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第六章  砂の感触


 僕は東京を離れてから2年ほど経って、28歳になっていた。そのまま島の飲食店に勤務していたが、さすがに2年も沖縄の離島で暮らすと、もう肌の色も地元の人間と見分けがつかないくらいになっていた。この島はリゾート観光地だったが、自分では全くと言っていいほど遊ぶ気にはなれないでいた。仕事場以外には、ほとんど人とのかかわりをもたずに、休みの日にはアパートに閉じこもって本を読んで暮らすような生活をしていた。両親とはたまに手紙のやり取りをしているのが、唯一社会とつながっている証だったかもしれない。それ以外には、例えば、それまでの友人や知人と連絡も取り合うことも無かったし、和馬でさえも今年1枚の年賀状を送っただけで、単に僕の生存を知らせているだけの関係になっていた。

 僕はこの島に来て新しい人生を踏み出したつもりでいた。それまでの自分とは決別したつもりでいた。今まで築いてきたものを捨てて、両親や友人、それから東京での生活を忘れて生きていくつもりだった。あの海を見てから自分をリセットするスイッチを入れたつもりだった。何も考えなければ特に不満の無い生活だった。


 あれは雨の降る日だったろうか、僕が仕事から帰ってきた夜遅くにアパートの前に「夏美」は立っていた。僕の記憶に大切にしまってあった18歳の夏美とは違って、髪は短くなり色白で幾分痩せたように思われたが、10年前と変わらぬ瞳を見つめた時、ある種の確信をもって僕は夏美を無言で抱きしめた。

 その夜、僕と夏美はセックスした。僕はその夜、狂おしい衝動を抑えきれずにいた。夏美はなぜここにいるのか一言も話さなかったが、激しい声を上げながら何度も僕にしがみついてきた。空虚な日常を過ごしていた自分が、これほど生くさい、動物的な性欲があることにも興奮した。お互いの汗、唾液、精液、愛液が混ざり合って、したたりおちて床は濡れ、強い匂いを放ってなお、お互い求めあい、朝まで何度もセックスを繰り返した。お互い何度いってしまっただろうか分からないぐらいに強烈に脳を痺れさせ、そして果てた。エロティックで激しくて、ぐちゃぐちゃでどろどろに溶けてしまうようなセックス、でもそれは10年前のあの時のキスと同じように純粋だった。

 やがて日が昇るころ、僕は夏美を自転車の後ろに乗せてあの海へ向かった。あの海を夏美にも見せてやりたかった。自転車の後ろから僕の腰に回す夏美の腕の感触が心地よかった。浜について二人で砂の上に腰を下ろすと、一晩中続けたセックスの疲労で、もう立ち上がれないほどだった。

 僕はお尻に刺さる砂の感触が生々しく感じられたのがうれしかった。

 海から昇る朝日がまぶしかった。

 それもうれしかった。


 それまで一言も話さなかった夏美が言った。

 「相田君、一緒に東京に帰ってくれない?」

 僕は一言「わかった。」と頷いて、また夏美にキスをした。


 その日のうちにマスターに急に店を辞めることになったことを詫びて、明日の飛行機で東京へ帰ることを伝えた。慌ただしく荷物をまとめたが、それはたいした量ではなかった。そしてその夜、仕事が終わってからマスターが簡単な送別会をしてくれたが、僕の左手には夏美が繋がっていた。卒業式の翌日のように。

 

 東京へ戻ると、夏美は古びたアパートに住んでいた。彼女のイメージとは違った下町の古びたアパート。家賃も相当安いと思われたので、彼女が金銭的に困窮しているだろうことは容易に想像がついた。その後の数日は夏美のアパートに寝泊まりした。僕は一緒に住むことを提案したが、夏美はなぜか同意しなかった。

 

