親愛が作り上げる心の荒波
「はぁ…。」
入学式も終わり、その後の連絡も終わり、やっと帰れる、というところ。
いつもの倍程に感じる疲れに、蓮見葉は鉛のようなため息をついていた。
今更ながら、馬鹿だと思った。なぜ記憶喪失なのにも関わらず無理やり学校に行ったのだろう。
いくら妹の為だろうと、流石に馬鹿だと思った。知らない友人のオンパレードの対応に追われてメンタルはもう擦り切れている。
さて帰ろうかとバッグを整理していると、1つの本を手に取る。
そういえば、この本をあの少女に返していない。すっかり忘れていたが、借り物は返却しなければ。
隣でバッグを持ち上げて今にも帰ろうかというところに、僕は慌てて声をかけた。
「あ、あの。本、ありがとう。面白かった。」
「え。あぁ、大丈夫ですよ。というか、その本まだ読み切ってないですよね?」
「あぁまぁ。そうだね。」
入学式が始まるまでの僅かな間に貸してもらったものなので、当然読み切るどころか序章も序章で終わっている。
「なら、その本はまだ貸しておきますよ。読み切ってから返してもらわないと。本だって読まれることを望んでます。」
「だけど、いいのか?かなり時間を要すると思うけど。」
「いいじゃないですか。その分私達の友達関係は保証されたってことです。」
思わずドキッとしてしまった。突然こんなことを言われれば誰だってそうなる。
というか、見た目に反してこの子コミュ力高いな。結構羨ましいタイプだ。
「あの、君の名前は?」
聞いた直後にハッとする。この子が蓮見葉の友人だった場合またややこしい事になる。
「小豆雪乃です。」
「こまめ?」
「ふふ。覚えやすい名前でしょう?小さいお豆です。」
とりあえずこの小豆さんは蓮見葉と友人では無い、本当の初対面のようで、ひとまず安心。
「僕は蓮見葉。この本、暫く借りるね。」
「ええ、どうぞ。葉さん。読み終わったらオタク談義しましょう。」
「勿論だよ。」
いつもの倍疲れた学校でも、良いことはあるということ。
その後、僕は友人たちに目もくれず一目散に教室から逃げ出した。
「一方その頃って奴だね!!」
「な、何。びっくりするから大声出さないでよ。」
桜ヶ丘中学高等学校 正門
蓮見朱里は今日できたばかりの友人、桜庭凛と会話に明け暮れていた。
「朱里ちゃんのお兄さんと待ち合わせしてるんだっけ?」
「そう。来るの遅いなぁ。」
「いや…まだ私たち来てから五分も経ってないって。」
だって遅いと感じるんだから仕方ないじゃん。
「てか、お兄さん来るんだったら私先に帰った方がいいかな。来た時誰?ってなっちゃうもんね。」
「うーん。まぁいいんじゃない?私もお兄…兄に凛のこと紹介したいし。」
「朱里ちゃん…!もう大好き!!私たち親友だね!」
そう言って凛は抱き着いてきた。可愛いけどちょっと暑苦しい。
「暑苦しいから離れて。」
「やーだよーだ!!」
やいのやいのと遊んでいる時に、待ち望んでいた顔が視界に映る。
キョロキョロと周りを見渡したと思うと、今度は首を傾げて、振り返り、またもや首を傾げ、30秒同じことを繰り返した後、やっとこちらを見つける。遅い。
その間私たちはと言うと、相変わらず戦いを繰り広げてた訳だけど。
おーい!と声をかけながら近づいてくるお兄ちゃん。
その声に気づいた凛は、慌てて振り返る。
「あ!朱里ちゃんのお兄さんですか!私、さくらば…。」
そこで硬直。凛だけ時が止められたかのようにフリーズした。
「…どうしたの?」
声をかけると、解凍されたように動き出し、慌てふためく。
「い、いや!なんか私の知り合いの人に似てたから勘違いしちゃって…!」
「そういうこともあるのか…。ハハ、偶然だね。」
突然の凛の様子にお兄ちゃんも若干困惑の様子を見せていたが、納得の様子でニコニコ顔になった。因みに、このニコニコ顔は緊張している時の顔である。丁寧に言うと、緊張を隠すように取り繕っている様子。しょうがない。お兄ちゃんだし。
「あれー、葉っち〜!ナンパでもしてんのー?」
知らない声が聞こえたところで、今度はお兄ちゃんの方がフリーズした。
後ろには2人の女性が、恐らくはお兄ちゃんの友達であろう人がいた。
「なーにナンパなんかしちゃってんの!!」
「うぉ!危な!」
後ろにたどり着くと同時に金髪の可愛らしい女性がお兄ちゃんを強烈に押した。
危うく倒れかけて凛にもたれ掛かりそうになるが耐える。
「危ないでしょ、突然押したりしたら…、ってあれ、凛。葉君と知り合いだったの?え?何繋がりで?」
「い、いや!私の友達のお兄ちゃんだったから話してただけだって!!全然知らない!!ホントだよお姉ちゃん!」
「…?そっか。」
へえこの人がお姉ちゃん。綺麗な人だな。
