再序章 蓮見葉という人間
長く、夢を見ている。
僕が、俺が、自分でない者が、それでも自分が当然のように知り合いと接していた。
見ていると、自分が誰かも分からなくなるような感覚に陥って、それでも僕を失いたくなくて、溺れそうになりながら、もがき苦しみながら、深海をさまよっていた。
「…ちゃん!…お…いちゃ…!」
暗い海の中に、1つの光が差し込んでいる。
何の光なのか、考える余地もなく、引き込まれるように僕は手を伸ばして──────
「お兄ちゃん!!!」
「ッッッてぇ!!!」
お腹に走る激痛。目を開くと、僕の一つ年下の妹、朱里が立っていた。お腹の上で。
「やっと起きた。早く準備してよ遅刻するよ!」
状況が呑み込めないので、とりあえず質問をしたい。
「朱里、なん…苦しい苦しい早くどいて!!」
「あ、ごめん忘れてた。」
頭をコツンと叩き、舌を出す。
この誰に似たのか分からない性格の悪さは相変わらず変わっていないようだ。
とりあえず、服装を着替えながら朝ごはんを作ってくれている朱里に改めて質問をする。
「朱里、いつの間にこっちに来たのか?鍵なんて残していった覚えは無いが…。」
ため息を着く朱里。
「お兄ちゃんまだ寝ぼけてんの?私もこっちの学校に入学するからこっちに引っ越してきたんだって。連絡あったでしょ?昨日も入れてくれたのはお兄ちゃんでしょうが。」
「…何の話だ?」
「はぁ??」
さっきまでの朱里の話、全くもって身に覚えがない。大体。朱里はまだ中学三年生序盤。こっちに来たら学校に通うのだって一苦労だ。何を言っている?
とりあえずはその「連絡」とやらを確認するとしよう。そう思ってスマホを開く。
人って、本当に驚いた時は声が出ないものなんだ。思わずよぎったのは、そんなちっぽけな事だった。
それがメッセージの内容だったら、僕はそれを「たまたま」で済ませたんだ。
スマホ、開いた時に当然映るのは時刻、そして、日時である。そこに書いてある疑いようのない事実が僕を絶句させた。
4月。出会いと別れの季節。新しい制服に身を纏っていたのは、僕の妹の方だった。
「はぁ!???1年間の記憶がない!???」
近所迷惑も良いところの大声に、思わず五月蝿いと言ってしまいそうになるが、当たり前の反応なので口を結ぶ。
「昨日の僕が朱里を迎え入れたように、この1年間、僕は確かに存在していた。」
「そうだよ。学校の様子だって連絡くれたし、私文化祭も行ったんだよ!?お兄ちゃんにも会ったし!!外でブレイクダンスして会場を沸かしてた!」
「それは流石に嘘だろ。」
嘘…だよな??
「…ってかもうこんな時間だし!!私今日入学式なんだけど!!早く行かなきゃいけないんですけど!!なんでそんな衝撃的な話朝から伝えるの!!!」
「…僕が悪いか??」
「悪くないよ!!」
混乱しながらも、朱里は急いで歯を磨きはじめる。今日は一緒に登校する予定なので、慌てて僕も歯を磨く。続きは登校途中で、といったところか。
「行ってきまーす!」
「行ってきます。」
1年ぶりに感じるはずだった暑すぎず心地よい春の暖かさをまさか延長戦で味わうことになるとは思わず、外に出て改めて僕の状況を理解する。
「今更ながら、お兄ちゃんは学校行かないで精神科でも行った方が良かったんじゃないかな。」
「何言ってるんだ。僕の妹の初登校日だぞ。」
大事な大事な妹の晴れ舞台。もしかしたらどっかで迷うかもしれないし、学校なんて何が何やら分からないだろうし、しっかり兄の僕が助けなければ!!
「何その謎の使命感…。シスコン兄さん、私もう高校生なんですけど。」
呆れ顔になった。何故なのか検討もつかない。
と思ったらポンと閃いたような思い当たったような顔になった。表情が目まぐるしく変わるな。
「そういえばお兄ちゃん、1年分の記憶が無いんだよね。」
「…あぁ。ない。」
1年というのは、人間の一生に置いては本当に貴重で、長過ぎる時間。それを丸々失った。
気丈に振舞ってはいるが、その事実は多分朱里が思っている以上に僕を疲弊させている。
「じゃあさじゃあさ、今のお兄ちゃんって、私と同い年ってことだよね!」
「な、違う!記憶が無いだけだ!1年間僕は存在していた!」
ちなみに僕の誕生日は6月、朱里は10月にある。夏と秋だ。
「確かに体の年齢は違うかもしれないけどさぁ〜、精神の年齢で言ったら同じ月日を生きてるんだから同い年だよね。」
「…、確かに…。」
実際僕の感覚じゃ寝たら1年経っていたぐらいの話だから、
「あ!今確かにって言ったね!!じゃあ私これからお兄ちゃんのこと葉って呼ぶから!!」
「ダメに決まってるだろ。」
「いて。」
手刀をコツンと当てた。
「ちぇ~…お兄ちゃんのケチ!」
口を尖らせて早歩きで先に行ってしまった。
「はは。」
思わず笑ってしまう。
高校生になってもずっと子供っぽい朱里の姿に?それもちょっとはあるけど。
「今なんか失礼なこと考えてたでしょお兄ちゃん。」
「まさか、なんて可愛い妹なんだろうと感嘆していただけだよ。」
「シスコン!!」
僕の心情を察して、元気づけてくれる朱里の思いやりが、嬉しい程に伝わってくるからだよ。
学校に辿り着く。ひとまずは全員教室に向かっているらしいので、朱里と別れて、2年生の教室に向かってみる。
とはいえ…、新しいクラスも知らないしな。とりあえず2年生の階層に向かって、橋本を探してみるしかないかもな。
しかし、試練が降りかかる。
「お、葉っちじゃんおはよーう!」
「葉じゃんちーっす!」
「蓮見くんおはよー。」
僕に挨拶してくる大量の人、人、人。
「おぉ…おはよ…。」
たじろぎながら何とか皆に挨拶を返す。様子のおかしい僕に皆ぽかんとした顔をしていた。
いや!!キツイ!!!記憶を失う前の僕はどんだけ陽キャしてるんだよ!!