 「なぜ、僕の居場所が分かったの?」

 「2年前に同窓会があって、早川君が幹事をしていたから、それで相田君の住所を知ることができたの。」

「でも、僕は会社を辞めて、島に行ったんだよ。和馬にも僕がどんな状況かは教えていなかったし、突然、原田さんが僕の所に来てびっくりしたことは事実だよ。でも心の底では、こんな状況の僕の所に来てくれるのは原田さんしかいないとも思っていたかもしれない。」

 「確かに早川君から聞いた住所には相田君はいなかったけど、あたし元新聞記者だから、いろいろ取材して分かっちゃった。」

 そう言って夏美は笑った。

 「もと、新聞記者?そうか、原田さんは大学卒業して新聞記者になったんだっけ。そうしたら、なんとも聞きにくいんだけど、なんで会社を辞めて東京にきたの。今のこのアパートの状況をみると、安定した仕事を捨てて、わざと東京で苦しい生活をしているとしか思えないんだけれども。」

 夏美は少し考え込んだ後、僕の目をまっすぐ見て話を再開した。

 「ねえ、相田君、その質問に答える前に、お願いがあるの。」

 「うん、できる限りのことはなんでもするよ。」

 「ひとつ目は、マナブって呼ばせて。」

 「いいよ、というか僕も原田さんではいやだから、ナツミって呼ぶけどいい?」

 夏美はまた微笑んだ。

 「二つ目は、私の側にいてほしいの。」

 「え、でも一緒に住むのはダメなんだよね、どうすればいい?」

 「このアパートの隣の部屋が空いているの、相田君、ううん、マナブがよければそこに住んでいてほしい。」

 「なんだか、よくわからない注文だね。でも別にこれから仕事を探すつもりだから、ナツミの側にいるよ。」

 「三つ目は、うーん、どうしようかな。もうひとつお願いがあるんだけど、それはまた今度にする。」

 「なんだか、気になるなあ。でも、僕の方は何も気にしないから、とりあえずナツミの言った通りにするよ。」

 「マナブ、愛してるわ。10年前からずっと。」

 「なんだか照れるな。僕はこれまではいろいろあって、そういう感情と無縁でいた方が楽だったから。でも、僕も愛してるよ、ナツミ。」


 夏美は2年ほど前に田舎を飛び出して、東京に住んでいると言っていた。結局、理由をその時は聞かなかった。翌日には、彼女のいるアパートの隣に部屋を借りて新生活の身支度を始めた。


 僕は東京に帰ってからも以前のような会社には勤める気にはならず、結局アパート近くの沖縄料理屋がたまたまアルバイトの求人をしていたのを見つけたので、1週間ほどしてからそこで働き始めた。偶然にもその店の主人は、沖縄で世話になっていたマスターと同じ地元だった。僕が最近沖縄から転居してきたことを話すと喜んでいろいろな話をしてくれた。その主人ももともとは違う業界で一旗揚げようと上京したらしく、職を転々とした挙句、現在の場所に店を構えるようになったとのことだった。

 店は夕方から朝方近くまでの営業をしていた。僕は働き始めてから初めて、この地区が風俗店街であることを知った。なんでも店の主人によると、この界隈は深夜0時過ぎになると、仕事上がりの風俗嬢や店員が多くなるので、その時間帯に来店する風俗関係者、あるいはアフターの客を狙ってこのような営業形態になったという。普通の夕食時と深夜帯に来客のピークがあるという独特の商売で、しばらくは完全に昼夜逆転の生活を強いられて慣れるまできつかったが、ほどなくこの街のリズムが身についてきたようで、いつのまにか気にならなくなっていた。僕はいつのまにか、ほとんど太陽を見ることのない生活になっていったが、夏美が側にいるという高揚感が、すべてのネガティブな要素をを打ち消していた。

