみたいです……」


 そう言って、彼女は少しも悪びれた様子なく、婚約者だった男よりも眩しい勇者の隣へ移っていった。悲しむふりはしていても、本心ではうれしかったのだろう。自分が特別に選ばれたのだと、誰の目にも分かる形で証明されたのだから。


 ブリジットは、そういう人だ。

 ただ、私の記憶では――少なくとも一度目の人生では、その時点でまだ子供はいなかったはずだった。



 そこで私は、目の前の少年をもう一度見た。

 私の封印は、私と同格以上の魔力を持つ者でなければ解けないはずだった。なのに、目の前の少年は実際にそれをこじ開けてしまった。


 だとすれば答えは一つだ。

 この子は、少なくとも魔力量だけなら私に匹敵する。――あるいは、それ以上。


 王都の屋敷からここまで飛んでくるような無茶な転移。


 術はひどく荒いし、スキルや知識も素人以下。けれど私でさえ使えないはずの転移魔術を、無理やりとはいえやり遂げている。恐ろしいまでの才能に、思わず背筋が震えそうになる。



「……あなた、名前は」


「ノア……ノア・ラトゥール……」


 ラトゥール。

 間違いない。

 この子は敵の子だ。

 そう考えれば、切り捨てる理由ならいくらでも見つかる。


 でも、できなかった。

 ノアは泣きながらも、みっともない姿を隠そうとしていた。誰にも頼れないくせに、見苦しいと思われるのだけは怖いのだと、そんな幼い矜持が透けて見えた。


 胸の奥で、昔の私がざらりと起き上がる。

 一度目も、二度目も、誰にも守られなかった子供の頃の私。

 助けてほしいと言えなかった、あの頃の私。



「……足を見せなさい」


 右足首がひどく腫れていた。転移の着地でひねったのだろう。このまま王都まで連れ帰るのは無理だ。


「足が治るまでよ」


 私はため息混じりに言った。


「勘違いしないで。あなたを拾うつもりはない。ただ、今ここで放り出すと寝覚めが悪いだけ」


 ノアは涙の跡を残したまま、こくりと頷いた。


「……追い出されるの、嫌だ」


 あまりにもまっすぐな本音だった。

 ずるい子だ。そんな顔で縋られたら、見捨てられるわけがないじゃない。



 ◇


 近くの空き家を仮の拠点にしてからの日々は、生き延びるための実務ばかりだった。水を確保し、食べられる草を見分け、火を起こし、薬草を煎じ、壊れた設備を直す。封印施設に残っていたわずかな保存食と道具を拾い集め、どうにか雨風をしのげる寝床を整えた。


 ノアには「大人しくしていなさい」と何度も言った。

 でもこの子は、足を痛めているくせにじっとしていられなかった。



「薪、運ぶ」


「足が治ってからにしなさい」


「でも、アデル一人だと大変そう」


「余計なお世話よ」


 そう言って取り上げた薪を、結局あとで私が運ぶことになる。二度手間だった。



 次の日には、水桶を持とうとしてよろけた。

 その次の日には、薬草の選り分けなら座ったままできると言い張った。

 悔しいことに、覚えは悪くない。見せればすぐ真似をするし、私の手元をよく見て動きを盗む。


「……あなた、本当に帰る気あるの?」


 思わずそう言うと、ノアは少しだけ目を伏せた。


「足が治ったら」


 その答えが、妙に頼りなかった。



 夜になるともっと厄介だった。

 ノアは寝たふりをして、何度も外を見た。迎えが来るとでも思っているのだろうか。


 ――来ないわよ。そんなもの。


 でも私は言わなかった。来ないと知るのは、期待した側だけが傷ついて覚えることだから。



 話を聞くうちに、あの子がどんなふうに置き去りにされていたのかも分かってきた。

 母であるブリジットは聖女として勇者と旅立ち、父オズボーンは王都の社交と体面を優先する。ノアは豪奢な屋敷の中で、使用人に世話はされても、誰にもきちんと愛されなかった。


 愛されるべき年齢で、甘え方もわからないまま育った子供。


 私は最初、子供が嫌いなのだと思っていた。

 うるさくて、面倒で、無防備で、見ていると苛立つから。


 でも違った。この子を見ていると、昔の自分を思い出すのだ。誰にも守られず、欲しいと言えず、我慢ばかり覚えてしまった小さな私を、無理やり見せつけられるから苦しかったのだ。


 だからこそ、放っておけなかった。



「痛む?」


 夜、薬を塗るために足首へ触れると、ノアの肩が小さく跳ねる。


「……ちょっとだけ」


「嘘。昼間より腫れてる。勝手に歩き回ったでしょう」


 言うと、ノアは唇を引き結んだ。


「……邪魔かなって、思って」


 その一言に、胸の奥がちくりとした。



「邪魔なら、とっくに放り出してるわ」


 私はぶっきらぼうに言った。


「余計なことを考える前に、治すことだけ考えなさい」


 ノアは目を丸くして、それからそっと頷いた。


「……うん」


 その顔が少しだけ緩んだのを見て、私はすぐ視線を逸らした。情なんて湧かない。治ったら返す。そう自分に言い聞かせているのに、二人分の食事を用意し、寒くないか確かめ、眠るまで呼吸を聞いてしまう。


