CHAPTER 5「Crawler PART 2」
ジャケットは救命胴衣の役割も果たしているため、気を失っている間の溺死は免れたようだ。雨も風も止んで、ただ海面に仰向けで寝そべって黒い空を見ていると、どちらが天地か解らなくなった。夜空はどこまでも深く、背にした海はどこまでも高く感じた。その真ん中で浮遊している自身は、少し呼吸の仕方を間違えれば空へと落ちて行き、手足の動かし方を間違えれば、海底へと浮かび上がって行きそうに思えた。
寒さを感じ始めると、段々とまともな思考が蘇えってきた。辺りに救助の気配はない。波の音しか聞こえない。海に落ちてから、どれくらい時間が経ったのだろう。自分はどこまで流されたのだろうか。
ゆっくりと手足を動かしてジャケットの装備品を探ると、携帯無線機を失っていた。斧で切り裂かれた部分が原因だった。身体を寝返して、立ち泳ぎの体勢を取って辺りの状況を確認したが、何も見えなかった。仰向けになっていた時の方が、明るく感じられた。改めて見上げると、夜空はわずかに月明かりが雲を照らしているだけで、海はただの黒い水だった。波音が心を、さらに深く暗い闇へ誘っているようだった。ジャケットからコンパスを取り出し、目を凝らして確認すると、とにかく北へ向かって泳ぎ始めた。両手で交互に水をかき、足を上下に動かした。腕も足も、胴体も、動かす度にどこかに痛みが走った。深く考えると発狂しそうだ、ただ限界までこのペースで泳ぎ続けよう、そう決めたが、本心では死を覚悟した。
嵐が止んだ今、おそらく捜索が続けられているはずだ、流されていたとしてもそうは離れていないだろう、きっと助かる。・・・どうしてもそんな風に思えなかった。助けは来ない。もう死んだ事にされて、船は帰港してしまっている。自分には身内がいないから、見捨てた事を責める者もいないだろう、卑屈な考えだけが頭の中を巡った。拗ねてはいるのだろうが、怒っているわけではない。何も持たない、自らの展望も、他人からの期待もない。自由であり、不自由な自分の人生については、まだ二十年を少し超えただけだが、子供の頃からずっと断念し続けてきた。ただ食べるに困らない事と、雨風をしのげる住処を得る事だけを求めて自衛隊に入ったが、わずか三年でこの有様だ。 腹が減った、寒い、身体が痛い・・・子供の頃と何も変わっちゃいない。
機械的に手足を動かし、苦痛に少しでも気をかけないよう、色々とこれまでの人生を振り返っていたが、幼少時代にはろくな思い出がない。そう思うと孤独感は拭えなかったが、児童養護施設での生活はまだ良かった。きれいなお姉さんがいた。自分より五つも年上で、色々とトラブルを引き起こしていたけれど、自分を含めて、施設の男はみんな彼女を好きだったろう。女の子達からも慕われていた。口は悪いし、偉そうだし、自分勝手でお金に汚かったけれど、年長にも年少にも、指導員の大人達にも、誰に対してもそうだったから、なぜか魅力的に見えた。いつもその姿を目で追っていた。それほど親しくはなれなかったけれど、考えれば自分が恋したと言えるのは、あの人だけだったかもしれない。そう言えば自分は童貞だ。あまり気にしちゃいなかったけれど、童貞のまま死ぬのか。それどころか、たった一度の、しかも片思いだけで終わりなのかな。
・・・なんだ、今更人生が、命が惜しくなってきたのか?
