目が見えない私と、醜い君と。
暗い、暗い、海の底にいるようだった。
見えていたはずの色鮮やかな景色は、時間と共にだんだんと削れていく。
私以外の人間は、私の特異な容姿と目の病気だけを見て、今にも壊れそうな物のように、自分とは違う生き物と接するように、私を大切に扱った。
私は生まれながらにして特別だったのだ。
善い事だろうが、悪い事だろうが、どんなことをしたって、特別は絶対に変わらない。
私はその特別が、この世界で何をしようがお前の評価は変わらないと、お前は今にも壊れそうなお姫様だと、役割を決めつけられているようで、何か鋭利なものを突きつけられているようで、たまらなく嫌だった。
………お願い、誰か本当の私を見て。
* * *
「あの……これ、落としましたよ」
桜満開の通学路。
四つ葉のクローバーの刺繍が入った可愛らしいハンカチを持って、俺は目の前を歩いていた女生徒に声をかける。
このハンカチは彼女が落としたものだ。スカートのポケットからするりと落ちるのが見えた。
俺の低い声に「すみません」と返事をしながら亜麻色の髪の毛の彼女は振り向く。
俺はできるだけ、敵意のないやわらかな笑みを浮かべていた……はずだ。大事なのはファーストコンタクト、大丈夫、悪いことは何もしていない。
「ひぃっ……!」
俺と目が合った途端、彼女は声にならない悲鳴をあげて目を見開く。
「それもういりませんっ! 失礼します……っ!」
「えっ! ちょっと!」
ハンカチを落としたであろう女生徒は俺の顔を見るや否や、嫌悪感をむき出しにして、一目散に駆け出した。一応声はかけたけれど、彼女はいっさいこちらを振り返らずに、学校とは反対方向の曲がり角へと消えていった。
落し物を渡そうと差し出した右手が、渡す相手を見失って哀しそうに揺れている。
心臓がズキリと痛んだ。
「はぁ……」
目の前を通り過ぎようとしていた桜の花びらが、俺の大きな溜息で進行方向を変える。
落し物のハンカチを、右手に持ったまま、俺は俯いた。
女生徒に嫌悪感むき出しで逃げ出された理由が、大きな溜息の理由が、昨晩の小雨によってできた足元の水たまりに、嫌になるくらいくっきりと映っている。
ドン引きするくらいのブサイク男がいそこにいた。
俺だ。
目は小さくて腫れぼったいし、鼻はイノシシのようにつり上がっている。口はお飾りのようにちょこんとついていて、おまけに右目を中心に顔右半分には大きな火傷痕があった。まるでファンタジー小説によく出てくる悪役、オークのようだ。
何をしようと、この醜い顔の所為で、俺は無条件に嫌われる。女子生徒には悲鳴をあげられ、男子生徒には理不尽に暴力を振るわれる。
整形しようかと、本気で何度も考えた。けれど、俺を学校に行かせるのもやっとの母子家庭でそんなワガママは言えない。
「はぁ……」
今日二度目の大きな溜息をつく。
寂しい。
一人でもストレスなく生きていける人間が羨ましい。俺はこんなブサイクに生まれた上に、寂しがりやなのだ。
だから、悲鳴をあげられるとわかっていたとしても、人と関わろうとすることをやめられない。ハリネズミのジレンマならぬ、ブサイクのメンヘラと言ったところだ。笑えねぇ。
とぼとぼと歩いていると、俺が通う学び舎、久米高等学校が見えた。
学校の周りは山々に囲まれており、田舎とも都会とも言えない、不思議な雰囲気に包まれた学校。岡山県の北部では最も古い県立高校だ。
今日も今日とて俺は息を殺して校門を通る。登校している生徒たちのヒソヒソと話す声が聞こえた。
「うわ!」
「噂のオークだ……!」
「今日も顔きめぇ〜」
「おい! 目を合わせると石にされるぞ!」
「夜な夜な処女の生き血をすすってるらしいぜ……」
目が合うと石にされるのはメデューサだし、処女の生き血をすするのは吸血鬼だ。オークではない。あだ名をつけるならそういったあたりの設定もちゃんとしてほしい。
俺がまったく抵抗しないから、生徒の陰口にも遠慮がない。けれどそれで良い。
俺は知っていた。抵抗はガソリンだと。奴らを真っ赤に燃え上がらせる要素だと。
まぁ、小学生や中学生の時に比べれば暴力が無い分、だいぶマシだ。偏差値の高い高校に入ったのもひとつの理由だろう。学費が高いのに必死に工面してこの高校に入れてくれた母さんには感謝しかない。
校門を通り過ぎても、ヒソヒソと話す声が背中の方から聞こえる。今日は新入生も登校しているからか、いつもより陰口やら俺のキモさに驚く声が多い気がする。
………お願いだから、誰も俺を見ないでくれ……。
俺は奇異の視線に刺されながら昇降口まで歩いた。
そして、下駄箱の前でまた大きなため息を吐く。そのため息に対してもまわりの生徒はなぜか鼻をつまんでドン引きしている。俺の吐く息は毒ガスかなにかなのか?
ブサイクだからせめて清潔感だけは気をつけようと、毎日朝シャンしたり念入りに歯磨きしたり、いろいろなケアを欠かさずにしていた。それなのに臭いだとか汚いだとか言われるのだ。理不尽。
大きな溜息を飲み込んだその瞬間、背中に何か小さなものが、どんっ、とぶつかった。
「ちょっと邪魔なんだけど、退きなさい」
凛とした声が背中の下の方から聞こえた。
振り向くと、そこには真っ白な超絶美少女がしかめっ面をして佇んでいた。
超絶美少女とはかなりチープで大仰な表現かもしれないけれど、本当にそう思ってしまうくらい、彼女は綺麗で、そして真っ白だったのだ。
髪の毛も肌も、眉毛やまつげに至るまで純白。
すこしだけ青みがかった瞳と、淡いピンク色の唇だけが、真っ白なキャンバスに絵の具を一滴二滴垂らしたように淡く色がついているだけである。
日本人離れしたその美しい顔立ちはまるで、おとぎ話やら小説やらにでてくる眉目秀麗な種族、エルフのようだった。
俺は彼女を知っていた。というかこの学校、いや下手したら俺が住む大都会岡山県で知らない人がいないくらいの有名人だ。
先天性白皮症で、俺と同じ高校2年生で、超絶美人のロシア人ハーフで、そしてとてつもなく目が悪いと噂の、校内一の有名人。
天沢 可憐。
外見が人と違うという点では俺と同じだけれど、周りの扱いは天と地ほどの差がある。彼女はまわりから令和の天使様やら現代に舞い降りたエルフやら大仰な二つ名をつけられて崇められているのだ。対して俺の二つ名は、雌のオークも裸足で逃げ出す醜男。死にたくなっちゃう。
いろいろな意味で落胆した俺は一言謝って、その場を離れようとするけれど、俺が謝罪の言葉を発する前に彼女がその小さな可愛らしい唇を開いた。
「退けと言っているのが聞こえないの、この愚民。神である私の言葉が聞けないなんて本当に救いようがないわね」
「……………へ?」
「会話も出来ないのね、いつからこの学校は日本語すら扱えないような猿に入学を許可するようになったのかしら、同じ学校に在籍しているという事実だけで屈辱だわ、一刻も早く退学しなさい」
可愛らしい唇から飛び出してきたのは理不尽すぎる罵詈雑言の嵐だった。
けれど俺はそんなに驚いてはいなかった。エルフ様とやらは高飛車かつ毒舌で、性格も成績もすこぶる悪い事で有名なのだ。そういった評価も覆して、いやむしろプラスに変えて、人気者になってしまう美貌を持っているのである。
………自分で言うのもなんだけれど、俺は成績も優秀な方だし、問題行動なんて起こしたこともない。それなのに全校生徒から死ぬほど嫌われている。エルフ様は、オークの俺とは正反対だ。全くもって羨ましい。
俺の隣を、ゆっくりと、足場を確認するようにして彼女は歩いていく。時折、よろけそうになりながらも、ひとりでスリッパに履き替え、ひとりで階段を登っていった。前がまともに見えないくらい目が悪いのなら眼鏡なりなんなりかければいいのに。
「はぁ……」
俺はまたひとつ、大きなため息をついた。
人は見かけによらないという言葉を具現化したような彼女から視線をきり、俺はスリッパに履き替える。
けれど、そんな性格がすこぶる悪いはずの彼女に、俺はほんの少しだけ、本当に小指の先ほどだけれど、好意を抱いた部分があった。
彼女は俺の顔を見ても、顔を歪めなかったのだ。
いや、正確には俺の顔を視認できないほど目が悪いだけだろうけど、それでも俺は嬉しかったのだ。
外見で判断されず、ありのままの感情をぶつけられることが、嬉しかったのだ。
……そのありのままの感情が、とてつもない嫌悪感だった件については涙を禁じ得ないけれども……。
俺は階段を登りながら先ほどの彼女とのやりとりを思い出す。
…………いやよく考えるとやっぱり嬉しくなかった。なんなのあの女、初対面の人に愚民扱いとか頭おかしすぎるし、自分を神だとか痛すぎるだろ。残念美人にもほどがある。本当に嫌な奴。
彼女とももう関わることはないだろう。俺は頭の中でぼんやり考えながら自分の教室に向かった。
* * *
新学期により、新しいクラスになり、いわゆるクラス替えというものが行われた今日。俺は2年B組の扉をガラガラっと開けて、教室に入った。
机に座る生徒たちのげんなりとした表情やら怯えたような表情を見るに、どうやらこのクラスでも友達作りの難易度は最初からハードモードらしい。まったく人生はクソゲーである。顔面ガチャに失敗しすぎた、もう一刻も早くリセマラしたい。
「げ」
蛙が踏み潰されたような声がでる。
黒板に貼り出された席順を確認し、教室の一番後ろにある自分の席に向かうと、丁度俺の左隣の窓際の席に、先ほど有らん限りの罵詈雑言をぶつけてきたエルフ様(笑)が鎮座しておられたのだ。
やった! 超絶美少女の隣の席なんて! ラノベ展開まっしぐらじゃん! なんて能天気な考えは微塵も起きない。なぜならこのエルフ様はただの美少女ではなく、嫌な奴で痛い奴だからだ。俺は美人だからって甘やかされて育ったような女の子は守備範囲外なのだ。
ちなみに俺は全世界の女性の守備範囲外だけどな。
俺は静かに隣の席に座る。
彼女を刺激するのは悪手だ。先ほどあったような理不尽な罵詈雑言を浴びせられては敵わない。友達がいないまでも、せめて穏やかな高校生活を送りたい。
エルフ様(笑)には絶対に接触しないと、俺は固く誓った。
「ねぇ、そこのあなた、飲み物を買って来なさい」
「……へ?」
俺の固い決意はお隣のエルフ様によって2秒で砕け散った。
なんだよ、飲み物を買って来なさいって、俺はお前のパシリじゃねぇんだぞ。
しかもこの女、さっきあった俺のことなんて忘れているような口ぶりだ。許せん、温厚で知られる……いや誰も知らないけど、温厚な俺でも我慢の限度がある。
「私の為に飲み物を買って来られる権利をあげると言っているの、さっさと買ってきなさい」
「……いやそんな権利いらねぇよ」
「……っ!?」
心底驚いたような顔で彼女はこちらを見つめる。
いや驚いたのは俺の方なんだけど、初対面の相手に対してこれだけ横柄な態度をとれるのは、この世界広しといえどお前かデーモン小暮閣下くらいだよ。
「……あなた、さてはホモね?」
「は?」
「だっておかしいわ、今まで私を好きにならなかった男なんていなかったもの、奴隷にならないってことは、女性は恋愛対象じゃないってことよね」
「いや普通に恋愛対象は女性だけど」
「……っ!?」
またもや目を見開いて驚くエルフ様(笑)俺は人を外見で判断しないのだ。外見で判断されて死ぬほど辛い思いを幾度となく味わってきたからな!
