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王太子と救いの娘 〜揺籠に降る愛の夢〜  作者: 日室千種


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竜の乱心

 生垣を超えてしまえば庭とも言えず、野放図に伸びた木や植え込みが入り組んでいたが、城壁に近いところは視界を確保するためか、木が抜かれていた。巡回の兵士が日常的に歩いているらしい踏み分け道を、気持ちが呼ばれる方向に走っていく。

 濃い茶色の髪が、いくら結い上げまとめてもふわふわと溢れる、その後毛の波打つところに日が当たって金に輝く。華奢ながらしなやかに動く体は、野鹿のように敏捷に駆けて、ゆるく曲がる城壁に沿って回り込んだ。

 その先は、城が築かれた高台の終わり。突き出た崖のような場所に出れば、空と地平が急に奥行きをもって押し寄せるように広がって、視界を埋め尽くした。


 空の青と遠い山並み。視線を下げれば、山の裾野に広がる森の緑。森が途絶えるところからは、草原の緑と独特な赤茶色の岩場のまだら模様。なだらかに続くたくさんの畑が面ごとに微細な色合いの違いを見せ、その間を縫うように伸びる白い道沿いには、ところどころに家々が寄り添っていたり、こんもりと小さな森があったり。

 そののどかな景色は王城の足元に円形に広がる煉瓦と白石の街並みと、明確な境界で分かたれている。城下町と郊外とを繋ぐのは、白い道と、それに街中で交差する、川の流れのみ。

 昼過ぎの強い日差しに川面が銀に輝いて、眩い。

 お行儀よく並ぶ街の家は、煉瓦作りの壁の補強に木材を使用し、その組み合わせの形が独特の味を出している。木材や屋根の木に塗った塗料の色は、どれも深い飴色で美しい。


「なんて、いい眺め!」


 人々がこの地にしっかりと生きている。それをはっきりと示す光景は、ユーラにとってとても新鮮なのに、どこか懐かしい。

 そして、匂い。

 ユーラは顎を上げ、大気をくん、と吸った。

 さすがにここまで町の匂いが届いてはこない。

 鼻腔を満たすのは、乾いた土の匂い、重たい石壁の匂い、草いきれの匂い、そして、今が盛りの金色花の匂い。

 かれらの大好物!


「見つけた」


 崖の際近くから下を覗くと、ほぼ崖の直下に広がる黄色い花畑があった。街並みとは湖で隔絶されている。その中に、ぽつりぽつりと、色とりどりの小山がある。その背には羽毛の生えそろった翼があり、首筋の板角は天に向かって聳えている。脚には長く鋭い鉤爪があるが、それは花に埋もれて今は見えない。見てくれは威圧的。けれど基本的には穏やかで優しい竜たちだ。

 大好きな花を一心にパクつく者もいれば、時に転がったりして楽しみながら食べるものもいる。


「八頭」


 あれ、とユーラは首を傾げた。あそこに見えるのは、まだ生まれて2、3年の幼い竜と、おばあちゃんおじいちゃん竜ばかりのような。

 その時、背後から、鋭い叫び声があがった。振り返れば、城壁に張り付くように建つ堅牢そうな建造物から、ばらばらと数人が走り出てきた。城壁を周ってくると死角になる位置で、気がつかなかった。

 何事かと見ていれば、追いかけるように響いてきたのは、細く高い、笛のような音。


「あー、そういうことか」


 ユーラが呟いたのと同時に、建物の巨大な扉が内側から吹き飛ばされて、中から赤翠に輝く巨体が、ぎらぎらと燃える目をあちこちに向けながら、慎重に歩み出てきたのだ。



ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー



「殿下! ガゼオが、殿下の竜が、檻を破りました!」


 執務室に駆け込んできた若い竜番がみなを言うより早く、リューセドルクは首元の竜笛を確かめながら飛び出していた。細い隠し通路を通って上の階から城壁の上へと出ると、そのまま西手の崖の方を目指して駆けた。常にそばに控える二人が、ピタリとついてくる。体技に優れ、側近かつ護衛の役割を果たすこの二人も、それぞれにお気に入りの竜がいて強い絆を持っている。竜を気に掛ける気持ちは同じだ。

