第四章 必要な匂い
華歩と暮らすようになって2か月ほど経過した、梅雨の明けた日の午後、和馬が僕を訪ねてやってきた。その日、僕は珍しく仕事が休みで、一方華歩は出勤のため不在だった。
あの10年前から結局、僕は沖縄に2年ほど住んでいたことになるが、あるきっかけで東京に戻ってきた。以来、このぼろアパートにずっと住んでいる。和馬とは沖縄に行っている時には年賀状のやり取りをしてお互いの生存確認をしていた程度だったが、ケータイをもつようになってからは、たまにメールで連絡するようになっていた。
僕は、今の店で働く前は、沖縄での居酒屋での経験を生かして、この風俗店街にある飲食店でアルバイトをしていた。特に趣味を持たない僕が唯一お金を使う理由は、年に数回、沖縄の離島に行くためだった。あの海を見るために。
その日は爽快な青空のもと、高校以来久しぶりに和馬とバドミントンをした。前日和馬が来るとの連絡を受けて、午前中にあわててホームセンターで買ってきたレジャー用のバドミントンセットをみると、こんな僕でも高校時代を思い出し、少し感傷的になった。そのおもちゃのようなラケットで、アパートの前の路地で和馬とシャトルを打ち合った。
和馬は当時、スマートで小技の効く器用な選手だったが、35歳となった現在では中年太りのため見る影もなく、あっという間に息切れしていた。僕も高校時代以来、久しぶりに握ったラケットの感触はまんざらでもなかったが、やはり思った通りには体が動かなくなっていた。お互い「こんなに疲れるスポーツだったっけ」とグチをこぼしながら、それでも久しぶりの親友との再会を楽しんだ。おもちゃのシャトルは最後にアパートの屋根に打ち上げてしまい、そこで17年ぶりのバドミントンは終了した。
和馬はまだ僕が風俗店で働いていることを知らない。おそらく和馬は僕に対して、立派な学歴を持ちながら、不運のため、また田舎に帰ることもできずに、半ば身を隠すように東京の飲食店に勤務している、と思っている。確かにアウトラインは当たっている、風俗店で働いていることを言い出せないでいるのも事実。親友だからこそ打ち明けづらい部分もあった。しかし東京に僕がいる本当の理由は違っていた。
「いやー、久しぶりのバドミントンは疲れたね。おもちゃみたいなラケットだっだけど、懐かしかったよ。お互い体力が落ちたなぁ、こんな短時間でへとへとだよ。これじゃ二人とも明日は筋肉痛じゃないか。やっぱりいつの間にか年取ったよね、僕も和馬も。」
「学は今は立ち仕事なんだろ、俺なんてずっと事務職だったから、体力ねえよ。少しダイエットしないとこのまま年寄りになりそうだぜ。」
「そうそう、和馬の今日の予定なんだけど、夜まで大丈夫なんだろ?汗を流してから飯食いに行こうか。」
僕は和馬に聞いた。僕はバトミントンの汗でべたべたになっていた。和馬は太っているのでもっと汗だくだ。
「おお、風呂入ってビールでも飲みたいね。」
「ここら辺では、風呂っていうとソープランドのことなんだけど、ソープに行くかい。」
「ええっ風俗店街とは聞いていたけど。そうか、ソープランドか、俺は行ったことないなあ。田舎にはないしな。学はソープランドとかに行くの?」
「ま、そりゃ何度かはね。」
「ふーん、昔の学からは想像つかないな。学は風俗遊びなんかしないと思っていたよ。堅物で通っていたしな。でも、まあ、ソープも興味あるけど、今日はまず普通のお風呂にしてよ。」
「了解。今日は銭湯に行こうか。ソープランドはまた今度案内するよ。」
二人で近所の銭湯にいった帰り、僕がよく行く沖縄料理屋さんで夕食をとることにした。しばらくは昔話をして笑い合っていたが、酒がまわった頃になると和馬の瞳は影を帯びた。
「俺、県庁やめたんだ。」
「ええ、どうして?何があったの。」
珍しく僕も大きな声をあげてしまった。和馬の固い性格を知っている僕は、彼が公務員を辞めるとは思わなかったからだ。
「何もないからやめたんだよ。あそこには何もない。」
禅問答のような回答で、僕はわけがわからなくなっていた。
「おい学、高校卒業してから原田さんと会ったか。」
いきなり和馬はやや強い口調で僕に問いつめた。僕が答えに戸惑っていると、
