Act.9-264 ペドレリーア大陸・ラスパーツィ大陸臨時班派遣再始動〜図書館の幽霊〜 scene.3
<三人称全知視点>
その日の夜のこと、真夜中に目が覚めてしまったミレーユは自らの体を襲う違和感に思わず背筋を震わせた。
昼間のサンドイッチが塩辛かったのか、食後と夕食で水分を取り過ぎたことが仇となり、トイレにいきたくなったミレーユだったが、あの怪談を聞いたこともあって、夜に一人でトイレに行くのは少しだけ怖く、寝返りを打ちそのまま寝てしまおうとするも、我慢しきれずにミレーユは起き上がった。
夜に一人でトイレに行くのは少しだけ怖く、ライネを起こそうかと一瞬頭を過った……が、ここでライネを呼び起こしたことが切っ掛けで万が一体調が悪くなってしまったら、自分だけで部屋で寝る方が怖い思いをするからと思い留まり、室内靴に履き替えて、一人で部屋を後にする。
さて、壁に活けられた蛍躑躅がぼんやりと幻想的な明かりを放つ中、ミレーユは廊下に残されたちょっとした暗がりからフィリイスの本に描かれていたような恐ろしい何かが出てくるのではないかとビクビクしながら廊下を進み、特に問題も生ずることなくトイレに到着した。
「やっぱり、勇気を出して正解でしたわ。これで気持ちよく眠れそう……今から戻るのですわね。で、でも、帰るだけですし、さっさと行けば問題ない筈ですわ」
行きはよいよい帰りは怖い――トイレから戻ってぼんやりと光に照らされた闇の世界に視線を向けたミレーユに、不意に恐怖が蘇ってきた。
自分を励ますように言い聞かせ、部屋に戻り始めたミレーユだったが、そう時間も経ないうちに喉に渇きを覚えた。普段の部屋の水差しが朝に用意されたものなのか夜に用意されたものなのか不安だったミレーユは(実際はライネが夜に用意した後、朝に水を入れ替えている。流石は忠臣である)部屋に戻るよりも食堂が近いため、食堂に寄ってから部屋に戻った方が良いと判断した。
それから数分後、食堂の入口に到着したミレーユは鼻を鳴らすような、女の子が泣いているような音を聞いた。
その瞬間、ミレーユの脳裏に昼間に聞いた話が蘇る。
――自ら命を絶った女生徒の幽霊の話が!?
「ま、まさか、ありえませんわ! そんなの絶対に……絶対に!」
圓が幽霊は存在するとかなんとか言っていたが、信じたくない話は頑なに思い出さないように記憶に蓋を閉じるミレーユである。
踵を返して逃げ出すべきだった……が、ミレーユは見てしまった。音が鳴っている方向を――。
「ひっ!」
思わず、ミレーユは息を呑んで固まった。
そこにいたのは一人の少女――年の頃は、恐らくミレーユより少し年下といったところだろうか?
ボサボサに伸びた髪、ボロボロにすり切れた服と薄汚れた肌はセントピュセル学院の学生には相応しくない、貧民街の住人のような格好だった。
しかし、ミレーユの目を引いたのはそんなことではなく……少女の体中を染め上げる赤い色だった。
食堂を照らす明かりは、決して強くはないが、頭から上半身にかけて滴る赤い液体はまるで血のようで……ミレーユの目に鮮烈に映った。
「……ひぃいいいっ!」
ミーアは絶叫したつもりだったが、口から出てきたのは掠れたようなか細い悲鳴だけだった。
――あっ、あれは……ち、血塗れの女学生の幽霊!!?
よたよたと食堂から転がり出るとミレーユは自室を目指して走り出した。
スリッパがどこかに飛んでいくことを気にせず裸足で廊下の床を蹴って全力で走ろうとするが体はなかなか前に進んでいかなかった。
すたすたという足音が、少しずつミレーユに近づいてくる。その足取りはミレーユより確実に早い。
徐々に近づいてくる足音に泣きべそをかきながらミレーユは自室に逃げ込んだ。
「ライネっ! ライネぅっ!」
弱々しい悲鳴を上げながらライネのベッドに飛び込む。しかし、何故かベッドには誰もいなかった。
「ライネ、ど、どうしてっ! どうして!? いないんですのっ?」
混乱するミレーユに更に追い打ちをかけるように鍵をかけ忘れたドアがガチャりと音を立て、真っ赤な何かに染まった少女が入ってくる。
こちらを覗き込む少女の顔を見たミレーユはかくん、と意識を失った。
◆
ゆさ、ゆさ……体が揺すられる感触でミレーユは目を覚ました。
なんだかとても怖い夢を見たような気がしつつゆっくりと目を開けるとの前に自分を覗き込む少女の幽霊の顔が見え、ミレーユは再び意識を手放すが……。
「……あの、寝たふりしないでください」
遠慮がちにかけられたその声を聞き、ミレーユは辛うじて踏み留まると恐る恐る少女を観察した。
上目遣いにミレーユを見つめている少女の表情に乏しい顔には僅かばかりの戸惑いの色が見て取れ、ミレーユは目の前の少女が幽霊ではないことを察した。
と同時にミレーユ手を伸ばし、少女の髪に触れる。
そこについた粘り気のある液体は血というにはあまりに赤過ぎる。
「ああ、なるほど、これは……白石板に板書するための樹液ですわね」
「……何かは分かりませんが、容器をひっくり返してしまいました。でも、ちゃんと片づけましたから、心配しないでください」
「なるほど、そういうことですのね……」
生真面目な少女の返答を聞き、呟きつつミレーユは考える。
――幽霊ではないとしたら、彼女は一体何者なのかしら?
