第一章 透けてる背中
1・透けてる背中
「学の背中って、透けてるみたい。後ろから手を伸ばしたら向こう側に抜けていきそう。」
そう言って、僕の背中に華歩はつぶやいた。
しばしば僕は、突然に魂の抜けたような空虚感に襲われることがある。その間は無感覚、無感動になり、全ての物に対して現実感が薄れていく。自分でも自覚しているが、最近それがひどくなってきたようだ。そう、例えるなら死んだ自分を空中から眺めている、そんな感覚に近いかもしれない。
華歩の言葉にハッとして振り返るが、次第に彼女が僕に触れているという感覚が無くなってくる。僕も華歩を抱きしめようとするが、もう既に彼女の体温を感じなくなっている。言葉の意味が分からなくなり、遠くで鳴っているBGMにしか聞こえなくなる。キスした唇が新聞紙をなでているようにしか感じなくなる。僕の中から、少しづつ現実がむしりとられていく。
「学って頭いいよね、あたしの聞いたことに何でも答えるんだもん。もしかして優等生だった?」
知り合って間もないころ、とは言ってもまだ半年ぐらいなのだが、華歩は僕によく問い掛けた。それに対して僕は、
「落ちこぼれるまでは優等生だったよ。」
と、いつも適当に受け答えしていたと思う。
実際の僕は本当に優等生だった。人から見れば、ほぼ順風満帆な学生生活を送っていたと思う。僕の出身は北国の田舎だったが、高校は県でトップクラスの進学校に進み、難関といわれる東京の大学にストレートで入学した。東京で一人暮らしを始め、大学生活はそれなりに楽しかった。歴史のサークルに入って、関西の友人宅に泊まって京都奈良めぐりもしたし、冬は僕の地元でスキーをしたりもした。大学3年の頃には同じゼミで知り合った彼女もいた。特別な経験など無かったけれど、勉強も恋愛も人並みに頑張った大学生活を送った。卒業後は理系だったこともあり、これまた一流企業と呼ばれる製薬会社に就職した。
大学時代から付き合っていたその彼女とは、そのままの交際が続いていれば、近い将来結婚するのだろうと漠然と思っていたが、25歳の時に別れてしまった。約5年程付き合っていたはずだが、しかし、35歳になった現在の僕には、その彼女のことはほとんど思い出せなくなっている。今となっては、残念ながら。当時の彼女と別れるまでの自分は本当に絵に描いたような優等生だった。自分自身がある程度思い描いていた目標を達成しつつあったし、そのまま迎えるであろうゴールも少しづつ見えてきていた。田舎の同級生達から見ればうらやましがられるような境遇だったと思う。だが、僕の人生は10年前のあの時から軌道を変えていった。今思えばそれは必然だったのかもしれない。
長い秋雨の季節。ザアザアと、この小さいアパートの屋根に鳴り響く雨音を聞きながら、華歩は僕に聞く。
「あたしたちって、付き合ってることになるのかな。一緒の布団に包まって聞くのもなんだけど。」
少し沈黙の時間があって、その後やっと現実にすがりついて僕は答える。
「そうだな、華歩は壊れそうだから、僕が糊の役目をしている。これは事実じゃないかな。」
わかったような、わからないような返事をした。観念的な理屈に逃げるのは僕の悪い癖だ。僕は華歩が必要な時には、なるべく傍にいてあげるようにしているが、自分のことを話したことはあまりない。おそらく華歩は僕のことを、相田学という本名、35歳という年齢、蕎麦と桃が好きなこと、嘘をつくと目が泳ぐこと、そして現在は、とある「風俗店の店員」をしていることぐらいしか知らないと思う。
華歩の方を向き直して彼女の目を見つめながら僕は自問する。付き合うってどういうことなのだろうかと。何か告白したから付き合うことになるのか、手をつないだら付き合ったことになるのか、帰り道を一緒に帰ったからか、キスしたから、あるいはセックスしたからか。秘密を共有したら、というのも格好よくていいかしら、と考えたところで可笑しくなってつい声を出して笑ってしまった。華歩はそんな僕の額を人差指で突き、やれやれという顔をした後、
「あなたまた自分の世界に入っちゃった。」
と言って、やさしく怒ったフリをした。
いったい何が二人の関係を規定するのか。今の僕と華歩の関係は、どう表現できるのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなる。僕は華歩を胸に抱き、目を閉じ、また自分の内側に閉じ籠る。また、無感動が僕の自我に襲い掛かる。付き合うという言葉が、果たしてどのような意味を持つのか。頭の中でぐるぐる回る。文字をじっと見ていると、次第にその意味を失っていくような、奇妙な感覚にとらわれながら。自分がいま撫でている華歩の髪も、その実態を失くしていく、そんな感覚にとらわれながら。おそらく華歩から見たら僕の背中はまた透け始めているはずだ。
