CHAPTER 3「Run for your life PART 3」
ありゃしません
すました顔で、時折口元にわずかに笑みを浮かべて。
皆様、お酒の加減で気色の良い顔をされていらっしゃいますね、暗がりの中でも十分わかりますよ。
ああ、古手屋の里山さん、あんたはそれ以上赤くなっちゃあいけませんよ、お連れさん、マリカさん、気を付けてあげてくださいな。呉服屋の新見さん、あんたも真っ赤だねえ、こないだ懐具合が真っ赤だなんて話していたじゃあないさ、顔まで赤くすることはないだろう、ありゃあ炭屋の崑さん、あんたは赤いのを通り越して黒くなっちゃってますよ、そんなに黒くなるまで儲かっているなら、少しは呉服屋さんに分けておやりよ。
ま、こうしてうっつくさん方を揃え、だんなさん方にお酌して、お話を聞いてですね、気分よく酔っ払って頂く事ってのがこのキャバクラってぇ商売なんで、ありがたい事なんですがね、やっぱりお身体を悪くされちゃいけませんよ。手前どもにとっては皆様、末ながあく、そりゃあ天寿を全うするまで壮健で、お店に通い続けて頂いて、それからええ、おっちんじまってくだされば、言う事なしでございます。
さて、このキャバクラという商売ですが、皆様ご存じの通り、風俗業でございます。昔の風俗業と言いますと、えー、場所で言いますと吉原を思い浮かべる方がいらっしゃるかと思います。今からおよそ四百年前に、江戸は日本橋につくられた江戸幕府公認の遊郭、つまりは風俗街ですな。これは元々遊女屋を営んでおりました庄司甚右衛門が幕府に何度も何度も陳情してつくられたものですから、当初働く女達は皆遊女でございました。遊女と言うのは、まあ色を売るのが商売であります。
同じく江戸の深川、東京郊外でございますな、江戸の中心で明暦の大火という三日に渡る大火事がありまして、江戸から逃げてきた人々がこちらに多く集まり、暮らしを始めました。多くの料亭や旅籠、岡場所がつくられて、大変にぎわいまして、そうなりますと、当然遊女達もたくさん集まった訳でございます。この深川の遊女達の中には、踊子と呼ばれる、その名の通り踊りや歌、三味線なんかを芸として披露する、女芸者の存在がありまして、まあこの時は芸と共に色も商売にしていた者たちが多かったようでございます。
後々、この踊子たちは幕府によって、多くの者が吉原に吸収されまして、その際に商売内容をきっちりと分けられる事になりました。つまりは色を売る遊女と、芸を売る芸者という事ですな。芸者になる者は身体を売る事を固く禁止されまして、逆に遊女が芸をすることも禁じられておりました。
吉原以外での遊女や夜鷹の取り締まりが厳しくなりまして、深川がどうなりましたかって言うと、これがきっかけとなりまして、じゃあ芸を売りまくってやろうじゃねえか、と発奮いたしまして、多くの芸達者な女達が集う事となりました。
深川の芸者は粋で義理人情に厚く、吉原の芸者と違って、白粉や紅、派手な着物の格好を嫌い、薄化粧で男っぽい格好、喋り方を致しました。まさに江戸っ子と言うやつですな。そんな気風のいい、芸も話術も達者な深川芸者は、大層人気があったという話です。
まあね、吉原と深川どちらが江戸芸者の本流だとか、芸者と遊女がどう区分けされていたか、なんてのは、時代時代で色々と変わっちまったものでしてね、どっからが芸でどっからが色かなんてのも、勝手な解釈をする者もいて、あやふやなもんでさぁね、そこんとこはお詳しい方がいらっしゃっても、どうかご勘弁くだせぇ。
さて現代の、このレーネのキャバクラ嬢さん方につきましても、色を売る事は厳禁となっております。芸妓さんのような、なんというか格式の高さみたいなものはございませんが、愛嬌と話し上手、聞き上手といった接客術、加えて先ほどからご覧頂いております歌や踊り等の芸事なんかを売り物としております。
しかし、ま、そうは言っても男と女でございますから、お客様の中には、商売を越えた所でお目当ての相手ともっと深い、ざっくばらんに申し上げますと、身体の関係を持ちたい、と考えている方もいらっしゃるでしょう。そりゃあ当然の事でございます。なんだかんだ言っても、お客様にそういう気持ちを持っていただけるようでないと、女達の方も、これは大した商売になりません。口説き、口説かれの駆け引きを楽しむってのが、キャバクラ遊びの醍醐味の一つでございましょう。
しかしね、だんなさん方、キャバ嬢が相手だからって、お祭り目当ての下品な口説きようじゃあ誰も相手にしませんよ、金に物を言わせるなんてぇのも以ての外、やっぱり見事な男っぷりを見せてもらって、心底から惚れさせてくれなきゃあごめんですね、あたしは。
誰もあたしなんか口説いていないって?
