第四話 認めなきゃいけないみたい
学長室を出て歩きながら、私から週刊誌を受け取ったニグリスは嬉しそうにパラパラとめくって見ている。その週刊誌は芸能界のスクープなどを載せているものだ。
「そんな下世話なの見て面白い?」
「げせわ……?それはどういう意味?」
ニグリスは不思議そうな顔をして私を見た。
「下品な話、って感じかな?」
改めて説明しようと思うと難しい。
「どんな漢字を書くの?」
「上下の『下』に世界の『世』、お話の『話』」
「なるほど……」
ニグリスはどこから出してきたのかペンを出して週刊誌にメモをした。こうして見ると本当に異世界の人みたい。
「あ、さっきの質問。これで日本の人達の興味、関心事とかわかりますし、日本語の勉強にもなるので貴重なものなんですよ」
二グリスは週刊誌を大事そうに抱えた。日本人よ、こんな下世話な週刊誌が文化研究の対象になってますよ……!
そう思いかけて私は首を振った。ダメダメ。これじゃあここが異世界だって思い込んでるようなものじゃない。異世界だなんて小説などフィクションの中の話、あるわけない。いくらこの人達の演技がすごいからって騙されないようにしなきゃ。
ニグリスは建物の一室に立ち寄って週刊誌を本棚に収めた後、私と共に外に出た。外は眩しいくらいの晴天だ。両脇に木が植えてある広い通りを歩くと大きな門が見えてきた。門の脇に小さな扉があって、私達はそこから外に出た。
「さて、まずはどこに行きましょうか?」
外に出ると舗装されていない土の坂があり、下へと続いている。歩きづらいったらない。
「とりあえず酒が飲みたいんだけど」
「えぇ!?昼から!?」
「何が悪いのよ。休みの日なんだから」
ニグリスは目を丸くしてこちらを見ている。
「あ、それともまだニグリスは未成年?」
「し…失礼な!俺は28歳だ!」
あ、意外と年いってる。もっと若いかと思ってた。
「ふーん、じゃあ問題ないじゃない」
そう言いながらどんどん坂を下っていく。足下をしっかり見ていないと足を取られそうだ。
「佳菜は何歳?」
「女に年齢を聞くのは失礼よ」
「あ…ごめん……」
ニグリスは私の言葉に見るからにしょんぼりしてしまった。
「嘘よ。私は31歳」
「へ~見えないね!俺と同い年くらいかと思ったよ!」
「またそんなお世辞を……」と言おうと思ったが、ニグリスはお世辞を口にしているようには見えない笑顔を浮かべていた。なんか犬みたい。
「あ、俺つい敬語が……」
「いいわよ、別に」
「本当?ありがとう!どうも敬語が苦手なんだ。難しいよな」
「そんなんで働いていけてるの?」
「うーん、俺が相手にしてるのは初等科の生徒達だから日常会話には困ってないんだけど、教える時に苦労してるんだよね。教科書がないとさっぱりだよ」
そういえば私がさっきまでいたところは学校だって言ってたっけ。ニグリスもこんな顔で先生なんだな。
「さぁ、街に入るよ。まずは酒場に行こうか」
舗装されていない道が危ないからと足下ばかり見ていたが、いつの間にか街に入っていた。私は顔を上げると愕然として思わず立ち尽くした。そこには石で作られた家が並んでいた。通りを歩く人々は皆色とりどりな髪色と瞳の色をしているが私のように黒髪で黒い瞳のものは一人もいなかった。それなのにみんな「こんにちは」などと日本語を話している。
「嘘でしょ……」
私は口に出して呟いていた。ここはどう考えても日本じゃない。こんなテーマパークあったか?だとしても日本人がいないのはおかしすぎる。
じゃあここは海外か?いや、海外にしてはみんな日本語を話しすぎている。
それに何より決定的なことは、見たこともない動物がふよふよと人間の周りを飛んでいる、ということだ。狐とうさぎを掛けあわせたような動物が半透明で飛んでいる。
「あ…あれは?」
「あ、あれは精霊。俺は異世界召喚ができるけど、精霊召喚ができる人はあぁやって精霊を連れて歩くことが多いんだ」
精霊……
「触れるの?」