「そんな……私の奴隷にならない男がいるなんて……」
「いや普通にいるだろ、何言ってんの」
「う……うるさい!」
会話の内容はちょっとアレだけど、俺は久しぶりに母親以外と会話することができて、内心嬉しかった。
目が悪すぎる彼女は性格が悪いにしても、俺を外見で判断せず、接してくれるからだ。
別に容姿で人を判断することが悪いとは言わないけれど、判断材料がそれひとつだけにも関わらず、理不尽に暴力を振るったり陰口をたたいたりする人間がこの世界には多すぎるのだ。醜いと思うなら近づかず、せめてそっとしておいてほしい。
「……貴方、私を特別扱いしないのね」
彼女は少しだけ考えるそぶりを見せて、なぜか笑みを浮かべてそう言った。今のやりとりのどこに嬉しくなるような要素があったんだろう。「ケケッ! アタシに逆らうなんて、活きの良い獲物ね!」なーんて意味の笑みならすっごく悲しい。
そして先ほどから周りの視線が死ぬほど痛い。
クラスの男子連中を筆頭に、髪の毛を金色やら茶色やらに染めた如何にもなグループからも、熱視線を送られている。シンプルに怖い。お漏らししそう。
いやいや、外見で人を判断するのは良くないぞ。もしかしたら友達になりたくて視線を送ってきているのかもしれない。よく見ると、そこはかとなく、仲間になりたそうな雰囲気が見え隠れしているような気がしなくもない。
俺はその如何にもなグループに微笑み返す。
そのグループの中心人物であろう、ピアスの青年は、睨みをよりいっそう強くして中指を立てた。ですよねーさーせん。
ピアスの青年は俺をこれでもかと睨みつけて満足したのか、中指をおろして、今度はエルフ様の方をぽけーっと見つめていた。10人見たら10人が口を揃えて「絶対好きじゃん」と言ってしまうような表情だ。
俺もエルフ様も、ピアスの青年とは、おそらく初対面であるはずなのに、こうまで評価が変わるのだ。
俺が何したって、どんなに努力したって、お前は何にもなれないと、お前の役割は嫌われ者のオークだと、何か鋭利なものを突きつけられて、怒鳴られているように感じた。
俺は隣を見ないまでも、エルフ様が先ほどの言葉の返答を待っているのがわかった。だから俺は、少し嫌味たらしく、彼女にこう告げる。
「俺だって、お前に負けないくらいに特別だからだよ」
彼女が息を飲む音が聞こえたような気がした。
おそらく彼女は俺のことを心底嫌いになるだろう。今現在、俺の容姿をどれだけ視認できているかわからないけれど、ホームルームでも放課後でも、その時が訪れればきっと、嫉妬に駆られた男子生徒諸君が「君の隣の男はとんでもないブサイクだよ」と、間違いなく、写真を見せながら彼女に告げるからだ。
自分より圧倒的に下の人間に、一時であろうと、生意気に口を聞かれたのだ。俺は知っている。クラスの人気者はソレを絶対に許さない。
彼女は、俺の返しに返答せず、どこか上の空で『特別』という言葉を反芻していた。
特別。聞こえはいい言葉かもしれないけれど、その特別に現在進行形で心底苦しめられている俺にとっては、呪いのような、祟りのような、そういう恐ろしいものにしか感じない。
チャイムが鳴る。
教室の少し立て付けの悪い扉をガラガラと開けながら、男性教員が入ってくる。先ほどまでの喧騒はピタッと止んだ。自称進学校だけあって、生徒たちは内申点やら教員に気に入られるかどうかに必死なのだ。
とにかく、今後エルフ様と関わることはもう二度とないだろう。
その日は、放課後にエルフ様親衛隊とやらに袋叩きされた以外は、いつも通りの日常だった。
* * *
「奥村くん、貴方って臭いの?」
「……は?」
始業式の翌日、俺の予想を今日も裏切って、彼女は机から身を乗り出して俺に失礼な質問をする。
「クラスの愚民共が言ってたのよ。アナタは気持ち悪くて臭いって」
エルフ様の愚民という言葉を聞いたクラスのドM男子の連中は狂喜乱舞していた。このクソ女のどこが良いのかまったくわからない。
そして、面と向かって堂々と陰口の内容を突きつけられると中々にくるものがある。
「顔は……まぁ自分でも気持ち悪いと思うけど、臭いは……わからんな」
「自分で自分のことを気持ち悪いって言うなんて、相当なブサイクなのねアナタ」
このクソ女、自分の性格を棚にあげてよくもいけしゃあしゃあと口が回るものだ。こんな女のために、昨日の放課後俺は袋叩きにされたのか。理不尽が過ぎる。
「お前の性格ほどじゃねぇよ」
「……っ!」
俺が嫌味たらしくそう言うと、また、彼女は何故か笑みをこぼした。こいつ本当にわからん、ドMなのか? 俺みたいなクソブサイクに馬鹿にされて笑みをこぼすなんて特殊性癖すぎて引くわ。ついでにペンケースに映った俺のブサイク加減にもドン引くわ。泣きそう。
「まぁ? 顔面なんてどうだって良いわよ、どうせ見えないんだし」
一瞬、心臓がとくりと跳ねた。
けれど、すぐに冷静になる。
期待すればするほど、裏切られた時に傷つくことは、もうだいぶ昔から知っていた。
「俺にとっては割と死活問題というか生命の危機というか、結構大変なんですけどね……」
「ちょっと頭を嗅がせなさい」
「ちょっ! やめっ!」
彼女は強引に俺のネクタイを引っ張ると、鼻をクンクンと鳴らして臭いを嗅ぐ。なにこの羞恥プレイ。教室の生徒たちやらエルフ様親衛隊とやらが目から血を流す勢いで俺を睨みつけているんですけど。
「なんだ、普通のトリートメントの香りじゃない。つまんない」
ひとしきり嗅いで満足したのか、彼女はつまんなそうにネクタイを離して机に突っ伏した。目が見えないとか言う割には俺のネクタイを的確に掴んできた彼女を俺は睨む。
「お前マジで良い性格してるよ」
「アナタが自分のことを特別なんて言うから、どんな特別かと思えば、案外普通の人間じゃない。嘘つき、死ねば?」
「………どこまで目が悪いのかもわからないし、聞く気もないけど、たぶん俺はお前が想像している2億倍はブサイクだからな、全世界ブサイクコンテストがあれば20年連続金メダルとれるレベルだ」
「アナタ、後ろ向きな考えには前向きなのね、とても気持ち悪いわ」
エルフ様は俺のブサイク加減がたいそうお気に召したのか、けらけらと笑っている。コイツいつか本気で殴りたい。グーで思いっきり殴りたい。
休憩が終わって二時限目が始まっても、彼女は俺にせわしなく話しかけてきた。教員は何故か、エルフ様を叱ることはせず、俺の方を睨みつけるのだ。テストの点数が良くても提出物を出しても、内申点が悪い理由がさらに増えるな。本当にうざい、うざいことこの上ない。
さらには、昼休みになり俺がひとりになれる校舎裏に向かおうとする時まで、彼女は俺の首に紐のようなものをかけて「先導しなさい」とかほざき散らすのである。マジで殴ろうかなとも思ったけど、エルフ様親衛隊が鼻血を垂らしながらこちらを睨みつけていたのでやめた。
「では、そんなブサイクすぎる奥村君は、私の容姿を見てどう思うのかしら? 私、自分で言うのもなんだけれど、全世界美少女コンテストがあれば20年連続で金メダルとれるレベルで美少女でしょ? ねぇ奥村君、今どんな気持ち?」
木陰でおかず梅干し一個の日の丸弁当を広げている俺の隣で、なんか伊勢海老とかステーキとか入ってる超絶豪華な弁当を広げながら、クソほど性根が腐りきっているエルフ様は俺にクソほど失礼な質問を投げかける。
俺の顔を覗き込みながらニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべている始末だ。目が見えないという割には本当によく動く。
足元にあった木の根元を見つめる。
溜まっていたイライラが、俺の我慢の限界点を突破して、自然と唇から溢れでる。
「可哀想だと思うよ」
「………っ! へぇ……何故、そう思うの?」
顔は見えていないけれど、微かに声が揺れたのを俺は見逃さなかった。
「お前はそのとんでもなく優れた容姿のせいで、普通じゃいられない。心底可哀想だと思う。お前が気づいているかどうかは知らないし、自分の生活に満足してるかどうかも知らないけど、お前が何をしようとも、どんな言葉を吐こうとも、先天性白皮症超絶美少女の天沢 可憐がした事として処理されるんだ。お前は誰からも、親からさえも、偏見を持たない視線を向けられることはない。永遠の孤独だよ。そして、その十字架は決して消えない。整形でもしない限りな」
「………」
「だから、心底可哀想だと思う、同情さえするよ」
彼女は驚いたような、呆けたような、不思議な表情でかたまっている。
本当に可哀想だよ、俺も、お前も。
容姿が振り切っている人間は、普通じゃいられない。会話の前にも、何をするにおいても、偏見やら悪意やら性欲やらの様々な感情に晒されるのだ。
厳密に言えば、これは誰にだって言えることなんだろうけど、俺や彼女に限って言えば、容姿が極端な為、普通とはかけ離れた多大な影響を受けるはずだ。
人間は生まれながらにして平等ではない。小学生でも知っているこの世界の常識だ。
けれど人間は、それに気づいているはずなのに、目をそらし続けている。そんな巨大な問題、どうしようもできないからだ。
目をそらすのは構わないし、どうしようもできないのもしょうがないけれど、それならば人間は平等だとか、命は平等だとか、そんな嘘はつかないでほしい。期待させないでほしい。はじめから世界が汚くて矛盾に満ちた場所だと知っていれば、死ぬほど悩まずに済んだ。俺は差別される人間だとすぐに受け入れられた。
歪んでいて醜い世界を否定しない。
だけど。
歪んでいて醜い世界を、人間を、美しいだとかのたまう奴は……嫌いだ。
お前たちの汚物より汚い自己満足の為に、青春の為に、現実逃避の為に、負債を背負わされているお前たちにとっての都合の良い人間がいることを無視するな。
「アナタは私の事が、見えてるの?」
エルフ様は、何故か目に涙を浮かべて、頬に朱に染めて、また俺に問う。
俺は最高に嫌みたらしく、エルフ様に告げた。
「あぁ、見えてるよ。性根が腐りきってる嘘つきがな」
彼女の宝石のような瞳から玉のような雫がこぼれ落ちる。
慌てて目をそらす。何故か、俺の心も、痒くて痛い。
当たり前だ。俺が彼女に刺した、猛毒を塗りたくった言葉は、俺の心臓にずっと刺さっていたものだ。
自分のことを棚に上げて、彼女を傷つけたのだ。
ただの嫉妬だったのかもしれない。
俺と同じ特別であるはずなのに、ベクトルは真逆。
同じ偏見を持たれるなら、俺だって、ポジティブなイメージを持たれる彼女の方の特別が良かった。
俺だって、なんでもいいから褒められたかった。
「やっと見つけた」
艶を帯びた声が、左隣から聞こえた。
思わず彼女の方を向くと、妖艶な笑みを浮かべて、こちらを見つめていた。瞳は水気を帯びていて、吐息には色が付いている様に見えるほど、興奮している様子だった。
「ひっ!」
「なんで逃げるの?」
首にかけていた紐を思いっきり引っ張られ、彼女に押し倒される。経験したことのないような女の子特有の柔らかな肢体の感触に驚く暇もなく、心の奥底から、あるひとつの感情が湧き上がる。
