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第七章  息切れ

 僕は病院から帰ってきた夏美に気付くと、恐ろしいような不安と焦燥が湧き上がり、もはや今日の出来事をを看過する事ができない気持ちになっていた。普段の僕の性格なら他人に干渉することを好まないのだが、この時ばかりは押さえきれない感情に支配されていた。いつもの夏美なら、おそらく部屋でふさぎこんでいる日なので、僕から彼女の部屋を訪れる事はないのだが、その日は何度も彼女の部屋の玄関チャイムを鳴らし、「どうしても話がしたいんだ」と言って無理やり外に連れ出した。最初は、「今日は一人にして欲しい。」と夏美は僕を避ける意思を見せたが、あまりに僕が真顔になっているのに気付き、やがて悟ったような顔つきになりに「海の見えるところに行きましょう。」と僕の袖を引いた。


 しばらく電車に揺られて、その間、僕は一言も発することができなかったが、結局いつも夜景を見に来ていた横浜の公園にたどり着いた。僕はこれから切り出さなければならない話が、どのような展開になるのかわからなかったが、覚悟を決めたつもりでいた。心臓の鼓動が辺りに響きそうなぐらい大きくなったような気がした。

 「ナツミ、今日、実は・・・」

といった瞬間、夏美が僕の言葉を遮った。

 「三つ目のお願いは・・・」

 「え、なに?」

 僕が彼女が何の話をしようとしているのか分からずきょとんとしていると、夏美は遠くの海を見ながら話を続けた。

 「マナブと沖縄から帰って来た日、三つのお願いがあるって言ったの、覚えてる?あの時は3つ目を言うのを躊躇したんだけど、今日は言うわ。3つ目のお願いはね、あたしが死んだら、あたしをあの海に連れて行って欲しいの。」

 「ナツミが死ぬって・・・。」

 僕は絶句した。

 「多分マナブは、あたしが病院に行っていることを知ってしまったのね。もちろん、そのうちあたしから話すつもりだったけど、なかなか切り出せなかったの、こめんね。でも、今日のマナブの顔を見て話さなくちゃ、って決心したの。」

 「あのね、マナブ・・・実はあたし白血病なの。」

 「・・・」

 僕は、うなるだけで何も言えなかった。

 「あたしの病名は、急性骨髄性白血病っていうの、26歳のとき発症したわ。最初、風邪かなと思っていたら熱が下がらなくて、病院に行ったらそれが白血病の症状だったの。そう、同窓会で早川君と会ったあとだったかしら。あの同窓会のとき、あたしはもしかしたらマナブに会えるかも、って思ってちょっと楽しみにしていたの。でもいなくて。さみしかったな、あの時は。その時たまたま、早川君からまた会って欲しいと言われて、何度か会って食事したり、デートみたいなことをしたのかな。でもあたしの本心は、マナブの話を聞きたかったの、思い出話でもいいから。ちょっとずるい女でしょ、あたしって。早川君に告白されたりしたけど、はぐらかしてたから。ふふふ、でも、多分その頃ね、自分の体の異変に気付いたのは。」

 「病院に行ったら、すぐに精密検査のために入院しましょうといわれて、私は直感的にヤバイ病気だと思ったのね。はじめの血液検査で白血病の疑いがありますといわれて、もう時間が無い、もしかしたらもうマナブに会えないかもしれないと思って不安になったから、慌てて早川君に電話して「連絡をとりたいから相田君の連絡先教えて」って聞いたの。そしたら、早川君はマナブが沖縄転勤したということだけ知っていて、会社を辞める前の住所を教えてくれたんだったわ。でも電話番号も分からないし、会社に連絡したら辞めましたって言われて、一旦あきらめかけたの。そのときはマナブに会いたい気持ちでいっぱいだったけど、もう体力が限界だったから、地元の病院から東京の「ガン研究センター病院」を紹介してもらって、すぐ入院したの。」

 「あたしね、その時自分の本当の気持ちに気付いたの。もう会えないと思っていたけど、マナブのことが忘れられなかった。死ぬかもしれないと思い始めたら、自分をごまかして生きていくことが出来なくなった。本当にマナブに会いたかった。だから生きて会いに行くために、私はすぐに抗がん剤の治療を始めたわ。つらかったけど、マナブに会いに行くことだけを治療の希望にしていた。絶対治るんだって。1年半ぐらい入院して、抗がん剤の副作用は苦しかったけど、あたし頑張れた。だから主治医に「寛解しました」といわれたときは本当にうれしかったわ。これでマナブに会いにいけるって。」

 「寛解ってことは治ったんでしょ?」

僕は思わず口をはさんだ。

 「あたしもそう思っていたのね、あとは定期検診ですよって言われて。それで喜んで沖縄に飛んでいって、マナブ探しの旅が始まったのね。すぐに見つかったけど。あの島でマナブのアパートを見つけたときは、さすがあたしって思っちゃったりしたのよ。高校の卒業式のときみたいにマナブに会えるっていう確信があったの。あたし達はまた絶対出会うって思っていたから。」