笑い声があがって、「そんな事ないよ!」と客の一人が呼びかけた。
そいつはありがとうございます。前置きが長くなってしまいました。どうも関係ない方向へ進んじまってますな。何分、素人話でございます、何卒ご容赦の程を。
それでは、毎度馬鹿馬鹿しいお話しを一席。
目を見開いて、口の両端を上げてにやっと笑顔になる。
そしてまた落ち着いた表情に戻って、はっきりと、流麗に喋り始める。
深川の芸者、芸は売っても色は売らずを心意気と致しますが、芸はなくとも色も売らず、という女が一人おりました。名前を〝たつ吉〟と言い、年の頃は二十六~七、少々薹が立っておりますが、立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花と、誰が言ったか有名なことわざで例えられる評判の美女。この女、二月ほど前にふらっと三味線片手に現れては、まっすぐ置屋に向いまして、芸者を始めたという話でございます。置屋と言うのは芸者さんの管理や派遣を行う会社と言うところですな。
たちまち、えれぇ別嬪の芸者が現れたっつう噂が町中に流れ出しまして、連日お座敷からのお声掛けが殺到する事になりました。こりゃあとんでもないスタアを捕まえた、と喜んだ置屋さんでしたが、一月もするとそのブームはあっけなく終わってしまい、すっかりたつ吉へのご指名もなくなってしまいました。
こりゃあどういう事だ、置屋のおかみさんはたつ吉と座敷を共にした他の芸者を呼んで尋ねますと、ろくに芸をする事もなく、気の利いた話をする訳でもない、ただ黙って酒をついで座ってるだけだもんで、次に声がかからないのも無理はない、という話。
「なんだって!」とおかみさん、たつ吉を呼んで説教する段に相なりました。
おかみさん、目を見開いて、厳しい口調で
「おうたつ吉、こっちに座りな、今日はおめえに確かめておきてぇ事があるんだ」
たつ吉、しんなりと頭をふって、やわらかな口調で
「はい、おかみさん、なんでございましょう」
「お前さん、お座敷ではその手にしている三味線を弾かず、唄う事もなけりゃ、舞もない、かといって宴席を盛り上げるような話をするわけでもないっていうじゃあねえか、いってぇどういう了見だい。人手不足の折、見た目が良いってんで、きっちり確かめもせずに雇っちまったのはこっちの落ち度だが、芸がなけりゃこれ以上雇い続けるわけにはいけねぇよ、以前にも芸者をしていたって言ってたけれど、そいつは嘘なのかい。あんた、その美貌だ、かさにかかって吉原を追ん出された元花魁ってんじゃないだろうねぇ」
「いいえぇ、そんなこたぁございません。あたしはれっきとした芸者でございます。そりゃあね、この年ですから生娘って訳じゃあございませんがね、金で身体を売るような真似をしたこたぁございませんよ。
おかみさん、あたしが町でなんて噂されているかご存じでしょう?
