王様の独り言
あってもなくても大筋に影響はないエピソードですが、読んだら色々とすっきりするかもしれません。
あなた様のお時間をいただけたら幸いです。
王宮の中庭は、夏の終わりにしてはよく風が通っていた。
樹々が揺れ、銀の杯の中で氷がかすかに鳴る。王は椅子に凭れ、薄く笑っていた。
「……あのとき、選べたのだ。選べたとも。」
独り言のようなその声を、従者たちは誰も気に留めなかった。
この季節、王が沈思にふけるのは珍しくなかったからだ。
だがその実、王の視線は約六十年前の王立学園の石畳を見ていた。
まだ「王子」だった自分。侯爵家の次男と、伯爵家の嫡男。
三人はよく一緒にいた。
侯爵は気の抜けたような笑顔を絶やさなかった。妙に人懐っこく、敵を作らない性格。
伯爵は几帳面で、口数が少なく、笑いながら毒を吐くようなやつだった。
自分はその真ん中に立って、二人のやり取りを見ているのが好きだった。
「なぁ、君たち二人……妙にうまく噛み合うと思わないか?」
そんなことを呟いて、王子だった彼はよくからかったものだ。
侯爵はいつも笑って否定し、伯爵は黙ってそっぽを向いた。
だが王には、わかっていた。伯爵は──あの飄々とした男に、恋をしていた。
決して口には出さなかったが、それは明らかだった。
目の端で常に彼を捉えていたし、侯爵が無防備に誰かと笑えば、必ず不機嫌になった。
「だからさ。ちょっとだけ、あの恋を見守ってみたかったんだよ。」
王は杯を傾け、氷が溶けて薄くなった酒を一口飲む。
杯についた結露が、指をぬらした。
あの一族が亡命してきたとき、王はすぐに侯爵から報告を受けた。
医学に優れ、長老は碧国の王族の治療に携わってきた──
この国とは異なる知識体系はもちろんのこと。
王族の健康状態、遺伝的体質、宮廷内部の人間関係と、入手困難な情報の宝庫だ。
利用価値は十分にあった。
まず考えたのは、王都近郊に医療特区を設け、王家直属の庇護下で研究させる。
それが最も効率の良い選択だった。
実際、内密に招集した参謀たちは一様にそう進言した。
だが王は──ふと、学園時代のあの二人を思い出してしまったのだ。
侯爵が、『頼む』と言ったのだよ。あいつが、だ。
軽口ばかり並べるあの男が、真顔で頼みごとをするなど、滅多にないことだった。
王は、侯爵が沈痛な表情で言葉を選んでいる様子を初めて見た気がした。
だから、その「誠意」に応えたかった。
それに──
「伯爵の目が、嬉しそうだった。」
初めて「あの男のために働く」大義名分を得たのだ。
彼は、学園時代には決して与えられなかった「正面からの関係」を、あの時ようやく許されたのだろう。
その目を見て、王は思った。
──まぁ、少しだけなら、任せてもいいか。
ほんの少しだけ。それが三十数年に及んだ。
しかも、ありえないくらい完璧に隠し通した。
躍起になって捜索していた碧の新しい王族も__傍流で、一応は血のつながった者たちではあったが__均一族は滅亡したと、今では考えざるを得なくなったようだ。
遺伝病の特効薬の消失を、さぞ悔やんでいることだろう。
碧国の簒奪の経緯は見苦しく、後始末も杜撰だった。あれでは到底、信を置けぬ。
国交を深める気など、さらさらない。
特効薬の処方は失われたということにしてもいい。
あるいは、ごく限られた者にだけ、「現物」を交渉材料として見せてもよいかもしれんな。
身の程をわきまえぬ愚物は、すでに操り人形となっているようだ。
その操り手との取引なら……案外、悪くないかもしれん。
伯爵が生きていれば、どんな策を授けてくれただろうな。
──今この時、ここで杯を交わせたなら……それだけで酒の肴になりそうな、ぞくぞくするような案が飛び出してくるにちがいない。
その前にひとしきり、碧の不甲斐ない点を辛辣に腐すか。歯に衣着せぬ様が、実に爽快なのだ。
……伯爵が無口なのは、毒を吐いてはいけないと思っているから。
「おかしいね。」
王はふっと笑った。
「王族が、友情に甘えて判断を左右されるなど、あってはならないのに」
だが、その判断の結果は、意外と悪くなかった。
伯爵の屋敷の奥で、均一族は期待以上の成果を上げ、研究成果は王家に絶えず届いた。
国家の暗部、影の医療技術は格段に進歩した。
表に出せない手技、倫理を超えた実験、薬物の改良と再生処置――
あの一族の「生きた証」が、いくつもの命を救い、また奪ってきたのだ。
ただ一つ、胸の奥に引っかかることがあったとすれば──
「……侯爵は、何も気づいていなかった。」
どれだけ時が経とうとも、侯爵は伯爵の「献身」の正体に気づかない。
私は密かに、侯爵が気づく日が来るのかを見てみたいと思っていた。
王族である私が脇に佇む物語を、最前列で眺める。その奇妙な立ち位置が、なぜか心地よかったのだ。
伯爵はあらゆることを想定していた。
自分が死んでも滞りなく続けられるよう、将来に向けた手配に抜かりはなかった。
宰相と相談して、だらしない息子の嫁にしっかり者のご令嬢を迎えた。
その嫁を補助するために「家令」を育てた。
あれは、侯爵の息子だから嬉々として愛でるかと思いきや……意外にも普通に、使える部下として育てていた。
侯爵と家令では、親子でありながら性格が似ていないせいか。特別な感情は抱いていないようだった。
それもこれも……あらゆることが侯爵のためのものだ。
