第二章 迷い込んだ不思議の国で
どこか懐かしい、夢のような世界で
次回、チェシャ猫が少女に世界の仕組みを明かします。
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第二章 迷い込んだ不思議の国で
「僕はトゥイードルダム」
「僕は、トゥイードルディー」
二人はそう言って、少女に微笑みかける。見た目も名前もそっくりなため、見分けがつかない。
「僕たち、双子なんだよー。よろしくね」と二人は声を揃えて言う。
「うん、よろしくね」と、少女が返事をすると
「ねぇねぇ、僕たちのお話、聞きたい?」とトゥイードルダム。
「セイウチと牡蠣の面白くておかしなお話」とトゥイードルディー。
二人に次々に話しかけられて戸惑っている少女に、チェシャ猫は小声で言う。
「この二人の話は聞かない方がいいよ」
すると、トゥイードルダムは、
「おい、チェシャ猫。今アリスに何か言ったでしょ」とギロリとチェシャ猫を睨む。
「まったく。困るよ、僕らの邪魔ばかりして」とトゥイードルディーは言う。
そんな二人にチェシャ猫は呆れ顔で笑う。
少女はそのチェシャ猫の横顔から目を放せなくなった。胸がぐっと締め付けられる。
(何故だろう、知ってる。この感じ…)
「……」
少女が何も言えずにいると、トゥイードルダムが言った。
「そういえば、アリスをハートの女王のところに連れて行かなくてもいいの?」
「ああ、そうだった」とチェシャ猫は呟く。
(ハートの女王…?)
少女は「不思議の国のアリス」の物語を思い出す。確かハートの女王はとてもわがままな女王だったような…。
(あんまり会いたくないな…)
物語の中で、アリスはハートの女王に首を跳ねられそうになるのだ。この不思議な世界で少女がそうなってもおかしくはない。
少女がそんなことを考えていると、チェシャ猫は「行くよ、アリス」と言って歩き出す。少女は小さくため息をついて、仕方なくチェシャ猫に着いて行くことにした。
歩きながら少女はチェシャ猫に話した。
「私、ここへ来る前のことをよく覚えていなの」
「へぇ、そうなんだ。でもそれは昔のことでしょ?」
「どうだっていいじゃないか」とチェシャ猫は歩みを進める。
「どうだっていい…?」
そう、と返事をしチェシャ猫は少女の方を振り返った。
「忘れちゃいなよ、全部。君はアリスなんだから」
「やっぱり貴方、私の記憶のことを何か知ってるんじゃないの?」
少女の言葉にチェシャ猫は返事をしなかった。
「ねぇ、貴方は一体何者なの?」
「僕はチェシャ猫だよ」
少女とチェシャ猫の距離は遠く。
「…どうして何も教えてくれないの?」
「君にはずっとここにいて欲しいから」
そう言ってチェシャ猫は優しく微笑んだ。
やっぱり、チェシャ猫は何かを隠している。
少女はそう確信した。
しばらくの間、二人は黙って歩き続けた。
少女はチェシャ猫の後ろ姿を見つめる。その後ろ姿は猫なんかではなく、人間だった。
白兎だってそうだ。この世界の人物たちは「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の登場人物の名を名乗っている。だが、全員その姿は人間だ。動物の登場人物の名を名乗っていても、人間の姿をしている。
(一体、この世界は何なんだろう…?)