 夏美はというと、出版社から依頼された原稿を自宅のパソコンで作成してその原稿料で口を糊しているという生活だった。ほとんど家から出ることもなく、時間もバラバラの様子だったが、僕が朝寝て夜出勤という生活リズムに合わせて食事などを作ってくれたりした。しかし、それでもお互いの部屋に分かれて暮らしていた。セックスも時折あったが決して夏美はセックスが好きなわけではなかったようだ。時折痛そうな表情を見せることがあったと思う。でもキスやスキンシップはいつでも求めてきた。彼女がおなかを痛そうにして調子悪いときでも僕のペニスを執拗に愛撫することもあった。

 僕が休みの日にデートに誘うこともあったが、夏美はあまり日の下に出ることを好まず、屋内でのデートか、あるいは夜に出歩くことが多かった。夏美は特に夜景を見るのが好きで、僕たちは何度も横浜に夜景を見に出かけて行った。


 「あたしってワガママかしら。」

 夏美が夜景を見ながら僕に聞いてきた。

 「昔からナツミはワガママだったよ。はじめてデートした時から。絶対自分の考えを曲げない性格だしね。」

 「うふふ、あたしマナブにだけワガママを聞いていてもらいたいの、これからもずっと。」

 「強引に沖縄から連れ戻されたときから、僕はそのつもりだよ。」

 僕は笑った。

 「ずっと、そう、ずっとよ。」

 そう言って、夏美はゆっくり僕の方を向いた。僕は頷いた。

 その後、僕は「結婚しよう」と言いかけたが、ハッとして止めた。再会した時から僕にそばにいてほしいと訴えかけながらも、なぜか一緒に住むことを拒んでいる彼女に、何か言えない理由があるに違いないと感じていたからだ。

 言いかけた言葉を悟られないように、僕は僕の唇で彼女の唇をふさいだ。しばらくの長いフレンチキスの後、息継ぎををするように

 「愛してるよ、ナツミ」

 と僕は声を出して、そのあと深呼吸した。


 しばらく夏美とはつかず離れずの生活を送っていた。それなりにお互いの愛を確かめ合う生活に満足しているつもりだった。しかし、冬になった頃だったろうか、昼夜逆転の生活をしていたのでそれまでわからずにいたのだが、夏美が月に一度ほど暗い顔をして外出から帰ってくることがあるのに僕は気付いた。だいたいその日は僕と顔を合わせることも無く、翌日は普通どおりに接していたが、よくよく考えてみれば努めて明るく振舞っているような、ややもすると何かを隠しているような印象を受けた。


 ある日、僕は早朝に仕事から帰って来てそろそろ寝ようかと思って布団にもぐりこんだ瞬間、隣の部屋に住んでいる夏美が外出する玄関のドアの音に気付いた。普段なら単なる買い物かもしれないと思って気にもしなかったが、その日は先月夏美が落ち込んでいた日からほぼ1ヵ月後だったので、ある種の嫌な予感と共に、僕は急いで布団を飛び出し、気付かれないように夏美の跡をつけた。

 夏美は地下鉄の駅に向かって行った。彼女が二駅分の切符を買うのを確認すると、僕も慌てて切符を買い、気付かれないように隣の車両に乗り込んだ。電車を降りて改札を抜け数百メートル歩くと、そこは大きな病院だった。僕の不安は的中した。

 病院の名前は、「がん研究センター病院」、目の前が真っ白になった。


 僕は呆然としながら病院の敷地内にある公園のベンチに腰を下ろした。彼女の家族や知人のお見舞いにきている可能性は無いのか、しかしそれなら僕に隠す必要がないはずだ。ここに通院しているのは、ほかならぬ夏美なのだとしか思えなかった。

 どのくらい時間が経ったのだろう、あるいはそれほど時間が経ってなかったかもしれない、灰色の気持ちのまま、僕は何気なく地面の砂を掴んだ。それは数ヶ月前、夏美と一緒に座った島の砂の心地よい感触とは異なり、冷たいまま「ジャリ」と音をたてて、僕の指の隙間からこぼれていった。

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