怖い、とてつもなく恐ろしい。
容姿はとてつもなく妖艶で綺麗なはずなのに、巨大な肉食獣に睨みつけられるような恐ろしさが彼女にはあった。
「ねぇ、奥村くん……」
「……はい、なんでしょう」
「この世界が、もし、私たちふたりだけの世界だったら、私たちって特別なのかしら」
「……それは……まぁ、そんなこと、現実には不可能だろうけど、少数派ではなくなるな」
差別や偏見というものは、多数派と少数派が生まれ、その意見の摩擦によって生じるものだ。容姿や、性格、考え方、価値観がまったく同じ人間であれば争い事は激減するだろう。
「今現在、この楠の下では、私と貴方は普通なのよ。私たちふたりだけの空間であれば、普通で居られるの。貴方は私を見て、私は貴方を見てる。奇妙だけど、今にも崩れそうだけれど、絶妙なバランスでこの関係は成り立っているわ」
「わかった、わかったからちょっと離れろ……!」
彼女のふくらみが太ももにあたる。冷静になった万年童貞の俺がこんな展開に落ち着いていられるはずもなく、あからさまに動揺していた。
「目の見えない私は、貴方を見ることができるし、卑屈でブサイクで気持ち悪い特別な貴方は、私を普通の性格の悪い女の子として見てくれる。うんざりなのよ、私は私、エルフ様なんかじゃない」
俺の背中が、何かにあたる。大きな楠の木だ。彼女を避けようと、ずりずりとお尻を引きずりながら後ずさりしていたけれど、限界がきたようだ。
彼女は俺の手に指を絡ませて、鼻と鼻、唇さえもあたりそうな距離で、ぽしょりと呟いた。
「これからよろしくね、奥村くん」
色のついた吐息、柑橘系の香り、とてつもなく恐ろしい白銀の美少女。
俺はようやく、自分が犯してしまった大きな間違いに気付いた。
おそらく、天沢 可憐はただの性格の悪い女じゃない。
性格の悪い演技を、美しすぎる容姿を、踏み絵として、ずっと同族を探していたのだ。偽りの自分を否定してくれる、自分と価値観が似ている同族を探していたのだ。
彼女が握っていた俺の首紐を、奪い取り、弁当もそのままにして俺は逃げだした。何故かとてつもなく恐ろしく感じたのだ。
「逃げても無駄よ」
後ろの方で小さく呟いた彼女の声は、物理法則を無視しているんじゃないかってくらい、耳元ではっきりと聞こえた。
……こうして、歪んだ彼女と卑屈な俺の間違った学園ラブコメがはじまってしまったのである。
* * *
天沢可憐という怪物と知り合ってから一週間と少し経った。
そして、認めなければなるまい、自らの過ちを。
前言撤回する。
おそらく、天沢 可憐は演技などしていなかった。
元から頭のおかしい女の子だったようだ。
「何ぼーっとしてんのよ、さっさと引きなさい。学校に行くわよ」
朝四時に、こんなオンボロ家(俺の家)の壊れかけのチャイムを鳴らし、制服を着て、玄関前で豪華絢爛な馬車……ならぬ人力車に乗り、それを俺に引けと命令している頭のおかしい女。
それが天沢 可憐だ。
こんな訳のわからない暴挙に出ておいて、清々しいまでの笑顔を浮かべているあたり、この子はもう救いようがないのかもしれない。
「黙れ。そしておやすみ」
玄関先でそう答えて、踵を返すと、背後から耳障りな声が聞こえる。
「ちょっと待ちなさいよっ!」
天沢は、豪華絢爛な人力車から身を乗り出してギャーギャー騒いでいた。
まわりに付き人らしき人はいない。
目が見えないのにどうやってそんなでかい人力車に乗ってここまで来たんだよ……。
「貴方まさか、この超高級イタリア製の人力車が気に入らないって言うの!?」
「イタリア製だろうがフランス製だろうが知ったことか、俺は寝るぞ、おやすみ」
スネ夫みたいなこと言いやがって、金持ちの道楽には付き合いきれん。
どうせ今日も学校でこってりイジメられるのだ。そんな俺にとって人生で唯一の幸せであり、癒しである睡眠を奪わないでほしい。
今にも壊れそうな玄関の扉に手をかけると、後ろから頭のおかしい彼女の声が聞こえる。
「ま、まちなさいっ!」
ガタンと音がした。
目がとてつもなく悪い彼女が、狭くて高い人力車の上で暴れたらどうなるかは、想像に難くなかった。
後ろを振り向くと案の定、彼女は体勢を崩して今にも人力車から落ちそうになっていた。
「っ!」
地面を蹴って駆け出す。2メートルほどの距離だったので、なんとか彼女の首根っこを掴むことに成功した。
「アホかお前っ!」
「フフン、やればできるじゃない。その調子で私の奴隷として精進することね」
このまま地面に顔面を叩きつけてやろうかと思ったけれど、なんとか耐える。
「じゃあな、おやすみ」
彼女を、趣味の悪いゴッテゴテの人力車に戻して、俺は踵を返し、玄関を開けて家の中に戻る。
後ろの方から鳴き喚く猫のような声が聞こえたけれど、無視した。
* * *
「和馬! 不審者よ!」
母の甲高い声で、俺は目覚めた。
寝ぼけ眼をこすりながら、布団から体を起こす。10秒くらいたって、ようやく視界の焦点が合いはじめ、いつも通りのみすぼらしい俺の部屋と、慌てている母親を確認した。
母曰く、外にお城みたいな人力車が止まっていて、お姫様みたいな真っ白な女の子が寒そうに座っているらしい。
心当たりしかない。
「あ〜知り合いだから、心配しなくていいよ」
「えっ!? あんな綺麗な子がアンタの知り合いなの!? 粗茶しかないけど家にあげたほうがいいかしら!? お母さん紅茶買ってきたほうがいい!?」
「母さん落ち着いて……」
知り合いと聞いて狂喜乱舞する母親をなだめる。俺が家に知り合いを連れてきたと思っているんだろう。
今までそんなこと一度もなかったから大慌てだ。
布団から起き上がろうとすると、玄関の方から、どすん! と大きな音がした。
嫌な予感がした俺はすぐさま立ち上がり、俺の部屋から出て右にある玄関に向かう。
そこには真っ白な女の子が、膝を抑えながらうずくまっていた。玄関の小さな段差につまずいて、こけたのだろう。少し膝をあかくしていた。
「何やってんだよ……」
少しの段差でこけてしまうくらい目が悪いのなら、ひとりで出歩かなければいいのに……。いわゆる弱視と呼ばれるほど目が悪いのかもしれない。
それならば、杖も持たずに、勝手の知らない家に入るなんて、危険すぎる。
彼女がいつも、付き人や白杖を持たない理由はなんとなく察しがつくけれど、俺が簡単に触れてはいい問題ではないので、喉から出かけたそんな言葉達をぐっと飲み込んだ。
「こんなところに段差があるなんて思わないじゃない! この建物を設計した人間は無能ね! 一刻も早く死刑にするべきだわ!」
「その前にお前が住居侵入罪で捕まるけどな」
「黙りなさい! さっさと助けなさいよ! まったく気が利かない奴隷ね!」
このクソ女マジで通報してやろうか。
ポケットに入っていたスマホに手を伸ばそうとするけれど、手を止める。
背後で母親がおろおろしているのが見えたからだ。
流石に母親の前でクラスメイトを通報するわけにはいかないので、仕方なく、こけている彼女の前に立つ。
「手、とっていいか?」
彼女に確認する。目の悪い彼女の、手やら腰やらにいきなり触られるのはたぶんよくない。
俺が彼女の立場なら、親切心からの行動だったとしても、いきなり触れられるのは怖いと思うはずだ。
触れられてしまうのが、ブサイクを極めて煮詰めて焦がしてしまったような俺であれば尚更だ。
「……貴方って意外と律儀よね」
「すれ違いざまに肩があたっただけで通報されるほどのブサイクなんでな、安全マージンは欠かせないんだよ」
「その献身的かつ従順な態度、悪くないわね。褒美として私に触れる事を許可するわ。ありがたく思いなさい」
「はいはいそうですか、あざーす」
このクソ女いつかマジでぶん殴ってやる。
そう固く決意しながら、俺は彼女の手をとって、ゆっくり立たせる。
心の中では悪態をつきながらも、俺は女の子特有の細くて柔らかな手に緊張し、そして感動していた。俺のゴツゴツした手とは対照的な、ふわふわで柔らかな手だった。
女の子はお砂糖と素敵な何かでできているとはよくいったものだ。確かにこの柔らかさはメレンゲとかなんかそういったお菓子作りに使う材料じゃないと出ない気がする。
緊張をなんとか表情に出さないよう努めているけれど、あまり自信がない。
確認の為、おそるおそる彼女の顔を見ると、目を細めて不安げな表情をしていた。
俺は少しだけ、ほんの少しだけ、彼女の手を握る力を強くした。
「母さんごめん、こいつ家にあげていい?」
「え……えぇ! いいわよ! 母さんすぐに紅茶買ってくるわね!」
「私はイギリス製の紅茶しか飲まないわよ」
「母さん、こいつには水道水でいいから気を使わなくていいよ」
隣でギャーギャー喚く天沢を先導して、居間に通す。
座るとキシキシ音のなる椅子に彼女を座らせた。ボロボロの家と、真っ白で高貴な雰囲気を漂わせる彼女。相反する二つの要素の所為で、この空間はひどく、ちぐはぐな印象をうける。
「10分で準備するからちょっと待ってろ」
「遅いわ、30秒で支度しなさい」
彼女の言葉を無視して、俺は風呂場に向かう。
ぶっきらぼうで、自己中で、厚かましい天沢。けれど俺は、そんな彼女を拒絶できずにいた。
彼女が美人だからという理由じゃない。
もっと浅ましくて、自分勝手な感情だ。
その感情に、俺はまだ名前をつけられない。
いや、正確には名前をつけることに対して、認めることに対して、恐怖していた。
その名状し難い感情は、俺が散々毛嫌いしていた偏見や、嘘や、強要に、近からずも遠からずといったところにあったような気がしていたからだ。
俺は歪んでいて、醜くて、浅ましい自分に期待などしたくないのだ。
それと同様に、特別という言葉に縛られ、苦しめられ、普通や共感といったものに飢えている、天沢にも期待などしたくない。
自分に期待をするのも、誰かに期待するのも、もう遠にやめていたはずだった。はじめから0であるならば、増えることもないけれど、減ることもないのだ。はじめから一番低い場所にいれば、高く美しい景色を見ることもできないけれど、落ちて傷つくこともないのだ。
減れば、落ちれば、痛みが伴う。
距離が近づけば近づくほど、相手に期待すればするほど、考えの相違に気付き、落胆する。自分とは違う人間だったと、関わらなければ良かったと、後悔さえしてしまうかもしれない。
傷つくとわかっているのに同じ行動を延々と繰り返すのは馬鹿のする事だと俺は思っていた。
それなのに、俺は、その馬鹿のする事と同じ事を綺麗になぞってしまっている。
「嬉しそうね、和馬はあの子のことが好きなの?」
脱衣所の扉を開けて、嬉しそうにくすりと笑う母親と目があった。
「好きなわけないだろ」
俺はぶっきらぼうにそう答える。
好きなんかじゃない。この感情は、もっと別の感情。
「そう。なら和馬はあの子と友達になりたいのね」
母親の言葉に息が止まる。
2秒ほど間をあけて、上手く返答できないと悟り、俺は風呂場の戸を開け、中に逃げ込んだ。
「友達なんていらねぇよ」
ぬるめのお湯を浴びながらそう吐き捨てる。
嫌いであるはずの嘘を、息を吐くようについてしまった。