 馬鹿みたい。

 本当に、我ながら呆れる。



 でも、ノアの方はもっと素直だった。

 私が火を起こせばそばへ寄ってくる。薬草を煎じればじっと見ている。夜中にうなされて目を覚ませば、私が近くにいるか確かめるように視線を向ける。


 最初に信じた大人なのだと、言葉にされなくても分かった。

 それが少し、怖かった。


 私は誰かの期待に応えられるような立派な人間ではない。二度も人生を奪われて、ひどくひねくれた女だ。

 それでもこの子は、私の差し出した不器用な手を、まっすぐ掴んでしまう。


 困った子。

 可哀想で、面倒で、放っておけない子。


 そうして私は、ノアの手を振りほどけないまま、ボロ家での夜を越えていった。



 ◆


 そして四年後の春。

 辺境の山道を、私はノアと並んで歩いていた。


 私は十六歳の見た目のまま変わらない。

 蜂蜜色の髪を後ろでひとつにまとめ、採取籠を背負い、腰には短剣と小ぶりの杖を下げている。


 一方のノアは、もう見上げるほどではないにせよ、初めて会った頃よりずっと背が高くなっていた。淡い金髪を風に揺らし、獲物を入れた袋を軽々と担いでいる。その横顔には、十二歳だった頃の幼さと、十六歳の危うい端正さが同居していた。



「アデル。そっちに薬草、二株あった」


「見えているわ。そっちの足元にもあるから、踏まないように気を付けて」


「踏まないよ。子供じゃないんだから」


「そういうことを自分で言ううちは、まだまだ子供なのよ」


 ノアはむっとした顔をした。

 その反応が昔と変わらなくて、私は少しだけ口元を緩める。


 “足が治るまで”のはずだった。

 “預け先が見つかるまで”のはずでもあった。

 なのに気づけば四年だ。



 近くの空き家だった場所は、今では私たちの山小屋になった。

 壊れた屋根は張り直し、封印施設に残っていた部材を転用して雨除けも防護結界も整えた。薬草の乾燥棚も、解体台も、保存食を吊るす場所も、全部この四年で作ったものだ。


 そしてノアも。

 最初は泣き虫で、足を引きずりながら私の後ろをついてきていた子が、今では当然みたいな顔で隣に並び、獲物を担ぎ、私の手元を先回りして支えるようになった。


 四年も一緒に暮らしていれば、情くらい湧く。

 ……認めましょう。我ながらちょろい女だと。




 山小屋へ戻ると、扉が半開きになっていた。

 嫌な予感しかしない。


 私が眉をひそめた直後、中からやけに上機嫌な声が響いた。


「おや、帰ったか。遅かったな、アデル」


 深紫の髪に金の瞳。豪奢な外套を無造作にまとい、他人の家で我が物顔に茶を飲んでいる男――エルヴィン・ルロワが、優雅に足を組み替えた。


 王家の末子にして王国魔術師協会の顧問。

 身分は公爵相当、本来なら誰より人の上に立つ側の男だ。


 もっとも、その継承権を自分から放り投げた理由が「王になれば誰も僕を叱ってくれなくなる」だった時点で、まともな神経を期待するだけ無駄なのだけれど。



「なぜ勝手に人の家に入っているのですか」


「ドアの鍵が開いていた」


「それを不法侵入というのよ」


「安心しろ。今日は棚にあった焼き菓子を二つしか食べていない」


「一つでも食べれば十分に泥棒です」


 言い返すと、エルヴィンは楽しそうに目を細めた。

 本当に、この男は私を怒らせるのが好きだ。


 初めてここへ来た時もそうだった。

 封印解除と異常な魔力反応の調査だと言いながら上から目線で質問を並べてきたので、私は術式の理屈の甘さを一つ残らず叩き返してやった。すると顔を真っ赤にして魔術戦を申し込んできたので、今度は完膚なきまで叩きのめしてやった。


 その結果――なぜかこの変態は、私に心底惚れ込んでしまったのである。


 以来、ことあるごとにやって来ては、勝手に居座り、勝手に手伝い、勝手に満足して帰っていく。変態だが有能。しかも、私の努力もノアとの関係も、一度たりとも軽んじなかった。それが厄介だった。