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、なんて唄って頂いておりますんで、その評判通りの芸を披露している訳でございます」
「はあ? どんな芸をしてるってんでぇ」
「ですから、立って、座って、たまに座敷内を歩き回ってあげるんでさぁ」
「それが芸だっていうのかい、踊りも唄いもせずにかい」
「当たり前でございましょう、芍薬や牡丹が扇子もって踊りますかい? 百合の花が三味線弾いて都々逸を唄いはじめたら、あたしなら走って逃げちまいますよ」
「かっ、あんたね、屁理屈を言うんじゃないよ。他に、立って歩き回る以外にできる事はねぇのかい」
「もちろんございますよ、他にはそうですね、笑えば向日葵、怒れば紫陽花、寝ころぶ姿は睡蓮の花、ってな芸もございます」
「あんた、お客さんの前で笑って…まあ笑うのはいいや、怒ったり、寝ころんだりしているのかい」
「それにね、おかみさん、騒がしいのが嫌いだっていうお客様だっていらっしゃいますよ、傍にきれいどこが黙って仕えていて、酌してくれりゃあ良いっていう粋な旦那さんがね」
「何言ってやがんだい、芸者呼んでおいて馬鹿騒ぎしない奴なんかいねぇよ。それに聞いたよ、あんた座敷の最後には決まって客と二人きりになるそうじゃねぇかい、他の子達を無理やり帰しちまってね。その子たちの間じゃあ、あんたその後に色売ってんじゃねぇか、って噂されてんだよ。あんたに次の声がかからない、中々馴染みの旦那ができねえってのはそれが理由じゃねぇのかい。男ってのはね、いくら美人が相手でも、金払ったらすぐに寝ちまうような女には、その後はそれほど執着しねぇようになっちまうんだよ」
「まあそりゃあ、金払って頂けるなら、睡蓮の花の芸でよければ、いくらでもご覧に入れますけれど」
「そっちの寝るじゃねぇよ、どこにあんたが寝っころんでいるのを見て、金払う馬鹿がいるってんだ。色を売ってんじゃねぇか、つってんだろ」
「おかみさん、あたしゃね、男にはもうこりごりなんでさ。さっきも言った通り、色を売った事はございませんが、まあこれまで金持ちの男にゃ、媚を売って生きておりました。大した中身ぁなくても、金と権力もってりゃあなんとかなるだろ、なんて浅ぇ考えで男を見ておりましたからね、あたしゃあ生まれも育ちも金で苦労してきましたから。そういった意味じゃあ金で売っていたと言われても仕方ございませんが、そりゃあ他の芸者さんも遊びめさんも一緒でしょう。みなさん常に金持ちのご贔屓さんを捕まえてぇって思っていらっしゃる、中には身請けを願っている人もいるでしょう。でもね、そんな考えでいて、あたしゃ、ひでぇ目にあったんでさぁ」
「どんな目にあったってんでぃ」
「そいつは言えませんがね、まあとにかく、あたしは金や権力なんかで男を見ちゃおりません、そんなもんで身体を許したり致しませんって事をわかって頂きたいんです。それじゃ、そういうこって」
「ちょちょ、ちょいとお待ちなさいよ、話は終わっちゃいないよ。そんなこたぁどうでもいいんだよ。あたしはね、あんたがちゃんとした芸を持ってるのかどうか、そいつを確めるのが目的で呼んだんだい」
甲高く、大きな声で呼びかけるように
「おかみさ~ん、ちょいとよろしいですか」
「なんだい、今忙しいところなんだよ」
「百善さんとこの小僧さんが来てるんですがねぇ、急な用らしいんですが」
「わかったよ、こっち来させな」
前に手をついて、上体をすこし前かがみに、足袋を履いた足先を座布団から離してステージの床を叩くのだが、もうひとつ良い音が出ない。しかも音が小さすぎて、胸のピンマイクではほとんど拾えなかった。階段を上がっている音を演出したのだが、完全に失敗だ。
喉を開いてしわがれた低い声を出す。男の声を演じたのだが、少し無理がある。相撲取りみたいな声になった。
「すいません、百善の幸助でございます」
「おう、障子を開けな」
「あいすいません」
障子を開けるそぶりをして、それから手をついてお辞儀する
「なんでぇ、急用ってのは」
「へぇ、実は先ほどお客さんが、お一人さんなんですがね、お約束もなしに急に来られて、今座敷に通しておりまして、その方が芸者を呼べと言いなさって」