* * *
「それじゃあ出発よ!」
ゴッテゴテのギッラギラの人力車に乗った天沢 可憐は、清々しいほどの笑みを浮かべながら、大声でそう叫んだ。
「おう、頑張れよ。俺は先に行くから」
「何言ってるの? このエリザベス号は貴方が引くのよ?」
この女はどうやらまだ寝ぼけているらしい。
「そんな趣味の悪すぎる人力車なんて引いてたまるか」
「はぁ!? 私が設計したエリザベス号が気に入らないって言うの!? 奴隷のくせにわがまますぎよ!」
……お前が設計したのかよ。どうりで趣味が悪いわけだな。納得。
「あのなぁ、俺はお前と違って全校生徒から嫌われまくってんだよ。そんな俺が、超がつくほどの人気者であるお前と、そんな目立つ人力車で登校したらどうなると思う?」
「スターの仲間入り?」
「違ぇよクソ女」
「く……クソ女ですって!?」
おっと思わず本音が出てしまった。
恐る恐る、彼女の表情を窺う。
「………そんなこと、言われたの初めて……」
彼女は口をニタァッと広げて、恐ろしいくらいの笑みを浮かべていた。
驚いた俺は数度瞬きをして彼女を見つめ直すと、いつも通りの、しかめっ面の美しすぎる彼女に戻っていた。
昨日の楠の下での出来事を思い出す。
急に表情が変わり、とてつもなく恐ろしい何かに変貌を遂げた彼女を、俺はまだはっきりと覚えている。
天沢 可憐はただの馬鹿じゃない。
きっと、一般人の俺なんかじゃ測りきれない何かが、天沢にはあるのだ。
彼女を性格の悪い女の子として視る事はできるけれど、その内面に巣食う複雑な感情までは完全に理解できるわけじゃない。
彼女だって、目が見えないからこそ、ブサイクすぎる俺にあまり偏見を持たずに接することができるけれど、俺の性格や内面に巣食う様々なコンプレックスまでは理解する事はできないだろう。
価値観が似ているからといって、他人を完全に理解できるわけではない。
まだ俺は天沢 可憐を理解できていない。
だから俺は、彼女の事を恐ろしいと感じる。
きっと人間は、自らの命を守る為、自分が理解できないものを恐ろしいと感じるように造られているのだ。
「じゃ、そういうことだから」
そんな恐ろしい彼女から一刻も早く距離をとりたくて、俺は足早に人力車から離れようとする。
「本当に良いの?」
いつもと違う声音が、背後から聞こえた。俺は反射的に足を止めて、彼女の方を向く。
「昨日、貴方の事を少し調べたんだけど、貴方の母親が勤めている工場って、パパの会社の下請けらしいのよね」
背筋が凍る。
俺は見た。彼女の柔らかな笑みの中に隠された、俺を確実に殺すためのナイフを。
「何が……言いたい?」
「あら、別に含みはないわ。ただ事実を言っただけよ」
含みはありますよと言わんばかりに、笑顔で俺を睨みつける彼女。目は笑っていない。足元にある段差に気がつかないほど目が悪いはずなのに、何故かこの瞬間だけは、彼女は俺の目をしっかりと正確に見据えていた。
「学年1位の学力を持つ聡い奥村くんならわかるでしょ。自分が今どうすべきなのかを」
……どうやら本当に俺の個人情報は筒抜けらしい。こいつが朝四時に俺の家の前にいた理由だって、そこに起因するものだろう。
こいつの父親の名前は、大都会岡山県民であれば誰だって知っているようなビッグネームだ。おそらく、あらゆる情報源に太いパイプを繋げているのだ。
俺は一縷の望みにかけて、彼女にチクリと爪楊枝のように頼りない報復を仕掛ける。
「………お前のワガママを、お前の父親が聞くとは限らないだろう」
「あら、このエリザベス号は私がパパにおねだりしたものよ?」
はい、詰んだ。
こんなクソほど趣味の悪い物に娘のおねだりごときで多額の金を出す父親だ。倫理観に欠けまくっているに決まってる。
「………このクソ女……お前いつか地獄に落ちるぞ」
「……っ! そう、私はクソみたいな女よ。ありがとう、本当の私を視てくれて」
天沢 可憐の唇が、ニチャァっと開く。
頬を赤く染めて、艶かしく体をくねらせる。
ピンク色の蒸気がむわりと広がる幻覚が見えるくらい。彼女は高校生離れした色気を放っていた。
彼女は偏見のない視線に飢えている。
視られる事に飢えている。
性的興奮を覚えるほどに。
おそらく、世界一ブサイクで卑屈でコンプレックスの塊である俺しか、彼女の容姿に左右されず、偏見無しで彼女を視ることができない。
だから彼女は俺にここまで固執するのだろう。
従順になってやるのは今だけだ。
俺は彼女に対する報復を考えながら、人力車を引く準備をする。
「奥村くん、ずっと一緒よ」
俺は背筋にあてられた言葉に身を震わせながら足に力を入れる。
ゴッテゴテの装飾のせいで重たくなっているであろう人力車を引いて、俺は一歩踏み出した。
* * *
頼む……頼むから、俺をそんな目で見ないでくれ……!
昇降口に向かう生徒たちの視線で全身を串刺しにされ、ゴッテゴテのアホみたいに目立つ人力車を引きながら、俺はそんな事を思っていた。
その視線を集める理由は趣味の悪い人力車だけでは無い。人力車の上ですやすや眠る純白のエルフ様もその理由のひとつだ。
まぁ朝四時から家の前で待ってたらそりゃ寝不足にもなるよな、安心しろ。ちゃんと起こしてやる。心臓がうっかり止まっちゃうくらいの冷や水ぶっかけてな。
「おい……あれってエルフ様とオークじゃねぇか?」
「奥村殺す」
「なんであのふたりが……」
ヒソヒソ話す生徒の中にはどうやらエルフ様親衛隊過激派も混じっているらしい。母さんごめん、先立つ不孝をお許しください。その時がきたらこの性悪クソ女も道連れにするから、安心してくれよな。
何人かの教員ともすれ違った。
けれどそのすべてが、あたかも俺たちが普通に登校しているかのように爽やかな挨拶をかましてくるのである。何か別の力が働いているとしか思えないような雰囲気だ。
やはり、この国の教員は腐りきっているらしい。だいぶ前から知っていた事実だから驚きはしないけれど、不快感は拭えない。
そうこうしているうちに、駐輪場に着いた。
自転車6台分くらいのスペースを使って、人力車を止める。持ち主に似て傍迷惑な軽車両だ。
「おい着いたぞ、おきろ」
とんでもなく小声で、ボソリと呟く。一応起こそうとしたとアリバイを作っておく必要がある。
安心しろ、そのまま放置するようなひどい真似はしない。
お前は俺が冷水ぶっかけて起こしてやるからな。
起きない彼女に一瞥くれて、俺は中庭の水道の位置がどこだったか思い出しながら右足を出した。
ここ最近で最もワクワクドキドキした気分だ。爽やかな笑みをたたえながら左足を出そうとした瞬間、予想外の出来事が背中を襲う。
「ん……やっと着いたのね、まったく、遅すぎるわよ」
眠そうにまぶたを擦りながら、純白の美少女が、朝焼けに白銀の髪の毛を透かせて、輝かせて、趣味の悪い人力車から体を起こす。
少し近づいて、間抜けな大きな車輪さえ視界に入れなければ、豪華絢爛な馬車から眠そうに顔を覗かせる純白のお姫様のように映ったかもしれない。
それほどまでに、彼女は美しくて、絵になっていた。この一瞬を切り取れば、億がつくほどの画になったと言われても、まったく疑わないほどに。
俺の濁った目に映るのではなく、審美眼に富んだ人間の目に映れば、この金のなる木を見逃すなんて勿体無い事はしなかっただろう。
まぁそんなことはどうだっていいんだ。
俺は自分の中を支配していた疑問を、彼女に吐き捨てるようにぶつけた。
「お前地獄耳すぎるだろ、どうやって俺の声ひろったんだよ」
「……私、悪くなる視力とは反比例に、聴力がどんどん良くなったの。いまなら貴方の心臓の音だって聞こえるわよ、嘘をついてるかどうかも一目瞭然ね」
「マジかよ」
「冗談よ。そんなことあるわけないじゃない。……でも、何故か貴方の声だけは特別よく聞こえるのよね、不思議だわ」
「………」
2秒で騙された俺の方を向いて、けらけらと笑う彼女は、今まで見た彼女の表情の中では一番マシな顔をしていた。
まぁうざいことには変わりないので、俺は彼女とは正反対の、苦虫を噛み潰したような酸っぱい顔をしていた。部室棟の窓ガラスに俺の顔が映っているのが見える。うん、すっごいブサイク。
聴力が発達しているという情報によって、彼女に対するもうひとつの疑問も解消された。
目がほとんど見えないであろう彼女が、何故俺の方を正確に見据えて話ができるのかという疑問だ。
これはあくまで俺の予想でしかないけれど、俺の話す声や、動作に生じる微かな音を頼りに、俺の正確な位置を割り出していたのだろう。なんだか少年漫画っぽいやつだな。
「それじゃあ教室までいくわよ、地面に這いつくばりなさい」
彼女はどこから持ってきたのか、ちょっとエッチな雰囲気を漂わせる猿轡と、手綱、そして本格的な鞭をあたかも青ダヌキのひみつ道具かのようにドヤ顔で出してきた。
どうやらこのエルフ様は、文字通り俺に騎乗したいらしい。
「お前マジで頭湧いてんのか?」
「あらごめんなさい。もしかしてもっと硬めの鞭が良かった? 安心して、ソフトタイプとは言え本物の乗馬に使われる鞭だから威力は相当なものよ」
「本物の乗馬に使われるような鞭を俺のケツに叩きつけようとしてたわけだな、オーケー、俺やっぱりお前のこと嫌いだわ」
頭のおかしい彼女から視線を切って、俺は昇降口の方へ足を出した。
けれどその歩みは、制服の肩と背中の中間あたりを掴んだ彼女によって静止される。
「……そう、私は貴方の事、そんなに嫌いじゃないわよ」
華麗なステップで俺の懐に彼女は飛び込み、神様が何年もかけて造ったとしか思えないような理不尽で不公平で神々しい顔を、俺の醜い顔に近づけて、愛らしくそう言った。
男が千人いれば、千人が美しいと言ってしまうような所作。動いてない俺でさえ、とても高度なダンスを踊っているような気持ちになったほどだ。
俺がその千人であれば、きっと1秒も経たず、恋に落ちていただろう。
「気持ち悪」
至近距離にも関わらず、思わずそう呟いてしまった。
耳が良い彼女が俺のその言葉を聞きもらすはずはなく、驚いたような驚いていないような、よくわからない表情をしていた。
「……初めての割には、会心の出来だったと思うけれど、どこが不満だったの?」
彼女はイタズラに失敗した子供のような、決まりの悪いニヤケ顔をして、俺に問う。
さっきの色仕掛けのような何かはきっと、彼女にとっての踏み絵だったのだろう。
江戸幕府の侍が、隠れていたキリシタンを発見するために、聖母マリアやキリストの版画を大衆に踏ませたように、彼女は自らの美しすぎる容姿を踏み絵にして、俺が本当に彼女の外見に惑わされず、ありのままの自分を見てくれる人間かどうかを試したのだ。
………試すまでもない。
差し出された踏み絵が天沢 可憐の顔面ならば、迷いなく踏んで見せてやろう。むしろ踏み抜いて粉々にするまである。
「ペットボトルのラベルにときめく趣味は無い」
性格の悪いエルフ様にそう吐き捨てた。
わざわざ痛いような、分かりにくいような表現をした。
別にカッコつけようとしたわけじゃない。
