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月の雫

作者: 秋月キアラ
掲載日:2008/04/02

【第一章:禁じられた森の夜】


人々が、まだ神や妖精の存在を信じていたころの話だ。

ある山あいの村には、古くからひとつの掟があった。


──禁じられた森へ入ってはならない。


村の外れにある鬱蒼とした森。

そこには不思議な力が宿っているとされ、代々の村人は決してその中へ足を踏み入れようとはしなかった。

けれど、なぜ入ってはいけないのか。その理由を知る者は、もう誰もいなかった。

ただ「入ってはいけない」。そう言い伝えられてきただけだった。


今宵は満月。

澄んだ空に浮かぶ月が、冷たい光で地上を照らしていた。


その森へ、ひとりの若い男が迷い込んだ。

名はギルバード。旅の吟遊詩人だった。


彼は目的地へ向かう途中で道に迷い、気づけば森の中にいた。

戻る術はなく、どこまでも続く木立の中で立ち尽くしていた。


見上げれば、枝の隙間からのぞく満月。

吐く息は白く、森はしんと静まり返っている。


足元に落ちた枯葉を踏みしめる音だけが、世界の中に響いていた。

風がひとすじ吹き抜けると、木々がわずかに揺れた。


ギルバードは立ち止まり、耳を澄ました。


──さらさら……。


どこからか、水の流れる音が聴こえる。

ちょうど喉が渇いていた彼は、音を頼りに森の奥へと歩き始めた。


やがて、開けた場所に出た。

そこには、小さな湖があった。


静寂の中で、湖面はゆっくりと揺れていた。

月の光を反射して、銀のように煌めいている。


まるで、この世界だけ時間が止まっているような静けさだった。


ギルバードは湖のほとりに膝をつき、水を手ですくおうと身をかがめた──


──そのとき、彼の目に不意に映ったのは、湖の中でゆらめく“誰か”の影だった。


 ◇ ◇ ◇


【第二章:湖の出会い】


湖面に揺れる影。

それは、人のような形をしていた。


ギルバードは思わず身を引いた。

月明かりの下、湖の中央あたりにひとりの女性がいたのだ。


──水浴びをしている……。


その姿は、あまりに幻想的だった。

銀色の長い髪が水面に広がり、白く透き通る肌に月光がやさしく降り注いでいる。

その肌は水の粒を纏い、宝石のように輝いていた。


ギルバードは慌てて木陰に隠れた。

見てはいけない──そう思いながらも、目はどうしても彼女から離せなかった。


「……なんという、美しさだ……」


気づけば、彼は息をするのも忘れていた。


そのときだった。


足元の小枝をうっかり踏みつけてしまった。

「パキンッ」

小さな音が、凍りついた空気に鋭く響いた。


女性が動きを止めた。

そして、音のした方──つまりギルバードのほうへとゆっくり近づいてくる。


彼は逃げることもできなかった。

身体が金縛りにあったように、動かない。


──まるで石になったかのように。


そのあいだにも、女性は何も身につけぬまま歩み寄ってきた。

その姿は堂々としていて、羞じらいもなく、ただ月の光の一部のようだった。


やがて彼女はギルバードの目の前まで来た。


美しいその瞳が、まっすぐ彼を見つめている。


「……ご、ごめんなさい……見ていたわけでは……いや、見てました……でも、怪しい者ではなくて……」


しどろもどろになるギルバードに、彼女はただやさしく微笑んだ。


その微笑みは、まるで女神のようだった。


「あなたは、神さま……ですか?」


思わず問いかけた彼に、女性は首を横に振った。


その瞬間、風が吹き抜け、彼女の髪が揺れる。

香る──花のような、どこか懐かしい香りが、ギルバードの鼻をくすぐった。


「じゃあ……あなたは、何者なんですか? こんな夜更けに……」


女性はゆっくりと口を開いた。


「わたしの名前はチュベローズ。この近くに住んでいるの」

「あなたのお名前は?」


「ギルバード。旅をして詩を詠んでいます。吟遊詩人です」


「まあ、吟遊詩人さん……本物を見たのは、あなたが初めてよ。お願い、あなたの詩を聴かせて」


「僕の詩を聴いてくれるなんて、光栄です……けれど、先にお願いがあります」


「何かしら?」


「……服を、着ていただけると……目のやり場に困ってしまって……」


「あら……ごめんなさい。いつもこんな格好だから、つい忘れてたわ。少し待ってて」


そう言って彼女は森の奥へと姿を消した。


しばらくすると、湖のほとりに戻ってきた彼女は、

まるで白い花が咲いたような──純白のドレスに身を包んでいた。