「やっぱり、会ったんだな、こいつめ。場合によっちゃお前を許さないぞ、え、聞いているのか学・・・。」
沖縄の泡盛を口にしはじめ、呂律が回らなくなっている和馬の話はとびとびだったが、要約するとこういうことだ。
10年前、僕が逮捕された年の同窓会で、和馬は原田夏美と会った。当時、彼女は地元の大学を卒業後、地元の新聞社に勤務していた。和馬は同窓会で彼女と連絡先を交換したあと、何度か食事やデートをしたらしい。そのうち、何回目かに会った時に、僕の話になったらしく、大学卒業後、東京の製薬会社に勤めていた僕が、交際相手の自殺未遂事件と大麻所持による逮捕事件で沖縄に左遷されたという話を和馬から聞き知った。その後和馬は彼女から僕の連絡先を聞かれたので、僕が和馬に伝えてあった転勤先の沖縄の住所を教えたといういきさつだった。しかし、約1年ほどしてから彼女はその新聞社を辞めてしまって、連絡も取れなくなってしまったとのことだった。噂では東京の会社に転職したという話をきいたが、真実は不明で同級生の友人にも知らされていなかったらしい。その後は全くの行方知れずだったので、和馬はわけがわからないまま失恋した気持ちになっていた、ということのようだ。
風呂帰りの夕刻、まだ明かりが残る早い時間だったが、ほとんど酔いつぶれてしまった和馬を僕のアパートにとめてやることにした。幸い華歩の分の布団があったので、和馬を自分の布団に寝かせることにして、狭い部屋に高校の部活の合宿以来に枕をならべた。華歩には友達が酔いつぶれてしまったので泊めてやることにしたから、今日は朝まで時間つぶしててとメールした。
しばらく和馬は寝入っていたが、夜中にトイレに起きて水を飲んだ。その後布団にもぐりこんでから僕に話しかけてきた。
「おい、学、起きているか。」
「ああ、起きているよ、なんだ気持ち悪いのか、大丈夫か。」
「いや、すっかり酔いは覚めた。俺の話を聞いてくれ。実はな、学、俺が県庁を辞めた理由は、原田さんなんだ。」
「どういうこと?」
「その前に、学に確認しておきたいんだけど、お前、卒業してから原田さんと会ったかい?」
「いや、会ってないよ。」
とっさに僕は”嘘”をついた。暗い部屋の中なので目を見られることもなく、和馬にはばれないと思った。和馬は僕の返事を確認して話を続けた。
「10年前、原田さんと何度か会ったという話はしたと思うけど、俺、本気で原田さんのことが好きだったんだ。その後、どうしても諦めきれなくて、ことあるごとに彼女の消息を聞いていたんだ。そしたら3年ぐらいしてからかなあ、東京で暮らしてるって話を聞いたんだ。でも、その時はどうしようもなくて、しかも彼女の実家もなくなってて誰も連絡取りようがないって話をしてたんだよ。」
「え、原田さんの両親は?」
僕は驚いて、和馬に問いただした。
「実は高校時代、原田さんは父子家庭だったらしい。おばあちゃんと父親との3人暮らしをしていたんだそうだ。ところが、高校の卒業式の翌日、原田さんのお父さんが交通事故でなくなったらしいんだ。知ってたか。」
「いや、初めて聞いた。そうだったのか。ちょっと驚いた。」
平静を装った返事をしたが、内心僕はひどく動揺した。卒業式の翌日と言えば、僕が夏美と初デートした日ではないか。僕が彼女と会っている間に交通事故にあったのだろうか。もし僕が翌日にでも連絡を取れば、それを知り、あるいはいくらかでも慰めの言葉をかけてやることもできたかもしれないのに、と後悔の念がよぎった。
「それで、原田さんは奨学金をもらって大学を卒業したらしい。しばらくはおばあちゃんと二人暮らしでいたらしいが、そのおばあちゃんも大学時代に亡くなったらしくて、最後は卒業まで一人暮らしして、その後、新聞社に就職したというのが、俺が知っている原田さんの過去だ。」
卒業式の日の夏美を思い出そうとした。頭の中に夏美の強く印象的な眼が浮かんだ。僕は夏美との関係は隠したまま和馬に聞いた。
「どうして新聞社をやめたんだろうか。」
「さあ、そこまではわからない。同窓会で聞いても誰も知らなかったよ。結構苦労してんだよな、原田さん。それにしても、ああ、会いたいなあ。何で急にいなくなったんだよう。」
彼女がいなくなった理由・・・「それは」と言いかけたが、やはり僕は言えなかった。当時の誰もが知るはずもない事実。やがて僕だけが知りうることになったのだが。
