錆びたナイフ
イボに液体窒素を当てるために毎日皮膚科に通った。
クリニックは混雑していたがすぐに診察が回ってくる。
病院での待ち時間三時間で診察時間は三分と皮肉を言われることがあるが、ここの診察は待ち時間も少ないが診察時間も一分と言った感じだ。
初診の時こそ五分くらいはあったと思うが、毎日通うとちらりと顔を見て、「まぁいいね。明日も来てね」と言うだけである。椅子に座る間もなく終わる事もある。何がどう「いいね」なのかは言ってはくれないが、診察時間の短さが待ち時間の短さの秘訣のようだった。
通院三週目の頃、イボはかなり小さくなり瘡蓋と滲出液の塊の中に埋もれるような形状になった。以前のように瘡蓋や固まった滲出液を取りたい衝動にかられたが、同じ轍を踏むわけにはいかないと、朝夕の洗顔以外に鼻を触ることは我慢した。
治療費は一日三百円と少し。
週に一度だけ八百円を超える。
どうやら保険適応で治療できるのは週に一回だけのようだ。その他は保険ではなく自由診療の区分のようだ。自由診療とは言えひょっとしたら液体窒素代だけで、先生の日々の経過観察やイボに液体窒素をあてる処置代は含まれていないんじゃないかという料金である。とてつもない費用を想定していただけにありがたかった。
イボに対する不安と絶望はとうに消え、待合室のポスターに目をやる余裕すらできていた。
アレルギーを起こす植物とか、水虫の治療についてのポスター等張られている壁に、以前女医さんのクリニックでも見た帯状疱疹のポスターに目が止まった。
『帯状疱疹は病院で治療を受けましょう』という、至極真っ当な事が書かれたポスターである。わざわざポスターで啓発する必要もあるのかと思うが、ポスターを読めばその理由は分かる。
●錆びた刃物を当てても治りません。
錆びた包丁やハサミなどの刃物を患部に当てても治りません。ばい菌が入り悪くするかもしれません。
確か祖父母世代はそんな事を言っていた。
帯状疱疹が出来たら錆びついたいた刃物で患部をトントン叩いたり撫でると治るとか。一体誰が言い始めたのか知らないが治ると信じている人は少なくはない。
祖父母世代は帯状疱疹の事を「タイ」と呼んで恐れていた。身に覚えのない虫さされや赤い湿疹があると「タイじゃなかろうか」と怯えて、ベタベタする何某かのクリームの薬を塗ったり、「白紅」と呼ばれるスース―する液が強すぎてジリジリ痛む薬を塗っていた。果たしてこの薬も効くのかどうか謎ではあったが。
「タイ」かもしれない湿疹が「タイ」に進化しないように塗っているようであった。
そもそも何らかの湿疹が「タイ」になるわけがない。「タイ」は「タイ」の原因ウィルスがもとであり、出現した時から「タイ」なのだ。そのあたりの認識があやふやな明治・大正世代であった。
白紅に関しても肩こり神経痛などに効くと言われる家庭の常備薬で、「タイ」に効くとは言われていないが、この地方では万能薬と思われている節がある。
●祈祷では治りません
おまじないやお祈り、ご祈祷では治りません。病院のお薬で治しましょう。
「ほしゃどん」と呼ばれる祈祷師がいて、「タイ」ができるとそこに行って拝んでもらったという高齢者の話を聞いたことがあった。そこではきっと錆びた包丁を患部に当てているのかもしれない。
●体を一周したら死ぬというのは迷信です
迷信に惑わされないようにしましょう。帯状疱疹は体の片側に神経に沿って現れます。
一周することはありません。ただし治療が遅れると、神経痛などの後遺症が残る場合があります
「一周すると死ぬ。」これは老いも若きも信じている迷信であった。それほどの痛みがあるという事だろう。
昔、妹の肩にできた時、妹は一周すると死ぬんだとわんわん泣いていた。そんな事があるわけない。それだったら首周り、頭回りなど細い所にできたら周りが早くて大変だ。背中に出来るのよりも早く回ってしまうじゃないか。「ほしゃどん」の祈祷を受けている場合じゃない案件だろう。
現代医学では帯状疱疹の原因も治療法も予防法も解明されている。
祖父母が健在だった時代にだってとっくに解明されていた。さらに情報あふれる現代なのに、その啓発ポスターは最新作が刷られ続けている。地道な啓発をしていかなくては医療に繋がらない人もいるのだろう。
知識があるとついつい笑いが込み上げてくるような内容が真面目に記されているが、啓発されるからにはこれらの迷信が根強いことを現わしているのだろうと思った。
三週間も毎日のように通っていたから、先生の言葉もいつもの通りと思っていたがこの日の彼は違っていた。
マスクを外した私の顔を横にグイッと向けてまじまじとイボを見て言った。
「マスク生活の間に治るといいね。間に合うといいんだけど」
アナタ、今日はどうしちゃったの?今日、すごく機嫌がいいの?何か良い事があったの?
私、今すごく優しいお言葉をかけて頂いた気がするんですけど。思いがけない言葉が耳に届き、どう返していいか戸惑いつつ、私は「はい・・・」とだけ返した。
日頃の仏頂面に秘めた優しさがあったとは、そう言えば何となくお顔も大仏様みたいなお顔してる。
いつもの不機嫌なツンツン顔の裏に秘められた突然のデレの出現に少し嬉しくなった。
仏頂面が突然優しい言葉を吐くのは例えイケメンでなくとも患者には効果があるようだ。
その言葉が私の細胞に活力を与えたのか、二日後にイボはポロリと落ちて一週間後には治療が終わった。
ついに薔薇の呪いが解けた。
その女の呪いを解いたのは、仏頂面の小太りのオッサンでした。