 夏美はかすかに微笑んだ後、首を横に振った。

 「でも寛解って、完治とは違うのね。定期検診に行く度、少しづつデータが悪化していると言われて、今日の検査が悪ければまた入院だって。」

 すがるような気持ちで僕は夏美に聞いた。

 「でも、また治療すれば治るんでしょ。頑張って治そうよ、ナツミ。僕ならなんでもするからさ。」

 「あたし、来週また病院に行くけど、多分入院になると思うの。もちろんあたしだって死にたくないけど、万が一ってこともあるからマナブに3つ目のお願いを聞いておいて欲しかったの。」

 僕の声はすでに声になっていなかったかもしれない。

 「だからって、死んだときの約束なんてさせないでよ。またあの海を見に行こうよ、ナツミと一緒に行きたいんだ。だいたい死んだら行けないじゃないか。死んだらあの海に行きたいなんておかしいよ。ねえ、ナツミ・・・」

 夏美はハンドバッグから小さな包みを取り出し、ぼくにそっと手渡した。

 「これ、あたしの前回の抗がん剤治療で抜けた毛なの。毎日すごい量が抜けてビックリしたわ。でもコレは今あたしが生きている証なんだわ。絶対生きてマナブとあの島へ行きたい。そのために治療する。でも、もし生きてなかったら、この髪の毛を連れて行ってほしいの、あの海のあの砂浜に。あたしの恋はあそこで成就したんだから。」

 「ねえ、マナブ覚えてるかな。あたし高校生のとき、マナブに付き合うってどういうことかな、っていう話をしたことがあったと思うの。本質は、言葉でもなくて、セックスでもなくて、一緒に住むわけでもなくて、恋する気持ちだけが二人を規定する、というようなことを言ったと思うのね。今思うと高校生にしてはナマイキな恋愛感だったかもしれないけど、あたし今でもそう思ってるの。だってそうでしょ、マナブに恋する気持ちだけで、ガンと戦って、あの島にたどり着いたんだから。そうよ、マナブに会えたあの時こそが、あたしの予感が現実に変わった瞬間なんだから。だからまた行きたいの。もちろん生きて二人でいきたいの。だからこの髪は私の病気の証だけど、生きて帰ってくるための人質としてマナブに預かっていて欲しいの。」


 僕は夏美の話に、何も言葉を返すことができなかった。涙があふれてきた。夏美の強さに驚くとともに、僕が今まで自分の気持ちを押しつぶして、隠すように生きてきたことを悔やんだ。もう少し早く、少しでも彼女のために役立つことをしてあげたかった、と後悔した。過ぎ去った時間の残酷さを恨んだ。


 翌週、やはり夏美は入院した。僕には必ず戻ってくるからといって、自分の部屋のカギを手渡した。本格的な治療期間は無菌室に入るので、しばらく僕は面会できないと言う。無菌室に入る前日に、彼女は僕に一通の手紙を投函してくれるように手渡された。僕はそれを病院のポストに投函し、アパートに帰った。久しぶりに夏美の部屋を開けてみると、布団とテーブルと本棚以外にほとんど生活感が無かった。入院が長期になることを感じて、かなり整理したのだと思う。僕は無菌室にいて面会できない間は、彼女への郵便物を病院へ届けてあげたり、部屋の掃除をしたりした。

 1回目の化学療法が終わって、一般病棟に戻ってくると久々に夏美に会うことが出来たが、すでに髪の毛は抜け、色白くやせ細っていた。夏美の話では1回目の治療経過は思わしくなく、骨髄移植を考えなければならない状態だと言うことで、表情は暗かった。

 その後、また無菌室に戻り、何度か化学療法を行い、同時に骨髄バンクに登録し骨髄ドナー(提供者)を待つこととなった。僕はほとんど面会することが出来ず、たまにかかってくる夏美からの電話が、僕たちの唯一の絆だった。

 約1年半ほどの入院期間を経てもまだ、ドナーは見つからず、夏美にも暗い表情が見えるようになった。それでも、ある程度の化学療法が進み、寛解とは行かないものの、一時退院が許された。

 しかし、一人でアパートに住まわせるわけにも行かず、夏美を僕の部屋に呼んで僕が身の回りの世話をすることにした。そのため僕はまた仕事を辞めて、夏美につきっきりで看病する覚悟だった。沖縄料理店の主人に事情を話すと、「辞めなくても休職でいいんだよ、彼女の具合が良くなったら、また戻っておいで。」と言ってくれたが、僕は仕事のことが気にかかると夏美に全力を尽くせないかもと思い、あえて辞職した。主人はそれなら、と言って一枚の名詞を退職金代わりに僕に手渡した。