「お待たせ」


「……とても似合っています」


「ありがとう。それでは、あなたの詩を聴かせて」


ギルバードは腰にかけていた小さなハープを手に取り、静かに奏で始めた。

月と湖と、彼女と……そのすべてを包みこむように、言葉が音に乗って流れてゆく。


 ◇ ◇ ◇


【第三章:森の目覚め】


ギルバードの細い指が、ハープの弦を撫でる。


音は静かに、湖面を渡る風に乗って漂っていく。

そして、詩が始まった。


 月光舞ふ天(あま)の主は

 地に白き輝きを落とし

 さながら貴女を映し出す


 我が詞(ことば)は風とともに巡り

 野を駆け 空を越え

 つひには貴女の耳を撫でん


 天に昇る水は心を映し

 貴女と我との縁を結び

 久遠の時を静かに刻まん


 命の源 紅(くれない)の潮は

 熱き祈りを満たし

 至福の果実を育まん


 この夜の邂逅(かいこう)に

 神の祝福あらんことを

 われ、ここに祈りを捧ぐ


詩が終わると、森は再び静けさを取り戻した。


チュベローズは、深く息を吸い込んだ。


「……素敵な詩。風がちゃんと運んでくれたわ。ありがとう、ギルバードさん」


「気に入ってもらえて光栄です。あなたのために詠いました」


彼女は少し瞳を伏せ、そしてぽつりと告げた。


「……ねえ、ギルバードさん。外の世界って、どんなところ?」


「え?」


「わたし、この森から出たことがないの」


その言葉に、ギルバードは思わず大きな声を上げた。


「一度も、ですか?」


「ええ。一歩も外へ出たことがないの」


彼女はそれを、不思議でも悲しげでもなく、ただ事実のように語った。


「ねえ、もしできることなら……わたしを、森の外に連れていってもらえないかしら?」


ギルバードは迷わなかった。


「ええ、もちろん。僕でよければ──どこまでも連れていきます」


チュベローズは微笑んだ。

その笑顔は、月の光よりもまぶしく、そしてどこか寂しげでもあった。


その瞬間だった。


森が、揺れた。


風もないのに、木々がざわめく。

湖面が細かく波打ち、葉の隙間から冷たい風が吹き抜ける。


「……何だ? 風が……変だ」


ギルバードが周囲を見回す。

チュベローズの表情がこわばっていた。


「お爺様……怒っていらっしゃるのかもしれないわ……」


「お爺様?」


彼の問いに、チュベローズは答えなかった。

ただ笑みを浮かべ、ギルバードの手をとった。


「行きましょう。今ならまだ間に合うかもしれない」


彼女はそう言って、森の奥から続く道を駆け出した。

ギルバードは彼女の手をしっかりと握り、後を追う。


──風が強くなる。

──森が揺れる。

──枝がうねり、草が唸る。


森が、目覚めていた。


そしてその意志は、二人の逃走を“拒絶”していた。



 ◇ ◇ ◇


【第四章:精霊の裁き】


森は、生きていた。

そして、怒っていた。


二人が森の奥を走るたび、木々はうねり、枝はのたうち、道を塞いだ。

進もうとすれば、根が浮き上がり、茂みが絡みつく。

それでもチュベローズは手を引き、ギルバードはついていった。


「他に道は……?」


彼が叫ぶように問いかける。


「道はどこも同じ。今は、森じゅうが目覚めているの」


「まるで、意思を持ってるようだ……」


「そのとおり。森は生きていて、考えているの。わたしたちを、拒んでいるのよ」


信じがたい話だった。けれど──


目の前で、枝がまるで蛇のようにうねっているのを見て、ギルバードはもう疑わなかった。


突然、チュベローズの体に枝が巻きついた。


「ギルバードさんっ!」


巻きついた枝はぐんぐんと締まり、彼女の身体を持ち上げ、宙に吊るす。

白いドレスが裂け、透き通る肌に木の鱗のような影が走る。


「助けて……!」


「くっ……!」


ギルバードは駆け寄り、枝を引き剥がそうとする。だが、力がまるで通じない。


「わたし……きっと、外に出ようとした罰なのね……」


彼女の瞳には涙がにじんでいた。

そして、彼女の身体が再び枝に引きずられ、闇の奥へと運ばれていく。


ギルバードはその姿を追い、枝葉をかき分けて走る。

必死で、何も考えず、ただ彼女の名を胸の内で呼びながら──


気づけば、彼は不思議な空間に立っていた。


木々が開け、広場のようになったその場所は、コバルトブルーの光に包まれていた。


その中心に、チュベローズがいた。

彼女の傍らには、小柄な老人がひとり──白い髭を蓄え、杖を手にして立っていた。


「ここは……?」


ギルバードが呟くと、老人が言った。