「へえ、こんな昼日中からかい、そりゃあどこのどいつだ」
「半兵衛さんと言いなさります」
「半兵衛だって? まさか、赤札の半兵衛かぇ」
「だいぶ年を召されてんですがね、締った身体つきしてますし、目つきの鋭~い、やけに迫力のある御仁でして、旦那様や番頭さんは存じ上げているようなんですが、なんかどうも、えれぇ恐れているような感じでして」
「ああ、古くからのもんはみんな知ってるよ」
声をたつ吉に戻して「どんなお人なんですか、その赤フンの半兵衛ってのは」
「赤フンじゃねぇ、赤札つったろ。おめぇ、わざと言ってんじゃないのかい」
「いいえぇ、とんでもない」
「いい根性してるよ、まったく。あんたとの話は後だ、とりあえず下がってな」
「あいな」
早口で言って、さっきと同様にして階段を歩く足音を、さっきの倍のスピードで立てる。強めに床を叩いたので音は鳴ったが、つま先を痛めた。
「後でまた呼んで、ちゃんと芸を見せてもらうからね、逃げんじゃないよ、まったく、・・・それで赤フン、じゃねぇ、赤札の半兵衛だったね、こりゃやっかいだね」
さて、この赤札の半兵衛という男、元々は問屋の息子、お坊ちゃんでしたが、わけぇ頃から飲む、打つ、買うの三拍子揃った悪たれ者、家をおん出されてから大工や火消しになったりしたわけですが、放蕩ぶりは相変わらず、稼いだ金は全部博奕に酒、それから女遊びに突っ込んでおりました。江戸っ子は宵越しの銭はもたねぇ、なんて言いますが、実際家族はたまったもんじゃねぇ、離縁も一度経験しております。
またこの男、けんかっ早く、腕っ節が強ぇ事でも有名で、切った貼ったは一度や二度じゃねぇって有様ですが、大抵の場合、相手はやくざもんでございやして、弱気を助け強気をくじく、いわゆる侠客の気性も持ち合わせておりまして、町の者からは恐れられると共に、尊敬されているようなところもありましたんですな。わけぇ頃から金をばら撒き、また三十を過ぎてからは親の商売を引き継いで、油問屋に特化して蝋燭屋、提灯屋なんかを開業致しまして、繁盛したもんですから、連日料亭でバカ騒ぎを繰り広げて散財していたわけでございます。とかく半兵衛は女癖が悪く、かこった芸者や遊女は数知れず、それが元で女達の間で刃傷沙汰まで起きる始末でした。
しかし人生いい時が永遠に続くと言うわけではございません、深川もたくさんの人が集まり、商売においてもたくさんのライバルが出来て、またお上の取り締まりも厳しくなりまして、なにかと素行が悪く、敵の多い半兵衛の商売は傾きはじめ、また身体も老いたってのに、けんかっ早さは変わらないので、逆にのされちまって入院する始末。
昔は健康保険なんてありゃしませんからね、やくざ相手のけんかなんかで大ケガしちまうと、賠償なんてしてくれません、たけぇ医療費がかかっちまいます。
そんなこんなで、ほとんど商売も財産もなくしちまって、唯一残ったでっけえ屋敷の中の物、あれもこれも、借金のかたに売約済みの赤札が貼られちまっている、なんて噂が流れて、赤札の半兵衛なんて、陰であだ名されてるっていう話でございます。
しかし年はとっても性格はなかなか変わらず、博奕も酒も、それから性欲についても、とても六十を越えた老人とは思えぬほど旺盛と聞きます。当時の江戸は掛け売りが当然でございましたから、手元に現金がなくても買い物したり、酒を飲んだりできたわけでございますが、そこはやっぱり信用ってものが背景にあったわけですので、赤札の、なんてあだ名のもんに、ツケで飲ませろってのも、まあ迷惑な事でしょうな。料亭の百善の主人、本当なら追い出しちまいてぇところですが、半兵衛は先代からのご贔屓だったわけで、今は落ちぶれちまっているが、大恩あるお人だって事も確かで、何より怒らせると大暴れされちまうかもしれないってんで、仕方なく招き入れた次第でした。これは置屋さんも同じでございまして、やっかいもんだが、無視して捨て置くわけにはいかねぇってんで、頭を悩ませます。