その侯爵はと言えば……
均一族の重要性も、伯爵家の「家業」が何を意味するのかも、朧気なまま気にするそぶりもない。
長男の落馬事故の後遺症に助言をもらい、その縁で亡命する先に選ばれたとしか考えていなかった。
あれほど人懐っこいのに、肝心の核心には手を伸ばさない。
それが彼の罪であり、「愛される所以」なのだろう。
碧国が、亡命者をどれほど執拗に抹殺しようとしたか──
そして、その数年後には手のひらを返したように、特効薬を血眼になって探しはじめたか──
あやつらは、自分たちがいかに滑稽なことをしているか、まだ気づいていない。
強引な捜索が他国との関係を悪化させ、戦の口実にされかけたこともあった。
そして、それはそのまま弱点を喧伝しているのに等しい。
少なくとも、前王までは隠せていた弱点だ。
婚姻政策が取れなくなることが、どれだけ政略の幅を狭めることか。
無能が、扱いきれない権力に振り回されて、自らに次々と傷を刻む。
目先のことしか見えぬのに、なぜその座を奪ってまで就こうと思ったのか。
しかるべき立場に退くか、有能な者に舵を預ける覚悟くらいは持つべきだろう。
その点、侯爵は実に見事だ。
自らの限界を理解し、それを補う人材を揃えることに長けている。
あれは戦略というより、もはや美意識に近い。素直に感心する。
できることなら、もっと国政に関わってくれれば面白いのだが……
あえて一歩引くのも、己をわきまえる者の流儀なのだろうな。
「なあ。俺たちの道は、どこへ向かっているんだろう。」
問いかけた相手は、目の前にはいない。
伯爵はすでに墓石の下。
侯爵は、相変わらずのらりくらりと日々を過ごしている。
──それでもいいのだ。
あの頃の関係は、壊れなかった。
国王、侯爵、伯爵。立場は変わっても、根っこの距離感は変わらない。
それが王にとって、何よりかけがえなのいものだった。
「だから私は、次を、彼に任せようと思う。」
侯爵の婚外子、伯爵の愛弟子。
新たな駒。
友情が絡み合った導火線。
王は杯をテーブルに置いて、立ち上がった。
亡命者の均一族を伯爵家の温室から移す新たな指示が、下されている。
監禁ではなく、整備された管理下での研究継続。
名誉ある「医療特区」の形で。
彼に、均の一族とこの国の医療、薬学分野の専門家との調整を図ってもらおう。
確か、彼の義娘(予定)が、碧語ができたはず。
彼女に通訳と情に訴えた関係作りを任せられたら、よいのではないか?
いくつかの国には「最重要機密」という形で、薬を提供してもいいし、難しい手術が必要な患者を引き受けてもいい。
均の一族が我が国にいると気付かれないよう。気付かれても漏らせないような、深い共犯関係が構築できる相手にだけ。
政治的な駆け引きが得意な者を、外交の窓口にしたいな。さて、誰にするか。
王は執務室に着くと、少々勢いよく椅子に腰掛けた。
机の上には、休憩に入る前に目を通していた、忌々しい報告書。
伯爵の才をなにひとつ継がぬ息子――現ヘムリーズ伯爵について。
その愚鈍ぶりは、いっそ見事なほどだったな。
放蕩に明け暮れ、父を事故に見せかけて葬った、吐き気を催す外道。
その上、怪しげな入り婿予定者を引き込んで、「家業」を危険にさらしている愚か者。
我らの楽園を壊した咎……代償は静かに、確実に、与えていくつもりだ。
血の繋がった息子より、家業の補佐役として育てた家令の方が似ているとは笑えるな。
伯爵が心血を注いで叩きあげた逸品だ。
この駒、ありがたく使わせてもらうぞ。
さて、新しい研究所は少し離れた飛び地の王領で、馬車で二日ほど。
家令……モンレーヴ子爵(予定)は、王都から通うと譲らぬらしい。
(手に入れる予定の)愛妻との日々を大切にしたいのだろう。まこと結構。
となれば、侯爵のことだ。
近いうちに、魔神国から「移動の魔道具」を手に入れるに違いない。
隣国が魔神国に追いつけ追い越せで勢いづき、魔神国が技術の流出に神経を尖らせている昨今。
侯爵の嫁は隣国出身。
しかも、嫁いで早々に我が国の下町に情報収集のための酒場を開きおった。従業員に暗部を加えることで手打ちにしたが、油断も隙もない女傑。
そんな嫁がいる立場で、どうやって魔神国から魔道具を引き出してくるのか。
長年見ているが、私の目にもその技が見えぬ。
ある作曲家は、理論にそぐわぬ構成で、完璧な楽曲を生み出したという。
まさに、理解の及ばぬ天才──
侯爵も、あるいはそうなのかもしれない。
ならば、私は指揮者だ。
私一人では音を鳴らせぬ。
だが、王が方向を示さねば、楽団はただ混乱するばかり。
演奏家の個性を潰して、思いどおりの演奏をさせたいなどと夢想するのは、愚の骨頂だ。
互いに認め合い、それぞれの音を活かしながら、美しい調和を奏でたい。
……学生時代には、理想論だと鼻で笑われたが。
さて、どんな曲に仕上げようか。
意図的に雑音を奏でる者には、舞台を降りてもらわねばなるまい。
報告書を握りつぶす、ぐしゃりという音が、静かな執務室にかすかに響いた。
家令が子爵を継ぐと決意して一ヶ月くらい後のお話です。卒業式より前なので、愛妻(予定)です。
先代様のご学友だけあって、王様もぶっ壊れた人物でした。
前作で、侯爵が「父に婿に行くことを否定された」と言っていますが、ある意味で有能なので他家に出したくなかったのです。