少し斜に構えなければ、自分の考えをひけらかすような恥ずかしい真似はできなかったのだ。
少し空気に行間をおいて、また始まる。
「あら、そのラベルに希少価値があったり綺麗だったりするのであれば、たとえ美味しくなかったとしても我慢して買うんじゃない? 世間一般ではそれが良しとされているじゃない」
俺たちふたりの間では議論するまでもなく、結論が出ているはずの問題だ。
けれど、彼女は何故か俺に問題提起をする。
その理由は定かではないけれど、俺だって誰かと話すのは嫌いではないので、その意図のわからない問題提起に自分なりの答えをだした。
「世間一般は意外と頭がおかしいし狂ってるから引き合いに出さない方がいいぞ。死ぬほど不味いって知っているのにラベルが綺麗だからって我慢して毎日飲み続けるのも、中身の味もわからないのにラベルだけ眺めるのも、正気の沙汰じゃないだろ。マジで頭がおかしいよ。……需要は人それぞれだけど、少なくとも俺はそういうタイプの人間じゃない」
「……比喩表現じゃなかったら問答無用で大多数の人間を敵に回すような表現ね」
「人は外見じゃない、中身だ。なんて薄っぺらい常套句よりはマシだろ」
「そうね、嫌いじゃないわ」
何故か嬉しそうにどうでもいいことをくっちゃべる彼女を制服にくっつけたまま……いや正確にはくっついて来たと言った方が正しいだろうけど。
とにかく。俺はそのまま昇降口に入り、学校指定のシューズに履き替えた。エルフ様も器用にシューズに履き替えている。
刺さるような周りの視線にも慣れてきたような気がする。別に自慢するようなことじゃないけど、俺は奇異の視線にあてられることに関しては相当な経験を積んでいる。
はじめは天沢 可憐というプラスアルファに困惑して周りが見えていなかったけれど、よく考えればブスすぎて視線を集めるのはいつもの事だった。本当に自慢する事じゃ無いな。悲しい。
ホームルームまで時間があるし、せっかくだから遠回りしていこう。
昇降口から左に曲がれば、緩やかなスロープが通った渡り廊下あったはずだ。そこを通れば、朝の空気にあたりながら教室まで向かうことができる。
「道を変えるのね」
「今日はそういう気分なんだよ」
「……階段が無いのは偶然かしら?」
声でわかる。どうせあのうざったいニヤけ顔を浮かべているのだろう。
「たまたまだろ」
ぶっきらぼうに俺はそう答えた。
* * *
天沢 可憐を背中にくっつけて教室の扉を開けると、十を超える視線に磔にされた。
窓際にいた華やかなリア充達も、教室の端っこの方でカードゲームをしていたオタク達も、机を四つ集めて女子会を開いていた女子達も、俺を毛嫌いしているクラスメイトの中でも特に俺を嫌っているピアスの青年も、余すことなく俺と天沢の方を見つめていた。
俺は視線を落としながら、一番後ろの窓際の席まで、天沢を誘導する。
教室に入った途端、背中の裾をちょこんと掴んでいたはずの天沢は、わざわざその手を離して、俺の左腕をがっしりと掴んだ。
天沢のよくわからない行動により、クラスメイトからの視線はより強くなったように感じた。
「おい、離せよ……」
「………」
小さな声でそう呟く。
けれど彼女は、すこしだけ笑みをたたえて、自らの机の方へ首を傾げるだけである。
その僅かな仕草でさえも、教室にいた男子連中はどろんと惚けていた。逆に女子連中はヒソヒソと何か小声で耳打ちしている。想像しなくても会話の内容はわかる。
俺はあきらめて、左腕をがっしりと掴んでいる彼女を、窓際の席まで誘導して、座らせた。
この女が何をしたいのかはわからないけれど、こいつが動けば動くほど俺がクラスから孤立し、そして嫌われるということは確実だ。一刻も早く距離をとらねば、ただでさえ狂っている人生をさらに狂わされてしまう。
「貴方には、もう私しかいないのよ」
隣の自分の席に座ろうとした俺の耳元で、そんな声が聞こえた。
振り向くと、真っ白で美しすぎる彼女は、頬杖をついて、窓の外の方を向いていた。
酷く卑猥で、じっとりとした視線だけは、こちらに向けて。
「はぁ……」
あきらめたようなため息を吐いて、俺は自分の席に座る。
いや、正確には座ろうとした、だ。
ガンっ! と左耳の中で音がして座ろうとした俺の体が吹き飛んだ。
一瞬何が起きたのかわからなかった。
数秒間をおいて、頬に鈍い痛みが走って、座ろうとした椅子が倒れていたり、机に入れていた教科書が散乱していたのを見て、ようやく何が起きたのか理解した。
倒れた椅子の向こうに立っているピアスの青年が、おそらく、俺の顔面を殴ったのだ。理由も動機もわからないけれど、いきり立った彼の表情と、赤くなった右拳を見れば容易に推測できた。
「はぁ……」
急に殴られるのは別に今日が初めてじゃないので、俺はあまり驚いていなかった。またこれか……といった具合の諦めのようなものが脳内をどんより曇らせる程度である。
大きなため息をついて、教室の後ろにあるロッカーに背中を預けながら、ゆっくりと立ち上がる。
何か不吉なものを感じて、隣の席に座っていた天沢を見ると、彼女は怖いくらいの無表情でピアスの青年の方を向いていた。
俺を問答無用で殴りつけたピアスの青年よりも、ただ席に座っている彼女の方が何億倍も恐ろしく感じる。
ピアスの青年は目を血走らせて此方を睨みつけながら、乾燥している唇を開いた。
「お前、いますぐ天沢さんに謝れ」
「………は?」
ピアスの青年が発した言葉の意味を、俺はやはり、理解できなかった。
****
まだ鈍痛の続く頬を抑えながら、俺は、訳のわからない事を吐き散らかすピアスの青年を見ていた。
ピアスの青年は俺の胸ぐらを掴んで、耳元で囁いた。何故急に小声になったかは、すこし考えれば答えがでた。
盲目の天沢 可憐を介入させない為だ。
「天沢さんに謝れって言ってんだよ」
「だから何をだよ……」
「お前みたいなクソブサイクに天沢さんが心を許すはずがねぇだろ? きっと何か裏があるに決まってる。大方弱みでも握って無理矢理に言う事聞かせてるんだろ? あ?」
「いや、逆だ」
「黙れ、言い訳なんて聞きたくねぇ」
いやこれが本当なんだよ。
お前が大好きな天沢 可憐は外見だけの性格歪みまくり女なんだよ。俺は脅されて面倒な事を押し付けられているだけなんだよ。
……とは言えない。言ったって通じないから言わない。
いくら真実を語ろうと、現時点で、この教室という名の裁判所では、満場一致で俺は有罪なのだ。
クラスメイトの嫌悪や侮蔑の視線が、俺を有罪だと責め立てている。
またこれだ。いつもこれだ。
ピアスの青年の血走った瞳に、俺の醜い顔が映る。
俺はこの顔の所為で、いつだって問答無用で悪者なのだ。
悪者になるのは慣れているはずなのに、いつもより心が痛かった。
久しぶりに母親以外の人間と、しかも異性と話せたから調子に乗っていたのかもしれない。
俺は、いつだって嫌われ者のオークだ。だから悲しくなんてない、悲しくなる必要なんてない。何故ならこれがデフォルトだから。嫌われていて当然だから。それ以上もそれ以下もないのだ。
天沢 可憐に、盲目の彼女に、初めて嫌悪以外の視線や、感情を向けられて、俺はなんだかんだ舞い上がっていたのだ。
落ちる場所が高ければ高いほど、痛みも増す。
ズキズキと痛む、心臓のあたりを押さえながら、俺はピアスの青年の腕を振りほどく。
「悪かったな、盲目の天沢なら、俺はイケメンだと嘘をついてもバレないと思ったんだ」
抵抗はガソリン、これが最善手。
少し大きな声でそう吐き捨てる。
ピアスの青年の蛮行によって静まり返った教室に、俺の低くて醜い声は良く響いた。
天沢の方から息を飲むような音が聞こえたけれど、俺は視線を其方に向けずに、散らばった机や椅子や教科書の中から貴重品の入った鞄だけを手にとった。
悪人になる事に躊躇いがなかったのは、自分の中で少しばかりの罪悪感があったからだ。
人気者で美少女で、エルフ様の天沢 可憐と、嫌われ者でブサイクなオークが一緒に行動するなんて、はじめからおかしかったのだ。
たぶん、俺は悪くない。
けれど何故か罪悪感を抱いてしまう。
それほどまでに俺の心は歪んでいて、卑屈で、醜かった。
「……やっぱりかよこのクズ野郎が…ッ!」
「天沢さん可哀想……」
「これ、先生に言った方がいいよね」
「ほんと最低、気持ち悪い……」
背中に小声の、それでいて何故かはっきり聞こえてしまう罵声を浴びながら、散らばった教科書も机もそのままにして、俺は教室を後にした。
天沢の声が聞こえた気がしたけれど、俺は振り返らない。
振り返れば、また弱くなる。
そして、天沢も巻き込んでしまう。
クラスメイトの視線が、背中から切れた瞬間、俺は駆け出した。
階段を飛び降りて、昇降口へ向かう。下駄箱から乱暴にローファーを取り出して履く。踵を踏みつけたまま校門を飛び出す。
後ろから生活指導の教員が俺に声をかけようとして、けれど俺の顔を見て、やめたのが流し目で見えた。
痛い。
以前なら、殴られて罵声を浴びせられても、嫌悪や侮蔑の視線で全身を貫かれても、なんとも思わなかった。いや、痛みの感覚が麻痺していたと言った方が正しいかもしれない。
俺は、天沢の所為で、たった少しだけだけど、この世界に期待してしまったのだ。
だから、精神が少しだけ健全になってしまった。
弱くなってしまった。
感受性が、心が、本来の感覚を取り戻してしまえば、自分がどれだけ惨めな存在か理解してしまう。目を背けていたものを、ちゃんと見つめてしまう。
……お願いだから、とんでもなくブサイクな俺を、誰も見ないでくれ。
俺だって、俺なんか見たくないんだよ。
少し湿気た春の空気に、頬を濡らしながら、俺はあてもなくとぼとぼと歩いた。
* * *
「おい見たかよ! あのオークの情けない顔! アイツ泣きそうになってたぞ!」
「……でも先生にチクられたらヤバくね?」
「大丈夫だって! アイツ教員にもハブられてるから」
「そりゃあんだけブスで性格悪かったら教員にだって見捨てられるよ」
気色の悪い声に、気色の悪い声が同調している。
この空間に存在するすべての醜い血袋は、私をただただ不快にさせるだけだった。
滲んだ視界にはじめて感謝した。
弱視のおかげで、音だけで済んだのだ。
血袋たちの醜く歪む表情なんて見た日には、眼球を外して金属のタワシでゴシゴシと洗いたくなってしまう。そんな非現実的な事を考えてしまうほど、私にとってこの空間や音は不快だった。
「大丈夫、天沢さん、辛くなかった?」
「………っ」
「保健室行く?」
低くて醜い音が私の鼓膜を揺らす。
体がぐらりと揺れた。
気分が悪い。
「あんなのに騙されるなんてほんと運が悪かったね。でも大丈夫、これからは俺がちゃんと天沢さんを守るから」
勘違い野郎が、気持ち悪いのはお前だ。
この人間に似た生き物は、何故平然としていられるのだろう。
姿形が自分たちと違うという理由だけで、排斥し、差別し、あまつさえ攻撃したのよ?
とてつもなく悍ましい事をしたのよ?
生きる為でもなく、大きな力を押し付けられた訳でもなく、自分から率先して悪事に手を染めたのよ?
なんで笑っていられるの?