「あのジジイ、けんかで大ケガして、長い事療養してるって聞いてたんだが、いつ帰ってきやがったんだ。しかし困ったね、芸者を寄越せったって、金なんか持っちゃいねえだろ、そのまんまツケを百善さんに持ってくのは気が引けるってもんだ。大体あの野郎、これまでうちの芸者、何人も手を出してやがんだ、こりゃいけねぇ、金もねえ奴に万一孕ませられでもしたら、とんだ損害だよ。かといってほっぽっといて、後でめんどくせぇ事になっても困るし、誰か適当な、どうでもいい不良芸者をひとりだけやっちまうか。
ああ、ぴったりの奴がいたよ、こりゃあしらえたみたいにいい機会だね、やっかいもんにやっかいもんをぶつけて、まとめてやっかい払いとなるかもしれないね。
おい幸助よ、あとで一人行かせるから、しばらく待つよう伝えとくれ」
「はい、なるべく急いで頂けますよう、旦那様が言っておりまして」と相撲取りの声を出す、この声を出すのは今回限りだ。
「女にゃ身支度が必要なんだ、わかってんだろ。とびきりの美人を寄越すから、そばでも食わせて待たせとけ、って言っときな」
「はい、わかりました」
お辞儀して障子を閉めるそぶり。また階段を降りる音を出す、足先が痛い。
「おーい、たつ吉、上がってきな」
あーもうめんどくさい、と言って、階段は省略、すぐに障子を開けるそぶり。
「なんでぃ、すぐそこにいたのかい、盗み聞きしてたんじゃないだろうね」
喉を押さえて、かすれた声を出す。「おが・・・おがみざん」
「な、なんだいその声は」
「いや、じょっとぉ、風邪をひいだみだいでじて、声ががれじゃって、ごれじゃあうまくうだえねいなぁ、なんて」
「しらじらしい真似するんじゃないよ、まあいい、とりあえず今日のところは許してやる。それよりもさっきのね、百善さんからあんたにご指名が入ったんだよ。場所は知ってんだろ? 今すぐ準備して行ってきな」
「それって、さっきの赤フンの件ですか」
「声治ってんじゃねぇか、まあいいよ、そうだよ赤フンだよ、じゃなくて赤札の半兵衛がお客だよ。あんた気を付けなよ、そんな風に人をなめた口ぶりしてちゃ、ぶん殴られるかもしれないよ、気ぃ引き締めて行ってきな」
とまあ、こういう訳でございまして、小僧さんより四半刻ほど遅れて、たつ吉は半兵衛のいる百善さんに参ったわけでございます。
百善の旦那、たつ吉が着くなり、よう来た~と手を引いて、座敷にぱ~んと放り入れて、後は頼んだってなものです。
一人客にゃあもったいない座敷広間の上座に、半兵衛があぐらかいて居るわけでございます。御膳の上にはほとんど手つかずの料理と、空になった銚子が五、六本並べてられていて、床にも何本か転がっております。着物の前をはだけちまって、両肩からは刺青が見えちまってんで、こりゃあ相当酒が入った様子でした。
声を濁らせるが、これもうまくいかない。どうにも男を演じるには向いていない声だ。
「おう、やっと来たか、たったの一人かい、まあいいや、こっち来やがれ」
「へぇ」両肩を交互に動かして、歩くそぶり、脇に三味線をおいて、両手をついてお辞儀する。「たつ吉と申します、お見知りおきを」
「おう、わかったわかった、おう? こりゃ別嬪じゃねぇか、置屋のババア、めずらしく気ぃつかいやがったな、ん、何をじっと見てやがんでぇ」
「いや、ふんどしが白いな、と・・・」
「あん? 白フンの何が悪いんでぇ、まあいいや、ほれ、お酌してくれ」
お酌するそぶりと、酒を飲むそぶり。
「腹減ってねぇか? そこにいっぺぇ食いもんがあるぞ、そっちの膳には大盛りのそばがあんぞ、なんだか知らねえが、頼んでもいねぇのにさっき主人が持ってきやがった、何考えてんだあの野郎、そんなに食えるかってんだ、腹は減ってねえのか? そうか、じゃあもう一杯酌してくれ」
「もう一杯くれ、おう、もう一杯」
そぶりを繰り返す
「よしよし、もう十分だ、布団敷かせろ、おめえと寝るぞ」
「は?」
「床入りだよ、とっとこ床入りだよ」
はっは、と少し笑う。「ちょっと面白い事言いなさったね、・・・まるでそれが言いたいがためにこの話考えたかのような」
しばし間を取ると、小さいが多くの笑い声と、拍手がゆるやかに広がった。
「旦那さん、何か勘違いしていらっしゃいますね、あたしは芸者でございますよ、身体を売りに来たわけじゃございません」