凛は何を必死に否定しているのだろうと思っているところで一つ気づいたことがある。
先程からずっと金髪の人に絡まれているお兄ちゃんが冷や汗ダラダラである。
そういえば、お兄ちゃん記憶が抜けているんだった。彼女にとっては仲の良い友人でもお兄ちゃんにとっては初対面という状況が有り得てしまうのか。だとしたら楽しい場ではないだろう。
「すみません。私蓮見葉の妹の蓮見朱里と言います。」
「え、妹ちゃんなの!?かっわいいー!!」
金髪さんがこちらを見て目をキラキラと輝かせる。
「あはは、ありがとうございます。」
軽く頭を下げる。礼儀正しく接するに越したことはない。
「ま、まさか妹の初お友達が葉君の妹さん??凄い偶然…。」
「私も本当に凄い奇跡だと思ってる…。」
やけに凛の言葉が意味深に聞こえたが、わざわざ質問することでもない。
「そういえば自己紹介してなかったごめん!!遅れて自己紹介タイムだね!」
神谷結先輩、桜庭舞先輩。
2人の名前を脳に刻み込んだ。というか、こんな出会い方だったから勝手に刻み込まれたの方が正しいけど。
「朱里ちゃん。普段は何をして過ごしてるの?」
「普段はー…、本を読んだり絵を描いたりしてますね。」
「絵描けるんだ朱里ちゃん。なんというか葉君と割と正反対のような気がするね。」
「正反対?」
疑問の声を挙げたのはお兄ちゃん。確かに私から見ても異なりはしても正反対では無いと感じる。
お兄ちゃんの日頃の行動で代表に挙げられるのは本を読むこと。昔から変わらない。実は自分で物語を紡いでいることも知ってたりする。お兄ちゃんは秘密にしているつもりだろうな。
余談だが、最初はスマホから見えちゃったのがきっかけで、今は小説の投稿サイトから欠かさず追っている。結構面白いし、ある程度本を読み慣れている私からしても才能があると思っている。
当然、これは正反対ではない。
「正反対って?」
疑問の声を挙げたのはお兄ちゃんなので、そのまま質問をする。
「ん?いや、そういうイメージがあるっていうか、実際は掴みどころなくてあまり分からないんだけど。」
「あ、確かに!なんだか葉っちってミステリーだよね。底が見えない感じがして、The スパイって感じ?」
「その例えはちょっとよく分からないけど、まあそういう感じだよね。」
昔から知り合いの人はわかると思うけど、お兄ちゃんは明らかにそういうタイプの人間では無い。ましてや「スパイ」なんて強そうなイメージからは程遠い。
そういえば、昨日のお兄ちゃんは若干の違和感を感じたような。
そこまで知識が沢山ある訳じゃないけど、もしかして単純な記憶喪失じゃない…?
何にせよ、ここで長々と呑気に談笑するのはあまり得じゃないかも。さっさと帰ってお兄ちゃんを病院に連れて行くべきだ。
「ごめんなさい。私と兄はこれから用事がありまして、お先に失礼します!また声をかけて頂けたら嬉しいです。神谷先輩、桜庭…舞先輩。」
行こう。と目配せをすると、お兄ちゃんはごめんと皆に声をかけながらこちらに来た。
「じゃあ、凛。また学校でね。声掛けてくれてありがとう。これからよろしく。」
「あ、うん。これからよろしく!またね朱里ちゃん!」
こうして、私達は帰路を辿ることになった。
「はぁ…。」
重すぎるため息。無理もないことだろう。記憶を無くすなど想像も出来ないけれど、出来ないからこそ辛いことであると認識ができる。
「お兄ちゃん。明日春樹さんのとこ行こ。私も付き合うよ。」
「春樹さん?」
春樹さんというのは、親の縁で仲良くしている、言わば私たち2人のお兄さん的存在だ。
こっちでお兄ちゃんの一人暮らしが許されたのも、春樹さんによる恩恵が大きい。彼が困った時は力になってくれるということで長い長い通学からオサラバできることになった。
「今まさに困ってるでしょ?記憶喪失なんて本業だし頼る他ないよ。」
彼は精神科医だ。それが起因しているのかは知らないが、彼はものすごく優しいし、人が嫌になることを言わない。だからこそ信頼されている。
「俺如きで迷惑はかけたくない。」
「如きって何?お兄ちゃんも私も誰でも、関係ないでしょ。」
「だが…」
「だがじゃない。お兄ちゃんは唯一無二。誰が否定しても私はその意見を変えない。」
「朱里…。」
「昔からある自己否定。いい加減もうやめてよ。私のために。」
「…。」
お兄ちゃんの自己否定は、いつの日か突然始まった。理由がなんであるかは知らない。
お兄ちゃんは好きだ。でも、大好きじゃない。
好きなものを共有できないから。
「悪かった。行くよ。」
「当たり前でしょ。」
「ありがとう。」
腹立たしくも、安心するかのような気持ちもあって、自分の感情が分からなくなっていた。