「また来てたの」


 ノアが露骨に嫌そうな顔をする。


「『また』とは失礼な。僕はこの辺境の安全保障と未来を見守る、高貴な協力者だぞ」


「勝手におやつ食べる協力者なんかいらない」


「辛辣だな。誰に似たのやら」


「アデル」


「そこは私以外にしてちょうだい」


 私が額を押さえると、エルヴィンは顎に手を当て、面白そうにノアを見た。



「しかし君は相変わらず『アデル』呼びなのか」


「そうだけど」


「四年一緒に暮らして、それはないだろう。普通ならもう少しこう、情緒ある呼び方に変わるものでは?」


「必要ない」


「たとえば母上とか」


「絶対に嫌だ」


 即答だった。

 私は苦笑をこらえきれない。


 昔、一度だけ冗談で「母さんと呼んでみる?」と聞いたことがある。するとノアは本気で不機嫌になり、その日は半日口をきかなかった。では姉さんはどうかと言えば、それはそれでさらに嫌そうな顔をした。



「お姉ちゃんも駄目だったよね」


 私がからかうと、ノアは眉間に皺を寄せた。


「駄目」


「どうしてよ」


「嫌だから」


「理由になってないわ」


 エルヴィンがわざとらしく頷く。


「立場的にはおばさん(伯母)が妥当では?」


 空気が一瞬で凍った。

 私はにっこりと笑った。


「エルヴィン殿下」


「何だ」


「そこに座ったまま窓から投げ捨てられるのと、魔術で消し炭にされるのと、どちらがお好みです?」


「素晴らしい二択だ。できれば前者で」


「黙りなさい、この変態」


 本当にうれしそうに笑うのだから始末に負えない。



 その横で、ノアが盛大に顔をしかめた。


「アデルは、そいつに優しすぎる」


「これで?」


「全然足りない。今のは杖で叩いてよかった」


「おや、君もなかなか過激だな」


「うるさい」


 ぴしゃりと切り捨ててから、ノアは私の持ち帰った籠を自然に受け取った。薬草を種類ごとに分け、獲物を解体台へ運び、水桶を補充する。

 その動きがあまりにも手慣れていて、私は内心で少しだけ目を細めた。



 最初は、寝る前に私がいるかどうかを確かめるほど不安だらけだったのに。今では、私の隣に立つことを誰にも譲る気がない顔をしている。


 そして、困ったことに、その頑なさは呼び方にも出ていた。

 母ではない。姉でもない。誰にも誤魔化させないみたいに、ノアは私の名だけを呼ぶ。

 その拒絶の中に、普通の疑似家族では片づけられない熱が混じり始めていることくらい、もう私だって分かっていた。


 ――それでも、今はまだ深く考えない。

 そう決めていたのに。


 異変は、その三日後に起きた。



 ◇


 夜明け前から空気がおかしかった。

 山小屋の周囲に張ってある警戒結界が、ひとつ、またひとつと鈍く鳴る。獣が迷い込んだ時の気配とは違う。もっと重く、もっと濁った、嫌なざわめきだった。


 私は寝台から身を起こし、すぐに窓を開けた。

 空はまだ暗い。けれど山の向こう、魔境に近い稜線のあたりに黒い靄のようなものがたゆたっている。



「アデル」


 後ろでノアの声がした。もう起きている。


「見た?」


「ええ。嫌な感じね」


 そう答えたところで、外から鈍い衝撃が響いた。魔物が押し寄せ、結界を叩いている。


「数は」


「まだ見えない。ただ、少なくないわ」


 私が杖を取ると、ノアも当然のように上着を羽織った。


「俺も行く」


「留守番していなさいと言ったら?」


「いやだ」


 いつものことだ。しかも、そう言っている間にもう戦闘準備を終えている。可愛げがないくらい手際がいい。



 そこへ、いかにも居て当然みたいな顔の男が扉を開けて入ってきた。


「素晴らしいな。どうやら今日は退屈せずに済みそうだ」


「朝一番でその感想が出るの、やっぱりどうかしているわね」


 エルヴィンは肩をすくめ、私の肩越しに外を見た。


「魔境側で環境が変わったのかもしれないね」


「最悪」


「だが、好都合でもある」


「どこが」


「君が組んだ新しい結界が、机上の空論ではないと証明できる」


 この男は、人が危険な目に遭わされている時ほど機嫌がいい。私はため息をつきながらも、すでに頭の中で配置を組み立てていた。


 山小屋の周辺に張ってある防護結界は、本来、野生の魔物や盗賊を弾く程度のものだ。魔境から押し寄せる群れを受け止めるには足りない。だが私は、この四年で封印施設の古代部材を組み替え、辺境用の広域結界を密かに準備していた。

 問題は、起動に必要な魔力量だった。



「ノア」


「うん」


「あなたの力を借りるわ」


 その瞬間、ノアの瞳がぱっと明るくなる。

 昔からそうだ。この子は、私に頼られることを何より喜ぶ。


「何をすればいい?」


「私が発動までの時間を作る。あなたは合図したら全力で魔力を流して」


「わかった」


 迷いのない返事だった。

 それに、ほんの少しだけ浮き立つような響きが混じっている。



 外へ出ると、薄明の中で黒い影がうごめいていた。狼に似た魔獣、殻を持つ虫型、瘴気をまとった鳥型の魔物まで混じっている。数で押し潰すつもりだと分かる、嫌な群れだった。