少女はこの世界について考える。そう、この世界は…。
──アリスだけがいない“不思議の国”《ワンダーランド》。
(そして皆、私のことをアリスと呼んでいる)
少女がそんなことを考えていると、チェシャ猫は言った。
「アリス、見てよ」
チェシャ猫が指差した方には、一面に花畑が広がっていた。多くの花が咲く中で、少女は一輪の花に目を止めた。
淡い青色の花だった。儚い見た目だが、どこか強い生命力を感じさせる。
「ねぇ、この花は何ていうの?」
なんだか気になって、少女はそう尋ねた。
「ああ、その花はね」
そこまで言ってチェシャ猫は言葉を止める。
「この花の名前は…?」
一度黙ったチェシャ猫に少女はもう一度尋ねる。
「瑠璃」
「え…?」
「この花の名前はね、瑠璃って言うんだよ」
瑠璃、るり、ルリ。そうだ、私は─。
「…私の名前、ルリって言うんだった」
やっと思い出した、自分の名前。
(何故今まで忘れていたんだろう…)
黙り込んだ少女、ルリをチェシャ猫は「アリス…?」と心配そうに見つめる。
「違う、私は…」
ルリはチェシャ猫と向かい合う。深く息を吸い、ルリは言った。
「私はルリ。アリスじゃない」
今こう言っておかないと、せっかく思い出した名前をまた忘れてしまいそうだった。
「…思い出したの?今までのこと」
そう言ったチェシャ猫はどこか不安そうな顔をしていた。
「ううん、まだ思い出してない。でも名前は思い出したの」
「そっか」とチェシャ猫は小さくうつむく。
「どうしたの?ハートの女王のところへ行くんじゃないの?」
「ああ、そうだったね。行こうか」
少女はうなずき、チェシャ猫と共に歩き出す。
色鮮やかな花畑は、まるで夢の中のような光景だった。ルリが咲き誇る花たちをじっと見つめていると、チェシャ猫が言った。
「綺麗だよね、まるで夢の中みたいにさ」
「うん、とても綺麗」と少女は答えた。
「この世界はさ」
「うん」
「この世界に来た人が帰りたくなくなるように、綺麗に作られているんだって」
「じゃあ、やっぱりこの世界は現実じゃないんだ」
チェシャ猫はそうだよ、と返事をする。
「現実ではないけれど確かに存在する、夢のような世界…」と少女は呟いた。
「そう、でもこの世界は夢じゃない」
「私は、どうしてこの世界に来たんだろう?」
「さあ、どうしてだろうね」
そう言って、チェシャ猫はにっこり笑った。
♤ ♡ ♧ ♢
「ハートの女王、アリスを連れて来たよ」
チェシャ猫がそう言うと、気の強そうな女の人が振り返った。
「あら、アリスじゃない」
そう言ってハートの女王らしき人はアリスをじっと見た。
「ふーん、ここへ来たってことは…」
そこまで言いかけて、ハートの女王は口を閉ざす。
「ハートの女王」とチェシャ猫が静かに言うと彼女は小さくうなずいた。
チェシャ猫とハートの女王はルリから離れて、コソコソと話し始めた。遠くて何を話しているのかはわからないが、たまにルリの方をチラリと見るので、ルリの話をしていることは間違いなさそうだ。
ハートの女王と聞いて、ルリは物語と同じようなわがままな女王を想像していたが、ここにいるハートの女王はずいぶんと落ち着いている。
しばらくすると、チェシャ猫がルリの方に歩いて来た。
「話はもう終わったの?」とルリが聞くと、チェシャはうん、とうなずいた。
「話はもう終わったから、何処かに行こうか。行きたいところはある?」
「もう何処にも行かなくていい。だから教えてよ、この世界のこと。そして──私の記憶のこと」
ルリはそう言ったが、チェシャ猫はルリから目を反らした。
「…僕にはそれを教えることは出来ない」
「どうして?」
「ある人に言われたんだ。君に真実を言ってはいけない、と」
「ある人って…?」
「君のことを大切に思っている人にさ」
「でも、私は知りたいの!」
「………」
チェシャ猫は黙って首を振った。そんなチェシャ猫を見て、ルリは静かに話し始めた。
「私、前にもこの世界に来たことがあるような気がするの」
「まさか、思い出したの…?」
「ううん、思い出してはいないの。でも」
ルリはぐるりと辺りを見回した。
(…やっぱり、どこか懐かしい)
「前にもこの世界に来て、皆からアリスと呼ばれていたような気がするのよ」
「………」
チェシャ猫は何も言わなかった。
「ねぇ、そうなんでしょ?私は前にここに来たことがあるんでしょう?」
「…それは君の思い込みなんじゃないの?」
「違うよ、だって私がここへ来たとき、トゥイードルダムとトゥイードルディーが言ったのよ。──『おかえり、アリス』って」
ルリがそこまで言い終わったとき、チェシャ猫はしばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。
「そうだよ、君は前にもここに来たことがある。そのとき君はアリスだった」
「教えてくれる?この世界のことと、私のこと」
「…わかったよ。教えてあげよう、かつてのアリス」
そう言って、チェシャ猫は少し寂しそうに笑った。
「この世界はもともと、一人の青年が亡くなった恋人のために作った、夢の世界だった」
「夢の世界…」とルリは呟く。
「その世界に彼は名付けたんだ。──“Blank wanderland”《空白のワンダーランド》、と」
読んでくださった方、本当にありがとうございました。
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