表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

雨の日の訪問者(1)

 最後の記憶は、暗闇の中で聞こえた声だった。


「ミレーヌっ!」


 それが自分を呼んだのか、それとも他の誰かを呼んだのか、それさえも分からない。

 ミャァ。可愛らしい声と、頬にあたたかな温もりを感じて私は目をあけた。なかなか焦点が合わなかったのは、眠りから覚めた直後だからだけではない。目をあけたのに何も見えない。暗闇のまま…そう思ったのは一瞬だった。


気づけば私は、土砂降りの雨のなか地面に横たわっていて、視界は黒猫によって遮られている。その猫が頬を舐めているのは分かるが、退ける気にはならなかった。別にその温もりが恋しかったわけではない。ただそんな気にならなかっただけ。


自分がなぜこんなところに寝ているのか、何者なのか、こんなにも懐いている猫が自分の飼い猫なのか。何ひとつ思い出せないが、なにも考える気になれない。


瞼が重く、頭が痛い。こんなにも水に打たれているのに、喉はカラカラで声が出せない。なんだか身体も痛い気がする。酷い疲労感を感じて、私はもう一度目を閉じた。ついさっき目覚めたばかりの意識は、簡単に遠のいていく。

意識を完全に手放す間際、鈴の音のような可愛らしい声が聞こえた。


「オリヴィア? どうかしたの?」


 私は再び、暗闇へと身をゆだねた。





*****





「気がついた?」


 目をあけると、今度は明るい部屋のなか。くりくりとした可愛らしい瞳が、私を覗きこんでいた。 驚きで何も答えない私を気にする様子もなく、その子は続けた。


「一応お医者様にもみて頂いたら、軽い栄養失調ですって」


九歳くらいだろうか。陶器のようにきめ細やかな肌に、まんまるの瞳。色素の薄い茶髪は手入れが行き届いていて、まるで絹糸のように艶やかだ。


ダークブラウンの地味な色合いのドレスを身にまとっているが、それがかえって愛くるしい顔立ちを際立たせている。間違いなく美少女の部類に入るだろう。


「とりあえず胃に優しいものが良いかと思って、スープを用意してみたけど…食べられそう?」


 可愛らしく小首をかしげながら、その子は言った。

 スープ? 横になったまま首だけ動かすと、枕元のテーブルに用意してあるのが見えた。そこでようやく、自分がベッドの中にいることに気づく。


「起きられない?」


 何も答えないのを勘違いしたのか、その子はベッドによじ登り、私の手を握ると全体重をかけて引っ張り上げた。てこの原理で、私の身体は簡単に起き上がる。


 起き上がった先に見えたのは、白を基調としたシンプルな部屋。シンプルとは言っても、決して殺風景なわけではない。生活に必要な家具はそろっているし、壁には絵画、テーブルには花が活けられている。そのどれもが主張しすぎず、上手く溶け込んで、心地よい空間となっていた。


「はい。カボチャは好きかしら」


 いつの間にかベッドを降りた少女が、スープの入った器をさしだした。なかには湯気を上げたオレンジ色の液体が見える。甘い香り、カボチャのポタージュだ。私は戸惑いつつ、受け取った。


「…あ、ありがとう」


 ようやく口を開いた私に、少女は花のような笑顔を浮かべた。


「いいえ、困ったときはお互いさまよ。それよりも早く食べて、冷めちゃうわよ」


 嬉しそうにベッドの端に頬杖をついて、見上げてくる。可愛らしいしぐさに頬が緩む。

湯気とともにあがる甘い香りに誘われて、私はスープを口に運んだ。


「…おいしい」

「よかった。まだあるから、たくさん飲んでね」

「ありがとう。あの、」


 言葉は最後まで続かなかった。

ノックの音が部屋に響き、返事をする間もなくドアが開く。視線を向けると、黒猫を抱えた男性が部屋へと入ってきた。


「ああ、目が覚めたんですね」


 色白で清潔感の漂う、顔立ちのきれいな男が、ふわりと微笑みながら言った。同時に彼の腕から抜け出した猫が、ベッドへと飛びのり擦り寄ってくる。スープをこぼさないように、器ごと両手を高くあげると、するりと滑りこんできた。膝の上で甘えるように喉を鳴らす。

 あれ、この猫って…。


「オリヴィアが懐くとは珍しいですね」


 耳元で声がしたことにギョッとして顔を上げると、さきほどの男が覗きこむように身を屈めていた。

近くで見ると、その美しさはさらに際立つ。二十代半ばか後半くらいだろう。長いまつげに隠された瞳は涼やかで、口もとには自然な笑みが浮かんでいる。

男にして整いすぎなその顔が、いま私のすぐ目のまえにある。


「ああ、失礼。具合はどうですか?」


 こちらの戸惑いを感じとったのか、男は体を起こし距離をとった。

 本当に綺麗な人…。いまさらながら頬が熱くなり、私は俯いて視線を逸らした。


「栄養失調ということだけど、食欲はあるのかな」


 問いかけは、私というよりも少女に対してのようだった。ひとつ頷いて、少女は答える。


「大丈夫じゃないかしら。まだスープを一口だけだけれど、おいしそうに飲んでいたわ」


 ね、と同意を求めるように、少女がこちらを見る。つられるように私は頷いた。


「そう、それは良かった。ところで、君の名前は?」

「え…」


 穏やかな笑みとともに投げかけられた言葉に、私は戸惑った。言われて気づいたが、私の名前は…何だったろう。

 ズキリ、とした痛みを感じて、私は額をおさえた。


「あら、駄目よ。アレク、名は尋ねるまえに自分が名乗らなくては」


 少女は上品にドレスの両端をつまみながら、頭を垂れた。


「ご挨拶が遅れました。サンドラ・ラファイルですわ。以後、お見知りおきを」


 言い終わるや否や、サンドラはいたずらっ子のように舌を出した。


「どう? 少しは淑女にみえたかしら」

「君はいつでも淑女の鏡ですよ、サンドラ」


 顎に手をあてて、男はクスクスと笑う。サンドラの頭を軽くなでると、彼はこちらを見て、右手を胸に添えて頭を下げる。


「アレクサンドル・モレッティ。この屋敷の主です。アレクとお呼びください」


 大げさなほど丁寧な姿勢に、サンドラの楽しそうな笑い声が重なる。


「あなたは紳士のなかの紳士ね、アレク」

「それは光栄ですね」


 姿勢はそのままに、上目遣いでサンドラを見ると、アレクは笑みとともに顔を上げた。そして二人の視線は、まっすぐにこちらへと向けられる。

 なにか無言の圧力をかけられたような気分になり、額をおさえていた手をおろして、私は姿勢を正した。


「え…っと、私、私は…」


 必死に考えるが、名前など思い出せない。それだけではない。雨のなかで目覚めた以前のことが、何も記憶にないのだ。考えれば考えるほど、頭痛は酷くなる一方だ。

 ガシャンッ、と音がして視線だけ動かす。見れば、先ほどまで手のなかにあったスープが、床に広がっていた。オレンジ色の液体が、じわじわと絨毯にシミを作っていく。


 瞬間、それに似た光景をどこかで見たような気がした。それはどこで、何を見たのか。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