「エルヴィン、あなたは数を減らすのに協力しなさい」


「命令か」


「お願いに聞こえたなら耳がおかしいわ。それとも頭? 杖で叩いたら直るかしら」


「ふふふ、最高だ」


 嬉しそうに言いながら、エルヴィンは片手を振った。


 次の瞬間、右斜面の地面が轟音とともに裂け、土砂が一気に崩れ落ちる。魔物の前線がわずかに崩れ、その隙に私は地面へ杖を突き立てた。悔しいけれどこの王子、魔術の腕はたしかだ。



「――展開」


 足元から光が走る。辺境沿いに埋めておいた結界装置へ次々と光がつながり、半透明の壁が編み上がっていく。封印施設の古代部材を転用した広域防壁。旧式の辺境結界よりずっと大きい。だがまだ弱い。


 私の魔力だけでは足りない。


「ノア!」


 ノアが両手を重ねた。

 あふれた光は最初こそ、傷を癒やす時と同じ優しい色をしていた。けれど防壁へ触れた瞬間、その性質を変えた。

 柔らかかった光が、透明な膜となり、さらにその向こうへ細かな粒子のように広がっていく。瘴気を削り、爪を弾き、空気そのものを清めていく気配。


 私は息をのんだ。

 これは、ただの魔力ではない。神の祝福だ。浄化であり、守護であり、場を正す力だ。



 魔獣の先頭が防壁へぶつかる。普通なら亀裂が入る衝撃だった。けれど、ノアの光を受けた膜はただ歪み、次の瞬間には反発した。瘴気をまとった獣が悲鳴をあげ、輪郭を崩しながら後方へ弾かれる。


「……すご」


 ノア本人が、一番驚いた声を出した。


「よそ見しない」


「でも今の見た?」


「見てるから指示してるの」


 言いながら私は次の式を重ねた。防壁の表面に浄化の流路を刻み、ノアの力が一点に偏らないよう分散させる。起動前にこちら側へ入り込んでいた魔物だけは、エルヴィンがまとめて焼いた。