「触らないで」
教室の後ろの方にあるであろう、硬くて冷たいロッカーに体を預けながら、近づいてくる気配に対して、私はそう吐き捨てた。
「でも、目が見えないんだったら保健室にひとりでいけないだろ? 手伝うって」
「……触らないでと言っているのが解らないの? お前みたいな愚物に構っている暇はないの、退きなさい」
「っ!?」
不快な声を無視して、私は腰のあたりを机の角にぶつけながら、椅子を蹴飛ばしながら、教室を飛び出した。
普段ならここまで心を乱されることなんてなかった。
他人にここまで嫌悪感を抱くことなんてなかった。そもそも興味が無かったのだ。
もっと言えば、私だって他人に悪感情をぶつけるし、差別だってする。
私だって、とてつもなく悍ましい人間のひとりなのだ。
それなのに、自分のことを棚に上げてまで、他人に嫌悪感を抱いてしまう。
この気持ちは何だろう。
わからない。
わからないけれど、今はただ。
あの卑屈でコンプレックスの塊で、美しい声を持つ、醜いであろうオークに会いたかった。
私は体のあちこちを、手すりや壁にぶつけながら昇降口へと向かった。
* * *
午後11時過ぎ、ファミレスのキッチンで、俺はカチャカチャと食器を洗っていた。
油ぎった床をゴム底の靴で踏みしめながら、俺は生ゴミの浮いている水を溜めたシンクに手を突っ込んだ。
皿の端に指があたる。それを引っ張り出して、少しだけ汚れの浮いた皿を洗う。
週5日で通うファミレスのアルバイト。
今日もひとりでキッチンを回している。
本来なら最低でも二人はキッチンにいるはずなのに、俺の入る時間帯だけシフト変更や無断欠勤が殺到し、結局、一人でキッチンを回さなければならないのだ。
最近流行りのブラックバイトというやつなのかもしれない。
けれど、ここをやめるわけにはいかなかった。
この顔面じゃあ、そうそう雇ってくれるバイト先なんて見つからないからだ。
ここはホールにでないという条件さえ守れば働かせてくれる。
人がいなくて作業が圧迫している所為で休憩がとれないのと、高校生じゃ違法の午後10時以降の労働という面さえ目を瞑れば、ブサイクすぎる俺が唯一働ける場所だったのだ。
ピンポーンと、小気味良い音が鳴る。
キッチンとデシャップをつなぐ小窓の上部に付けてあるディスプレイが光った。
田舎故に、客がまばらなこの時間帯でも、たまにこうして注文が入る。
「この時間帯にサーロインステーキかよ……」
手を念入りに洗って、あらかじめ切って寝かせておいた450gのサーロインを取り出す。
そのままグリルの上において、肉を置く油をひいた鉄板を温める。コーンやいんげんやポテト、ファミレス用語でガロニ(付け合わせ)と呼ばれるものも鉄板にのせて、タイマーをセットする。あとは時間がくれば、グリルの上にのせてある肉をひっくり返すだけだ。
最近のファミレスの調理はかなり簡略化されており、料理というより、ほとんど作業といった具合だ。
洗い物や、掃除をしていると、じきにサーロインに火が通る。
そのまま熱くなった鉄板にオニオンを敷いて、肉をのせ、デミグラスソースものせる。
「サーロインあがりです」
「………」
完成した料理を無言で、ホールの主婦さんが運んで行く。
おしゃべりで陽気な主婦さんも、俺の顔面の前では無口で無表情の修羅と化す。
そう、これだ。
俺はこれでいいんだ。
傷つけられているはずなのに、何故か安心する。
当たり前だ。生まれてから16年間、嫌われ続けていたんだから。
俺に興味を持った人間というイレギュラーさえなければどうってことはない。
流石の彼女も、今日の出来事で理解しただろう。
俺はとてつもなく嫌われていて、とてつもなくブサイクで、あの教室から、世界から、排斥されているということを、理解せざるを得ないだろう。
俺がもし彼女なら、そんな気持ち悪いやつなんかとつるんだりしない。
彼女は俺と違う。
俺と違って美しい。美しすぎる。
俺と同じ特別だけれど、真逆。
例えるならば、液体という意味では一緒なのに性質は真逆、水と油の様なものだ。
そして、彼女と俺は、エルフとオーク、そもそもの種族が違う。
嫌われるのは俺だけで良い、天沢は人気者なんだ。
別に悲しくなんて無い。
いつも通りのひとりに戻るだけだ。
「……あの、お客様が呼んでます」
デシャップから主婦さんが嫌そうに俺に声をかける。
おそらく、クレームでも入ったのだろう。
ホールに出るのを禁止しているのに、クレームが入った時だけ、俺をホールに出して対応させるのだ。
けれど文句は言えない。文句を言えば、二の句には「じゃあ辞める?」とくるからだ。
辞めるわけにはいかない。
生活費や、支払いや、学費に圧迫されている我が家の家計は文字通り火の車。母のパートの収入と俺のアルバイトの収入があって、限界にまで節約して、ようやく生活できるレベルで貧しいのだ。
ここの職場は、俺の生活を人質に、いろいろと難癖や理不尽な仕事を押し付けてくるというわけだ。千と千尋もびっくりのブラックバイトである。マジで天沢。
俺は溜息を飲み込んで、手を洗い、ホールにでる。もちろんマスクを忘れない。
以前、誤ってキッチンに入ってきた女子小学生が俺の顔面を見て盛大に吐いてしまったのだ。ちなみに店長に死ぬほど怒られた。俺も泣きそうだった。
なるべく視線を落とし、クレームをつけたであろう長い黒髪で高価そうなキャスケット帽子を被った女性に声をかける。
「お客様、どうされましたか?」
「…………」
俺の問いに対して、無言を貫く女性。
俺は前髪の隙間から視線を飛ばして彼女の方を見た。
その瞬間、後悔する。
「奥村くん、探したんだから」
うざったいほどの笑顔を浮かべた天沢 可憐がそこにいた。
「……人違いじゃないですか?」
声を高くして、そう答える。彼女は盲目、声さえ変えてしまえば解るまい。初手は地声で喋ってしまったけれど、ほぼほぼノータイムで人違いですと返答した。
まだ大丈夫、逃げられる。
「地声のまま半オクターブも上げるなんて、なかなかやるじゃない、褒めてあげるわ」
しかしまわりこまれてしまった。
「……どうしてここが分かった」
「貴方のお母様に聞いたのよ」
満面の笑みでそう答えるエルフ様。よく見ると黒髪はウイッグらしい。
もともとこいつが白髪だって知らなければよく見ても分からないだろう。それほどまでに、この黒髪は美しすぎる美貌と上手いこと溶け合っていた。
最近流行りの姫カットというやつだろうか、現代にかぐや姫がいるのであれば、こういった具合なのかもしれない。そんなことを妄想してしまうくらいには美しかった。男に無理難題を押し付けるクソ女っぷりを鑑みても、コイツマジかぐや姫。
「肉食ってさっさと帰れ」
「嫌よ、貴方には罰を与えなきゃ、奴隷の癖に主人である私を置いていったんだから」
「お前の奴隷になった覚えはねぇよ」
「あら、そんな生意気な口を聞いていいの? 言ったわよね、貴方のお母様の勤め先は、パパの会社の下請けだってこと」
痛いところを突いてくる。
世間は俺の家庭を人質にとりすぎている節がある。まったく腐りきった世の中だ。やはり、来世に賭けて屋上からのワンチャンダイブを敢行するしかないのか。
「……お前、マジでロクな死に方しないぞ」
「それは私の奴隷である貴方も一緒よ、奥村くん」
盲目であるはずの彼女は、不思議と俺と目線を合わせてそう答える。
テーブルの上に組んだ彼女の腕に、正確には肘のあたりに視線が吸い寄せられる。
真っ白な肌に、少し血の滲んだような痕があった。
今朝のことを鑑みるに、盲目であるにも関わらず、文字通り後先考えず突っ走ったに違いない。
俺を追い詰める時には偏差値70くらいはありそうなのに、どうしてこう自分のことになると途端にポンコツになるのか、天沢可憐という生き物は不思議である。
「……もう少しでバイト終わるからちょっと待ってろ」
「そうさせてもらうわ」
盲目でありながら、器用にナイフとフォークを使って肉を切り分けていく彼女。
何故かつり上がってしまう口角を、マスクの上から片手で押さえつけて、キッチンに戻る。
背後から「あら、意外と美味しいじゃない」と、鈴の音のような声が聞こえた。
原価250円の肉に満足するエルフ様を尻目に、俺はまた、いそいそと洗い物をはじめた。
* * *
閑静な住宅街、そう書けばすこし、高級感があるような感じがするけれど、実際はそんな洒落たものではない。
田舎と呼ぶほど大自然が広がっているわけでもないし、都会と呼ぶほど栄えてもいない。
そんなどっちつかずの町が、俺の住む、岡山県津山市久米地区だ。
和装建築や洋装建築の住居が点々と建っているばかりで、コンビニや駄菓子屋、酒屋などはあるけれど、ファミレスや、スーパーや、娯楽施設といった店舗はこの地区には無い。利用したいのであれば、東の方へ車を15分ほど走らせなければならない。
俺も実際、バイト先のファミレスまで行くのに自転車で30分ほどかかってしまう。
そんな不便な久米地区は、閑静というよりは閑散としていると言った方が正しいかもしれない。
静かで、時がゆるやかに流れているような町で、俺はエルフ様とポツポツと続く街灯を頼りに、自転車を走らせていた。
「風が気持ちいいわね」
盲目の女の子とニケツするなんて危ないことこの上ないけれど、彼女がどうしてもそうしたいと駄々をこねたので、仕方なくそうしている。
「今どのあたり?」
「郵便局とガソリンスタンドをすぎたところ。……お前の家どこ?」
「川向こうの高速道路沿いに、大きな洋館があるでしょ、あそこ」
「……アレがお前の実家だったのか……」
あまりに大きくて、お城っぽかったからずっとラブホだと思ってたわ。
あんなバカでかい建物が実家なんて、流石はエルフ様と呼ばれるだけはある。
「実家じゃないわ、別荘よ」
「……へ?」
「ほら、私の容姿ってとてつもなく目立つじゃない? 東京にある高校で見世物になるのも嫌だったし、ママが大昔に建ててた別荘に、3年ほど前から居候させてもらったの」
「お前の母ちゃんはなんでこんな辺鄙なところに別荘なんて建てたんだよ……」
「さぁ、詳しくは知らないけれど、パパは元々この辺りの出身らしいから、それと関係があるんじゃないかしら」
カエルの子はカエル、変人の子は変人なのかもしれない。
「ならそこまで送っていってやるから、今日はそれで勘弁してくれ」
「何言ってるの? 貴方、まだ私を学校に置き去りにした罰を受けていないじゃない」
「いや……あれは仕方ないだろ」
「……おろして」
「は?」
「すぐそこに公園があるでしょ、そこで裁判をはじめるわ。拒否したら死刑よ」
耳元でそう呟く彼女。
なんて理不尽なやつなんだ。こんなに理不尽なやつは世界広しと言えど、お前かデーモン小暮閣下くらいだよ。
ここで断れば何をされるかわからないので、しぶしぶ、公園の端に自転車を止める。
「素直に従うなんて、殊勝な心がけね、奴隷レベルがあがったのかしら」
訳の分からないことを吐き散らかす彼女を誘導しながら、ベンチに座らせる。
「まぁ、死刑は嫌だからな」
「……それ、何処かで聞いたセリフね」
「気の所為だろ」
ベンチ両隣に植えてある、散り終わりの桜の木を、公園の赤い光が照らす。ウィッグをとった純白の彼女は鼻をひくひくさせて、桜の花の香りを嗅いでいるようだった。
「単刀直入に聞くけど、なんであの時、嘘をついたの?」
「……なんのことだ?」
「とぼけないで。私、ちゃんと聞こえてたんだから、貴方がクラスの血袋共に言った事」
………ちょっとまって、コイツ、クラスメイトのことを血袋って呼んでんの? やばくない? どこの吸血鬼だよ。そのうち気化冷凍法とか編み出しちゃうのかもしれない。
「俺は弱いからな、抵抗したらもっとイジメられると思ってそう答えたんだよ」
そっぽをむいてそう答える。
「違うわね、根本から違うわ。正確に言えば私の求める解答ではなかったわ。私の好みや心情を適切に判断した上で、正直に答えなさい」
うわすっごい。こんなに人の話を聞かない裁判官初めて。
「お前裁判の意味知ってる?」
「私は被害者であり裁判官であり神、貴方は加害者であり罪人であり奴隷よ。ここでは私がルールなの。お分かり?」
「お前やっぱり頭湧いてるわ」
「なんとでも言いなさい、私が正義よ」
嬉しそうに毒を吐くエルフ様。
俺は必死に、顔を右手で抑えていた。
何故か口角が上がってしまうのだ。
……楽しいと思ってはいけない。
高ければ高いほど、落とされた時に痛みが増す。
さっきの決意を思い出せ。
頬に落ちた桜の花びらを手にとって、彼女はおもむろに口を開く。
「不思議ね、貴方といると、自然と心が穏やかな気分になるわ」
「………俺はストレスマッハで禿げそうだけどな」
「私は今、貴方とふたりきり、容姿も何も関係ない。性格の悪い普通の女の子として居られる。こんなに幸せなことはないわ」
俺の卑屈な決意に、待ったをかけるように、彼女はそう俺に伝える。
分からない。人に嫌われすぎて、この先どうすればいいのか、分からない。
人は裏切る。人は醜い。
彼女も醜いし、俺も醜い。
みんな自己満足の塊だ。
俺も、彼女も、それは理解しているはずだ。
それなのに、俺と彼女はやはり、決定的に違う。容姿が違うとか、そういった違いじゃない。
「なぁ、なんで天沢は、俺のことを信じられるんだ?」
出かかった言葉を飲み込むことができずに、喉を通って溢れ出る。
「どういう意味……?」
小首を傾げる彼女に返答する。
「もしかしたら、俺の価値観や考え方が変わって、お前が毛嫌いしている偏見や欺瞞にまみれた普通の人間と同じになってしまうかもしれないんだぞ? そればかりか、お前を性的対象として見てしまうかもしれない。言っておくけど、天沢が思っているほど、俺は出来た人間じゃない、特別でもない。ただのとびきりブサイクな男なんだよ」
うつむいて、そう吐き捨てた。
俺は弱い。
だから、期待されるのが怖いのだ。
期待して、裏切られるのも怖い。
耳をすませる。
「そうなったとしても、貴方は私の奴隷よ」
自信満々に彼女はそう答えた。
「……は? いや、だって、お前は価値観がどうだとか、特別がどうとかって、散々言ってただろ……?」
「たしかに大事、けれど、大事なのはそこだけじゃないことに最近気がついたのよ」
盲目の彼女は、いつものように、俺と目線を合わせる。
盲目なのに、目線が合うという矛盾と、淡いセルリアンブルーの瞳によって、俺は息を飲んだ。
「たぶんだけれど、私は、単純に貴方のことがーーーー」
ガシャン!!