手足が重い、身体を動かす事が、自身を拷問にかけている。痛くて、眠くて、時折数秒の間意識を失っては、呼吸ができずに目を覚ました。どれくらい泳いでいるのか、もう北へ向かっているのかどうかもわからない。もう一度コンパスを取り出す勇気も、どうせ方向を間違えていたって、方向転換する気力もない。
龍子さん、今頃どうしているんだろう。警察官になった、って言ってたけれど、今もそうなのかな、美人だし、もう結婚しているかな。 同じ事をずっと考えている。児童養護施設での生活を、龍子さんの事を、こんなにも繰り返し思い出している。
空が少し白み、明るくなってきた。まだずっと遠くだが、わずかに陸が見えた気がした。 繰り返し海を両手で漕いだ。繰り返し龍子の顔を思い描いた。限界が近づいている。手も足もどんどん動きが遅くなって、何度も顔が水に沈んだ。息がし難い。意識を失う間隔が長くなっているようだ。
目を覚ますと、クリーム色の天井と円形の蛍光灯が見えた。眼球だけを動かすと、自分がベッドに寝そべっていて、カーテンに囲まれている、おそらく病室にいる状況が解った。
首の後ろがむずむずして、それからゆっくりと全身が温かくなっていくのを感じた。自分が衣服を身に着けていない事を認識し、手足の指先だけを動かしてみた。痛みはまったくなく、却って自分の身体ではないような違和感があった。
命からがらの所で救われたようだ、という事は認識したが、不思議と感動はなく、すぐに今後の事を考えて憂鬱な気分になった。漁船での出来事をどう説明すればいいだろうか、正直に事実を述べたとして、三人を殺している自分が、何の咎めもなく済むとは思えなかった。他に証人がいないからといって、正当防衛をうまく立証できるよう話を組み立てる自信はまったくない。もともと口下手で人付き合いが苦手だから。
そう思うと、また龍子の事を思い出した。あの人は話すのが達者だったな…。自然と笑みが浮かんだ。
やにわに、視界の端に男の顔が入り込んだ。かなりびっくりしたのだが、身体はまだ反射を遮断しているかのように動かず、ただ視線だけをロックした。
「なんだ、もう目覚めているのか」と、口髭をたくわえた中年の男が言った。
水色のシャツに、グレーのスーツを着ているが、盛り上がった胸筋と太い首筋、厳しい顔つきから、おそらく自衛官だと推測した。
「古瀬空来 三曹だな」
「はい」
「俺の事を知っているか」
「すみません、存じ上げておりません」
「構わん、会うのは初めてだ。だが俺はお前の事を知っている」
「そうですか」
「どんな状況だったか知らんが、ヘルメットを外したのは間違いだったな、せっかくのGPSが役に立たない」
「すみません」
ふっ、と軽く噴き出して、口髭の男は破顔した。
「変わった男だと聞いていたが、確かにな。死にかけていたというのに、随分と飄々としている。度胸があるのか、ただの馬鹿か」
「死にかけてましたか」(もう少しだったのか・・・)
「泳いでいるのを発見したんだ。お前、クロールしながら気絶していたらしいぞ。船が沈没してから発見されるまで、およそ五時間だ。その間ずっと泳いでいたのか?」
「解りません、ところどころで浮かんだまま、意識を失っていたのかもしれません」
「あと二キロ足らずで陸地だったんだ。骨折こそなかったが、体中に打撲、挫傷が見られる。そんな状態で大したものだ。さすがに身体能力は抜群と評価されるだけの事はある、特に格闘については特筆に値する。筆記は平凡だがな」
「どうも」 感情なく、そらは呟くように言った。
少し間をおいてから、口髭の男は話した。「大変な騒ぎになっているぞ。まだ船と発見された二体の死体について、詳細はわかっていない。日本人ではないという事は解っているがな。隊には箝口令が敷かれている状況だ」
「そうですか」そう言って、ゆっくり考えた。二体・・・殺したのは三人。あともう一人も無事では済んでいないはずだ。この場で話すべきか。
「お聞きしてよろしいですか?」
「なんだ」
「菅山隊員は…」
「死体で発見された」
「そうですか、残念です」先輩隊員が海に落ちた時、まだ銃弾が当たった確証はなかった。
「体に銃創はなかったらしいがな、溺死だ。防弾とは言っても衝撃までは完全に吸収できん。嵐の中では、救出もままならなかったようだ。残念だが仕方ない」
その言葉にそらは反応を示した。それでは、銃による襲撃があった事は証明されるのだろう。そう思って、すぐに自分を嫌悪した。親しかったわけではないが、同僚が亡くなったというのにわが身の心配を優先して考えてしまった。どうにも、自分には薄情なところがあると思える。人付き合いが下手なのは、そこに原因があるのだろう。しかし、どうにも親族も含めて他人には、それほど興味が持てないでいる。
