雨の日の訪問者(1)
最後の記憶は、暗闇の中で聞こえた声だった。
「ミレーヌっ!」
それが自分を呼んだのか、それとも他の誰かを呼んだのか、それさえも分からない。
ミャァ。可愛らしい声と、頬にあたたかな温もりを感じて私は目をあけた。なかなか焦点が合わなかったのは、眠りから覚めた直後だからだけではない。目をあけたのに何も見えない。暗闇のまま…そう思ったのは一瞬だった。
気づけば私は、土砂降りの雨のなか地面に横たわっていて、視界は黒猫によって遮られている。その猫が頬を舐めているのは分かるが、退ける気にはならなかった。別にその温もりが恋しかったわけではない。ただそんな気にならなかっただけ。
自分がなぜこんなところに寝ているのか、何者なのか、こんなにも懐いている猫が自分の飼い猫なのか。何ひとつ思い出せないが、なにも考える気になれない。
瞼が重く、頭が痛い。こんなにも水に打たれているのに、喉はカラカラで声が出せない。なんだか身体も痛い気がする。酷い疲労感を感じて、私はもう一度目を閉じた。ついさっき目覚めたばかりの意識は、簡単に遠のいていく。
意識を完全に手放す間際、鈴の音のような可愛らしい声が聞こえた。
「オリヴィア? どうかしたの?」
私は再び、暗闇へと身をゆだねた。
*****
「気がついた?」
目をあけると、今度は明るい部屋のなか。くりくりとした可愛らしい瞳が、私を覗きこんでいた。 驚きで何も答えない私を気にする様子もなく、その子は続けた。
「一応お医者様にもみて頂いたら、軽い栄養失調ですって」
九歳くらいだろうか。陶器のようにきめ細やかな肌に、まんまるの瞳。色素の薄い茶髪は手入れが行き届いていて、まるで絹糸のように艶やかだ。
ダークブラウンの地味な色合いのドレスを身にまとっているが、それがかえって愛くるしい顔立ちを際立たせている。間違いなく美少女の部類に入るだろう。
「とりあえず胃に優しいものが良いかと思って、スープを用意してみたけど…食べられそう?」
可愛らしく小首をかしげながら、その子は言った。
スープ? 横になったまま首だけ動かすと、枕元のテーブルに用意してあるのが見えた。そこでようやく、自分がベッドの中にいることに気づく。
「起きられない?」
何も答えないのを勘違いしたのか、その子はベッドによじ登り、私の手を握ると全体重をかけて引っ張り上げた。てこの原理で、私の身体は簡単に起き上がる。
起き上がった先に見えたのは、白を基調としたシンプルな部屋。シンプルとは言っても、決して殺風景なわけではない。生活に必要な家具はそろっているし、壁には絵画、テーブルには花が活けられている。そのどれもが主張しすぎず、上手く溶け込んで、心地よい空間となっていた。
「はい。カボチャは好きかしら」
いつの間にかベッドを降りた少女が、スープの入った器をさしだした。なかには湯気を上げたオレンジ色の液体が見える。甘い香り、カボチャのポタージュだ。私は戸惑いつつ、受け取った。
「…あ、ありがとう」
ようやく口を開いた私に、少女は花のような笑顔を浮かべた。
「いいえ、困ったときはお互いさまよ。それよりも早く食べて、冷めちゃうわよ」
嬉しそうにベッドの端に頬杖をついて、見上げてくる。可愛らしいしぐさに頬が緩む。
湯気とともにあがる甘い香りに誘われて、私はスープを口に運んだ。
「…おいしい」
「よかった。まだあるから、たくさん飲んでね」
「ありがとう。あの、」
言葉は最後まで続かなかった。
ノックの音が部屋に響き、返事をする間もなくドアが開く。視線を向けると、黒猫を抱えた男性が部屋へと入ってきた。
「ああ、目が覚めたんですね」
色白で清潔感の漂う、顔立ちのきれいな男が、ふわりと微笑みながら言った。同時に彼の腕から抜け出した猫が、ベッドへと飛びのり擦り寄ってくる。スープをこぼさないように、器ごと両手を高くあげると、するりと滑りこんできた。膝の上で甘えるように喉を鳴らす。
あれ、この猫って…。
「オリヴィアが懐くとは珍しいですね」
耳元で声がしたことにギョッとして顔を上げると、さきほどの男が覗きこむように身を屈めていた。
近くで見ると、その美しさはさらに際立つ。二十代半ばか後半くらいだろう。長いまつげに隠された瞳は涼やかで、口もとには自然な笑みが浮かんでいる。
男にして整いすぎなその顔が、いま私のすぐ目のまえにある。
「ああ、失礼。具合はどうですか?」
こちらの戸惑いを感じとったのか、男は体を起こし距離をとった。
本当に綺麗な人…。いまさらながら頬が熱くなり、私は俯いて視線を逸らした。
「栄養失調ということだけど、食欲はあるのかな」
問いかけは、私というよりも少女に対してのようだった。ひとつ頷いて、少女は答える。
「大丈夫じゃないかしら。まだスープを一口だけだけれど、おいしそうに飲んでいたわ」
ね、と同意を求めるように、少女がこちらを見る。つられるように私は頷いた。
「そう、それは良かった。ところで、君の名前は?」
「え…」
穏やかな笑みとともに投げかけられた言葉に、私は戸惑った。言われて気づいたが、私の名前は…何だったろう。
ズキリ、とした痛みを感じて、私は額をおさえた。
「あら、駄目よ。アレク、名は尋ねるまえに自分が名乗らなくては」
少女は上品にドレスの両端をつまみながら、頭を垂れた。
「ご挨拶が遅れました。サンドラ・ラファイルですわ。以後、お見知りおきを」
言い終わるや否や、サンドラはいたずらっ子のように舌を出した。
「どう? 少しは淑女にみえたかしら」
「君はいつでも淑女の鏡ですよ、サンドラ」
顎に手をあてて、男はクスクスと笑う。サンドラの頭を軽くなでると、彼はこちらを見て、右手を胸に添えて頭を下げる。
「アレクサンドル・モレッティ。この屋敷の主です。アレクとお呼びください」
大げさなほど丁寧な姿勢に、サンドラの楽しそうな笑い声が重なる。
「あなたは紳士のなかの紳士ね、アレク」
「それは光栄ですね」
姿勢はそのままに、上目遣いでサンドラを見ると、アレクは笑みとともに顔を上げた。そして二人の視線は、まっすぐにこちらへと向けられる。
なにか無言の圧力をかけられたような気分になり、額をおさえていた手をおろして、私は姿勢を正した。
「え…っと、私、私は…」
必死に考えるが、名前など思い出せない。それだけではない。雨のなかで目覚めた以前のことが、何も記憶にないのだ。考えれば考えるほど、頭痛は酷くなる一方だ。
ガシャンッ、と音がして視線だけ動かす。見れば、先ほどまで手のなかにあったスープが、床に広がっていた。オレンジ色の液体が、じわじわと絨毯にシミを作っていく。
瞬間、それに似た光景をどこかで見たような気がした。それはどこで、何を見たのか。