「じゃあ、何売りに来たんでぇ」
「芸者だっつってんでしょ、あたしゃ芸を売りにきたんでございます」
「ほう、最近の芸者はわざわざ芸売ってんのかい、じゃあやって見せてくれい」
「ったく、」すました表情をして、立って、少しステージの上を歩き回り、それからまた座布団の上に正座した。
半兵衛、眉をひそめる。
たつ吉に戻って十五秒ほどそのまま、それから身体を横にして寝ころぶ。
「何をやってやがんでぃ」
「・・・あたしにもわかりません」
「お前さんの芸は何だかわからねえが、唄だの踊りだの、なんちゃら遊びだのってのはいいんだよ、もう酔っちまっているし、こっちは老い先短けえんだぜ、お前さんの事は一目見て気に入っちまった、別嬪だってだけで十分じゃねえか」
「ありゃあ、それ、おかみさんに言ってやってほしいですね」
「置屋のババアか、ありゃいけねぇ、四十年も前からババアやってやがんだ、あんたみたいなのはやっかまれちまうぜ。ええい、ババアの事なんかどうでもいいんだよ、そうか、金か、おめえいくらだ? いくらでも払ってやるぜ」と肩を抱き寄せるそぶり。
溜息をついて、
「言っちまいやがったね、そうですか、旦那さんも芸者なんざぁ、いや、女なんざぁ金で買うもんだなんて思っていなさる・・・ああ、それを言っちゃおしめえです」
左右に少し首を振って「丁度、座敷には他に誰もいやせんね」
三味線を引き寄せ、右手で何かを抜き出す仕草、ゴン、とその拳でステージの床を叩く、ああ、やっぱりいい音が出ない、ここは大きな音が欲しかった、やっぱり板を敷かせるべきだった。
上体を後ろに少し反る、両腕を後ろに回して、床に手をついて支える。
「おおう! なんでぇ、小刀じゃねえか、もう少しで大事なところにぶっ刺さるところだ、なんのつもりなんでぇ」
「気軽にさわらないでもらいてぇですね、身体は売らないと申し上げたでしょう」
「そりゃあ、三味線に仕込んであったのかい」
「棹の裏んとこに」
「びっくりしたぜ、おお、見てみろ、白フンがちょっとだけ黄フンになっちまった、ちょっと後ろ見てくれねぇか、茶フンになっていねぇかい」
「旦那さん、ずいぶんと余裕がございますね」
「あん? 俺ぁ刃物突き立てられたくれぇで逃げっちまうほど腰抜けじゃあねえぞ、さぁ、俺のたまぁ欲しいんなら後で幾らでもくれてやる、ほれ、こっち来やがれ」
両手を突き出して避ける。「さわんじゃないってのに、まったく、どうにも調子が狂っちまいますね、他の旦那さん方は皆逃げ出すか、怒っちまうかするってのに、さすがに噂に聞こえた侠客、手塚半兵衛、豪胆ぶりは半端じゃねえって事ですかい」
「ほう、わけぇのに、俺の事を知ってんのかい、知っててこんなマネするなんざ、おまえさんもなかなか腹がすわってやがる、ますます気にいったぜ。安心しな、俺ぁけんかは大好物だが、女相手に拳振り上げるなんてなさけねえ真似はしねぇ。他の男にゃお前さんは手に余るにちがいねぇ、だからよ、俺が囲ってやんぜ」
「赤札なんて噂されてるのにですかい?」
「あん、なんか言ったか?」
「いいええ、半兵衛さん、気に入っていただいたよしみで、ひとつお尋ねする事に答えてもらえませんかね、古くからこの界隈で女遊びをしていらっしゃった方なら、ご存知でしょうから」
「おう、古い話なら俺以上に詳しいもんはいねえよ、なんだ、それに答えたら大人しく俺と寝るか」
「そりゃお答え次第ですね、申し上げた通り古い話になります、そうですね、三十年以上前になりますか、マナミという名前の芸者がおりました。彫りのふけえ、きりりとした瞳に艶やかな唇、美しい肌、細身の肢体に反して豊満な胸を持った、妖艶な魅力を持った美女だったと聞いております。まあわたし程じゃなかったと思いますがね。大層人気があったようでございますが、よくある話で、彼女を囲ったどこかの旦那さんに孕まされちまいました。無事子供を産みましたが、孕ませた旦那さんは妻子持ち、わずかな金を持たされて町を追ん出されましてね。仕方なく赤子を連れて親元に帰ったわけでございましたが、長い事賑やかな町で、男達にちやほやされながら暮らして参りましたからね、退屈な田舎暮らしには向かねえってもんです。一年も経たず、マナミは故郷を飛び出しちまいました。金は持ったまま、子供は残したままでね、この話、ご存知ですか」