こうなると同一人物かも疑いたくなってくる。僕は確かに陰キャで友達なんて多く作れない性格のはずなのに!!!
謎に人間関係を沢山作っていた僕自身にブチギレているところで、珍しく見覚えのある3人組が見える。
「わはー!葉っち!!!おはよー!!!」
「おはよー葉。」
「おはようございます。葉君。」
「あぁ…、おはよう。」
神谷、乙音、春瀬だ。この3人は面識もあるので他の人よりは挨拶を返しやすい。(と言っても誤差。)
「いやぁこの前のお出かけ楽しかったねー!」
「ホントです。葉君の話とかいっぱい聞けましたし。」
「いいなぁー私も行きたかった。」
「あー…はは、そうだね…。」
まずい完全に着いていけない。いつの話だそれは、記憶が無い僕にそういう話はしないでほしい。
「ん?どしたん葉っち様子おかしいけど。体調でも悪いの?」
「い…いやー…べっつになんでもない…です。」
「なんで敬語??」
「ヒューヒュー」
「誤魔化しの口笛してる上に吹けてないし。」
クソ。この人らがどの程度仲が良いのか分からないし、好き勝手に記憶喪失のことは話せない…。どうすればいいんだ…。この状況!
「困ってるでしょ。いけないよー虐めたら。」
「さ、桜庭さん…!」
一瞬女神と勘違いしそうになったが、現れてくれたのは桜庭舞。
僕はこの人とも関わりが増えているのか…と自分に感心してしまった。
「えぇー…舞私たち虐めてないって。ただ葉が勝手に困ってるだけで。」
「そろそろHR始まるから教室入れー!!」
占めた!逃げよう!
「わ、悪いけどHR始まるから行かなきゃ…、ね?」
「あぁ確かに、行こっか葉君。」
「え、あっうん。」
どうやら僕と桜庭さんは同じクラスのようで、共に教室に向かい、クラスメートに助けてもらい、着席した。
先生が今日の予定を話した後、入学式が行われるのを待つことになる。
ちなみに、入学式の時、他学年は教室からモニターを介して参列する。
つまり、その間暇である。暇であるということは、本を読める時間であるということだ!
バッグを漁る。
…あれ?無い?いつも入れてる場所に…。
な…、まさか記憶を失う前の蓮見葉は本を持ち歩いていなかったのか?
僕は皆さんご存知本オタク。いつ如何なる時も本はバッグに入れているはずだけど…。何故…?記憶を失う前の僕は本当に僕なのか…?
…考えても仕方ないか…。
涙目になりながら机をカリカリと引っ掻いていると、隣の席の人がこちらの様子を伺っていることに気づく。
やば、うるさかったか…?
「あの。」
「な、何です?」
「本…読まれますか…?」
如何にも文学少女か差し出してきたのは、僕が読んだことの無い、ライトノベル。ミステリー物のようで、あまり触ったことの無い系統だ。
「いいの?」
「えぇ、もう既に読み終わっていますから、元より誰かにオススメしたいと思って持っていたんです。」
何とも有難い話だ。
それにしても、この人は僕のバッグを漁る動作だけで本を探していることを推測したのか?
なんと予測能力の高い事だろう。まるで探偵。
手に包まれたこの小説にも不思議な魅力を感じ、1年ぶりか、数日ぶりか、僕は羅列する文章の世界に飛び込んだ。
私は今、これから始まる入学式兼始業式のために待機している。
が、正直入学式なんてどーでもいい。そんなことより兄が心配だ。
朝伝えられた衝撃の事実。どーにも歯切れの悪い返事をするなと疑問に思っていたが、まさか記憶喪失だなんて。記憶喪失ってそんな前触れもなく発生するものなの?
兎にも角にも内心穏やかではなく、入学式どころではない。式が終わったら兄のクラスまでダッシュするかもしれない。あー早く終わって欲しい。
「ねぇねぇ!」
「え?」
突然声を掛けられた方向に顔を向けると、可愛い女の子がこちらの顔を覗き込んでいる。
「こんにちは!」
「あぁ、こんにちは。」
「私桜庭凛って言います!1年間同じクラス同士、仲良くしてください!」
今日初めて会った子に対してこんな風に声をかけられるとはなんて度胸のある子だろう。と思っていた。
兄よりは人と話すことができて、でも他より優れているというほどでもない私。
「ありがと…。えっと、凛ちゃん。」
だからこそ、嬉しくて堪らなかった。
「私、蓮見朱里。これから…その、よろしくね。」
ぱあっと顔を輝かせる凛。
「うん!!よろしくね!!」
なんだか、その時視界に写った広大な空が、いつもより輝いて見えた。