「ううん。触れるのは召喚した本人だけ。俺達が仮に触ろうとすると通りぬけちゃうし、もっと言えばそうされるのを精霊は嫌がるから攻撃されちゃったりするかもね。佳菜も気をつけて」
これも手品の一種?いや、もうこの光景を目の前にして言い訳はできない。認めなければならないのだろう。ここは異世界。私は本当に召喚されてここにやってきた、と考えるのが一番辻褄が合う。なんだか頭がクラクラしてきた。
「とりあえず酒……」
「あ、そうだったね。行こう」
ニグリスの後について私は街を歩いた。いたるところに精霊がいる。街行く人は私のことをジロジロと見ている。
「着いたよ」
ニグリスは一軒の店の扉を開けた。
「いらっしゃい」
白髪で目つきの悪いお兄さんが私達を出迎えてくれた。テーブルに着くと置いてあったメニューを見る。ちゃんと日本語で書いてある。ただ、そこに載る名前は知らないものばかりだ。
「私甘い酒は飲まないんだけど、適当に頼んでくれる?」
「わかった」
ニグリスはブイミョールというお酒を頼んだ。変な名前だけど大丈夫だろうか。
「佳菜、顔色悪いけど大丈夫?」
「大丈夫…じゃない」
「えぇ!?」
ニグリスは慌てふためいている。大丈夫なんかじゃない。ここが異世界だとしたら、私は帰れないと言われた?仕事はどうするの?頭が痛い。
ブイミョールが運ばれてきた。透明な炭酸で、口にするとさっぱりとした味。後味がほのかに柑橘系のような爽やかさがある。ちゃんとアルコールっぽい熱さも私の中に入ってきた。
「どう?」
「うん、いい感じ」
「よかった!」
ニグリスは少し安心したような笑顔を見せた。
「あのさ、本当に私、帰れない…のかな」
「うん……今のところは。本当にごめん」
そういえば私はニグリスに召喚されたんだっけ。なんてことしてくれるんだろう。
「私の身体は日本でどうなってるの?」
「身体ごとこっちに来てるから……」
「行方不明、とかになるのかな」
私はブイミョールを一気に飲み干した。
「もう一杯」
店員にもう一杯頼んだ。
「ごめん……心配してる家族もいるよね、恋人とかも……」
私は都内に一人暮らし。実家は京都にあって滅多に連絡もしない。
「家族はたぶんしばらく気がつかない。恋人もいないから大丈夫」
私の気がかりなのは……
「仕事。大丈夫かな」
「佳菜はどんな仕事をしていたの?」
「システム開発の営業。中小だけどね」
「しすてむかいはつ?ちゅうしょう?」
ニグリスにはまったく理解してもらえなかったらしい。そりゃそうか。ここにはコンピューターもなさそうだ。
「そんなに大きくない会社の営業だったの。大学卒業してから新卒でずっと務めててさ…プロジェクトリーダーなんてやってるんだけど」
「??」
ニグリスの顔にはハテナマークがたくさん浮かんでいる。でも、悪いけど今は説明したい気分じゃないの。ただ独り言を聞いてほしいだけ。
「私がいないと仕事回らないと思うんだけど……大丈夫かな」
システム会社だから男ばかりの世界。そんな中で私は必死に努力して仕事をしてきた。おかげで勝ち取れたプロジェクトリーダーの地位。頼りない男達を叱責したりしながらもちゃんと仕事をこなしてきた。仕事も一回インフルエンザにかかった時以外は休んだこともない。女を捨てて仕事に打ち込んできた。
運ばれてきたブイミョールを煽るように飲む。月曜日は取引先との定例の会議がある。水曜日には新規の取引先開拓のために大型の企業とアポも取っている。休めないのだ、本当に。
そう言ってもきっとすぐには帰れないのだろう。わかってる。でも───
ずっと勤めるつもりの会社だった。転職を考えたこともあったが、中小企業ならではのやりがいに私はのめり込んだ。それなのにこんな形で……
私はブイミョールを飲み干して席を立った。
「私、今日はどこで寝るの?」
「俺達の宿舎に部屋を用意してあるよ」
「じゃあ戻る。今日はもう寝る」
「え、観光は?」
「もういい」
私はそう言うとニグリスを置いて外へ出た。空はまだ憎らしい程に青かった。