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第五章  光を感じる目

 和馬が帰ると、僕は仕事に行くための支度をして軽い朝食をとっていた。程なく華歩が帰宅した。

 「昨日はお友達が来てたのね、楽しかった?あたしはお店の友達と朝まで飲んでたから、これから寝るね。学は今日、早番だっけ?」

 「うん、今日は早く帰ってくると思う。じゃ、行ってくるよ。」

 何だか、夫婦のような会話だと思って、出勤の自転車に乗りながら僕はちょっと苦笑した。と、同時に昨日の和馬の想いが脳裏をよぎる。そもそも、恋愛とか付き合うという事はどういうことなのか、この前も華歩に聞かれたことだ。理系の僕はある程度、自分を納得させないといけないような強迫観念があるのかもしれない。和馬の強烈な感情は生きていくにおいて、どのような意味を持つのか。風俗産業に従事する、僕と華歩はどのような関係なのか、華歩の生きていくモチベーションはどこにあるのか。果たして僕は華歩を好きなのか、愛しているのか、付き合っているのか。店に着くまでの短い間、そんなことを漠然と考えていた。

 今日は早番なので朝8時から夜8時くらいまでの仕事になる。店の中だけで仕事をしているとなかなか気付きにくいものだが、久しぶりに見た太陽光線の強烈さは、路面から立ち上る陽炎と相まって、もう夏だということをいやがうえにも感じさせた。そして久しぶりに空を見上げてみて気づかされたことがある。それは僕自身が下を向いて暮らしていることが少なくなってきているという事実。そして、その変化をもたらしたのは、多分、まぎれもなく華歩の存在なんだろうということを。


 いつも通りの仕事を終え帰宅すると、華歩が僕に心配そうに話しかけてきた。昼間寝ていたら、屋根の上から何度も「カランカラン」という音がして、気持ち悪くてあまり熟睡できなかったと言う。お化けかな、と華歩はちょっと怯えた様子で僕の袖をつかんだ。それを聞いて僕は華歩の子供ぽさを鼻で笑った後、昨日の出来事を思い出した。

 「一緒に屋根に登ろう。」

そう言って無理やり部屋から華歩を引っ張り出し、一緒にこのボロアパートの錆びついた梯子を登った。そこには昨日、和馬が打ち上げてしまったバドミントンのシャトルがあった。

 「はい、これが音の正体。」

と言って、拾い上げたそのシャトルを華歩に手渡した。昨日、和馬とバドミントンをした話をすると、なんだかお互い可笑しくなって二人で大笑いした。笑い声が夜風に溶けたあと、急に華歩が

 「キレイ。」

 と声を上げた。一瞬、華歩の顔が照らされて暗闇に浮かびあがった。

 

 屋根の向こうにビルの合間を縫って、遠くに花火が見えた。そうか、今日は花火大会の日だった。季節の移り変わりとは無縁の生活をしていた僕は、久しぶりに見る花火の美しさにしばらくの間見とれていた。そういえば今朝は太陽にも気付くことができた。僕にとって空虚だった現実世界が少しづつ実態を取り戻していくような気がした。その合間、わずかな時間だったが、果たしてどんな変化が僕に起きているのだろうと自問していた。

 星空降り注ぐアパートの屋根の上、華歩と二人で並んで遠くを見つめ、いつしか僕はシャトルを持っている華歩の手を、その上から握っていた。時折、花火の光に映し出される華歩の横顔がたまらなく愛おしかった。僕は華歩の右頬に軽くキスをし、そして耳元で、

 「どこか一緒に旅行に行こうか。」

 とつぶやいた。華歩はやさしい目で返事した。僕はもう一度彼女の唇にキスをした。花火が終わってからもしばらく手を握っていた。目を閉じても今日見た昼と夜の光が瞼に浮かんだ。