世間一般で言うところの、「交際する」という意味では、大学時代から25歳までの彼女が、名前を思い出せないので仮に英子としておくが、その彼女と過ごした時間がふさわしいかもしれない。しかし僕には何も残っていない。英子の本当の名前も思い出も、体温も。好きだったかどうかさえ、今では希薄になっている。さらに言えば、おそらく好きだったという僕自身の感覚も、既に人の日記を見て感情移入をしているのに近い。もはや自分の気持ちは置き去りにして、そしてあたかも物語を読んでいるかのごとく。
雨音の中に、華歩の匂いが融けていく。薄い布団にくるまって、なんとか現実を取り戻そうと、華歩と唇を重ねた。いつのまにか華歩の唇は新聞紙から人間の体温を取り戻していた。
唇を重ねる時、たまに思い出すことがある。鮮烈な記憶。それは高校の卒業式の翌日だった。
僕が高校生の時に好意を抱いていたのは、原田夏美という女の子だ。初めてのキスは夏美とだった。
僕と夏美は3月初旬に行われる卒業式の前に、第一希望の大学にすんなり合格していたため、お互いの進路は決まっていた。僕は東京の大学へ、夏美は推薦で地元の国立大学へと。夏美とは2年生の時だけ同じクラスだったが、特に接点があるわけではなかった。要は夏美がクラスのマドンナ的存在で、その他大勢の我々が憧れていたというべきか。だから好意といっても、淡い片思いのようなものだったと思う。
高校時代の僕は、残念ながら部活動と勉強に追われストイックな生活をしていた。優等生でバドミントン部のキャプテンもしていた僕は、下級生の子に告白されたことは何度かあったが、現実の自分はかなり臆病で、進学の妨げになるという変な自意識も働いてか、彼女を作ることはしなかった。だからそれまでキスはおろか女性と交際したという経験もなかった。
当時、バドミントン部のチームメイトで早川和馬という友人がいた。親友といってもよいぐらいの関係だった。僕はいつも和馬の相談相手で、勉強や進路、タイプの女の子の話を聞かされた。でも和馬は別に僕にアドバイスを求めるわけでもなく、大抵一人勝手に話しまくって、最後に、
「学なら分かってくれるよな。」
というのが口癖だった。ある時、和馬は廊下で夏美が通り過ぎた後、
「俺の童貞は原田さんにささげるぜ。」
と言ったことがあった。僕は、
「その顔じゃ無理だよ。原田さんが年取ったら相手にしてもらいな。」
とバカにした返事をした。いつも和馬とは冗談交じりの会話をしていたので、その時の和馬の夏美に対する気持ちが本当だとは思っていなかった。その時は。
慌ただしい卒業式が終わり、校門をくぐり帰ろうとする夏美を呼び止め、僕は夏美に告白した。そして明日会えないかと聞いた。なぜ急にそんなことをしたのか今となっては思い出せないが、その時は多分、夏美とどうしても恋人になりたい、という思いよりは、自分なりに高校時代の証みたいなものが欲しかった、という感覚だっただと思う。女っ気のない高校生活だったし、どうせふられるならクラスのマドンナの方が「あとから笑い話のネタにしやすいし」という、今思えば自己完結的な予防線を張っていたのかもしれない。
しかし、夏美は僕の告白に頷いた。
意外な答えに、僕はそれまでは自分ことばかり考えていたことに気づかされてしまった。自己完結しようとしていた自分、初めから夏美に拒絶された後の自分への言い訳を考えていた自分自身がいたたまれなくなって、僕は驚きよりもひどく動揺した。言葉がうわずり始めて、やがて言葉が出なくなり、地面に視線を外した。しばらくの沈黙の後、もう一度顔をあげた。そして僕は、夏美のそれまで誰にも見せたことのないような、少しはにかんだ顔を見て、その瞬間、恋に落ちた。
かろうじて次の言葉を紡ぎだし、夏美と明日会う場所と時間の約束をした。僕と夏美は無言のまま駅まで一緒に歩き、じゃあ明日、とだけ言って別れた。帰宅してからも僕は予定外の出来事に戸惑っていた。夕方まで自分の部屋にこもって音楽を聴いたりしていたが、落ち着きのない時間を過ごしていた。しばらく考えた後、結局まだ進路が決まっていないため、後期日程の試験に向けて卒業式終了後そそくさと帰宅した和馬に電話することにした。
「もしもし、和馬?僕だけど・・・。一応卒業おめでとう。で、試験勉強中申し訳ないんだけど、ちょっと相談があるんだ。」
「相談だって?学からとは珍しいな。でも俺は明後日また試験なんだ。今、学にアドバイスできる余裕はないかもな。」
「ごめん、急に。あの、実は原田さんの事を好きになってしまったんだけど・・・」
僕がその次の言葉を告げる前に、和馬は僕の言葉を遮った。
「何?卒業記念にアタックするとかやめてくれよ、俺は合格したら原田さんに告白しようと思ってたんだから。」
「僕が東京に行く前に告白しようと思うんだ・・・」
僕はとっさにウソをついてしました。本当は狂おしく恋して動揺している自分が不安で、ただ和馬に自分の気持を聞いていて欲しかったのだ。他でもない親友に理解してもらおうと思っていた。でも、できなかった。
「俺、原田さんのために高校時代は彼女つくらなかったんだぜ?わかってくれよ。」