「禁断の森の最奥──人の踏み入ってはならぬ地じゃ」


「あなたは……?」


「わしは森の長。この森に棲むすべての命の父である」


チュベローズはうつむき、静かに言った。


「ギルバードさん。わたし……やっぱり森の外へは、出られないみたい」


「どうしてだ……なぜ?」


ギルバードが老人に詰め寄る。


「彼女が望んでいる。ただ、それだけのことだ。なぜ、それを拒む?」


老人の瞳は、どこか悲しげにさえ見えた。


「森の外に出ることは、掟に反する。森は彼女を護ってきた。いまさら人の世界など、行くべきではない」


「掟……それだけのことで、夢を閉ざすというのか」


「掟は夢の対価を知っておる。そなたは何も知らぬ」


その言葉に、ギルバードは黙った。


だが、次の瞬間──彼はチュベローズの手を取り、走り出した。


老人も、チュベローズも驚き、動けずにいた。


──森が、再び震える。


今度は、四方から気配が近づいてくる。


草がざわめき、低くうなるような声が混じり、やがて──


闇から現れたのは、狼たちだった。


銀の毛並みを月光に濡らした群れ。

そのうちの一頭が、低く告げる。


「その娘を連れ出すこと、それは──大罪である」


他の狼たちも、声を合わせて続けた。


「森の掟を破る者、万死に値す」


「咎人に、死を……咎人に、死を……」


ギルバードは、彼女をかばうように前に出る。


「なぜだ! なぜ、この人が……この命が、咎だと言うのか!」


狼たちは応えるように歌う。


 《おまえは知らぬ この森の記憶を

 この娘が何者であるかを

 悲劇を 咎を 断たれし過去を

 森を出た者に 祝福は訪れぬ

 ゆえに……咎人に、死を!》


次の瞬間、狼たちが襲いかかった。


ギルバードの体に爪が食い込み、鮮血が夜を染める。


彼は地に倒れた──


その上に、チュベローズが覆いかぶさり、叫ぶ。


「やめて! もうやめて……彼は何も悪くないの!」


その声に、群れは動きを止めた。


彼女は静かに言葉を続ける。


「外に連れて行ってほしいと頼んだのはわたし……罰を受けるなら、わたしだけにしてください」


狼のひとりが静かに口を開いた。


「娘よ。この先にあるもの、それが幸福であるとは限らぬ」


「それでも、行きます」


「ならば、行け──」


しかし別の狼が怒りをあらわに言った。


「それは許されぬ。森を裏切る娘に、死を──!」


狼が跳びかかる。

その鋭い爪が彼女の胸を裂き、白い肌を紅に染めた。


血が、月光の下で静かに流れる。


そのとき──ギルバードが、震える声で口を開いた。


「おお……森の者たちよ、聞いてくれ……我が詩を──」


彼は血に濡れた手で、なおもハープを取り、傷だらけの身体で詠い始めた。


 我はいく 自らのために

 我はいく この身が裂けようとも

 我はいく 貴女との誓ひを守るために


 咎を問ふ者よ、怒れる者よ

 されど我は許さぬ

 己の無力と、運命と

 世界の不条理を、我は許さぬ


 ゆえに、我はいく

 すべてを敵に回しても


狼たちは静まり返った。


半数が頭を垂れ、言った。


「──ならば、行くがよい」


しかし残りの半数は牙を剥き、唸り声を上げる。


「許されぬ!」


狼たちは争いを始めた。

それを振り返ることなく、ギルバードはチュベローズの手を握り、走った。


どこまでも、出口を目指して──


 ◇ ◇ ◇


【第五章:約束の代償】


森は、ふたりを試していた。

その意志は、まだ消えていなかった。


──それでも彼らは走った。


ギルバードの身体は既に限界に近かった。

背中を爪で裂かれ、腕には噛み痕が残る。

だが彼は、チュベローズの手を離さなかった。


「もう……少し……」


ギルバードが息を切らしながら告げると、前方に光が差し込んでいた。

そこは森の出口だった。


けれど──


チュベローズの足が止まった。


「……もうだめ。身体が、言うことをきかない……」


彼女の顔は青白く、唇はかすかに震えていた。


「しっかりして。もうすぐなんだ。ここを越えれば……!」


ギルバードが引こうとしたその瞬間──


チュベローズの手の感触が、ふっと消えた。


「……っ、チュベローズ!」


振り返ったその先に、彼女の姿はもうなかった。


代わりにそこにあったのは──一輪の、白い大輪の花。


純白の花弁が、静かに揺れていた。


ギルバードはその花をそっと拾い上げた。

顔を近づけると、懐かしい香りが鼻をかすめる。


──あの夜、彼女の髪から漂っていた芳香。

忘れようもない香りだった。