「・・・続きを聞かせてくんな」
「続きもありふれた、つまらねえ話でございます。子は祖父母の下で暮らしましたが、祖父母は貧しい生活に追われて、父親の知れぬ、元々望んでいなかった孫に十分な愛情を注ぐことはできませんでした。いろいろとございますが、長くなりますので中はすっ飛ばします。子供は働ける年になって家を出ましたが、腐っちまった性根が邪魔をして、中々まともな生活を築く事はできません、母親、マナミの方は未だ行方知れずでございます」
「そうか、おめぇ、もしかしてその子供ってんじゃねえだろうな、自分を捨てた父親を探し回ってんのかい」
「さあ、どうでしょうか」
「父親が見つかったらどうするんでい、恨み晴らすために、その小刀で刺し殺すってのか」
「マナミと、孕ませた男の事をご存知ですかい、それともあんたがその男ですかい」
正面を、客席を睨みつける表情、鏡を見て何度も練習した、凛とした、美しく見える表情。十秒ほどの間を取る。
「マナミのこたぁ覚えてるよ、いい女だったからな。まあ確かにお前さん程じゃなかったがよ、色気があってな、いい身体してやがったな。おうよ、俺が囲ってやってたのよ。そうかい、おまえ俺の娘かい、なんでぇ、これじゃお前さんを抱くわけにゃいかねえな、すっかり萎えちまった。娘が出てくりゃあ、反対に息子が隠れちまったよ」と大声で笑う。
たつ吉になって、畳に突き立てた小刀を抜いて、構えるそぶり。
「おう、上等だ、さっき俺の命なんざ幾らでもくれてやるつったろ、そら、さっさと積年の恨みってやつをはらしな」と両腕を開く。
「ほらどうした、腰が引けてやがんぞ、さっきまでの度胸はどうしたい、それでも俺の娘か、ああそうか、おめえは俺の娘か、娘を人殺しにしちまうわけにはいかねぇな、よしその刀よこしやがれ」と小刀を奪うそぶり。
「え、な、何をするんです」
「おめえは離れてろ、返り血が証拠になっちまうぞ。俺が自分で切腹してやるからよ、そいつを確かめたら、おめえはほっぽって走って行っちまえ。そんで敵討ちはしめえにしろ、母親の事は許してやれ。いいな、まだまだ若ぇんだし、恨みなんてくだらねえしがらみ抱えて生きてんじゃねえよ、よしいくぞ、おりゃあ」と、腹に握った両拳を重ねて引き寄せる。
「う、うう、だめだぁ、びびっちまって深く刺さっていかねえ、他人に刺されるのと自分で刺すのとはえれぇ違いだ。侍ってのは大したもんだな、こんな事よくやるぜ」
「なんて事すんだよ!」と、たつ吉になって大慌てするそぶり。
「早く抜いてください、ああどうしよう、血がいっぱい出て来たよ、誰か呼ばないと」
「バカ野郎、みっともねえ事すんない、しかし、ちょ、ちょっと一旦抜くとするか」
両拳を腹からゆっくり離す。「お~、痛え」
「当たり前でしょう、早く手当しなくちゃ」
「大丈夫だよ馬鹿野郎、おいそこの、御膳の上に湯葉があんだろ、それ取ってくれい、それだよ、いいからよこせ、そら、よし、ちょっと広げてな、ほら」と腹に貼るそぶり。
「もう一枚取ってくれい、重ねて貼る」
「馬鹿じゃないのかい、そんなもん、絆創膏のつもりかい」
「うるせぇ、急場しのぎだ、まだ終わってねえんだからな。といっても刺すのはつれえな、こりゃ老体には応えるぜ、よし、首でもくくるか、なんか紐でもねえか、ねえな、そこの大量のそば取ってくれよ、なんとか首に巻きつけてやれねえか」
たつ吉になって、あっはっは、と大笑いする。
「もうやめてください。・・・嘘つかねえでくださいよ、初めて会った女に命差し出すなんてマネする馬鹿が、女を金で買っても、金で捨てるなんてしやしませんよ。あんたじゃねえ、って事はすぐにわかったんですがね、色々あってあたしゃ男に恨みを持っていましたから、ちょいと脅したかっただけなんでさぁ」
「マナミの事知ってるっつったのは嘘じゃねえよ、よ~く覚えてる、抱いたこともあるし、囲ってやったのも本当の話よ、情けねえがよ、他の男に取られちまったのよ。子供を産んだ話も知ってる、相手は役人だったって噂を聞いてるぜ、詳しくはまた話してやるよ」