 これが少し年配の者であれば、竜など馬より劣る只飯喰らいよ大袈裟よと、リューセドルクを聞き分けのない子供のように生温く見るかもしれない。

 リューセドルクにはむしろ、竜を知ったように軽んじる親世代の見る目のなさが、世間知らずの子供のようにしか見えないのだが。


 城壁の曲がり角で塔に突き当たり、その中を文字通りくぐり抜けて、その先の城壁に出る。次の塔で狭い階段をぐるぐると降りれば城壁の下に出るが。その手前で、リューセドルクは城壁に足をかけた。

 下まで飛び降りれば怪我は免れない。だが、西の端で北と南の城壁を結ぶ面だけは一段低く、城壁というよりは回廊になっている。目の前が崖で、敵に備える必要がないからだ。

 リューセドルクがその回廊に降り立てば、竜番たちの焦燥に駆られた叫びが聞こえた。

 回廊の崖の側、すぐそこが、城からは忘れられたかのような位置にある、竜の庭だ。

 広場の中ほどに進み出た赤翠の巨体を取り囲み、誰もが混乱していた。

 連携もなく係留用の縄を打つが、ひどく苛立った凶悪な様子の巨竜に、誰もが及び腰だ。

 ガゼオは、この国にいる竜の中で一番体格がよく、力も強い。

 もし、抑えきれないとなると、城内の混乱を防ぐために、なんとか眠らせるか——死なせる以外に、手段がないかもしれない。

 そんな選択は、くそくらえだ。

 幼い頃から共に育った弟のような竜を、自らの手で傷つけるなど、したくはない。

 けれどそれが、残された最後の手段であれば。

 人々を守るために自分がその決断をするだろうと、どこか他人事のようによくわかった。


「落ち着け、ガゼオ!」


 大声を叩きつけた。

 ガゼオはそれに煩わしげに首を振り、その動きに、辛うじて体にかかっていた縄がばらばらと振るい落とされるのが見えた。

 リューセドルクは、躊躇いなく、竜笛を鋭く二回拭いた。

 切りつけられたように、ガゼオが体を強張らせた。


「そう、それでいい。動くな」


 今度は叫んでもいないが、竜は小さな声もよく拾う。


「動くな、ガゼオ。これは、そういう約束だろう?」


 竜笛を見せつけるように掲げて、そしてリューセドルクは、回廊から竜の庭へと飛び降りた。

 王太子の登場、というよりは、絆の深い竜相手に効果を発する王家伝来の竜笛に安心したのだろう。竜番たちは皆、さっと離れて控えた。前に出ようとした護衛を抑え、リューセドルクはガゼオのほど近くまで歩み寄り、そして、思わず、顔を曇らせた。

 竜笛を聞いて、ガゼオは落ち着いた、と思っていた。実力行使の必要がなく、傷つける必要がなくなったことに、安堵した。

 このところ、竜たちが突如として脱走を企てたり、無闇と喧嘩をしたり、落ち着かない。幼い竜は別として、若いほどに衝動が強いようで、このごろは自由に外に放つことすらまともにできない日が続いていた。

 ガゼオも、若い成竜だ。けれどこれまでは、他の竜たちとは違いそわそわとしても、強く自分を律している様子だった。理性の強い竜だと、そう思っていたがゆえに、ここでも冷静に我を取り戻してくれたのだと、信じたかったのだ。

 けれど。

 炯炯と光る赤い目に鋭く睨み据えられて、リューセドルクは思いがけず強い衝撃を受けた。

 卵から孵ってすぐに腕に抱いた時から10年。初めて、こんなに憎々しげに睨みつけられた。


「いったい、どうしたというんだ……」


 言葉が通じないのが、もどかしい。決して、敵対したいわけではないのに、彼らの衝動を理解ができない。幼子の癇癪と違って、竜の機嫌は周囲への影響が多大だ。寛大に見守るにも、限度がある。

 それが、人間の勝手に過ぎないとしても。

 ガゼオは唸り続けながらも、渋々竜舎に戻っていった。

 リューセドルクは、密かに竜笛を握りしめ、踵を返した。今は、ガゼオのそばにいない方がいいだろう。

 できれば、今すぐにでも、ネクトルヴォイの姫に会って、この現象についての説明を求めたかった。




 その蒼い目がもう一度だけ、ガゼオの入った竜舎を振り返る。苦難に困惑しつつも、立ち向かう覚悟を宿した眼差しから、ユーラは目を離すことができなかった。




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