大きな金網を揺らす音が、彼女のセリフを遮る。
すぐさま目を凝らして、音がした先を見る。
どうやら、複数人がフェンスを飛び越えて公園に入ってきたようだ。
街灯に照らされた、その複数人の顔を見る。
「げ……」
思わず、そんな声を出してしまう。
その複数人の中心に、今朝俺を殴ったピアスの青年が居たのだ。
しかもバッチリ目があった。
彼らはどうやら、天沢が目的らしい。下卑た笑みを見るだけですぐに察することができた。
「さっきの音は何? 説明しなさい」
「……猫が寝ぼけてフェンスにぶつかったみたいだ。そんなことよりトイレにでもいかない? 腰さわるぞ」
「ちょっ! まさかもう発情期が来たの!? まだ心の準備がっ!」
俺は彼女を、いわゆるお姫様だっこして、女子トイレに連れ込む。
文字面だけ見ると現行犯逮捕されそうな勢いで犯罪臭がするけれど、仕方がないのだ。
美しすぎる彼女を、彼らの矢面に立たせれば、それこそニュースになってしまうようなことが起きてしまう。冗談抜きで、そんなやばい雰囲気を彼らは漂わせていた。
「ふ……服は自分で脱ぐから…っ!」
「ちょっとそこでじっとしてろ。耳を塞いで、絶対に声を出すなよ」
「っ!? 貴方そういうのが好きだったのね……! 良いわよ……好きになさいっ!!」
何言ってんだこいつ。
訳の分からないことを言っている彼女を女子トイレに閉じこめて、俺はトイレから何食わぬ顔で出る。
よし、あとは彼女を囮にして逃げるだけだ。悪く思うなよ、エルフ様。
しかし、運悪く、ピアスの青年と、そのお仲間達と鉢合わせする。
「おっ、オークじゃ〜ん。さっき天沢さんが居たように見えたんだけど、どこいったの? もしかしてトイレ?」
わざとらしい態度で、鼻をつまみながら俺に一瞥して、女子トイレに入ろうとするピアスの青年。
俺は何故か、トイレの前に立ち塞がる。
「何? どーいうつもり?」
パキパキと指を鳴らすピアスの青年。
やっべ、めっちゃ怖い。
「………へへっ」
四人のガタイの良い男に囲まれて、俺は早くもコミュ症を発揮していた。
俺も体格はいい方だけど、四人も相手にして、勝てるわけがない。
俺は一体何をやってるんだ?
あんな無理難題をふっかけてくるやばい女、放っておけばいいだろ?
足は、地面に張り付いた様に動かなかった。
うん、これはアレだな、ビビりすぎて動けないだけだな。
「お前のせいでさぁ、今日天沢さんにすっげぇキレられたんだよねぇ。謝りたいからさぁ、そこどいてくんない?」
俺が早退した後の教室の雰囲気は容易に察することができた。
大方、彼女がこのガタイの良いお兄さん方をヒートアップさせるようなことをしたのだろう。ほんとマジで天沢。
「悪いけど、彼女今取り込み中でさ、また今度にしてく……ください」
俺も彼らに対抗して、ちょっとチャラめなセリフで攻めようと思ったけれど「舐めた口聞いてっとぶっ殺すぞ」的な視線を浴びせられ思わず敬語になってしまった。いやマジで怖いんだけど、おしっこ漏らしそう。トイレに籠るべきは俺だったのかもしれない。
まばたきをした瞬間、バチンと、目の前で火花が散る。
そしてそのすぐあとに、痛みがやって来た。
どうやら俺は殴られたらしい。
「ッ……!」
「お前も学習しないよね、これ以上痛い目見たくなかったらお家に帰りな、俺たちは天沢さんと仲良くしてるからさ」
目の前がふらつく。地面も揺れている気がした。
手をついて立ち上がる。
口の中から血の味がした。
「………っ!」
何故か反射的に、ピアスの青年の腰にしがみつく。
一発殴られただけなのに、俺の足腰はすでにガクガクと揺れていた。
「うっわだっせぇ! こいつ子鹿みたいになってんぞ!」
「リョータ強く殴りすぎだって!」
「うわっ! きめぇんだよ触んなッ!!」
ピアスの青年は、背後にしがみついている俺の脳天めがけて、肘を大きく振り降ろす。
ガチンと嫌な音がした。
「っが……!」
一瞬、意識が飛びかける。
けれど、手は離さない。いや、離せない。
「おいおい、これまだ新品なんだけど……」
どうやら俺の鼻血が、ピアスの青年のパーカーについたらしい。
このパターンか、こりゃ意識失うまでやられるかもな……最悪。
「お前ら、囲むぞ」
低い声が聞こえた。すると次の瞬間、右や左から、硬いものがたくさん飛んできた。
痛い。怖い。
けれど、手は吸い付いたように、ピアスの青年の腰から離れなかった。
なんだよ、離れろよ、あんなクソ女見捨てて逃げちまえばいいだろ。
「うわこいつ泣いてんだけど!? 男の癖に情けねぇなぁ!」
「おいズボン脱がせ!」
「オークの捕獲写真撮ろうぜ!」
逃げたい、けれどどうしても手が離れないので、仕方なくしがみつく。
痛みで意識が朦朧としながら、俺はただそれだけを固く誓って、彼らが飽きるのをただ待った。
* * *
「はぁ……はぁ……良い加減にしろよ……お前……っ!」
あれから何分くらいだったんだろう。
体のあちこちは擦り切れ、痛み、変色している。
感覚がない所もある。
他の三人はどうやら殴り疲れているらしい。荒い息遣いが、左耳から聞こえた。
結局、意識を失うこともできず、俺はダラダラと殴られ続けてしまった。幼い頃からこのブサイクすぎる顔面の所為で殴られまくっていたせいか、俺は致命傷を受けず、派手に殴られるという奇妙な特技を会得していた。
まぁ痛いことには変わりないから殴られたくないけどな。
「気持ち悪いんだよ! なんなんだよ! お前みたいなブサイクが天沢さんと釣り合うわけねぇだろ!! さっさと諦めろよッ!!」
背後からしがみついている俺の脳天に、何度も何度も、ピアスの青年は肘を打ちおろす。
そうだ。
その通りだ。
俺はブサイクで、弱くて、情けない男だ。
天沢と、釣り合うはずがない。
そんなこと、解りきってる。
走馬灯のように、天沢と出会ったこの一週間と少しを、俺は思い出していた。
認めたくないけれど、意識を失う寸前まで、ボコボコにされて、ようやく自分に素直になれた。
たぶん、俺は、天沢と、友達になりたいんだ。
ずっと嫌われ続けてきた。
たくさん屁理屈をこねて、たくさん詭弁をかさねて、たくさん言い訳して、たくさん諦めた。
けれど、俺の心にあったのは結局、それだけだった。
とてつもなくブサイクな俺と、友達になってくれる人を、ずっと探してたんだ。
盲目の彼女を、結果騙すことになったとしても、俺は友達が欲しかったんだ。
ひとりは、寂しかったんだ。
「………俺は、醜くて、弱くて、情けないオークだよ」
腰をつかんだ手に、万力の様な力を込める。
「…ッ!? 苦しっ……たすけッ……!!」
「だけど……それでいい。彼女と友達になれるなら、俺はオークでいい」
背中の筋肉を目一杯使って、ピアスの青年を持ち上げる。そのまま体を後ろに倒しながら、思いっきり逸らす。
「ちょっ! まっ!?」
ドスン!! と派手な音があたりに響き渡る。聞きたくない様な音が耳元で聞こえた。
どこかで見たようなプロレス技。見よう見真似だけれど、うまく決まったらしい。
立ち上がろうとするけれど、うまく足腰に力が入らず、ゾンビのような変な格好をしてしまう。
「……まだ、やるのか……?」
もう無理です。もう立ってられません。息も絶え絶えになりながら、残りの二人に視線で告げる。
すると、地面に座り込んでいた二人は、ガクガクと震えながら、怯えきった表情を浮かべて走り去っていった。
………そりゃ血だらけの超絶ブサイク男なんて恐怖でしかないよな。でもちょっと傷つくんですけど……。
一息つこうとしたとき、女子トイレの方から甲高い声が聞こえた。
「ちょっと! いつまで待たせるつもり!? 放置プレイにも限度ってものがあるわよ!」
手すりにつかまってそろそろと出てきたのは天沢だ。
「……悪いな、俺もトイレ行ってた」
「!? どういうプレイよそれ! ……というか、なんか血の匂いしない?」
「……鉄棒の匂いだろ、さっさと帰ろうぜ、もう12時回るぞ」
「何勝手にまとめようとしてんのよ! 貴方、私を置いてけぼりにした罪を清算する前に、さらに新たな罪を犯したのよ!」
「へいへい、悪かったよ」
顔についた血を拭って、鋼の意思で右足を前に出す。
無事に天沢を家まで送り届ければ、万事解決だ。
左足を出そうとしたその瞬間、地面が逆さまになった。
「あれ?」
大きな音をたてて、俺はその場に倒れこんだ。
「……奥村くん?」
彼女の心配そうな声を聞いて、俺は意識を失った。
***
目を覚ます。
知らない天井だった。
「痛っ……」
体の節々が悲鳴をあげている。
少しずつ、記憶を整理していく。
たしか、不良にボコボコにされて…………天沢を送ろうとして……気絶したんだっけ……?
「……天沢!?」
ガバッと体を起こす。
まずい、盲目の彼女をほっぽりだしていた! 今何時だ!?