「ありがとうございます、すぐにお医者さんを呼びますから」
「ゆっくりで構わねえ、慣れてんだ俺ぁ、つい最近も刺されて入院してたんだからな、ことわっとくが、相手は女だぞ」
「しょうがないねえ、あんたみたいな男もいるんだね、今のあたしは、すっかり毒気が抜かれちまったようですよ」
「おう、また男に対する恨みがぶり返して来たら、俺んとこ来るんだぞ、いつでも殺されてやるからよ、この通り、この俺の命はお前さんに売約済みだ」
半兵衛の腹には、血で真っ赤に染まった四角形の湯葉が、赤札のように張り付いておりました。
両手をついて、客席に向かって深~くお辞儀する。
笑いは度々おこった。全体的には非常にうけていた様子だ。しかし、爆発するような大笑いはなかった。龍子の落語は、それこそ素人芸としてはなかなかの完成度だったが、彼女の振る舞いや声の出し方による演じ分け等、演技についてはどうにもその容姿が邪魔をして、かわいらしさが目立ってしまっていた。それは到底、面倒見の良さそうなところと腹黒さを併せ持っているような、おそらく不器量な置屋のおかみさんや、おっかないながらも、その女癖の悪さも含めて、男ならば尊敬してしまうような雄々しい気性を持った老齢の元侠客の姿を、安易にイメージさせてくれるものではなかった。
最後のオチについては、笑いよりも〝おおう〟と感心するような声が多く聞こえ、アイドルがファンに向けて、なかなか本格的な隠し芸を披露した時のような様子だった。
それは龍子が落語の後で、後ろに控えていたDJから手渡された本物の津軽三味線で、演奏を始めた時により顕著になった。明らかに、演奏中の盛り上がりは落語の時よりも大きかった。演奏は見事とは言えないまでも、素人にはあらに気づけない程のものだった。
演奏の後に湧き上がった拍手もまた、落語を終えた時のものより大きく、龍子の表情はやや不満げに見えた。
結局三味線は弾けるのかい!、という更なる落ちについて、たつ吉がおかみさんに芸ができる事を示して、追い出される事なくその後しばらく置屋に居残り、そして、半兵衛から生みの父親の事を詳しく聞いたのだろうか、と天童は考えを巡らせた。
それと、マナミ…江戸時代の芸者につけた名前にしては、違和感がないか?
龍子が拍手と歓声に包まれる中、ステージを降りると、再び色黒の中年男が入れ替わりに前に出てきた。
「皆様、ありがとうございました。ショーはこの後一旦休憩を挟みます。ええ、それではこの後ですね、お店からのサービスと致しまして、皆様に先ほどの、ぽぽろんさんの落語でも話にあがりました、そばをお配り致します。冷たいものと温かいもの、両方用意しております。よろしければ召し上がって、少し胃腸を休めて頂きたいと思います」
照明が点いた。フロアは満席だった。先に踊っていたダンサーたちが着替えてからキャストに戻って、それぞれ席についていた。村井と天童の席だけは、未だに誰もついていなかった。
しばらく経って、そばが配られる中、村井が喬史を呼びつけた。
「おい、もういいんじゃないのか、龍子を呼んでくれよ」
「ああ、それがですね」
「なんだよ」
「龍子さん、今日のためにずっとこれまで、猛練習していたんですけれど」
「なんだよ、体調悪くなったのか」
「いえ、なんか今日の出来に不満だったみたいで、一人で反省会をするって言って、さっきタクシー乗って帰っちゃいました」
「なに?」
「すみません」と言って、喬史は早足で逃げた。
「アフターの約束はどうなるんだよ?」
天童がキャバ嬢から温かいそばを手渡されて、ありがとう、と微笑んで言った。
「何笑ってんだよ、お前もすっぽかされたんだぞ」
「そうだな」
と言って、そばを一口すすって汁を飲んだ。厨房で十杯以上つくってから運んでいるようだから、もうのびちまっている。でもまあ、確かに温かい汁が、最近傷んでいた胃腸に優しく染み渡った。
「一杯喰わされたってヤツだな」
村井は険しい表情になって、吐き捨てるように「つまんねえっ!」と返した。
次回
CHAPTER 4「Sunny place PART 1」