見たところ帝都の貧民街にいてもおかしくはない風貌――何日も洗っていないであろうボサボサの髪と擦り切れたボロ布のようなワンピース、やせ細った手足。
一見すると食うに困って、学園に忍び込んだ子供のような印象の少女だが。
「それで、一体ここには何をしに来ましたの?」
「……これを落としたみたいだったから、届けに」
少女が差し出してきたのは先ほどまでミレーユが履いていた室内靴だった。
「まぁ、わざわざこれを届けに?」
「いえ、それだけじゃありません。お願いがあってきました」
――食べ物でも分けてほしいのかしら?
などというミレーユの予想を余所に、少女は「ボクがここにいること、誰にも言わないでください。お願いします」とスッと頭を下げた。
「ボクのこと、秘密にしてたってバレたら、酷い目に合うって知ってます。でも、どうかお願いします。誰にも言わないで、お願いします」
「ふふふ、ええ、もちろんですわ。あなたのこと、秘密にしておいて差し上げますわ」
ミレーユは、優しげな笑みを浮かべて言った。
この見るからに怪しい少女の頼みをミレーユがあっさりと聞いたのには理由がある。
このような貧しそうな風態の少女が学院都市セントピュセルに侵入するのは不可能だ。しかし現に少女は学院都市セントピュセルの厳重な警備を掻い潜ってこの場にいる。
もしそのようなことが可能な者がいるとすれば……更にどこからどう見ても女の子なのに少年のような一人称を使い、あわよくば少年のように振舞って身分を偽りたいとすれば……そういった情報を勘案すれば、彼女が『這い寄る混沌の蛇』の関係者として学院都市セントピュセルに侵入しようとしているのであれば、騙されたフリをして逆に騙し返すのが得策であるとミレーユは考えたのである。……まあ、そもそも前提から間違っている上に、性別が女性なのにボクを使う前例はいるのだが……。
「……へ?」
その答えに少女は驚いた顔をした。
「それよりあなた、もしかして、お腹が空いているんではないかしら?」
ミレーユは机の上に置いてあったクッキーの入った小箱を手に取ったのだが……。
「いえ、大丈夫です。減ってません」
「へ? でも……」
「本当です。減ってません」
その少女の言葉を否定するようにきゅるるる、という切なげな音が鳴った。
「…………」
無言で少女の方を見つめるミレーユ。しかし、少女は表情一つ変えずに、寧ろ胸を張った。
「嘘じゃありません。なんでしたら、ボクの尊敬するお祖母様のお名前に誓います」
……まあ、随分と安いお祖母様のお名前ですわ!
ミーアは呆れつつも、クッキーを取り出した。
「別に、遠慮することはございませんわよ? ほら、たっぷりありますし……」
「でも……食べ物は貴重な筈ですし」
しかし、少女の言葉とは裏腹にクッキーには熱い視線が注がれている。
「……ボクのこと、黙っててもらうだけで……凄く迷惑かけているし……」
そう言いつつも少女の視線はクッキーに釘付けである。
試しにミレーユは手に持ったクッキーをスーッと横に動かしてみるとそれを追うように少女の顔の向きが変わり、ミレーユがひょいっとクッキーを少女の方に投げると「その上食べ物をもらうなんて……」などといいながらパクっとそれに食いついた。言葉と態度が完全に乖離している。
「おっ、美味しい……お姉様は、慈愛の女神様か何かなんですか?」
鼻を啜りながらそんなことを言う少女に「この子、チョロイですわ」と確信し、愛想の良い笑みを浮かべて「たっぷりあるから、遠慮する必要はありませんわ。とりあえず、今はそれしかございませんけれど、明日の朝になったら、なにかお食事を作って頂きますわね。それと……」と、少女の赤く染まった体を眺めて「お風呂が必要ですわね」と頷いた。
流石にリズフィーナのところに突き出すにしても、こんな汚れたままにはできない。
「ああ、ミレーユ様。良かった、お帰りだったんですね」
そこに立っていたのはライネだった。ミレーユの顔を見て小さくホッと息を吐く。
どうやらミレーユを心配して探しに出ていたらしい。
「ええ、お手洗いに行っておりましたの。ちょうどいいところに帰ってきましたわね、ライネ。すまないのだけど、お風呂の準備をしてもらえるかしら?」
「それは構いませんけれど……ミレーユ様、その方は?」
さて、どう答えた方が良いのかしら? と僅かにミレーユが悩んでいると、少女は混乱したようにミレーユとライネの方を交互に見つめ――。
「え……ライネ、かあ、さま……? それに、今、ミレーユって……え?」
「えーと……?」
ミレーユは状況を理解できずに困惑の表情を浮かべた。
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