 黒炎が舞い、魔物の絶叫が響く。その背後で、防壁の向こうの空気は確実に澄んでいった。


 ノアの力は、母ブリジットのものに似ているようで、根本から質が違った。

 誰かに見せるための“聖女らしい光”ではない。もっと深く、もっと本質的に、穢れを拒む力。



「ノア、あと少し耐えられる?」


「アデルが褒めてくれるなら、いつまででも」


 そんな時にまで、まっすぐそう返してくる。

 呆れるのに、胸の奥は妙に熱くなる。


「終わったらいくらでも褒めるわ。だから今は集中しなさい」


 その途端、光がひときわ強くなった。

 単純である。

 けれどそういうところが、たまらなく愛しいと思ってしまう自分に、私は少しだけ困った。


 最後の一群が防壁に焼かれ、あるいは浄化に耐えきれず崩れた頃には、夜明けの光が山の端を染めていた。


 あたりには焦げた匂いと、清められた空気の冷たさが混ざっている。

 私は杖を下ろし、深く息を吐いた。


 防ぎ切った。

 しかも、ただ押し返しただけではない。魔境側から流れ込んでいた瘴気の筋まで薄くなっている。



「やった……?」


 ノアが信じられないものを見る顔で、自分の手のひらを見つめていた。


「ええ。やったわ」


 そう答えると、ノアはすぐに私を見た。


「……俺、役に立った?」


 褒めてほしい時の顔だった。十六になっても、その瞬間だけは昔と変わらない。


 私は一歩近づき、その額を軽く指で弾いた。


「役に立った、なんてものじゃないわ」


 ノアの喉が小さく鳴る。


「あなたがいなければ、防ぎ切れなかった」


 その言葉に、彼は目に見えて顔を赤くした。そこへエルヴィンが、面白くなさそうな顔で割って入る。


「私も働いたのだが」


「知っているわ。便利だったわね」


「便利。実に素晴らしい褒め言葉だ」


 口では文句を言いながら、目は満足げだ。

 だがその後、エルヴィンは真面目な顔になった。



「今のを見られた以上、君たちの存在を隠し通すのは無理だろうね」


「でしょうね」


 実際、山裾の集落からこちらを窺う人影がいくつも見えた。避難しきれず怯えていた住民たちが、防壁の光と浄化の奇跡を目にしてしまったのだ。


 噂は広がる。辺境を守ったのが、聖女や勇者たちではなく、封印から戻った私と、置き去りにされていた聖女の息子だと。


 その予感は、すぐ現実になった。



 ◇


 数日のうちに、近隣の集落から使いが来た。

 次の月には、辺境の小領主や役人たちまで様子を見に来た。


 防壁の残滓を見て、浄化された土地を見て、傷を負った者たちがノアの手で癒えるのを見て、彼らは顔色を変えた。



「まさか、あの災害を魔女が本当に……」

「浄化も、これほどの規模で……?」

「ブリジット様より、よほど……」


 最後まで言い切れず、皆が口を噤む。

 けれど言いたいことはよく分かった。

 本当に必要だったのは誰だったのか。誰が国を守っていたのか。

 ようやくその問いが、表へ出てきたのだ。


 ノアはそんなざわめきになど一切興味を示さなかった。

 ああ、本当に。この子は私に認められることしか興味がないのだ。




 その数日後、王都から一行が来た。

 先触れの段階で、誰が含まれているのかはすぐ分かった。


 勇者ラフィット・ムートン。

 そして、聖女ブリジット・オーブリオン。


 私は干していた薬草を取り込みながら、心の中で乾いた笑いをこぼした。

 ようやくそこまで来たのね、と。


 一度目の人生では、私は彼女たちを遠くから見上げる側だった。

 世界を救う主役と、その隣で輝く女。

 愛され、選ばれ、喝采を浴びる人々。


 けれど今、家の前に立った二人は、私の知る“輝く側”の顔とはまるで違っていた。


 ブリジットは見るからに痩せていた。愛らしさの芯は残っている。けれど頬はこけ、髪の艶は失われ、旅装の裾は泥にまみれている。目の下には濃い影が落ちていて、泣けば許されるだけの無垢さはもうなかった。


 ラフィットもまた、華やかな勇者のままではいられなかったらしい。日焼けした顔には疲労が滲み、首元には治りきらない傷がいくつも残っている。


 それでも彼は、私を見るなり目を見張った。



「……あなたが、アデル?」


 値踏みではない。純粋な驚きと、強い関心。

 それが分かってしまった瞬間、ブリジットの表情がわずかにこわばった。


「ええ、そうよ」


 私は薬草籠を置き、平然と答えた。


「それで。辺境の外れまで何のご用?」


 先に反応したのはラフィットだった。


「勇者並みの功績と聞いて、飛んできたんだ。魔境側の災害を、防壁と浄化で食い止めたと」


「噂は足が早いわね」


「旅の途中で何度も思い知ったよ。勇者や聖女の力だけでは足りない場面が、現実にはいくらでもあると……だから、実力者を仲間にしたくてね」


 その言葉に、隣のブリジットがぴくりと肩を震わせる。

 けれどラフィットは気づかない。いや、気づいていても今は優先していないのかもしれない。

 彼の目は完全に、私だけを見ていた。



「あなたは術式を扱えるんだな。それも、かなり高度なところまで」


「ええ」


「しかも現場慣れしている」


「ここで四年、生きてきたもの」


 私がそう言うと、ラフィットは息を呑んだ。

 それから、ひどく率直に言った。


「……あなたが欲しい」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 いや、分かってはいる。

 ただ、あまりにも遠慮がない。



「は? いきなり何を言っているのですか」


 呆れて返すと、なぜか彼はますます私を見つめた。


「強い人は好きだ。実際に戦って、守って、立っている人はなおさら」


「勇者様」


 ブリジットの声が、かすかに震えた。


「わたしも、ずっと一緒に――」


「もちろん君も頑張った」


 ラフィットはそう返した。返したけれど、その目はもうブリジットを見ていない。

 その落差が、あまりにも残酷だった。


 可哀想なブリジット。彼女はたしかに、ずっと選ばれる側だった。でも、選ぶ側ではなかったのよね。だから、自分の上位互換が現れた瞬間、その座から滑り落ちてしまった――。



「お姉さま」


 ブリジットが私に向き直った。

 その目には、懐かしい嫌悪と、惨めな焦りと、まだ捨てきれない甘えが混ざっている。


「……どうして、そんなふうになっているの? また私をいじめるの??」


「そんなふう? いじめる??」


「だって、お姉さまは……」


 封印されて、表舞台から消えたはずだった。そう続けたいのだろう。でも言えない。周囲に人がいるから。自分が何をしてきたか、少しでも疑われるような言葉は吐けない。



「あなたこそ、随分やつれたわね」


 私が静かに言うと、ブリジットの唇が震えた。


「旅は楽しかった? 皆に愛されて、守られて、幸せだった?」


「っ……」


「そうでもなかったみたいで安心したわ」


 ブリジットの目にみるみる涙が溜まる。

 でも私はそこで手を止めなかった。


「子供を置いて出ていくくらいには、夢中だったのでしょう?」


 その一言で、彼女の顔から血の気が引いた。

 ラフィットがはっとして、ブリジットを見る。


「子供?」


 ああ、言っていなかったのね。

 それでよく“可憐な聖女”を続けられたものだ。



「ノア・ラトゥール」


 私は心底冷めた目で、義妹を見下ろした。


「あなたとオズボーンの息子よ」


「や、やめて……」


「何を今さら」


 私の声は、自分でも驚くほど静かだった。


「母親であることも、聖女であることも、都合のいい方しか選べなかったのでしょう、あなたは」


 ブリジットの涙がこぼれた。けれど、その泣き顔を見ても、同情どころか腹が立った。自分の子供の名を突きつけられてなお、ブリジットはノアがこの場にいることに気付いていない。