「うそつけ、もてなかっただけじゃないの?」
僕は軽口でごまかした。和馬は、真剣に呟いた。
「実は本気なんだ。ただ、大学に合格しないと言う勇気が出ないんだ。学ならわかってくれるよな。」
「わかったよ、結構本気だったんだよな。僕は和馬がふられたら告白することにするよ。勉強中電話して悪かった。試験うまくいくといいな、応援してるよ。合格したら連絡くれよ。」
そう言って電話を切った。親友を裏切るような会話で、申し訳なく思いつつも、結果として、逆にその後ろめたい気持ちが僕の気持ちを高揚させた。その夜はベッドに入っても、なぜ夏美がOKしたのか理解できなかった。事実、僕は夏美に告白したあと彼女に恋をした。喜びよりもそれまで感じたことのない不安が自分を包んでいつまでも寝れなかった。卒業式の夜なのに、その感慨を感じることもなかった。自分を襲う不安の中身には、えもいわれぬ和馬への背徳感も含まれていたかもしれない。
翌日の午後、夏美と高校のある通学駅で落ち合った。たわいもない話をしながら道を歩いていたが、雪がちらついてきたので喫茶店に入ることにした。向かい合わせの席に着いたとたん、僕はいかに自分が夏美のことを好きなのか、延々と解説を始めてしまっていた。夏美がいかに美しいか、どの角度から見るのが好きか、立ち振る舞い、言葉遣いなど、ほとんどこれまで接触が無かったにもかかわらず、自分がこれまで見た彼女の記憶の断片まで拾い出して、僕は話しつづけた。自分でも驚くほどのディティールを交えて、思いを伝えるための言葉が溢れ出した。やがて、どのぐらい時間が経ったのだろうか、自分ばかり話し続け、夏美が一言も話していないのに気づき、僕は我に返って話を止めた。
「ごめんね、僕ばかりしゃべっちゃって。」
「ううん、クールだと思っていた相田君の一面が見れて良かった。思ったより情熱的かも。」
そう言って少し微笑んだ。
「僕ばかり興奮しているけど、原田さんは落ち着いているんだね。」
「ううん、私もすごくドキドキしてるの、昨日から。そう見えないかしら?」
「なんだか経験豊富で落ち着いて見える。僕は今まで女性と付き合ったことないから、余計そう感じるのかも。」
「私もよ。」
「ええっ、そうなの?信じられない。でもいろんな人からモテたでしょう?」
「モテたというか・・・何度か告白されたり、デートらしきものをしたことはあるかもしれないけど。」
「それを付き合ってるっていうんじゃないのかな。」
僕は不意に芽生えた嫉妬からか、少し意地悪な言い方をした。そこで会話が止まってしまった。これはまずいことを言ってしまったと思い、僕はうなだれた。優等生でクールだと思っていた自分がひどく子供っぽく感じられ、自己嫌悪の感情で頭が一杯になってしまった。冷静に考えれば、僕がこれまで経験したことのない類の感情なのだから、そもそもうまく気持ちををコントロールできなくて当たり前なのだけれども。
夏美はうつむいている僕に向かって、少し時間をおいてから話し始めた。
「実はね、昨日、校門のところで告白される予感がしていたの。それも相田君から。」
不意の言葉に驚いて僕は顔をあげた。今度は夏美が僕の目を見つめてゆっくり話始めた。それは「なぜ」と問いかけようとしている僕を諭しているかのように。
「付き合う、っていったいどういうことを言うのかしら。デートすることなの?愛している、って言い合うことなの?私は違うわ。私はね・・・ううん、私にとってはね、恋する気持ち、それだけなのよ。」
ごめんと言いそうになった僕の気配を察知したかのように、夏美は唇に指を立てて僕の言葉を制止した。
「私は卒業式が終わって、一緒に帰ろうという友達の誘いを断って、校門に向かったの。予感を現実に変えるために。そして私は校門で待っている相田君を見た瞬間、確信したわ。私、相田君に恋したの。そう、あの瞬間から。」
店を出ると、まだ3月、いつの間にかあたりは薄暗くなっていた。駅へ戻る僕たちは言葉を交わさなかった。3年間通った通学路の途中、僕が左手を差し伸べると、夏美はその冷たい右手で僕の手を握った。雪はまだちらついていた。改札を抜け、ベンチに座り、お互い上りと下りの電車を待っていた。そろそろ別れを言おうとして、横にいる夏美を見た。その刹那、手をつないだままだった二人の目が合った。
僕は夏美にキスをした。
長い時間キスをしていたと思う。2本ぐらいの電車が通りすぎていった。電車を待つ人たちの目の前で、僕たちはその間ずっと唇を重ねていた。やがて陽が落ち、僕は夏美の電車を見送った。
その後、夏美と会わなかった。どちらかが連絡をとれば、再会したかもしれない。でも僕たちはそれをしなかった。二人ともその時共有した数時間が永遠でもいいと思っていた。今思えば、彼女に対して一度も夏美と呼んだことさえなかった。たった一日、校門で出会ったところから僕たちの恋は始まり、キスした駅のベンチで終った。短いかもしれないが、確実に存在した時間だったし、至高の瞬間だった。