雨の日の訪問者(2)
「…っつう」
割れるような痛みが走り、顔を歪める。サンドラが慌てて駆け寄って来たかたと思うと、手を握り、顔を覗きこんだ。
「どうしたのっ?」
頭が痛い、息が乱れる。
両手で頭を抱えた時、ぼんやりと見えたのは、こちらをまっすぐに見据える黒猫の瞳。
「無理はしないで下さい」
アレクがベッドの端に腰掛け、安心させるように肩を撫でる。酷く散漫な意識のなかで、彼がこちらを覗きこんでいるのに気がついた。
虚ろ気な瞳と視線があったのを確認すると、アレクはゆっくりとした口調で聞いた。
「僕の声が聞こえますか?」
一拍おいて、私は頷いた。
安心したように彼の瞳が細められる。だがそれは一瞬で、すぐに真剣なそれに変わった。
「分からないことは答えなくて構いません。イエスかノー、それだけで答えてください。…いいですね?」
私は緩々と頷いた。
自分のことなのに、そうではないみたいに、彼の声は遠い。痛みで遠退きそうになる意識のなか、私は必死に彼の声に集中した。なんとなく、そうしなければいけない気がしたのだ。
「あなたは自分の名前を覚えていますか?」
「…いいえ」
「家はわかりますか?」
「…いいえ」
「ここが、どこかわかりますか?」
「…いいえ」
私の言葉に、サンドラが口元をおさえて絶句しているのが見える。こんな訳ありの人物だとは、思ってもいなかったのだろう。
「…では最後に、なんでもいい。ここに来る以前のことで、なにか覚えていることはありますか?」
なんでも…?
その時、私のなかである名前が浮かんだ。自分のことかどうかも分からない、だが暗闇の中ではっきりと聞こえた名前。
「…ミレーヌ…」
「ミレーヌ? それは…」
ミャァ! 猫が鳴くと同時に、私の意識は完全に途切れた。要するに気絶したのだ。
「……」
「ア、アレク? 彼女、どうしたの?」
ぐったりとした彼女の身体を、アレクは抱きしめるようにして支えていた。サンドラは不安げに、アレクと彼女を見比べる。
安心させるように、アレクは柔らかな笑みを浮かべた。
「…気を失ったようです。息はしているし、心配しなくても大丈夫ですよ」
アレクの言葉だけでは不安なのか、サンドラは握ったままの手に力をこめた。だが彼女の目が覚める気配はない。
「…この人、いったい何者なのかしら」
「……」
「さっき目が覚めた時は言えなかったけれど、栄養失調だけじゃないの。彼女の身体…着替えさせる時に見えたんだけど、痣だらけだったわ。まるで、」
そこでサンドラは、堪らず言葉を区切る。迷うように視線を彷徨わせ、呟くように言った。「拷問でもされたみたいだったわ」と。
「…そうですか」
辛そうに視線をそらしたままのサンドラを一瞥して、アレクは腕のなかの女性に視線を落とす。
歳は二十歳前後だろうか。ふわりとした赤茶色の髪に、まっ白な肌。さっき見た瞳は、まるで海のように透き通った青だった。
「……」
支えてないほうの手で、アレクは顎を撫でた。考えごとをする時の彼の癖だが、本人は気づいていない。
「アレク?」
なにか考え込んでいることに気づいたサンドラが、眉をひそめた。
「何を考えているの?」
「いえ、少し…」
睨むように見つめるサンドラに気づいて、アレクは微苦笑した。サンドラの頭を優しくなでる。
「心配しなくても、こんな状態の彼女を見放したりしませんよ。…それより、彼女の持ち物を見せてくれるかい?」
ホッと息をついて、サンドラは部屋の隅へと向かう。アレクは腕のなかで眠り続ける女性をベッドに寝かせ、サンドラの後に続いた。
丁度サンドラのそばに着くと同時に、彼女がこちらへ振りかえる。
「はい、これだけよ。持ち物って言えるほどのものは、何もなかったの。文字通り、身一つで倒れていたから」
「そうですか」
渡された紙袋の中身を、近くにあったテーブルの上に広げる。
出てきたのは、身に着けていたドレス、靴、帽子、そして…、
「…ペンダント?」
「あ、それ。着替えされる時に、傷に当たって痛そうだったから外したの」
サンドラの言葉を聞きながら、アレクはポケットから携帯ルーペを取り出す。テラスの側へ行くと、ペンダントをかざし、ルーペを覗きこんだ。
日の光をうけたソレは、まばゆい輝きを放っている。
「…間違いないか」
一人納得したように呟くと、アレクはもう一度テーブルの上へと視線を戻す。
「……」
ミャァ。
考えこむアレクの耳に、オリヴィアの鳴き声が聞こえた。ふと視線を向ければ、オリヴィアは謎の女性の枕元で丸くなっている。そしてアレクと視線が交わると、もう一度鳴いて顔を伏せた。
「…オリヴィアは、ずいぶんと彼女を気に入ったようですね」
アレクの言葉に、サンドラは無言でオリヴィアを見た。とうのオリヴィアはすでに関心がないのか、顔を上げる気配もない。
「厄介事に巻き込まれたのは、彼女か、それとも僕たちの方なのか…」
「え? なにか言った?」
「いえ、何でもありません」
アレクは首をふった。
手のなかのペンダントはシンプルなデザインで、一見どこにでもありそうな物に見える。だが、
「ペンダントの石はダイヤモンド。身に着けていたドレスや帽子は、どれも仕立てが良い。おそらくは特注品でしょう」
「ドレスは分かっていたけど…それ、ダイヤだったの?」
驚きで大きくなったサンドラの瞳が、二三度瞬いた。
「ええ、僕の見立てが間違いなければですが」
「あなたが間違えるはずないわ」
ペンダントをテーブルに戻して、アレクはドアへと向かう。
「どういった理由で屋敷のまえにいたのかは分かりませんが、どうやら彼女は名のある家の令嬢のようです。ともすれば、ここに来たのも、何か意味があってのことでしょう」
ドアノブに手をかけつつ振りかえると、サンドラが不思議そうにペンダントを眺めている。可愛らしいしぐさに頬が緩む。
「サンドラ」
「なに?」
「大丈夫だとは思いますが、念のためお医者様を呼んでくれますか? 記憶喪失のことも相談したいので」
ペンダントを置きながら、サンドラは頷いた。
「そうね。頭痛もするようだから、もう一度診察してもらった方が安心だわ」
早速電話してくるわね。言い終わる頃には、サンドラはすでにドアの向こう。駆けていく後姿を見送って、アレクも部屋を後にした。