「まあ、とにかくゆっくり休め。話はその後にしよう」口髭の男はそう言って去ろうとしたが、そらの表情を見て、思い直したように言葉を続けた。
「落ち着いているな、お前。ここがどこか、俺が誰だか尋ねようともしない」
「上官でいらっしゃるかと、それに、ここは病院でしょう?」
「まあ、そう考えるのが当然だ。だが、どうもお前はそんな事はどうでもいい、なんて思っているように見える。・・・度胸があって、馬鹿なんだな。少なくとも二人を殺したというのに、その落ち着きよう、なかなかのものだ」
そらは何も答えず、ただ口髭を見つめていた。
答えがなかった事で、口髭の男は確信した。やはりこいつが殺したのだ。
「もっとも、まだ正気を取り戻していないのかもしれないがな。だが俺の見た所、お前には才能がある。この日本では得難い才能だ。自衛隊の中でもそうは見つからない。だからもうこの段階で話しておこう、俺は自衛官ではない。だが、全くの無関係ではないから、お前の事を知っているんだ。それと、自衛隊はまだお前を捜索中だ」
悠々と嬉しそうに語るので、そらはなぜか、釣られたように少し気分が高揚した。
「お偉方は、いっそお前が死んでいる事を望んでいるのかもしれないぞ。証人がいなければ、なかった事にするのも容易だからな。両親は亡くなっているのだろう、兄弟もいないし、面倒を見てくれたり、保証人になってくれた親族もいない。親しい友人もいないのだろう、まさに天涯孤独だ。いいな、実にいい。あちらにとっても、こちらにとってもな」
あちらとは自衛隊、国という意味なのか、では、こちらとはどちらだろう? なぜかこの状況に緊張感を持てなかった。とにかく命を救ってくれた事には感謝しないといけない、とだけ考えて、不信感や警戒感を表さないように努めた。
「あの」
「ん? なんだ」
「好きな人ならいます」
口髭の男はまた顔を綻ばせた。「そうか、そりゃあいい、ますます気に入ったぞ」
大きな笑い声に反応したかのように、強くドアが開かれる音が聞こえた。男が一人病室に入ってきた。
「なんだ、もう目を覚ましたのか」無遠慮に視界に入ってきた男はそう言うと、怪訝そうな表情をした。「こいつ、仲間になるのか」
口髭の男が笑顔のまま、「ああ、きっとな」と、答えた。
「なんだか、何を考えているか読めない顔だな。どうにも不気味だ」
「そうか? なかなかいい男じゃないか」
「ひと昔前の韓流スターみたいな顔だな。なんというか、薄い顔だ」
「しょうゆ顔ってやつか」
「うーん、薄幸そうな顔だ。男前なのに、主役じゃない。いつも損する役柄のタイプだ」
(ひどい事を言うな・・・)
そういう男の顔は、四十代後半に見える口髭の男と比べて背が低く、また、ひとまわり若く見えるが、垂れた目に団子鼻、ぼさぼさの髪、整っていない眉毛、無精ひげと、ずいぶん小汚く見える。皺のよった紺色のシャツは胸元以外にもいくつかボタンが外れたままで、だらしない印象を受けた。口髭の男が清潔な身なりなので、却って二人の格好は、わざとそうしているかのように思えた。どこかの、ベテラン漫才師のように見えてしまう。
「ちょっと笑ってるじゃねえか、余裕だな」
(あれ、表情に出してしまっていたか)
「こいつにちょうどいいヤツはあるか?」と口髭の男。
「ああ、いくつか探しておいた」
「そうか、おい、古瀬空来、お前は死んだ。後日、新しい名前を与えてやる」
そらは黙ったまま、男達を見据えた。何を言っているのか解らないが、とりあえずこの場は無言のまま、抵抗しないでおこう。幼少の頃から培ってきた防衛本能が、そう指令を出していた。
「まだ決まったわけじゃないだろう」
「説得するさ」
「お前、よく考えろよ」
垂れた目から注がれた真直ぐな視線は、本気で心配してくれているものに思えた。
自分がどういう状況に置かれているのか、何か怪しげで危ない、非合法な組織に勧誘されている以外の予想がつかなかったが、不思議と恐怖はない。
目覚めてから、ずっと現実感が失われているようだ。いや、昨晩のあの漁船に乗り込んでからか、それとも入隊してからか? 児童養護施設で暮らしている時も、親に殺されかけた時も、この違和感は、ずっと自分に付き纏っていたものだったか。
古瀬空来は死んだ。そして、井達喬史が生き返った。
次回
CHAPTER 5「Crawler PART 3」