 あの子は、あれほど母親に会いたがって、無茶な転移までしてここへ来たのに。念願だった再会のはずなのに、現れたのがこんな女だなんて、あまりにも惨めだ。



 ふと視線を感じて振り向くと、少し離れた場所に立つノアと目が合った。

 表情は、思ったほど崩れていなかった。

 もちろん平気なはずがない。それでも取り乱さずに立っていられるのは、たぶん、ここに私がいるからだ。


「どうして私じゃなくて、お姉さまなんかを……」


 ぽろりと零れたブリジットのその言葉に、私は思わず笑った。


「良かったじゃない? これで本当の悲劇のヒロインになれたじゃない」


 返す言葉もないのか、ブリジットはその場で崩れ落ちた。

 ラフィットはそんな彼女を支えきれず、それでも視線だけはなお私を追っている。

 正直、鬱陶しい。



「勇者様」


 私ははっきり言った。


「私はあなた方を助ける気はないわ」


「……なぜだ」


「なぜ?」


 呆れてしまった。


「私の人生を壊した側の人間に、どうして私が手を貸さなければならないの」


 ラフィットは口をつぐんだ。

 ようやく気づいたのだろう。目の前にいるのは、困っている者を見たら無条件で救う都合のいい女ではないと。


「帰ってちょうだい」


 私はそう言って、はっきり背を向けた。


「ここにいるのは、あなた方の駒じゃない」



 ラフィットとブリジットが去ったあとも、胸の奥の熱はしばらく引かなかった。


 山小屋へ戻る途中、隣を歩くノアは珍しく静かだった。


「……平気?」


 私がそう聞くと、ノアは少しだけ考えてから、小さく肩をすくめた。


「思ったよりは」


 強がりではなく、本音らしかった。


「会えたら、もっと何かあると思ってた。でも……」


 言いかけて、ノアは口を閉じる。

 その横顔は、傷ついていないわけではない。けれど決定的に打ちのめされた顔でもなかった。


「アデルが守ってくれたからかも」


 ぽつりと落ちたその言葉に、私は足を止めかけた。


「何それ」


「だって、アイツの元に帰れって言われていたら、たぶんもっと嫌だった」


 私は思わず息を吐いた。



「安心しなさい。今さらあれを母親だなんて、私だって言う気はないわ」


 少し迷ってから、私は軽く言った。


「……まあ、私が母親みたいなものなんでしょうけど」


 その途端、ノアがぴたりと足を止めた。


「それは違う」


 思ったより強い声だった。

 私が目を瞬くと、ノアは視線を逸らしたまま、耳だけ赤くしている。


「俺は、ずっとアデルを……」


 そこまで言って、彼は言葉を飲み込んだ。

 喉が小さく上下する。


「……なんでもない」


 私は何も返せなかった。

 ただ、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。


 母ではない。

 姉でもない。

 もう元の家族には戻れない。


 そのことだけが、夕暮れの山道で、痛いほどはっきりしていた。



 ◆


 その翌日。

 オズボーン・ラトゥール本人が現れた時、私は本気で心底うんざりした。


 相変わらず整った顔をしている。

 けれど、余裕は消えていた。王都での華やかな立場を削られたのか、目の下には疲れが浮き、口元には焦りが滲んでいる。


 それでもこの男は、自分が主役であることをやめない。



「アデル」


 山小屋の前に立つなり、彼は当然のように言った。


「辺境が不安定になっている。君の封印が解けたせいで、旧式結界が消えたからだ」


「そう」


「だから責任を取れ」


 私はしばらく黙った。

 本当に、どこまで行ってもこの男は変わらない。



「責任?」


「そうだ。君が再び封印されれば済む話だ」


 さらりと。


 呼吸するみたいに言った。

 四年前と同じように。いいえ、もっと軽く。


 私は笑った。



「嫌よ」


 即答すると、オズボーンは眉をひそめた。


「子供のようなことを言うな」


「子供みたいな要求をしている自覚はないのね」


「これは辺境のためだ!」


「辺境のためなら、私がまた人生を捨てて当然だと?」


「君はそれだけの力を持っている!」


 そこだけは声を荒げた。

 つまり本音だ。


 私個人の幸福も尊厳もどうでもよくて、ただ“使えるから使え”と言っているだけ。


 四年前から、一歩も変わっていない。


 私は冷たく見返した。



「断るわ」


「……っ」


 オズボーンは一瞬だけ言葉を失い、それから唇を歪めた。


「君は辺境を見捨てるのか」


「違うわね。見捨てたのはあなたよ」


 その言葉に、彼の顔色が変わった。


「封印施設も放置した。辺境の実情も見てこなかった。王都で英雄の顔だけしていたのは誰?」


「君に何が分かる」


「全部分かるわ。私はあそこにいたんだから」


 静かに言うほど、オズボーンは追い詰められていく。


 命令が駄目なら、懇願に切り替える。その次は被害者面。


 この男の底は、昔からずっと浅かった。



「……頼む、アデル」


 とうとう彼は声色を変えた。


「今だけでいい。辺境を守れれば、僕も君を認める。昔のことだって水に流そう」


 あまりにも厚顔無恥で、笑う気にもなれない。


「認める?」


 私は一歩近づいた。


「いつまで選ぶ側のつもりでいるの?」


 オズボーンの喉がひくりと鳴る。



 その瞬間だった。

 山小屋の扉が開いて、ノアが出てきた。

 彼は私の後ろへ立つと、露骨にオズボーンを睨みつけた。


「帰れ。ここはあなたのいるべき場所じゃない」


 短い一言。

 けれど、それだけで十分だった。


 オズボーンの顔が歪む。



「ノア……! お前まで反抗するのか。そもそも、お前がここにいるのが問題なんだ」


 嫌な予感がした。

 そして、その予感は外れない。


「アデルが駄目なら、お前でもいい」


 ぞっとするほど軽く、オズボーンは言った。


「同じように特別な力を持っているなら、お前を封印の核にすればいい。子供一人で辺境が救えるなら、安いものだろう」


 頭の中で、何かが真っ白になった。



 今、この男は何と言った?


 ノアを。

 この子を。

 人柱にする、と?