 「もしいつか仕事が必要になったら、その人のところに連絡すると良いから。」

 「ありがとうございます。できればまたここで働きたいんですが、でもいつ戻れるかわからないのでご迷惑はかけられません。本当にお世話になりました。」

 「次は彼女とご飯食べにおいで。」

僕は「はいっ」と力いっぱい笑顔を作った。本当にいつか夏美とこの店に食事に来る事ができる様に祈って。


 翌日夏美は一時退院となり、二人での生活が始まった。髪は全て抜け落ちたためバンダナを巻き、マスクを一時も離せない状態の夏美。もしかしたらもっと環境の整った所にいた方が良いかもという思いはあったが、彼女もほぼ収入が途絶えたため、今後の入院生活のため出費を押さえるという目的で、彼女は自分の部屋を引き払って、わずかな家財道具を僕のところに持ってきて暮らすようになった。それでも初めて同棲することになって、心なしか夏美は喜んでくれている様子だった。僕にとっては彼女の身の回りの世話をすることが幸せだった。あるいは僕自身、初めて人のために自分が生きているという喜びを感じていたのかもしれない。おそらくこれまで、僕はあまりにも自分中心の生き方しかして来なかったから。

 退院中の生活では、三食すべて僕が手作りすることに決めていた。長年居酒屋や料理屋の仕事をしていたせいか、僕は見よう見まねながらも料理はある程度できるようになっていたので大変ではなかった。それよりも僕の料理を喜んでくれる夏美を見るのがうれしかった。夏美はたびたび「あたしにもなにかさせて」、としつこく料理をしたがったが、僕は「病人なんだから、まかせといて」といって、ほとんど台所に立たせることはしなかった。時に暇を持て余した夏美は、ちょっとふくれて、ほほを膨らましたりしたが、でも、それが可愛いかった。


 約1カ月ほどたったところで、急に病院から連絡が入った。ドナーが見つかったとのことで来週には入院してほしいとの連絡だった。あと2週間ぐらいすると夏美の31歳の誕生日という頃だった。その連絡を受け、僕は喜びと共に少し残念な感じがした事を否めなかった。できればもう少し夏美と一緒に過ごしたかったという淡い期待があったかもしれない。とはいえ、治療のカギを握るドナーが見つかったということで、久しぶりに夏美に安堵の表情が戻り、僕も「良かったね」と祝福した。


 再入院の日程が決まって、その前日に少し早い夏美の誕生日のお祝いすることにした。二人で誕生日のメニューをいろいろ考えたが、結局最後に「マナブの一番好きなものが食べたい」と夏美が言ったので、それならと自分でそばを打った。デザートのフルーツは二人の故郷のモモを用意した。ただバースデーケーキだけは一緒に作りたいというので、お互いにふざけながら、まるで二人とも子供のように顔にクリームをくっつけあってデコレーションをした。そして最後に31本のローソクを立てた。

 「ナツミ、骨髄移植が終わったら、結婚しよう。」

僕は夏美にプロポーズした。夏美は微笑むだけで返事はしなかった。次に夏美はマスクを外し、ケーキ越しにローソクの火を消すような口つきをした。僕も向かいから、夏美の唇に触れないように空中にキスをした。

 最初に夏美とキスをしてから12年ぐらい経ったが、最後にキスをした日からどれくらい経っただろうか。白血病の治療が始まってから、感染症のことを考え、僕は夏美とキスさえしていない。一緒に過ごした日さえ、彼女の入院期間より短いかもしれない。

 僕のプロポーズの答えは夏美の空中に描いたキス、触れ合わなくとも、それは夏美との初めてキスしたあの日のことを鮮烈に思い出させた。


 その夜、明日の入院の準備を済ませお休みを言ったところで、急に夏美はベッドを下りて僕に話しかけた。

 「マナブ、あたしの今を目に焼き付けておいて。」

 そう言って電灯をつけ、バンダナを外し、マスクを外し、パジャマを脱いで裸になった。そこには頭髪のないマネキンのような頭、やや落ちくぼんだ目、乾いた唇、青白い肌、胸には骨髄穿刺の痛々しい痕跡、腕にはなかなか引かないあざと注射痕があった。 一瞬、僕は目の前に突きつけられた現実をみてぎょっとしたが、今の夏美を大事に胸にしまうつもりと言い聞かせ、静かに凝視した。

 「あたし元気になって帰ってくるからね。」

 「すごくきれいだよ、ナツミ。」

抱きしめられないのがもどかしいような気がしたが、その日はそのまま明かりを落とした。


 夏美は翌日、見た目は元気に入院した。しかし、入院してから1週間ほどして移植前の化学療法の最中に肺炎を起こしてあっけなく死亡した。夏美の31歳の誕生日の翌日だった。骨髄移植をする前に、あっという間に、死に顔も見ることができずに。

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