「話は戻るけど、何で和馬は県庁やめたんだ。地元で公務員で、やめる理由が見当たらない。親御さんも反対だったと思うんだけど。そして、それと原田さんは何が関係あるの?」
「親には悪いことをしたと思っているよ、今でも。原田さんの事は・・・。なあ学、俺も何人かの女と付き合ったりしたさ。例えば大学時代には彼女もいたし、職場でも数人と付き合って、将来は結婚してもいいかな、なんて思うこともあったさ。でもな学、いざってときになると原田さんの顔が浮かぶんだぜ、強烈なんだ。ふと振り返ると俺の気持ちは原田さんのとりこになってんだ、年齢が若けりゃストーカーになってたかもしれないよ。お前、こんな気持ちになったことあるか?」
和馬の声は、涙声になっていた。
「俺、この前ふと思ったんだ。俺ってなんのために生きてんだって。今まで自分を隠してきたんじゃないかって。親が言った通りの進路で、安定した職場で、そのまま大人しくしてれば今頃には安定した家庭を持つことになっていたかもしれない。でも、どっか妥協なんだ。原田さんのいない人生は。つきあってたのかと言われれば、何回か会っただけだし、そもそも何も始まってもいなきゃ、終わってもいないよ。でもね、田舎には原田さんはもういないんだ。彼女の帰る家もない。もしかしたら東京にいるかもって聞いた。もちろん東京にいるから会えるってわけではないのもわかる。今日だって急にお前の所に来たのは、少しでもなんか手がかりがつかめるかもっていう淡い期待もあったさ。いや、一生会えなくたっていい。でも彼女がこの東京のどこかで暮らしていて、誰かと結婚していたとしても、東京にいれば彼女と同じ空気を吸っていられる、道端で会う確率も0(ゼロ)じゃない。はてしなく0に近いとは思うけど、それでも0じゃないんだ。逆にいえば、俺は田舎にいる限り原田さんはいないのと同じなんだ。会う確立0なんだよ。あの街に彼女はいないんだ。彼女が傍にいる匂いがしないんだよ。それに気づいた時、もしかしたら自分の生きてる意味がなくなるんじゃないかって思い始めた。俺はそれに耐えられなくなった。そう思ってからはいてもたってもいられなくなって、親に最初で最後のワガママ貫かせてくれって言って田舎から出てきたんだ。この年になってから、俺にとって生きるってことは、自分に正直に、可能な限り彼女の近くにいて、彼女を好きだって気持ちを抱いていることなんだって、そう思うようになった。いい年して馬鹿だよな、俺。自分でも何やってんだよと思うよ。でもわかってくれるよな、学。」
僕は無言だった。いくら好きな女のためとはいえ、そこまで思いつめられるものかという、ある種、和馬の精神の未熟性を否定しつつも、その純な衝動をうらやましくも思えた。都会で生きていくには最もふさわしくない役立たずのセンチメンタリズムを身につけて、一生を棒に振ってもいいような和馬の振舞い。しかし、軽口で和馬を馬鹿にすることもできずに、僕は一言も発せずにいた。僕は涙を悟られぬよう、そっと和馬に背を向けた。
僕は迷った。果たして真実を告げるべきか。
実は原田夏美は、4年前に31歳で死んでいるのだ。このことを知っているのは、僕と、多分、彼女の母親と彼女の妹だけだ。しかし今の和馬に彼女が死んだことを伝えるのは、和馬のためになるのだろうか、と自問した。すべてを捨てて愛に生きるつもりの和馬は会えなくても希望があれば生きていけるという。その親友を地獄に突き落とすことができるだろうか。自問しても答えの出るはずのないまま、やがて夜が明けた。
「よし、仕事探しに出かけるか、俺も人生リセットだ、金はないけど結構やる気満々だ。落ち着いたらまた連絡するよ。」
そう言って和馬は僕のアパートを後にした。結局最後まで、僕は何も言えずじまいだった。自分は卑怯な人間だなとも思いつつも、和馬のひたむきさを羨ましくも思った。僕はそれをいつ無くしてしまったんだろうと思わずにはいられなかった。明日を生きるために必要な匂いを。この東京で、きっと和馬は感じているはずだ、原田夏美がこの世にいなくとも、彼女の匂いが残っていることを。都会のビルの間を通り抜け、いつまでも香っているはずなのだ、和馬にとっては。