 私は気づいた時には前へ出ていた。


「……もう一度」


 自分でも驚くほど、声が静かだった。


「今の言葉を、もう一度言ってみなさい」


 オズボーンは一瞬ひるんだ。

 でも、愚かな人間は自分の失言を理解できない。


「だ、だから、辺境のためには仕方がないと――」


 次の瞬間、地面が割れた。

 轟音が辺りを貫き、山小屋の前の地面が一直線に裂ける。亀裂はオズボーンのつま先すれすれで止まり、その向こう側の土塊を深く呑み込んだ。


 彼は腰を抜かして尻餅をついた。

 顔から血の気が失せている。


 けれど、私は止まらなかった。



 封印される瞬間より、ずっと強い怒りだった。


 一度目の私も。

 二度目の私も。

 誰にも守られなかった。


 でも、この子まで同じ目に遭わせる気はない。

 絶対に。



「真っ二つにされたくなければ」


 私は亀裂の向こうで震える男を見下ろした。


「二度と私たちの前に現れないで」


 オズボーンは何かを言おうとした。命令か、言い訳か、あるいはいつもの被害者面か。


 けれど声にならない。

 私はその無様さを、ただ冷たく眺めた。


「あなたはもう選ぶ側じゃない」


 はっきり言い切る。


「私が、選ぶ側よ」


 それで終わりだった。

 オズボーンは這うようにして後ずさり、最後には本当に、逃げるように山道を下っていった。



 静寂が落ちる。

 私の背後で、ノアが息を詰めていた。

 振り返ると、彼は呆然と私を見ていた。


「アデル……」


 その声で、ようやく私は自分がどれだけ怒っていたのかを知った。


 胸の奥がまだ熱い。

 けれど不思議と、後悔はなかった。

 むしろ、ずっと澱んでいたものが綺麗に流れた気がした。


 すると横から、のんきな拍手が聞こえる。



「実に見事だった。あれは芸術だな」


 いつの間にか木にもたれて見物していたエルヴィンが、心底満足そうに笑っていた。


「いつからいたの」


「途中からだ。ノアを核にすればいい、のあたりなど特に良かった。君の表情が」


「殴るわよ」


「ご褒美か」


「本当に黙って」


 睨みつけると、彼はくつくつ喉を鳴らした。

 けれど次に口を開いた時、その声音は少しだけ真面目だった。



「もっとも、結果として辺境には悪くない影響も出る」


「どういう意味?」


「さっきの地割れだ。魔境側からの侵入路を一つ潰した。地形が変わった以上、以前のような流れでは魔物は押し寄せられん」


 私は目を瞬いた。

 そこまで計算したわけではない。

 完全に怒り任せだった。


 なのに結果だけ見ると、辺境防衛はむしろ安定に向かうらしい。


「……皮肉ね」


「君らしいとも言える」


 そうかもしれない。

 理不尽に奪われるだけだった人生の中で、ようやく初めて、怒りが守るための力になったのだとしたら。



 ◆


 騒動のあと、辺境には少しずついつもの日常が戻った。


 防壁の補修。薬草の乾燥。解体台の掃除。増えた見回り。やることはいくらでもある。


 でも、不思議と空気は軽かった。

 もう二度と奪わせないと、自分で決めたからかもしれない。



 夕暮れ、私は山小屋の前で乾いた薬草を仕分けていた。ノアはすぐ横で木箱を直していて、エルヴィンはいつものように勝手に椅子へ座っている。


「アデル」


 不意にノアが呼んだ。


「何」

「俺、あいつのところには戻らないから」

「知ってるわ」

「あと、母親のところにも行かない」

「それも知っているわね」


 ノアは少しだけ黙った。

 金色に近い睫毛が伏せられる。



「……俺は、アデルのそばにいる」


 私は手を止めた。

 前なら、子供の執着だと流したかもしれない。


 でも今のノアは、もう子供だけではない。背丈も、声も、眼差しも、四年前とは違う。


 それでも私を呼ぶ時だけは、あの頃と同じ熱を宿している。


 母としてではない。

 姉としてでもない。


 一人の女として。

 そこまで分かってしまうから、少し困る。