「……チュベローズ……」


その名を呼ぶと同時に、ギルバードの目から、ぽろぽろと涙が零れた。

涙は花びらを濡らし、地面へと落ちていく。


そのときだった。

地面に落ちた涙が、まばゆい光を放ちはじめた。


光はやがて辺りを包み込み、広がっていく。

そして、静かに咲いた。


──無数の月下美人の花が。


白く、純粋で、夜にだけ咲くその花々が、ギルバードを囲むように咲き誇っていた。


彼は、抱きしめるようにして花を胸にあて、地面に膝をついた。

そして、もう一度、最後の詩を口にした。


 月の麗(うるは)しき夜なれば

 出逢ひの夜なれば

 別れの夜なれば


 この闇のなか

 星は瞬(またた)き

 何ごとかを語らんとす


 されど我は聞かず

 知れず

 もはや何も、わからぬ


 されど、導きの光は

 月の手により 天を昇る


 われは貴女を、忘れまじ

 その手を、逃がさじと

 握りしも──


 指の隙より、貴女は去りぬ


 涙は地を濡らし

 汚れを知らぬ その瞳は

 もはや我を映さず


 されど、貴女の声は

 セイレーンのごとく我を惑わす


 ──すでに、貴女は……


 星の澄める夜なれば

 さびしき夜なれば

 かなしき夜なれば


 我は祈らん

 貴女を忘れぬように


 その声を手放さぬように


 貴女が消えぬよう

 この手を強く、強く握りしめん


 ──けれど、貴女は逝きにけり


 さらばを、言へぬままに


 されど、さらばとは言はじ


 我は捧ぐ

 心の奥の信愛を


 そして、感謝を──


詩が終わると、月がギルバードをやわらかく照らしていた。


彼の目には再び、涙が浮かぶ。


──そのときだった。


風がやさしく吹いた。

そこには誰もいないはずなのに、どこからか声が聴こえた。


「私も、あなたに出逢えてよかった……ありがとう」


それは、確かにチュベローズの声だった。


ギルバードは、空を見上げた。


夜空に浮かぶ満月は、静かに、すべてを見守っていた。



 ◇ ◇ ◇


【終章:月の雫】


月明かりの下、ギルバードはしばらく動けずにいた。

胸に抱いた白い花は、まだ温もりを残しているようだった。


その温もりが、彼女の存在を証(あかし)している。


彼はもう、彼女が何者だったのかを知っていた。


──チュベローズ。

その名は、夜にひっそりと咲く、月下美人の別名。


夜にしか咲かず、夜が明ければしぼんでしまう、儚い命の花。


その姿は、まさに彼女そのものだった。


妖精でも、神でもない。

人でもない。

ただ、夜の静けさに咲き、誰にも見られることなく消えてゆく──

それが、彼女の正体だったのだ。


けれど、ギルバードは確かに彼女と出逢い、言葉を交わし、手を取り合った。


それは幻ではない。

確かに、そこに「誰か」がいた。


「ありがとう……」


ギルバードは、もう一度小さくつぶやいた。


風が頬をなで、森の葉がやさしく揺れる。


空にはまだ、満月が浮かんでいた。


銀の光が彼の涙を照らす。

それはまるで、空の高みからひとしずく、月の雫が降りてきたかのようだった。


そして彼は、最後の詩をそっと口ずさんだ。


 月の雫 こぼれ落ち

 夜の静寂(しじま)に消ゆるとも


 われは忘れず

 貴女を知りし この夜を


 掌(たなごころ)に咲いた 白き花

 それは貴女の記憶のかけら


 誰にも気づかれずとも

 それでも 咲いていたことを


 この胸に刻みて われはゆかん

 貴女の祈りを 風にのせて


 月の雫よ──


 どうかまた

 いつかこの手に 帰りきたれ


夜が、少しずつ明けていく。


鳥のさえずりが遠くで響き、空がわずかに朱に染まり始めた。


ギルバードは立ち上がり、そっと花を胸元にしまった。


もう一度、あの香りが漂った気がした。


それは──彼女の“さよなら”ではなく、“またね”のように思えた。


そして彼は歩き出す。

新しい朝へ。

ひとりではない心で。


【Fin】

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― 新着の感想 ―
[一言] ファンタジーらしいすごく素敵なストーリーでした。文章から世界観とか独特の雰囲気とかがよく伝わってきて、何より詩がとても素晴らしかったです!! ラストは特に感動しましたし、もう胸一杯です♪ …
2008/04/03 02:26 退会済み
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