首を回して周りを確認する。
高価そうなタンス、重厚感のあるデスク、黒い革の椅子、とてつもなく大きい姿見に、ドレッサー。
床は全面、柔らかそうなワインレッドの絨毯が敷き詰められている。
俺が寝転んでいたベッドだって、屋根付きだ。
まるでファンタジーの世界に入り込んだような高級感ある洋風の部屋に、俺は声も出せず驚いていた。
「なるほど……ついに異世界転移しちまったわけだな……」
「何意味わかんないこと言ってんのよ」
隣から聞き覚えのある声が聞こえる。
すぐそばを見ると、真っ白な超絶美少女が怪訝そうな顔をして、俺の方を向いていた。
めちゃくちゃ高級そうなシルクのネグリジェを着て、俺と同じベッドに横たわっている。
「なんでお前が一緒のベッドで寝てんだよ……」
「はぁ!? 貴方が急に倒れたから仕方なく、嫌々、看病してあげたんじゃない! 泣いて喜びなさい!」
どうやらここは天沢の部屋らしい。
不思議だ。世界一の美少女と言っても過言ではない女の子が隣で寝ているのにまったく興奮しない。
やはり人間、大切なのは中身なんだな。ありがとう、天沢。大切なことを再確認させてくれて。
お前はみてくれは綺麗すぎるだけで、中身は腐った卵みたいな女だよ。
「そうか、ありがとな」
色々な意味を込めたありがとうを天沢に告げた。
「……っ! 別にいいわよ、貴方は私の所有物な訳だし、管理するのは当然のことよね」
彼女はそう言いながら、ベッドから降りて、髪の毛を左手でさらりと流す。
「そういや、お前はどうやって俺をここまで運んだんだ? ひとりじゃ絶対無理だろ」
「執事達に連絡して運ばせたの」
おぉ……リアルに執事なんているんだな。なんか感動したわ。
昨日、クソほど趣味の悪い人力車で俺の家に来た時も、おそらくその執事さん達に手伝ってもらったんだろう。
天沢の無理難題に付き合わされるなんて、本当に同情する。
「そんなことより、貴方はなんで急に倒れたのよ」
「……お腹が痛かったんだよ」
「……ふーん、お腹が痛いだけで顔面が血だらけになるなんて、不思議な体質ね」
彼女は目を細めて、俺がいる方向を見つめている。
不良たちにボコボコにされました。なんて恥ずかしくて口が裂けても言えん。
「……黙秘を続ける気? もうすでに三つも罪を重ねているというのに、いい度胸ね」
「罪ってなんだよ」
「昨日の罪に引き続き、私を心配させた罪、そしてたった今、虚偽罪というとてつもなく大きな罪を重ねたわ」
「……俺が嘘をついているという証拠があるのかよ」
「そのセリフがもう証拠と言っても過言ではないわね。推理小説や漫画では、犯人は大抵そういったセリフを吐くわ。それに、私が嘘をつかれていると思った時点で、貴方はすでに嘘をついているのよ」
「裁かれるべきは俺じゃなくて、お前の暴君っぷりだろ。革命起こされろ」
「私が法よ。黙って裁かれなさい」
俺と彼女がいつも通り、やいのやいのと言い合いをしていると、ドアが、コンコンと、ノックされた。
『お嬢様、朝食を持って来ました』
おお……マジで執事いるんだな。こういうのって漫画とか小説とかドラマの中でしか見たことなかったから、なんか感動だわ。
「そこに置いておいて」
『……かしこまりました』
彼女は、執事の足音が遠のいたのを確認すると、いそいそと扉を開き、ふたりぶんの朝食がのったワゴンをカラカラと転がして、こちらへ持って来た。
盲目とはいえ、やはり自室ともなれば比較的自由に動けるのだろう。
「さぁ、あーんしなさい」
「……は?」
「食べさせてあげると言っているのよ。親鳥から餌を貰う雛のように情けなく口を開けなさい」
「いや、自分で食べれるんですけど」
「私の命令に従いなさい。それが貴方に許された唯一の罪を償う方法よ」
「……期間は?」
「一生」
「お前やっぱ頭おかしいわ」
問答無用と言わんばかりに、熱々のスープを俺の顔面に近づけてくる彼女。
「あーん」
「熱っ! そこ口じゃないから! 目だから! 眼球だから!」
「なかなか難しいわね」
盲目のあーんがこれほど凶悪だったとは知らなかった。
これ以上は、俺の怪我に火傷が追加されてしまうので、彼女をなんとか説得し、彼女が右手に持ったスプーンを、その上から俺が左手で持って、口に運ぶという二度手間で食事をした。
何故か満足げだった彼女を尻目に、俺は大きなため息を吐いた。
「トイレに行ってくるわ、逃げちゃダメよ」
「逃げるもなにも、このボロボロな体じゃまともに動けねぇよ」
「そ、それならいいわ」
彼女は嗜虐的な笑みを浮かべてそう答える。
扉を開けて出て行った彼女を尻目に、俺は仰向けで、天井付きベッドに寝転んだ。
「……夢じゃ……ないんだよな……」
ずっとひとりぼっちだった俺が、この一週間で、女の子と同じベッドで寝る(本当に寝ただけ)というビッグイベントをこなすまでに成長したのだ。
正直言って、ちょっぴり嬉しい。
ブサイクだったおかげで、特別だったおかげで、卑屈だったおかげで、俺は天沢と、友達と言っても差し支えないような関係にまで発展することができたのだ。
俺ははじめて、自分の顔を好きになれたような気がした。
そして、とてつもなく不謹慎で、意地汚い考えかも知れないけれど、彼女が盲目で良かったと、心の底からそう思ってしまっていた。
ガチャリと扉が開く。
トイレにしてはやけに早いな。
そう思いながら扉の方へ目をやる。
俺の予想を裏切り、燕尾服を着た、二十代半ばの男性が部屋に入ってきた。天沢が言っていた執事達の一人だろう。
髪型はオールバックで、目鼻立ちは綺麗過ぎるほどに整っている。いわゆるイケメンというやつだ。
「……っ、醜い、何故このような化け物がお嬢様と……」
部屋に入ってきて開口一番にディスるってどういうこと?
「あの……お邪魔してます」
執事のあからさまな悪口を、聞こえないフリをして、挨拶をする。キモいやらブサイクやら化け物やらは言われなれているので、そうそう動揺はしない。ちょっぴり傷つくだけである。
「盲目のお嬢様を騙して、お前は今どんな気分だ?」
「……へ?」
「どんな気分だと聞いているんだ!」
いやいやいや、またこのパターンかよ。
天沢はなまじっか美少女な分、好意を寄せる男性も多いのだろう。おそらく、言動を鑑みるに、この執事もそのひとりだ。
「いや……騙しているつもりはないんですけど……」
「黙れ!」
いやお前が質問してきたのに黙れってどういうことだよ。
「そこにいるのは誰? 入室を許可した覚えはないのだけれど」
凍えるような声が聞こえた。
全ての元凶、天沢 可憐だ。
「お嬢様、やはりこのような下賤の輩を屋敷に入れるのは反対です。ましてやお嬢様の部屋になど」
「黙りなさい。一介の執事が私に意見しないで」
「ですが……!」
「黙れと言っているのが聞こえないの?」
「……っ!」
いや怖っ! 女怖っ!
普段はキャピキャピプリプリ怒っている天沢だけれど、今回ばかりは凍えるような怒りのオーラを発して、執事を威圧している。
「……かしこました。何かお困りのことがあれば、何なりと御申し付けください」
「必要ないわ、下がりなさい」
「……」
無言で下がる執事。
可哀想に、貴方も傍若無人で変人奇人の天沢可憐の被害者なんですね……心中お察しします。
「余計な事言われなかった?」
「……いや、特には」
「ふーん、ならいいけど」
彼女は声音を戻して、ベッドの端に座る。
「ねぇ、これを読んでくれない?」
寝台の上に置いてあった小説を手にとって、子供のように読んでくれとせがむ彼女。
「さっきの執事さんに読んでもらえばいいだろ」
「嫌よ」
「なんでだよ」
「住んでいる世界が違うから」
「なんだよそれ」
「同じ価値観で、同じ世界を共有できなきゃ、読んでもらう時の情緒に欠けるじゃない」
「……言っておくけど、俺は普通に音読することしかできないからな」
「貴方は黙って私の言うことだけを聞いていればいいの、さっさと読みなさい!」
「……へいへい」
彼女に急かされて、小説を受け取り、本を開く。
ふと、隣から甘い香りがふわりと漂ってきた。
「近くない?」
「近づかないと、貴方の声がよく聞こえないじゃない」
「お前、自分で耳はいい方だって言ってただろ」
「今日は調子が悪いのよ、たまたまね」
「……あっそ」
ベッドの上で、肩が密着するほどの距離で、俺の隣に座る彼女。
俺は背表紙を開け、少し湿気たページに指をかけた。
* * *
「本当に、桜の樹の下には屍体が埋まっているの?」
短編を三作ほど読み終わると、彼女はぽつりとそう呟いた。
「あぁ、埋まっているだろうな、きっと」
作品に入り込んでいる彼女の情緒を壊すのも忍びないので、俺はそう答えた。
桜の樹の下には。
梶井基次郎の短編小説。
桜の美しさや、カゲロウの醜い屍体に生の美しさや醜さを透視し、惨劇や惨禍を妄想するという退廃的な考えを、語り部の『俺』が、聞き手の『お前に』語りかけるという物語的手法で描かれている作品。
美しすぎるモノの、醜い部分を垣間見て、想像して、妄想して、初めて、美しいと感じられる。
美しすぎる天沢 可憐が、その美しさ、特別に苦しめられ、歪められ、性格がクソブサイクになってしまったように。
桜の樹の下には、屍体が埋まっていて、その根を貪婪な触手のように延ばし、犬、あるいは猫、あるいは人間の屍体から、てらてらと光る腐乱した液を啜り上げているのだ。
厳密に言えば、生と死について語られているこの作品の意図とは少し、いやかなり、外れているかもしれないけれど、外見というものに苦しめられ続けている俺と天沢にとっては、おそらく、そういうメッセージとして受け取ってしまったのである。
「貴方って不思議な存在よね」
「……何がだ?」
「だって、美に醜が対置されているのでしょう? けれど貴方は、性格も外見も、卑屈で醜いじゃない。貴方の美しい所って一体どこなのかしら?」
「いやいや、俺にも美しい所あるから、めっちゃあるから」
「例えば?」
「…………魂とか?」
「論外ね」
「お前って、触れるもの全てを傷つけないとすまないタイプの女なの?」
「冗談よ、本気にしないで」
「声のトーンが本気なんだよ」
「安心しなさい、貴方の美しい部分に、私はちゃんと気付いているわ」
「いくつくらい?」
「そうね、ふたつ、かしら」
「少なくない?」
「世間一般と呼ばれる醜い血袋共は美しい部分なんてひとつも無いのよ? それに比べてふたつも美しい部分がある貴方は素晴らしいわ」
「なぁ、人間のことを血袋って呼ぶのやめた方がいいぜ?」
人間の事を、血袋と呼ぶのかどうかを議論していると、唐突に、彼女が話題を変えた。
「桜の香りを嗅ぎたくなったわ、散歩に連れてってちょうだい」
「もう桜は散ってる頃だよ」
「知らないの? 散り際が一番いい香りがするのよ。それに、本当に桜の樹の下には屍体が埋まっているかどうか、掘って確かめたいじゃない」
「掘ったらダメだ」
「なんで?」
「桜が可哀想だろ」
「……それもそうね、今回は匂いを嗅ぐだけにしておくわ」
彼女はそういうと、シルクのネグリジェに、どこから持ってきたのか、灰色のカーディガンを羽織ってくるりと一回転する。
「俺、体ボロボロなんですけど」
「あら、私はボロボロじゃないわ」
「拒否権は?」
「あると思ってるの?」
否が応でも散歩に連れて行こうとする彼女に俺は根負けして、ボロボロの体に鞭を打って立ち上がった。
「さ、案内して頂戴」
「ん」
短く言葉を切って、右手を差し出す。
小さくて真っ白な手が、俺の腕をキュッと掴んだ。
「……近くない?」
「今日は少し肌寒いから、これくらいで丁度いいのよ」
快晴の空を、窓から確認して、彼女の口頭での案内に耳をすませ、白い洋館を後にする。
すこしばかり、春の陽気につつまれた野道を歩くと、立派な桜が咲いていた。
散りかけている桜の花びらの下には、真っ青な葉が芽吹き、生と死を連想させるその様は、たまらなく美しく感じられた。
「いい香りね」
「……そうだな」
「この少し生臭い香りが、屍体の腐乱した香りなのかしら」
「俺の汗の匂いじゃないか? 昨日はシャワーを浴びていないだろうからな」
「それは無いわ、だって私が貴方の服を脱がせて、湿ったタオルで拭いたもの」
「……聞いてないんだけど」
「当たり前よ、言っていないもの」
「どこまで拭いたんだ?」
「言わせないでよ、恥ずかしい」
言わずもがな、恥ずかしいのは俺の方である。
桜の樹の美しさの理由に想いを馳せることもなく、俺は自分の貞操が守られているかどうかに思いを馳せていた。
「じゃあ、この生臭い香りは一体、どこからやってきた香りだと言うの?」
「……屍体が埋まっているんじゃないか?」
「やっぱりそうなのね、うん、きっとそうよ」
盲目の彼女と、散りかけの桜で花見。
「ねぇ、奥村くん」
「どうした? 天沢」
「私、あなたのことが、好きみたい」
「……そうか」
春が、絶命の合図と言わんばかりに、少し強めの風をびゅうと吹いた。
コンクリートの上を走る花弁。
少しだけ、どう答えるか迷っていると。
盲目の彼女は、俺の手を強くつねる。
「……俺もだ」
やはり、桜の木の下には屍体が埋まっているらしい。
昔描いた短編を手直ししたものです。
ブクマと評価してもえると、嬉しいです。
よろしくお願いします。