「重いのよ、あなた」

「知ってる」

「自覚あるのね」

「アデルにだけだからいいだろ」


 さらりと言う。

 本当に、困った子だ。

 いや、もう子ではないのかもしれないけれど。



 私が答えに詰まっていると、横からエルヴィンが楽しそうに口を挟んだ。


「いやはや、青春だな」

「「うるさい」」


 私が即座に睨む。

 けれどエルヴィンはまるで気にしない。


「安心しろ、アデル。僕は寛容だ。二番目でも構わん。むしろ、ペットくらいの雑な扱いで私のことも愛してくれないか?」

「……本当にあなた、良い性格してるわよね」

「アデルが僕を褒めるとは珍しいな」

「褒めてないわよ、気持ち悪い」

「ははは、僕にとってはその罵倒すらご褒美だよ」


 誇らしげに言うことではない。

 私は呆れながらも、小さく息を吐いた。



 騒がしい。

 本当に、毎日毎日。

 けれど嫌ではなかった。


 そんな私の横顔を見て、エルヴィンがふと真顔になる。


「アデル」

「何」

「君はまだ、誰かに選ばれることを気にしているか?」


 唐突な問いだった。

 けれど、その言葉はまっすぐ胸の奥へ落ちた。


 一度目の人生では、ずっとそうだった。


 オズボーンに選ばれたかった。

 家族に必要とされたかった。

 ブリジットより上だと認められたかった。


 二度目の人生でも結局、努力の根っこにはそれがあったのかもしれない。


 選ばれなければ、生き残れないと思っていた。

 価値を示さなければ、捨てられると思っていた。



 でも。

 私は今日、自分で選ばなかった。


 オズボーンを拒絶した。

 ブリジットを救わなかった。

 ノアを守ると決めた。


 誰かに差し出されるままではなく、自分の意思で。



「……いいえ」


 私はゆっくり答えた。


「もう、違うわね」


 エルヴィンが満足そうに目を細める。


「そうだろう。重要なのは、君がどんな未来を選ぶかだけだ」


 私は少しだけ笑った。


 その通りだった。

 私はずっと、選ばれなかった女だった。

 婚約者にも、家族にも、物語の主人公にも。


 けれど、そんなものはもうどうでもいい。


 私がどう生きるか。

 それを決めるのは、私でいい。


 ようやく、そう思えた。



 夕陽が辺境の山を赤く染める。

 その光の中で、ノアが当たり前みたいに私の隣へ立った。


 エルヴィンは相変わらず勝手に椅子へ座り、勝手にくつろいでいる。


 面倒で、騒がしくて、油断するとすぐ増長して。


 それでも、もう知っている。

 私はこの場所を手放さない。

 この子を、もう二度と奪わせない。


 そして、私自身の未来も。



「さあ」


 私は立ち上がり、薬草籠を抱え直した。


「夕飯にするわよ」

「やった! 角兎のステーキがいいな」


 ノアがすぐに顔を上げる。

 言い合う私たちの横で、エルヴィンが優雅に手を上げた。


「私は客人だから豪勢に頼む」

「誰が客人ですって?」

「立場的には」

「図々しさだけは王族を名乗る資格があるわね」


 エルヴィンが機嫌よく笑う。



 ノアはそんな彼を露骨に邪険にしながらも、私の手から籠を取り上げた。


 その自然さに、私はもう何も言わなかった。



 選ばれなかった女は、もう終わりだ。

 これからは私が選ぶ。


 私の人生も、家族も、未来も。


 たとえ物語がどんな筋書きを用意していようと、今度こそ、誰にも譲らない。





拙作をお読みいただき、本当にありがとうございます。

皆さまからの応援が、日々筆を取る力になっています。

もしお気に召しましたら、★評価などいただけましたら嬉しく、今後の創作の励みになります。

これからも少しでも楽しんでいただける物語を紡いでいければと思っております。

心より感謝をこめて──今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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