 僕は少しずつ光を感じる目を取り戻しつつある。一度閉じてしまった瞼をおそるおそる開こうとしている。愛に無縁でいるために、あえてこの世界に生きているという自負もあったはずだ。好きという感情とは別にセックスに立ち向かえるのがこの世界のプロだと思っていた。虚構に生きている僕は、目を閉じている方が楽なのに、どうしてなんだろう。目を開けて現実と向き合う方がずっと大変なことだと知っているはずなのに。この世界ではお金だけが真実で、恋愛感情は不要なものだと知っているはずなのに。

 

 あくる日、僕たちは旅行の日程について話した。仕事の都合上、8月が過ぎ、新学期のシーズンになったところで、僕と華歩は旅行に行くことに決めた。華歩は、

 「二人で旅行なんて、ちょっと素敵ね。あたしたちってやっぱり付き合ってることになるのかな?それとも友達なのかな。だいたい学はあたしのこと好き?」

 「そうだね、ちょっと前までは、華歩が壊れそうだから僕が側にいる役目を担っていると思ってたけど、今は違うかもしれない。僕が現実から逃げていたのを連れ戻してくれている。好きだよ、華歩。」

 「ありがと、ちょっとうれしいな。そうね、はじめてあったころの学はつかみどころがなかったけど、今は手が届く感じがするもん。」

 「僕の背中は透けなくなったかな。」

 「うん、透けなくなった。ちゃんと見えるよ。」

 「僕も華歩の体温が感じられるようになったんだ。」

お互いにまだ何も知らない関係であることは変わりなかったが、その日、確実に変化している自分を発見した。それはまるで、僕が夏美に初めて会った頃の自分に戻りたがっているかのように感じられた。

 

 屋根の上で花火を見てからだろうか、僕は華歩に好意を抱いている自分を発見した。だが、その恋愛感情はひどくいびつなものだ。今の僕たちは形式上、同棲というカタチをとっているものの、いまだお互いの過去を話し合ったこともないし、将来について語り合ったこともない。キスもするしセックスもするけれど、外で手をつないであるいたり、病院に通院するとき以外に一緒にでかけることもない。だからといって僕は彼女を束縛するつもりもない、これまでも、そして、これからも。しかしその答えの行き着く先はどこなのか、その思いはしばらくの間、僕を困惑させた。

 もし僕たちが付き合っているという関係なら、そもそも華歩を自分の彼女とするなら、彼女が体を売っている事実を許すことはできないはずだ。自分がそういう業界にいてさえ、そう思う。華歩に風俗を続けている理由を聞いてみたかったが、それをしてしまうとこの関係が終わってしまう気がして聞けなかった。最近になって華歩も僕に好意を抱いているのだろうということは感じるようになった。だからといって華歩が僕に何かを求めることをしなかったし、僕のことをあれこれ聞くことはなかった。

 華歩の様子はというと、たまに鬱になってふさぎこんでいることはあったが、あまり死にたいとは言わなくなった気がする。詳しくは知らないが仕事も順調のようで、今では店のランキングにも名を連ねているようだ。経験上、ソープ嬢がある程度のお金をつかむと、借金返済は別として、浪費癖が出たり、ホストにはまったり、だらしない生活になることも多いのだが、華歩は生活リズムを変えることはしなかった。ましてや男の匂いは皆無だった。このタイプのソープ嬢の本心として考えられることは、なにか目標があって風俗を早く上がること(やめること)である場合が多い。つまり、華歩はこの生活に早くピリオドを打とうとしているのではないかと思われた。そしてそれは華歩との別れの予感でもあった。


 特に理由は告げずに旅行先を決めた。熱い夏が過ぎ、9月初旬、僕と華歩は休暇を取って、沖縄に行くことにした。華歩との最初で最後の旅行になるであろうこと、近い将来の別れを感じ取っていたからかも知れない。多分、その時僕は一番大切な場所に華歩を連れて行きたかった。行かなければならないような必然性を感じていた。

 行先はあの海、そして夏美のいる場所。華歩には夏美のことは話したことがない。多分これから話すことも無いだろう。華歩もあいかわらず、僕が決めることについては何も聞こうとしなかった。

 離陸した飛行機の窓から東京を離れたことを確認すると、僕は少し夏美のことを思い出していた。


 そう、あの日、夏美は突然やってきた。


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