鍾離の戦い(1)
506(梁・天監5、北魏・正始3)年
(北)魏の中山王・元英は梁の北徐州に侵攻し、北徐州刺史(州の長官)の昌義之を鍾離城に包囲して軍勢百万と称し、四十余りの砦を築いて連結させた。
一方梁の武帝は征北将軍の曹景宗を派遣し、諸軍二十万を率い魏軍を防がせようとした。
やがて曹景宗は(淮河中の)邵陽洲(洲は中洲のこと)に駐屯し、砦を築いて守りを固め、そして武帝は韋叡に詔(皇帝の命令)を下し、豫州の軍を率いて(韋叡は豫州の刺史)曹景宗軍と合流させようとした。
そして韋叡は合肥から近道を使い陰陵の水草の生い茂った大きな沼地を経由して進軍し、やがて山間の渓谷に突き当たったので、すぐに橋を架けて渡った。
けれども韋叡軍の兵士は魏軍の勢いが盛んなことを恐れたので、配下の多くが韋叡にゆっくり進軍することを勧めた。
そこで韋叡は言った。
「鍾離城の兵士は今塹壕を掘ってそこに立てこもり、戸板を背負って敵の矢を防ぎながら水を汲み、救援を求める馬車は大急ぎで我らのもとに駆けつけて来て、今なお我が軍の到着が落城までに間に合わないことを恐れているのに、どうしてなおさらのんびり進軍することができようか!それに魏の者どもは既に我が術中に落ちているので、卿らは心配するな」と。
そして韋叡軍は十日進軍して邵陽洲に到着した。
訳者注
※卿
古代中国で高位の官職に就いている者に対する敬称。
※邵陽洲
鍾離城付近の淮河にあった中洲




